前章でフィリップが訪れたのが、ルイ医師の家であった。ルイ医師は四方を塀に囲まれた小さな庭を歩き回っていた。そこは古いウルスラ修道院の一部であり、現在は国王親衛隊の竜騎兵用の秣倉庫になっていた。
医師は歩きながら、出版予定の新作の試し刷りを読んでいるところだった。時折しゃがみ込んでは、歩いている並木道や左右に広がっている花壇から、好き勝手に伸びている雑草を引き抜いていた。
愛想の良くない家政婦が一人で、仕事の邪魔をされたくない医師の為に、家事のすべてを取り仕切っていた。
フィリップの手の下で青銅の敲き金が立てた物音を聞いて、家政婦は門に近づいて扉を細めに開けた。
だがフィリップは家政婦と話し合うことも厭って、扉を押しやり中に入って来た。いったん並木道に入れば、庭が見え、庭には医師がいた。
厳戒中の番人の如く、フィリップは声も音も立てずに庭に駆け込んだ。
足音に気づいて医師が顔を上げた。
「おや、あなたですか!」
「勝手に押し入って一人きりの時間を邪魔してしまったことをお許し下さい。ですが、あなたがお考えになっていた瞬間が来たのです。ぼくにはあなたが必要なんです。あなたの助けを請わねばならないのです」
「確かにお約束いたしました。お助けしましょう」
フィリップがお辞儀をした。感激のあまり何も言葉が出て来なかった。
ルイ医師はその気持を酌み取った。
「妹さんの具合は如何ですか?」フィリップがあまりに真っ青だったので、何らかの悲劇が起こったのではないかと不安になってたずねた。
「おかげさまで何よりです。妹ほど誠実で気高い女はいないのに、苦しみや脅威に晒されるとしたら、神様は不公平だと言うしかありません」
医師はフィリップを物問いたげに見つめた。昨夜のことを否定されているように聞こえたのだ。
「では、妹さんは何らかの事件や罠の犠牲になったのだと?」
「その通りです、先生。途方もない事件の犠牲者であり、おぞましい罠の犠牲者でした」
医師は手を組み、天を仰いだ。
「ああ! そういう点では私たちはひどい時代に生きているのですよ。ずっと前から個人専属の医者は生まれていたのですから、これからは国民全員の医者を作り出すのが緊急の課題だと考えております」
「その通りです。そんな時代が来てくれたら、誰よりも嬉しい気持でそれを見守ることでしょう。ですが今は……」
フィリップはひどく脅すような仕種をした。
「そうですか! あなたも、罪を償うには暴力や死をもってと考えている人なのですね」
「そうです」フィリップの声は穏やかだった。「ぼくはそういう人間です」
「決闘ですか」医師は溜息をついた。「犯人を殺すことが出来たとしても、妹さんの名誉は回復しませんし、あなたが殺されるようなことがあれば妹さんを絶望の底に投げ込むことになるだけですよ。あなたは真っ直ぐな心と、聡明な魂の持ち主だと思っておりました。この事件のことは何もかも隠し通したがっているとばかり思っていましたが?」
フィリップが医師の腕を押さえた。
「どういうわけかわかりませんが、先生は誤解していらっしゃいます。深い確信と汚れない良心にかけて、ぼくの頭ははっきりとしています。ぼくの望みは、この手で裁きをおこなうことではなく、裁きを受けさせることです。ぼくの望みは、妹をひとりぽっちにすることでもぼくを亡くして死んだも同然にすることでもなく、ろくでなしを殺して妹の恨みを晴らしてやることなんです」
「あなたが殺すというのですか? 殺人を犯すのですか?」
「もし罪が犯される十分前に姿を見かけていたなら――あんな立場の人間が足を踏み入れる権利などない部屋に盗っ人のように入り込むのを見かけていたなら――ぼくは犯人を殺していましたし、ぼくの行動は正しかったのだと言われたことでしょう。だったらどうして今になって犯人を見逃さなくてはならないのですか? 罪が浄化されたとでもいうのでしょうか?」
「では、そんな残酷な計画を、心の中で固め、魂に誓っているのですね?」
「誓っていますとも! 心を固めていますとも! 何処に隠れていようといつか必ず見つけ出し、見つけた暁には、憐れみも後悔も見せずに、犬のようにぶち殺してやります!」
「ではあなたは、犯人と同じような罪を――それ以上に恐ろしい罪を――犯すことになるのですよ。女の不用意な言葉や媚びた仕種が、男の願望や気持を何処に向かわせるかわかったものでもないというのに。人殺しなどと! ほかの償わせ方があるのではありませんか、結婚させるとか……」
フィリップが顔を上げた。
「タヴェルネ=メゾン=ルージュの歴史は十字軍にまで遡り、妹の身分は内親王や大公女にも匹敵するのだということをご存じないのですか?」
「そうでしたか。犯人はそうではなく、平民であり愚民であり、あなた方とは別の人間だというわけですね。ええ、そうですとも」医師は辛辣な笑みを見せた。「仰る通りだ。神は劣った粘土から造った人間を、優れた粘土で造った人間に殺して欲しいのですよ。まったくあなたは正しい。どうぞお殺りなさい」
医師はフィリップに背を向け、雑草取りの作業に戻った。
フィリップが腕を組んだ。
「先生、聞いて下さい。今ここで問題にしているのは、何だかんだ言って浮気女からその気にさせるようなことをされた色男なのではありません。問題にしているのは、ぼくらに養ってもらったろくでなしのことなんです。慈悲のパンを口にしていた癖に、夜中に眠ったように気絶して仮死状態になっているのをいいことに、恩を仇で返して卑怯にも、この世でもっとも清らかで純粋な女を汚したろくでなしなんです。昼間の光では顔をまともに見ることも出来ない癖に。法廷に出ればこの犯人には死刑の宣告が待っているに違いないんです。それなら法廷のように公正に、ぼくが裁いてやる。ぼくが殺してやる。先生のことは寛大で立派な方だと信じています。ぼくにこの務めを果たさせてもらえませんか? でなければ、犯人を引き渡すという条件を認めてくれませんか? 親切な第三者として役目を果たし自己満足しようとするような方だったんですか? そうだとしたら、先生は尊敬していたような素晴らしい方ではなく、普通の人間だったんですね。あなたは先ほどぼくを軽蔑してみせたけれど、ぼくの方がよっぽど尊敬できる人間ですよ。何の下心もなく秘密をすっかり打ち明けたんですから」
「つまり――」医師が考え込んだ。「犯人が逃亡したと仰るのですか?」
「そうです。事情の説明が始まりそうなことに感づいたのでしょう。非難されているのを聞いて、慌てて逃げ出したんです」
「では、これからどうなさるおつもりですか?」医師がたずねた。
「手を貸していただけませんか。妹をヴェルサイユから連れ出し、何も洩れることのない濃い闇の中に、明らかにされれば恥辱となるような恐ろしい秘密を埋めてしまいたいのです」
「一つだけ訊きたいことがあります」
フィリップが不機嫌な顔をした。
「まあまあ」医師はなだめるような仕種をした。「僧侶代わりに懺悔された哲学者としては、務めとしてではなく主義主張を持つ権利に基づいて、条件をつけなくてはなりますまい。思いやりとは為すべき務めであって、単なる美徳ではありません。人を殺すと仰いましたね。私はどんな手を使ってでも全力でそれを阻止しなくては。その為には暴力も辞しません。妹さんに降りかかった災難を自ら裁くのも阻止したのですから。だからどうか、私に誓って下さい」
「嫌だ! 嫌です!」
「誓ってもらわなくては」ルイ医師が声を荒げた。「誓いなさい。神の手を意識して、その拳も間合いも見誤らないようになさい。もう少しで犯人を捕まえるところだったと仰いましたね?」
「そうなんです。あそこにいるとわかっていたなら、扉を開けて顔を合わせていたでしょうに」
「それで犯人は逃げ出して震え出し、辛い逃亡生活が始まったというわけですか。ああ、笑っていますね。神がお造りになったものがあなたには足りないのです! 悔恨という気持があなたには欠けているようだ! どうか落ち着きなさい! これからも妹さんのそばに居続けて、犯人を追いかけたりしないと約束して下さい。あなたが犯人と再会することがあれば――言いかえれば、神が犯人をあなたに売り渡したとしたら――私も男ですからね!――その時はあなたにもわかるでしょう!」
「馬鹿らしい。犯人が逃げずにいるとでも?」
「わからないではありませんか? 殺人犯は逃げ出し、隠れ場所を探し、死刑台を恐れ、それでも磁石に引かれるように、裁判所の柵に引き寄せられ、死刑執行人の手の下に頭を垂れに来るものです。もっとも、あなたが辛い思いで実行しようとしていたことをやめるのが問題でしょうか? あなたが生きている世界にとっては問題であり、妹さんの純潔を明らかに出来ない人には問題なのでしょう。あなたが人を殺すのも、そのことで好奇心を何倍も満足させてくれるのを楽しみにしている暇人の為でしかありません。野次馬たちは最初は犯行の告白を聞いて楽しみ、次に罰が下るのを大騒ぎして楽しむつもりなんですよ。いけません。私を信じて沈黙を貫き、今回の不幸を隠し通す覚悟をなさい」
「あのろくでなしをぼくが殺したとして、殺したのが妹の為なのかどうか、誰にわかります?」
「殺した動機が見つかるに違いありません」
「いいでしょう。あなたの言う通りにして、ぼくは犯人を追うのはよしますが、きっと神が裁いて下さることでしょう。神は罰から免れることを餌にして、犯人をぼくの許まで届けて下さるはずです」
「では、神が裁くことでしょう。手をお貸し下さい」
「どうぞ」
「ド・タヴェルネ嬢の為にしなくてはならないことは何ですか?」
「しばらく王太子妃殿下のおそばを離れる口実を考えなくてはなりません。ホームシック、環境、政治……」
「難しく考えることはありません」
「そうですね。あなたについては信頼いたします。ですから妹をフランスの片隅――例えばタヴェルネ――人の目からも猜疑の目からも遠く離れたところに連れて行くことにします」
「それはいけません。あの子には継続的な治療と絶え間ない安らぎが必要です。恐らくは科学の助けが必要になるに違いありません。この辺りで私の知っている小村を探しますから、そこならあなたが連れて行く予定の田舎よりも百倍も人目につかず百倍も安心な隠れ家となるでしょう」
「先生、そうお思いですか?」
「そう思うのにも理由があります。水に石が落ちて広がる輪のように、疑いとは中心から遠ざかるにつれ拡散してゆくものなのですよ。ですが石そのものは拡散しませんし、波紋が消えてしまえば原因を見つけることは出来ませんし、石は水の奥深くに沈んでしまっているものです」
「ではお願いいたします」
「今日から始めましょう」
「妃殿下に知らせていただけますか」
「今朝すぐに」
「ほかの点については……?」
「二十四時間後には答えがわかります」
「何とお礼を言って良いか! あなたこそ神様です!」
「では、すべて決まったからには、あなたは自分のすべきことをなさい。妹さんのところに戻って慰め守っておやりなさい」
「それでは失礼いたします、先生!」
医師はフィリップが見えなくなるまで見送ると、再び歩き始め、庭の点検と掃除を再開した。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXLIX「Le petit jardin du docteur Louis」の全訳です。
Ver.1 12/05/19
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