ここまで記して来た出来事は、ジルベールに対して恐ろしい影響を及ぼしていた。
良くも悪くも傷つきやすいジルベールにとって、極めて厳しい試練のただ中に放り込まれていたのである。庭のそこかしこに隠れて、日毎にアンドレの顔色や足取りが衰えてゆくのを目にしていたのだ。前日に恐ろしいほど真っ青な顔をしていたというのに、翌日タヴェルネ嬢が朝日と共に窓辺に現れると、顔色はさらに悪くなっていた。ジルベールの眼差しや顔つきを見た者なら誰もが、その顔立ちに悔恨の念を読み取ったに違いない。そこには古代ローマの画家が描いた古典的な構図とまったく同じ特徴があった。
ジルベールはアンドレの美しさを愛している反面、憎んでもいた。輝くばかりの美しさに加えてそれ以外にも素晴らしい点が幾つもあるのを見ると、二人の間の境界に新たな線が引かれる思いがする。それでいながら、その美しさをこそ、新たに見つけた宝物のように我がものにしたい気もする。――これがジルベールの愛と憎しみの源泉であり、肉慾とも蔑みともつかない気持ちの立脚点だった。
だがこの美しさが汚された日、アンドレの顔に苦悩と恥辱が浮かんだ日。その日――アンドレにとってもジルベールにとっても由々しき事態となったその日から、状況は一変し、合理的なジルベールはアンドレのことを違う目で見るようになった。
正直に言えば、最初に感じたのは深い悲しみであった。――アンドレの美しさや健やかさが損なわれてしまったのを、涙なくして見ることはならなかった。ジルベールを蔑んでいた高慢な女を哀れに思うのは自負心がくすぐられて気分が良かったし、これまで散々屈辱を浴びせてきたアンドレに憐れみをかけるのにも自負心が満たされた。
だがだからと言ってジルベールが許されるわけでもない。自負心は何の言い訳にもならない。要するにジルベールはただ自負心の命じるままに、こうしてつぶさに状況を観察していたのである。青ざめてやつれてうなだれたタヴェルネ嬢が幽霊のように目の前に現れるたびに、ジルベールの心臓は飛び跳ね、血が涙のように目許に上った。不安で引き攣った手を胸に押し当て、良心が暴れ出すのを抑え込もうとした。
「アンドレが駄目になったのは僕のせいだ」
ジルベールは焼けつくような激しい目つきでアンドレを見つめた後、またその姿を目にすることが出来ると信じて、声なき呻きに追われるようにして、逃げ出していた。
そんな気持ちに打たれるたびに、強い人間でも耐えられないような痛みを感じていた。狂えるほどの愛情は安らぎを求めていた。アンドレにひざまずき手を握り優しい言葉をかけ失神から目覚ざめさせる権利が得られるなら、場合によっては命を投げ出してもいい。こんな時に何も出来ないのは、拷問という言葉ですら言い足りないほどの責苦だった。
ジルベールは三日間、この苦しみに耐えていた。
最初に変化に気づいたのがジルベールだった。どうやらアンドレの体調は少しずつ悪化している。まだ誰も気づいていないのに、一蓮托生のジルベールにはすべてが明らかでありお見通しであった。それだけではない。病の進行具合から考察して、発作が起こりそうな正確な時期も導き出した。
アンドレが失神した日、ジルベールは不安に苛まれ、大量の汗を搔き、足取りも確かではなかった。それは良心が限界を迎えていることの表れであった。行ったり来たりを繰り返し、冷静になったかと思えば感情的になり、思いやりを見せる一方で嘲弄もやめないのを、ジルベールとしては上手く本心を隠した完璧な戦術だと考えていた。だがシャトレ裁判所のほんの見習いや、サン゠ラザール監獄の牢番でさえ、サルチーヌの密偵が暗号で書かれた手紙を読んで解読するが如く、ジルベールの本心を底の底まで分析し読み取ることが出来ていたことだろう。
息を切らして走ったかと思えばいきなり立ち止まり、ぶつくさと声を洩らしては不意に重苦しく黙り込む人間など、見たことはあるまい。些細な音に耳をそばだてたり、地面を蹴りつけたり、荒々しく木々に当たり散らしているのを見れば、立ち止まってこう呟かずにはいられまい。
――気狂いがいるぞ、さもなきゃ後ろめたいところのある人間だな。
ひとたび悔恨の念を吐き出してしまうと、同情は引っ込み、保身が顔を出した。アンドレがあれほど頻繁に気絶していては、よもや普通の病だと思われてはいまいから、原因の追及が始まっているはずだ。
ジルベールはそこまで考えると、司法の調査が如何に容赦なく迅速であるかを思い出した。世間の多くには知られていない尋問、捜査、類似事件との比較によって、人を転落させ得るあらゆる強奪行為に対峙する、予審判事と呼ばれている才能溢れる猟犬を、犯人の足跡へと案内するのだということを思い出した。
ジルベールが犯したのは、道徳的にもっとも忌まわしく罪深いことなのではないか。
途端にジルベールは身体の芯から震え出した。アンドレの変調が捜査の引き金になりやしないかと恐れたのだ。
その時からジルベールは、白く燃える松明を掲げた悔悛の天使が追いかけているあの有名な絵画の罪人のように、辺り構わず怯えた視線を向けることをやめなかった。ただの物音や囁きが疑わしく思えた。洩れ聞こえる言葉の一つたりとも聞き流すことが出来なくなったし、どれほど取るに足らない言葉であってもタヴェルネ嬢か自分の話題ではないかと思わずにはいられなかった。
リシュリュー氏が国王のところに出かけ、タヴェルネ氏が娘のところを訪ねるのが見えた。その日はいつもとは違って、家の中が陰謀と疑惑に満ちているように思えてしょうがなかった。
王太子妃の侍医がアンドレの部屋に向かうのを見た時、その思いはさらに深まった。
ジルベールは何も信じていない懐疑論者だ。人の目や天の目などなら気にも留めない。だが科学こそが神であると考え、科学こそ万能であると表明していた。
時にジルベールは至高の存在が持つ無謬の洞察力には否定的だったが、医師の慧眼を疑ったことはなかった。だからルイ医師がアンドレを訪れたという事実に、ジルベールの心は立ち上がれないような衝撃を受けたのである。
ジルベールは仕事を何もかも放り出し、上司の命令にも彫像のように固く耳を閉ざして、部屋まで駆け戻った。こっそりと盗み見できるように作ったあり合わせのカーテンに身を潜めると、診察結果を窺わせるような言葉や仕種を何一つ逃すまいと、全神経を搔き集めた。
だがはっきりしたものは何も見えない。王太子妃が窓に近づいた時に顔が一度だけ見えた。恐らくこれまでに見たことがなかった中庭を、窓ガラス越しに見ようとしたのだろう。
ルイ医師が窓を開けたのも確認できた。部屋の空気を入れ換えようとしたのだろう。だが話を聞くことも表情を窺うこともジルベールには適わなかった。ブラインド代わりの厚いカーテンが窓全体を覆い、室内の様子を遮っていた。
ジルベールの煩悶たるや如何ほどのものか。医師の慧眼はとっくに秘密を見抜いてしまったに違いない。必ずや騒動は起こるが、すぐにではなかろう。ジルベールの見るところ、今は王太子妃の存在が邪魔している。だが部外者二人が立ち去ったなら、じきに父と娘の間で騒動になるだろう。
ジルベールは苦しみと苛立ちに逆上せて、屋根裏の壁に頭を打ちつけた。
タヴェルネ男爵と王太子妃が出て来るのが見えた。医師は既にいなくなっていた。
――ということは、タヴェルネ男爵と王太子妃で話をするのだろう。
男爵は戻って来なかった。部屋に一人で残されたアンドレは、長椅子に横たわって過ごしていた。読書をしていたかと思えば痙攣と頭痛のせいで中断を余儀なくされ、不思議なほど深く冷たい瞑想に沈んでいるものだから、風にめくれたカーテンの隙間越しにそれを目にしたジルベールは、アンドレがトランス状態に陥ったものと誤解したくらいだった。
実際にはつらさと不安でぐったりとして眠りに就いただけだったのだが、とにかくジルベールはこれを機会に噂を集めに外に出た。
貴重な時間だった。おかげで考える余裕が生まれた。
事態は差し迫っていたので、思い切った迅速な決断を下す必要がある。
それは敏感すぎるせいで揺れ動いていた心が気力と安らぎを取り戻すための第一歩だった。
だがいったいどういう決断を下せばいい? こうした状況で起こる心の変化は、啓示だ。――逃げるべきか? そうだ。若さを振り絞り、絶望と恐怖をバネに、逃げればいい。絶望や恐怖は軍隊にも匹敵するほどの力を人から引き出す……昼は隠れ、夜に歩き、やがてたどり着けばいい……。
何処に?
何処に隠れれば、王の裁きも手が届かないのだろうか?
田舎のことならよくわかっている。排他的で寂れた土地では、他人がどういう目で見られるか――そう、都会のことは考えなくていい――村や字のようなところで、パンを乞いに来た余所者がどんな目で見られるか、パンを盗むのではないかと怪しまれる者がどんな目で見られるか。それにジルベールはちゃんと自覚していた。人とは違う顔、二度と消せない秘密を刻まれた顔など、一目で注意を引くことになるだろう。逃げるだけでも危険だ。だが見つかれば屈辱が待っている。
逃げれば、罪があると判断される。ジルベールは逃げようという考えを退けた。まるで一つのことを考える余裕しかないかのように、逃げることの次には、死ぬことしか考えつかなかった。
そんなことを考えたのは初めてのことだったが、そんな忌まわしい妄想に顔を出されても、恐ろしいという気持ちは起こらなかった。
――万策が尽きれば、どちらにしても死ぬことを考えなくちゃならないんだ。だけど、自殺するのは卑怯者だ、とルソーさんが言っていたな。苦しむことこそ尊いんだ、と。
こんなジレンマを抱えたまま、ジルベールは顔を上げて、あてもなく庭園をうろつき始めた。
ようやく安らぎが兆し始めたその瞬間、前述した通りフィリップが不意に姿を見せたため、ジルベールはすっかり周章狼狽し、またもや混乱のただ中に投げ込まれた。
アンドレの兄だ。兄が呼ばれたのだ。間違いない、一家は沈黙を選んだのだ。だがその沈黙には原因を究明し詳細にこだわるという決意が込められていた。いずれもジルベールにとっては、コンシェルジュリやシャトレやトゥルネルの拷問器具に等しい。そうなった際にはジルベールはアンドレの前に引きずり出され、ひざまずかされ、卑屈に罪を告白させられ、棍棒かナイフで犬のように殺されるのだろう。幾多の恋愛事件を繙くまでもなく、正当な理由のある復讐は認められている。
国王ルイ十五世は斯かる立場の貴族には極めて好意的だった。
それに、アンドレが復讐を
例えば、「ジルベール、我が家の飯を食っておきながら、我が家を辱める恥知らずめ!」と言われたなら。
そういう事情で、フィリップを一目見た途端にジルベールの足はがくがくと震え出した。立ち直ったのも、罪を認めるまいと本能に従っただけだった。その瞬間から、力の限りを一つの目的に注いだ。抵抗すべし。
後を尾けるとフィリップがアンドレの部屋に入り、ルイ医師と話すのが見えた。すべてを覗き見て判断したところでは、フィリップは絶望に沈んでいた。苦しみが生まれ、大きくなるのがわかった。アンドレとの激しい諍いが、カーテン越しに影絵となって伝わって来た。
「もうお終いだ」
そう思った途端に頭が真っ白になり、ナイフを摑んでフィリップを殺そうとしていた。戸口に現れるのを待ちかまえよう……それとも、必要とあらば自殺すべきだろうか。
ところがフィリップは妹と仲直りした。フィリップがひざまずき、アンドレの手に口づけするのが見えた。これは新たな希望、救済の扉だ。フィリップがまだ怒りの声をあげていないということは、それはつまり、アンドレが犯人の名前をまったく知らないということではないのか。唯一の証人であり告発者であるアンドレが何も知らないとしたら、誰一人として知っている者はいないのだ。或いは、希望的観測ではあるが、アンドレが知っていて口をつぐんでいるのだとしたら、もはや救済どころではない。幸運、いや、大勝利だ。
その瞬間、ジルベールは今の状況に合わせて果敢に心を奮い立たせた。視界が晴れてしまえば、もはや足取りを妨げるものなど何もない。
「アンドレが告発しなければ、証拠なんて何処にもない。それに今さらだけど、告発するとしたら、結果を責めるだろうか、それとも罪そのものを責めるだろうか? でも罪を咎められたりはしなかった。この三週間というもの、以前よりも嫌われたり避けられたりした形跡は微塵もないじゃないか。
「アンドレが原因を知らないのであれば、その結果を特定の誰かと結びつけるはずもないし、ましてや僕と結びつけたりはすまい。それに国王その人がアンドレ嬢の部屋にいるのをこの目で見たんだ。必要とあらばフィリップにそれを証言してもいい。陛下がいくら否定しようと、僕のことを信じてくれるはずだ……間違いない。でも危険な手だな……黙っているに越したことはない。国王ならあらゆる手を使って潔白を証明し、僕の証言を握り潰すことも出来るだろう。牢屋暮らしや死刑が嫌なら、一連の出来事に関わるような形で国王の名を出すわけにはいかないけれど、あの晩にタヴェルネ嬢を庭に連れ出したあの謎の人物がいるじゃないか……あいつはどう抗辯するつもりだろう? どうすれば正体を暴けるだろう? 正体を暴いたとして、どうすれば見つけられるだろう? あいつはただの人間だ。僕と変わらない。僕だってあいつに立ち向かえる。だいたい、誰も僕のことなんか気にするもんか――見ていたのは神様だけさ……」ジルベールは苦笑した。「その神様にしてからが、今までに何度も僕の涙や苦しみを見ていながら何もしてくれなかったくせに、今になって初めて幸せを与えてくれたというこの時に、わざわざ僕のことを暴露する理由なんてないはずだ……」
「そもそも、罪があるとしたら、神様にであって僕にではない。それにヴォルテール氏が幾度となく証明したように、奇蹟なんてもはやありはしない。僕は助かったんだ、安心していい、秘密は僕だけのものだ。未来は僕のものだ」
こうして熟慮に熟慮を重ねた、というよりも、こうして良心との折り合いをつけた後で、ジルベールは農機具を摑んで、同僚たちと夜食を摂りに行った。晴れ晴れとして、のうのうとして、挑発的でさえあった。さっきまでは後悔もあったし、怯えもあった。そんな弱気は二つとも、男児たる哲学者なら急いで消し去ってしまわなくてはならない。だがジルベールは自分の良心のことを甘く見ていた。ジルベールは眠れなかった。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXLV「La conscience de Gilbert」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年12月18日(連載第143回)。
Ver.1 12/04/21
Ver.2 26/04/11
[註釈・メモなど]
・メモ
・au criminel de ce tableau célèbre que poursuit l'ange du remords avec le feu pâle de sa torche, 未詳。
[更新履歴]
・26/04/11 Le jour des évanouissements se passa pour lui en transes, en sueurs, en vagues démarches, indices certains d'une conscience aux abois. Toutes ces allées et venues, ces airs d'indifférence ou d'empressement, ces élans de sympathie ou de sarcasme que Gilbert considérait, lui, comme des chefs-d'œuvre de dissimulation et de tactique, le moindre clerc du Châtelet, le moindre porte-clefs de Saint-Lazare les eût aussi parfaitement analysés et traduits que la Fouine de M. de Sartines lisait et transcrivait les correspondances en chiffres. 分析して読み取ったのはジルベールではなく、ジルベールの心を読み取るのが誰にでも出来たのである。「気絶した日だ。恍惚状態で、汗をかき、夢遊歩行し、確実に意識が飛んでいた、あの日。行ったり来たり、冷淡だったり昂奮していたり、思いやり深かったり軽蔑を露わにしたり、そうしたことすべてをジルベールは最高の隠しごとや戦術だと見なし、シャトレの一書生、サン=ラザールの一牢番でしかない人間が、ド・サルチーヌ氏の密偵が暗号文書を読み写したのと同じように完璧に、分析し、翻訳したのである。」 → 「アンドレが失神した日、ジルベールは不安に苛まれ、大量の汗を搔き、足取りも確かではなかった。それは良心が限界を迎えていることの表れであった。行ったり来たりを繰り返し、冷静になったかと思えば感情的になり、思いやりを見せる一方で嘲弄もやめないのを、ジルベールとしては上手く本心を隠した完璧な戦術だと考えていた。だがシャトレ裁判所のほんの見習いや、サン゠ラザール監獄の牢番でさえ、サルチーヌの密偵が暗号で書かれた手紙を読んで解読するが如く、ジルベールの本心を底の底まで分析し読み取ることが出来ていたことだろう。」に訂正。
・26/04/11 「」 → 「」
・26/04/11 「」 → 「」
[註釈]
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