外には深い沈黙が立ち込めていた。
空気を震わせるそよ風も、ざわめく人の声もなく、何もかもが静まり返っている。
一方トリアノンの仕事もすべて終わっていた。厩舎や車庫の働き手は部屋に帰り、小さな中庭には人気がない。
アンドレはフィリップと医師の態度から胸の内に大きな不安を感じていた。
今朝はたいした病気ではないし薬もいらないと言っていたルイ医師が再び訪れたことに、訝しく意外な思いを感じていた。だが元来が素直な性根だったので、澄んだ魂の鏡が疑いに吹かれて曇ることはなかった。
やがて医師はアンドレを見つめるのをやめてランプの明かりを向けると、医師としてというよりは、友人か懺悔僧であるかのように、脈拍を取り始めた。
こうした思いがけない行動に、繊細なアンドレはいよいよ驚きを隠せずに、もう少しで手を引っ込めるところだった。
「お嬢さん、私に会いたがったのはあなたでしょうか、それとも私はお兄さんの望みに従っただけなのでしょうか?」
「戻って来た兄から、先生がまたいらっしゃると聞きました。ですが今朝、それほど重い病ではないと仰って下さったのですから、改めてご迷惑をかけるまでもないとわたくしは考えております」
医師は一つうなずいた。
「お兄さんはかなり昂奮して、名誉を気にかけ、ある点にこだわっておいでのようでした。あなたが正直に打ち明けなかったのは、恐らくはその辺りに原因があるのではありませんか?」
アンドレはフィリップを見つめた時と同じような目つきで医師を見つめた。
「先生もですか?」かなり苛立った口調だった。
「失礼ですが最後まで言わせて下さい」
アンドレは我慢するといったような、いやむしろ諦めたような仕種をした。
「お兄さんが苦しんだり腹を立てたりすることを心配して、かたくなに隠し続けるのはよくわかります。ですが私に対しては――肉体の医者であると同時に魂の医者でもある私には――すっかり見てわかっている私には――つまり秘密を打ち明けるという辛い道をあなたと分かち合っている私には――率直に打ち明けて下さるのを待つ権利があります」
「先生。もしお兄様の苦しんでいる顔を目にしなかったなら、もし先生の素晴らしい評判を存じ上げなかったなら、二人揃ってわたくしを騙そうとしているのではないかと思うところです。わたくしをダシにして喜劇を演じるつもりなのではないか、病名を告げて恐怖を植えつけ黒くて苦い薬を飲ませるつもりではないのだろうかと思ってしまいますわ」
医師が眉をひそめた。
「申し訳ありませんが、そのように隠し立てするのはやめていだたけませんか」
「隠し立てですって!」
「芝居と申し上げた方がよいでしょうか?」
「侮辱なさるおつもりですか!」
「図星だったと仰って下さい」
「先生!」
アンドレは立ち上がったが、腰を下ろすよう丁寧に医師から命じられた。
「侮辱などしておりません。手を貸そうと思っているだけです。説得することさえ出来れば、あなたを救うことが出来るのですから!……怒った目つきで睨まれようとも、見せかけの癇癪を起こされようとも、私の決意を変えることは出来ませんよ」
「何を仰りたいのです? 何が望みなのですか?」
「正直に打ち明けて下さい。さもなければ、あなたご自身の口から惨めな事実を聞かせていただくことになりますよ」
「かばってくれる兄がいなくなったからと言って、また侮辱なさるのですか。意味がわかりません。先生が言うところの病気について、もっとはっきりとした説明をお願い出来ませんか」
「改めて確認しますが、あなたに恥ずかしい思いをさせる役目からは降ろしていただけませんか?」医師は驚きを浮かべていた。
「意味がわかりません! わかりません! わかりません!」アンドレは三度繰り返した。その目には、問いかけるような、挑発するような、いやほとんど脅すような光が籠っていた。
「私にはわかっております。あなたは科学に疑いを持ち、ご自身の状態を周りから隠したがっておいでですが、たった一言でその思い上がりをへし折って、過ちを正して差し上げましょう。あなたは妊娠しておいでです!……」
アンドレは恐ろしい悲鳴をあげて、長椅子にひっくり返った。
悲鳴に続いて扉が激しく音を立て、フィリップが部屋に飛び込んで来た。剣をつかみ、目を血走らせ、口唇を震わせていた。
「恥知らず! 嘘をついたんですね」
とぎれがちなアンドレの脈拍を確かめながら、医師はゆっくりと振り返った。
「申し上げた通りに申し上げたまでです」医師は蔑むように答えた。「抜き身であろうと鞘にしまっていようと、その剣を使って私に嘘をつかせることは出来ませんよ」
「先生!」フィリップは口ごもって剣を落とした。
「改めて診察して初めの診断を確かめることをお望みだったのでしょう。私はそうしたまでです。確信は深まり、揺らぐことはありません。確かに残念なことです。あなたには共感を覚えていたのですから。飽くまで嘘をつく妹さんに反感を覚えたようにね」
アンドレはぴくりともしなかったが、フィリップは身体を震わせた。
「私も一家の長ですから、あなたの苦しみはよくわかります。ですからあなたには協力するつもりですし、このことは誰にも洩らしません。私の言葉は絶対です。誰かに聞いていただければわかります。私は自分の命よりも言葉に重きを置く人間です」
「でも、でも、あり得ません!」
「あり得ないことかどうかは私には判断できませんが、これは事実なのです。それでは、ド・タヴェルネさん」
医師はいたわるようにフィリップを見つめ、静かな足取りでゆっくりと立ち去った。フィリップは苦しみに身をよじり、扉が閉まった瞬間には、苦しみに打ちひしがれて、アンドレのすぐそばにある腰掛けに倒れ込んでいた。
医師が立ち去るとフィリップは立ち上がり、廊下と部屋の扉と窓を閉めに行った後で、アンドレの許に戻って来た。アンドレは兄がこうした準備をするのを、不安そうに呆然として眺めていた。
「おまえは嘘をついた。卑怯なうえに愚か者だ」フィリップは腕を組んで話し始めた。「おまえは卑怯者だ。一つには、兄に嘘をついたのだから。一つには、弱みを持っている人間に嘘をついたのだから。ぼくはおまえのことを何よりも愛しているし何よりも素晴らしいと思っているし、こうして信頼しているからには愛情とは言わぬまでもせめておまえからも信頼されてしかるべきなのだから。おまえは愚か者だ。不名誉でおぞましい秘密を第三者に委ねたのだから。いくらおまえが口を閉ざそうとも、他人の目には明らかだったに違いない。自分の置かれている状況を真っ先にぼくに打ち明けていてくれたなら、恥をかかずに済ませてやれたのに。愛情からなのか身勝手からなのかはわからないけれどね。というのも、おまえを助けるべきかどうか躊躇っているんだ。おまえがどういう経過でどのように過ちを犯すことになったのかわからないからね。結婚していない以上、おまえの名誉はおまえ一人だけのものじゃない。おまえに名前を汚された者たちのものなんだ。だがそっちの方でお断わりだというのなら、もうぼくは兄なんかじゃない。ぼくが欲しているのは、どんな手を使ってでも隠していることをすべて吐き出させることだけだ。すっかり吐き出してもらえれば、何かの慰めにはなるだろうからね。だからぼくは腹を立てているし心を決めたんだ。いいね、おまえは嘘で誤魔化そうとした卑怯者なんだから、卑怯者が受けるような罰を受けるべきなんだ。罪を認めなさい、さもないと……」
「脅しですか! 女を脅すなんて!」
アンドレは真っ青になって立ち上がり、脅すように叫んだ。
「脅しだとも。ただし女を、ではない。信仰も名誉もない人間を、だ」
「脅しですって!」アンドレもだんだんと感情を高ぶらせる。「何も知らないしわからないわたくしを脅すのですか? 残酷なことの大好きな気違いが協力して、絶望に追い込んだり辱めを与えたりして殺そうとしているみたい!」
「だったら死ぬがいいさ! 認めようとしないのなら死ぬがいい。それも今すぐだ。神が判断して下さるだろうから、打ちつけてやる」
フィリップは発作的に剣をつかみ、稲妻のような速さで、アンドレの胸に切っ先を突きつけた。
「わかりました、殺して下さい!」刃からほとばしる稲光に怯えもせず、剣先の痛みから逃げようともしなかった。
フィリップの怒りと乱暴もそこまでだった。後じさって手から剣を落とすと、膝を突いてすすり泣き、アンドレの身体を抱き寄せた。
「アンドレ! アンドレ! 駄目だ! 死ぬのはぼくの方だ。もうぼくのことなど何とも思っていないんだろう。おまえに捨てられては、この世に未練などない。これほどまでにおまえが愛しているのは誰なんだ? ぼくの胸に告白するよりは死を選ぶほど愛している人間は誰なんだ? アンドレ! 死ぬべきなのはおまえじゃない、ぼくなんだ」
フィリップは逃げようとしたが、アンドレが狂ったように首筋にしがみついて、口づけを浴びせ、涙を降らせた。
「そんなことはありません。やはりお兄様が正しいの。わたくしを殺して下さい、フィリップ。だってわたくしに非があるそうじゃありませんか。ですけど、気高く純粋で善良なお兄様を責める人などおりません。生き抜いて、わたくしを恨む代わりに憐れんで下さい」
「アンドレ、天の名に懸けて、かつての友情の名に懸けて、おまえも、おまえが愛している人間も、怖がる必要はない。それが何者であろうと、ぼくの一番の敵であれ、人類最後の男であれ、ぼくは祝福するつもりだ。もっともぼくには敵はいない。おまえも気高い心と精神を持っているのだから、然るべき恋人を選んだことだろう。おまえが選んだ人間となら会うつもりだし、兄弟と呼ばせてもらうとも。どうして何も言わないんだ? 結婚できないような間柄なのか? そう言いたいのかい? 構うものか! ぼくは甘んじて痛みに耐えるつもりだし、血を求める名誉の声を抑えるつもりだ。相手の男の名前さえもう聞いたりはしない。おまえが気に入ったのなら、ぼくにとっても大事な人間だ……一緒にフランスを離れて逃げだそう。国王から高価な宝石を貰ったと聞いている。それを売って、半分を父に送ろう。残りを持って人知れず暮らすんだ。おまえの言うことなら何でも聞く。ぼくの言うことは何でも聞いてくれ。おまえ以外の誰も愛していない。おまえに尽くしていることはわかっているだろう。ぼくがしていることはわかっているね。ぼくの友情を当てにしてくれて構わない。ここまで言ったからには、信用してくれるだろうね? それとも、もう兄とは呼んでくれないのか?」
アンドレは激昂したフィリップの言葉に黙って耳を傾けていた。
心臓の鼓動だけが生きている証であり、眼差しだけが理性の存在の語り部だった。
「フィリップ」アンドレがようやく口を開いた。「わたくしがお兄様を愛してないと思われていたなんて! 別の人を愛していると思われていたなんて。名誉の作法を忘れていると思われていたなんて。名誉という言葉の持つあらゆる意味を理解している貴族の娘だというのに!……でもそんなことは水に流します。おぞましいと思われたのも、卑怯者と呼ばれたのも、気にしません。お兄様のことを恨むことなどありません。偽りの誓いを立てるほど不信心で卑劣な人間だと思われない限りは。わたくしの言葉を聴いて下さる神に誓って、母の魂に誓って――わたくしのことをあまり可愛がっては下さらなかったそうですけれど――それからお兄様へのひたむきな愛に誓って、愛について考えて理性を曇らせたことなどありませんし、誰かから『愛している』と言われたこともありませんし、誰かから口づけされたこともありません。生まれた時のままに、わたくしの心は清純ですし、肉体は清らかです。ですからフィリップ、神様がわたくしの魂を包み込んで下さるなら、お兄様の方は両の手でこの肉体を支えて下さい」
「わかったよ」フィリップも長い沈黙の後で口を開いた。「ありがとう。これでようやく心の奥まではっきりと見えるようになった。おまえは純粋で、無垢な、犠牲者に過ぎなかったんだ。だがこれは魔法の液体であり、毒入りの媚薬だぞ。誰かがおまえを罠に嵌めたんだ。目を覚ましているおまえから盗むことが誰にも出来なかったものを、眠っている間に盗んだ奴がいるんだ。おまえは罠に嵌ったんだ。だがぼくらは今は一つだ。一緒なら誰にも負けない。おまえの名誉も、復讐も、ぼくに預けてくれるね?」
「いけません!」アンドレは即答した。その様子は悲しみに溢れていた。「復讐は罪ですもの」
「いいかい、ぼくの手助けをして支えてくれ。過ぎ去った日々を遡って、一緒に探してみよう。記憶の糸をたどって、隠れた横糸と結ばれた最初の結び目で……」
「やってみます! 探してみましょう」
「ではまず、誰かにつけ回されたり見張られたりしたことは?」
「ありません」
「誰かから手紙を貰ったことは?」
「ありません」
「誰かから愛を告白されたことも?」
「ありません」
「女はその方面の直感が働くだろう? 手紙や告白でなくとも、誰かから……望まれていると気づいたことは?」
「気づいたことはありません」
「では普段の暮らしの、私的な部分を考えてみよう」
「お願いします」
「一人で歩き回ったことは?」
「覚えている限りではありません。妃殿下のところにお伺いする時を除けば」
「庭園や森に行ったことは?」
「ニコルがいつも一緒でした」
「そう言えばニコルはいなくなったんだろう?」
「ええ」
「いつ頃だい?」
「確か、お兄様がお発ちになった日だったと思います」
「いかがわしい子だったな。逃げ出した詳しい事情は?」
「存じません。ですけれど、好きな人と一緒でした」
「最後に会ったのはいつ?」
「九時頃でした。いつものように寝室に入って来て、着替えを手伝い、コップに水を入れてから出て行きました」
「その水に何か混ぜたかどうか気づかなかったのか?」
「気づきませんでした。もっとも、あの時の状況では、そんなのは意味のないことですけれど。コップを口に持って行った瞬間、異様な感覚に囚われたのを覚えていますから」
「異様な?」
「タヴェルネで感じたのと同じ感覚でした」
「タヴェルネでだって?」
「ええ、あの旅人が立ち寄った時です」
「旅人? 誰のことだい?」
「ド・バルサモ伯爵です」
「ド・バルサモ伯爵だって? どんな感じがしたんだ?」
「眩暈のような立ちくらみのようなものを感じると、身体から力がすっかり抜けてしまうんです」
「タヴェルネでそうした感覚を受けたと言ったね?」
「ええ」
「その時の状況は?」
「ピアノの前に坐っていると、意識が失われるのを感じたんです。前を見ると、鏡の中に伯爵が映っていました。それからのことは何も覚えていません。気づくとピアノの前で目を覚ましており、どのくらい眠っていたのかもわかりません」
「そうした異様な感覚を受けたのは一度きりだったのか?」
「もう一度ありました。花火の日、正確に言うと花火の夜のことです。人混みに連れ去られ、押しつぶされてぐったりとしていた時のことでした。わたくしは力の限りに抗おうとしていました。突然、強張っていた腕が楽になり、目の前が雲に覆われたんです。でもその雲の向こうに、またもやあの人の姿が見えました」
「バルサモ伯爵か?」
「そうです」
「おまえは眠っていたのか?」
「眠っていたのか気絶していたのかはわかりません。タヴェルネでわたくしがどのようなことをされたのかはご存じの通りです」
「うん、そうだな。それであの夜、ニコルがいなくなった日の夜にも、伯爵に会ったのか?」
「姿を見てはいません。ですが存在を窺わせる徴候は感じていました。それにあの異様な感覚、神経が引きつるような眩暈、痺れ、眠り」
「眠り?」
「眩暈を伴った眠りです。抗おうとしても、不思議な力に押し切られてしまうのです」
「何てことだ! 続けてくれ」
「わたくしは眠っていました」
「場所は?」
「もちろん寝台の上です。ところが気づくと床の絨毯の上で、生き返ったばかりの死人のように冷たくなって、一人苦しんでいたのです。目が覚めるとすぐにニコルを呼びましたが、返事がありません。ニコルはいなくなっていました」
「その眠りもいつもと同じだったのか?」
「ええ」
「タヴェルネの時や、花火の時と?」
「ええ、そうです」
「最初の二回の時には、意識を失う前に、そのジョゼフ・バルサモ、ド・フェニックス伯爵を見たんだな?」
「間違いありません」
「なのに三度目の時には見なかった?」
「はい」アンドレは怯えていた。理解しかけていたのだ。「でも、姿こそ見ませんでしたが、存在は感じられました」
「わかった。もう落ち着いて、安心して、自信を持つんだ、アンドレ。事情はわかった。ありがとう。ぼくらは救われた」
フィリップはアンドレに腕を回し、優しく胸に掻き抱くと、心を固め、昂奮に駆られて、待とうとも聞こうともせずに部屋から飛び出した。
厩舎まで駆けつけると馬に鞍をつけて背中に飛び乗り、全速力で一路パリに向かった。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXLIV「La consultation」の全訳です。
Ver.1 12/04/07
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