この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百四十五章 ジルベールの良心

 ここまで記して来た出来事は、ジルベールに対して恐ろしい影響を及ぼしていた。

 良くも悪くも傷つきやすいジルベールにとって、極めて厳しい試練のただ中に放り込まれていたのである。庭の好きなところに隠れて、日毎にアンドレの顔色や足取りが衰えてゆくのを目にしていたのだ。前日に恐ろしいほど真っ青な顔をしていたというのに、翌日ド・タヴェルネ嬢が朝日と共に窓辺に現れると、危険な色合いがさらに増していた。ジルベールの眼差しや顔つきを見た者なら誰もが、そこに古代ローマの画家が素描したような悔恨の色を読み取ったに違いない。

 ジルベールはアンドレの美しさを愛している反面、憎んでもいた。輝くばかりの美しさに気位の高いところが加わると、二人の間の境界に新たな線が引かれる思いがする。とは言うものの、そうした美しさこそ新発見の宝のように我がものにしたい気もする。これがジルベールの愛と憎しみに対する申し分であり、憧れとも蔑みともつかない言い訳であった。

 だがこの美しさが汚された日、アンドレの顔に恥と苦しみが浮かんだ日。その日から、アンドレにとってもジルベールにとっても由々しき事態となった日から、状況が完全に変わり、ジルベールのアンドレに対する見方も変わってしまった。

 正直に言えば、最初に感じたのは深い悲しみであった。アンドレの美しさや健やかさが損なわれてしまったのを、涙なくして見ることはならなかった。ジルベールを蔑んでいた高慢な女を憐れんでやるのは誇りがくすぐられて気分が良かったし、アンドレが隠していたあらゆる恥辱に憐れみをかけてやるのも心地よかった。

 だがだからと言ってジルベールが許されるわけでもない。誇りが言い訳になると思ったら大間違いだ。だから、状況を検討することにしていたのも、誇りから出た習慣でしかなかった。青ざめてやつれてうなだれたタヴェルネ嬢が幽霊のように目の前に現れるたびに、ジルベールの心臓は飛び跳ね、血が瞼まで上って涙を誘った。ジルベールは不安で引きつった手を胸に押し当て、意識が暴発しそうになるのを抑えていた。

「アンドレが駄目になったのは僕のせいだ」

 貪るようにアンドレを見つめると、また会えると信じて、声なき呻きに追われるようにして、逃げ出していた。

 そんな気持に打たれるたびに、強い人間でも耐えられないような痛みを感じていた。狂えるほどの愛情は安らぎを求めていた。アンドレにひざまずき手を握り優しい言葉をかけ失神から目覚ざめさせる権利が得られるなら、時には命を投げ出してもいい。こんな時に何も出来ないのは、拷問という言葉ですら言い表せないほどの責苦だった。

 ジルベールは三日間、この苦しみに耐えていた。

 初めから、アンドレの部屋で起こっているゆっくりとした変化には気づいていた。やがて、もはやわからないことなどなくなり、すべてにはっきりとした説明をつけることが出来た。さらに。病気の進行具合から逆算して、起点となった正確な日付も手に入れた。

 気絶した日だ。恍惚状態で、汗をかき、夢遊歩行し、確実に意識が飛んでいた、あの日。行ったり来たり、冷淡だったり昂奮していたり、思いやり深かったり軽蔑を露わにしたり、そうしたことすべてをジルベールは最高の隠しごとや戦術だと見なし、シャトレの一書生、サン=ラザールの一牢番でしかない人間が、ド・サルチーヌ氏の密偵が暗号文書を読み写したのと同じように完璧に、分析し、翻訳したのである。

 息を切らして走り、突然足を止め、聞こえぬほどの声を洩らし、不意に暗い沈黙に沈んだのを、誰も見た者はいない。地面を擦るような、乱暴に木々を引っ掻くような、かすかな音が空中に響いたのを、聞いた者はいない。もしいたなら、呟いたに違いない。「気違いがいるぞ、さもなきゃ後ろめたいところのある人間だな」と。

 気持がすっきりすると、同情は引っ込み、ジルベールの身勝手な部分が出始めた。あれほど頻繁に気絶していては、よもや普通の病だとは思われていないだろうし、何が原因なのかとあれこれ噂されていることだろう。

 その時ジルベールは、乱暴で早急な裁判上の手続きのことを考えていた。余所の世界には知られていない尋問、調査、類似によって、予審判事と言う名の才能溢れる探偵が、犯人の足取りにたどり着き、人の名誉を傷つけ得るありとあらゆる犯罪について問い合わせる場所。

 ジルベールが犯したのは、道徳的にもっとも忌まわしく罪深いことなのではないか。

 途端にジルベールは身体の芯から震え出した。アンドレが苦しんでいるために自分が尋問されやしないかと怯え始めたのだ。

 それからは、青い松明を掲げた懺悔の天使を追い求めたあの著名な絵の罪人のように、絶えず怯えた目を周りに向け続けた。物音や囁き声が気になった。話をしているのが聞こえると、それがどうでもいい話題であっても、タヴェルネ嬢か自分のことなのではないかと気が気ではない。

 ド・リシュリュー氏が国王のところに出かけ、ド・タヴェルネ氏が娘のところを訪ねるのが見えた。その日はいつもとは違って、家の中が陰謀と疑惑に満ちているように思えてしょうがなかった。

 王太子妃の医師がアンドレの部屋に向かうのを見た時にはさらにひどくなった。

 ジルベールは何も信じない懐疑論者だ。他人の視線や神の視線など気にならない。だが神の代わりに科学を信奉し、その全能性を高らかに公言していた。

 ジルベールは至高の存在が持つ無謬の洞察力には否定的だったが、医師の洞察力を疑ったことはなかった。だからルイ医師がアンドレを訪れたという事実に、ジルベールの心は立ち上がれないような衝撃を受けたのである。

 ジルベールは部屋まで駆け寄り、何もかも放り出し、上からの命令にも銅像のように固く耳を塞いでいた。急いでカーテンの陰に隠れて、診察結果を窺わせるようなどんな言葉も仕種も聞き逃すまい見逃すまいと、全神経をかき集めた。

 明かりは何もない。王太子妃が窓辺に近づいた時に顔が見えただけだ。窓ガラス越しに中庭を見ようとしたのだろうが、恐らく何も見えなかったに違いない。

 ルイ医師が窓を開けたのも確認できた。部屋の空気を入れ換えようとしたのだ。話を聞くことも顔色を窺うこともジルベールには適わなかった。厚いカーテンがブラインド代わりとなって窓全体を覆い、そこでおこなわれている出来事を遮っていた。

 ジルベールは目に見えて怯えていた。鋭い目を持つ医師は謎を見抜いているのだ。ジルベールの見るところ、爆発は起こるに違いないが、今すぐではない。今は王太子妃の存在が邪魔しているが、部外者二人が立ち去ったら、すぐに父と娘の間で火種がはじけるのだろう。

 苦しみと苛立ちで頭がぼうっとなり、ジルベールは屋根裏の壁に頭を打ちつけた。

 タヴェルネ男爵と王太子妃が出て来るのが見えた。医師は既にいなくなっていた。

 つまり、話し合いはタヴェルネ男爵と王太子妃の間で為されるのだ。

 男爵は戻って来なかった。アンドレは一人きりで長椅子に横たわって過ごしていたが、やがて痙攣と頭痛に読書を妨げられ、ぐったりとして深い眠りに陥った。風にめくれたカーテンの隙間越しにそれを目にしたジルベールは、アンドレがトランス状態に陥ったものと誤解した。

 実際には苦しみと不安に押されて眠っていただけなのだが。とにかくジルベールはこれを機会に、噂を集めに外に出た。

 この時間は貴重だった。何をすべきか考えなくてはならない。

 事態は差し迫っていたので、思い切った迅速な決断を下すことが必要だ。

 それが揺れ動く心の最初の支点となって広まり、気力と安らぎを取り戻せた。

 だがどうすればいい? こうした状況の変化が明らかになったら。逃げるべきか? そうだ。若さを振り絞り、絶望と恐怖をバネに、逃げればいい。絶望や恐怖は武力にも匹敵するほどの力を人から引き出す……昼は隠れ、夜に歩き、やがてたどり着けばいい……。

 何処に?

 何処に隠れれば、王の裁きも手が届かないのだろう?

 田舎のことならよくわかっている。寂れた未開の土地では、どう思われるだろうか――都市部のことは考えるな。村や字では、パンを乞う余所者をどんな目で見るだろうか、盗っ人だと疑われるだろうか? ジルベールははっきりと自覚していた。これからは秘密で刻まれた消えない痕跡を顔に残してゆくのだ。一目で注意を引くことになるだろう。逃げるのは危険だ。だが見つかるのは恥辱だった。

 逃げれば、罪があると判断される。ジルベールは逃げようという考えを退けた。もはや一つのことを考える力しか残されていないかのように、逃げるのでなければ、死ぬことしか考えられなかった。

 そんなことを考えたのは初めてのことだったが、そうした忌まわしい妄想に顔を出されても、恐ろしいという気持にはならなかった。

 ――万策が尽きれば、どちらにしても死ぬことを考えなくちゃならないんだ。だけど、自殺するのは卑怯者だ、とルソーさんが言っていたな。苦しむことこそ尊いんだ、と。

 ジルベールは顔を上げて、あてもなく庭園をうろつき始めた。

 初めに安らぎの兆しが見えたのは、既に記したようにフィリップが不意に姿を見せた時だった。これにはジルベールも考えを掻き乱され、またもや混乱し始めた。

 兄か! 兄が呼ばれたのか! 間違いない! 一家は秘密を守ることに決めたのだ。だが詳細を徹底的に探られることは、ジルベールにとっては、コンシェルジュリ、シャトレ、トゥルネルの拷問道具に等しかった。そうなればジルベールはアンドレの前に引きずり出され、ひざまずかされ、卑屈に罪を告白させられ、棍棒かナイフで犬のように殺されるのだろう。幾つもの恋愛事件という先例が、正当な理由のある復讐を認めている。

 国王ルイ十五世は似たような立場の貴族には極めて好意的だった。

 それに、アンドレが復讐をたのむならフィリップになるだろうが、フィリップほど恐ろしい敵はいない。フィリップは一家で唯一ジルベールに同じ人間らしい感情を示してくれた。そんなフィリップが罪人を殺すとしたら、剣ではなく言葉で充分ではないだろうか。例えば「ジルベール、我が家の飯を食いながら、我が家を辱めるとはな!」

 そういう事情で、フィリップを一目見た途端にジルベールの足はがくがくと震え出した。我に返ると、罪を認めず口を閉ざすためには本能に従うしかなかった。その瞬間から、一つの目的に向かって全力を傾注した。抵抗するしかない。

 後を尾けるとフィリップがアンドレの部屋に入り、ルイ医師と話すのが見えた。すべてを覗き見て判断したところでは、フィリップは絶望に沈んでいた。苦しみが生まれ、大きくなるのがわかった。アンドレとの激しい諍いが、カーテン越しに影絵となって伝わって来た。

「もうお終いだ」

 そう思った途端に頭が真っ白になり、ナイフをつかんでフィリップを殺そうとしていた。戸口に現れるのを待ちかまえよう……それとも、必要とあらば自殺すべきだろうか。

 ところがフィリップは妹と仲直りした。フィリップがひざまずき、アンドレの手に口づけするのが見えた。これは新たな希望、救済の扉だ。フィリップがまだ怒りをはじけさせていないとしたら、それはつまり、アンドレが犯人の名前をまったく知らないということではないのか。唯一の証人であり告発者であるアンドレが何も知らないとしたら、誰一人として知っている者はいないのだ。希望的観測として、アンドレが知っていて口をつぐんでいるとしたら、救済どころではない。幸運、いや、大勝利だ。

 ジルベールはすぐに覚悟を決めて現場と同じ高さになるように背伸びした。見晴らしを遮るものがなくなると、もはや足を止めることは出来なかった。

「ド・タヴェルネ嬢が僕を告発しないとしたら、証拠は何処にある? 気が狂いそうだ。告発するとしたら、結果を責めるのだろうか、それとも罪そのものを責めるんだろうか? でも罪を咎められたりはしなかった。三週間経ったけれど、以前よりも嫌われたり避けられたりした形跡は微塵もないじゃないか。

「アンドレが原因を知らなかったのなら、結果については誰にも増して僕も安全だ。国王その人がアンドレ嬢の部屋にいるのを見たんだからな。必要とあらばフィリップにそれを証言してもいい。陛下がいくら否定しようと、僕の言うことを信じるだろう……きっとそうだ。でも危険な手だな……黙っているに越したことはない。国王なら、無実を証明し、僕の証言をぺしゃんこにする方法を幾らでも持っているだろう。だが国王の名前が出されることがないとすれば、国王は措いておくとして、あの晩タヴェルネ嬢を庭に連れ出した謎の人物がいなかっただろうか?……あの人物はどう抗弁するだろう? あの人物は姿を見られているはずではないか? だとすれば、また姿を見られればばれるのではないか? あいつは当たり前の人間でしかない。そうであって欲しいし、いつだって負けるもんか。もっとも、僕のことなど考えもしないに違いない。見ていたのは神様だけさ……」ジルベールは苦笑いした。「それにしたって神様と来たら、ぼくの辛さや苦しみを何度も見ながら何も言わずにいたんだからな。どうしてこんな状況にぼくを陥れるような不公平なことをするのだろう? 初めて神様から与えてもらった幸運だったというのに……。

「そもそも、罪があるとしたら、神様にであって僕にはない。ド・ヴォルテール氏が何度も言っていたように、奇蹟なんてもはやありはしないんだ。助かった。安心だ。秘密は僕だけのもの。未来は僕のものだ」

 これだけのことを考えると、いや、良心によって組み立てると、ジルベールは農機具をつかんで、同僚たちと夜食を摂りに行った。晴れ晴れとして、のうのうとして、挑発的でさえあった。さっきまでは後悔もあったし、怯えもあった。それは男なら、哲学者なら、急いで忘れてしまわなくてはならない少なからぬ弱点だった。ただし、自覚はせずとも頭から離れることはなかった。ジルベールは眠らなかった。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXLV「La conscience de Gilbert」の全訳です。


Ver.1 12/04/21

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