ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百五十章 父と息子

 フィリップが戻ると、アンドレがひどく狼狽えて不安がっていた。

「お兄様。お兄様がいない間に、わたくしの身に起こったことを余さず考えておりました。それは残っていた理性をすっかり飲み込んでしまいそうな深淵でした。お兄様はルイ先生にお会いになったのでしょう?」

「先生のところから戻ったところだよ」

「あの人はわたくしをひどく侮辱なさいました。あれは正しかったのでしょうか?」

「間違ってはいなかった」

 アンドレは青ざめ、細く白い指を神経質に引きつらせた。

「名前を。わたくしを破滅させた卑怯者の名前は?」

「ずっと知らない方がいい」

「フィリップ、噓は仰らないで。良心を偽ろうとなさらないで……名前を知る必要があるんです。わたくしは弱いだけの人間で、祈ることくらいしか出来ません。祈ることで犯人に神の怒りをもたらしてやれるのです……そのためにも、犯人の名前を」

「その話はよそう」

 アンドレがフィリップの手を摑み、顔を見つめた。

「それがお兄様のお返事ですか? 腰に剣を差しているお兄様の?」

 フィリップはアンドレの激しさにたじたじとなったが、すぐに自分の怒りは抑え込んだ。

「アンドレ、自分でも知らないことを教えることは出来ない。ぼくらを苦しめている運命が、今回のことを封印しようとしているのだ。噂が立てば我が家の名誉ともどもその封印にも危険が及ぶが、神がせめてもの寵を授けられ、誰にも触れられぬよう計らって下さったのだ」

「例外が一人だけいます、フィリップ……嘲りを浮かべ、わたくしたちの前に立ち塞がっている人間が!……きっと人の目の届かない隠れ場所から、わたくしたちを嘲笑っているんです」

 フィリップは拳を固め、天井を見上げたまま、一言も答えなかった。

「その男のことを――」アンドレの怒りがさらに大きくなった。「わたくしはその男のことを知っているような気がするんです……フィリップ、思い出して頂戴。あの男がわたくしに不思議な力を及ぼしていたことはお話ししたでしょう? お兄様はあの男に会いに行ったのでは……」[*1]

「その人は違うんだ。会って確かめてきた……もういい。もう忘れるんだ。もう考えなくてもいい……」

「フィリップ、あの男よりも高いところまで一緒に登ってはどう?……この王国の権力者たちの最上段まで……国王のところまで!」

 フィリップはアンドレを抱き締めた。何も知らぬまま憤りに震えているアンドレは、哀れで神々しかった。

「いいかい、いま目を覚ました状態で名を挙げている人たちのことなら、おまえは眠っている状態で既に名を挙げていたんだ。今こうして美徳の名の許に色をなして告発している人たちのことを、罪が犯される場面を透視したことで擁護することになったんだ」

「ではわたくしは犯人を名指ししたのですね?」アンドレの目に炎が灯った。

「いいや。そんなことはない。もう質問をするのはやめてくれ。ぼくに倣って運命に従おう。起こってしまったことは元には戻らない。犯人が罰せられないのはおまえにとっては二重の苦しみだろう。だが希望はある。希望……神は何にも増して偉大なのだ。神は不幸に押しつぶされた人に、復讐と呼ぶ甘美な悲しみを残してくれた」

「復讐……!」フィリップがこの言葉に込めた恐ろしい響きに、その言葉を繰り返したアンドレも怯えていた。

「今のところは休むといい。ぼくの好奇心のせいでおまえに悲しい思いや恥ずかしい思いをさせてしまったね。予め知ってさえいたら! わかってさえいたら!……」

 フィリップは悔しさのあまり両手に頭をうずめた。だがすぐに顔を上げた。

「ぼくは何を嘆いているんだ?」フィリップは笑みを浮かべた。「純粋で、ぼくのことを愛している妹がいるんじゃないか! 信頼も愛情も裏切ることはなかった。ぼくのように若く、ぼくのように誠実だった。ぼくらは共に暮らし、共に歳を取ってゆくんだ……二人なら、世界の誰よりも強くなれる!……」

 フィリップが慰めの言葉を綴るにつれ、アンドレの顔色が翳って行った。顔をさらに青ざめさせてうつむき、フィリップが気丈にもふるい落としたばかりの絶望的な態度と眼差しをまたも湛えていた。

「どうしてわたくしたちのことしか話さないの?」青く鋭い目を、動揺しているフィリップの顔に向けた。

「じゃあ何を話せばいいんだい、アンドレ?」フィリップはアンドレの視線を受け止めた。

「だって……わたくしたちにはお父様がいます……お父様はこんな娘のことをどう思うかしら?」

「昨日言った通りだよ」フィリップは淡々と言葉を返した。「悲しいことも恐ろしいこともみんな忘れてしまうんだ。朝靄を吹き払う風のように、ぼく以外の思い出も愛情も吹き払ってしまって欲しい……だってアンドレ、おまえを愛しているのはぼくを措いてほかにいないし、ぼくを愛してくれるのもおまえだけだ。哀れなみなし児が、どうして感謝や親戚といったくびきに囚われなくちゃならないんだ? ぼくらが恩恵を受けたことがあったか? 父から守ってもらったことがあったか?……ははっ!」フィリップは苦々しい笑みを浮かべた。「ぼくの考えていることならすっかりわかっているだろう。ぼくの気持ちなどお見通しだろう……いま話題にしている人間を愛する必要があるなら、その時は『愛し給え』と断言しよう。だがぼくは沈黙を選ぶよ、アンドレ。どうか察してくれ」

「でもお兄様……わたくしに必要なのは信じることでしょうか……?」

「アンドレ、大きな不幸に襲われると、知らず知らずのうちに人間には、幼い頃には深く理解できなかった『神を畏れよ!』という言葉が鳴り響くのが聞こえて来る……ああ、そうだとも。神は容赦なくぼくらの記憶に触れ、神が御座すことを思い出させたんだ……『父を敬え』と神は定めた……父親に対する敬意を形にしようと思ったら、おまえに出来る最大限の敬意の表し方は、記憶から消し去ることだ」[*2]

「本当にその通りね……」アンドレは侘びしげに呟いて、椅子に身体を預けた。

「アンドレ、どうでもいい話で時間を無駄にするのはよそう。身のまわり品を揃えるんだ。ルイ先生が王太子妃殿下に会いに行って、おまえがいなくなることを伝えてくれる。どんな理由をつける予定なのかわかっているね……原因不明で苦しんでいるから、空気を変える必要があると……出発に必要なものを用意してくれ」

 アンドレが立ち上がった。

「家具はどうしますの?」

「それは無理だ。下着に上着に宝石」

 アンドレは言われた通りにした。

 まずは洋服箪笥や、ジルベールが隠れていた衣装部屋の衣装を片し、それから、宝石を幾つか手に取り貴重品箱に仕舞おうとした。

「それは……?」

「トリアノンで陛下に謁見した際に賜った装身具です」

 贈り物が豪華なのを見てフィリップの顔が青ざめた。

「この宝石だけで、何処に行ってもそこそこの生活が出来ますわ。真珠だけでも十万リーヴルだと聞きました」[*3]

 フィリップが宝石箱を閉じた。

「驚くほど高価だね」

 そう言って宝石箱をアンドレの手から預かった。

「ほかにも宝石があるんだろう?」

「この宝石と比べればささやかなものですけれど。お母様の装いを飾っていたもので、もう十五年も前の……懐中時計、ブレスレット、ダイヤの散りばめられた耳飾り。それにロケットもあります。お父様はみんな売ろうとなさっていました。流行遅れだからと言って」

「だが、これがぼくらに残されたすべて。唯一の命綱だ。黄金は溶かして、ロケットの宝石は売ろう。それで二万リーヴルにはなる。貧乏人には充分な額だよ」

「でも……わたくしには真珠の入ったこの宝石箱があります」

「触れちゃ駄目だ。火傷するぞ。この真珠は普通じゃない。額に触れれば痣が浮かび上がる……」

 アンドレが身震いした。

「この宝石箱はぼくが預かるよ。正当な権利を持つ人に返そうと思うんだ。これはぼくらのものじゃない。何一つ主張するつもりはないね?」

「お兄様がそう仰るのでしたら」アンドレは恥ずかしさに震えた。

「じゃあ着替えてくれ。妃殿下に最後のご挨拶をしに伺おう。これほど高貴な主人の許から離れるんだから、ちゃんと落ち着いて、敬意を払い、胸に刻むんだぞ」

「もちろん胸に刻みますわ」感極まったアンドレが囁いた。「今度の不幸の中でも一番つらいことですもの」

「ぼくはパリに行くけれど、夕方頃には戻って来る。着いたらすぐに迎えに来るよ。借りがある人たちには支払いを済ませておくんだぞ」

「そんな人はおりません。ニコルがいましたけれど、逃げてしまいましたから……あら、ジルベールのことを忘れていました」

 フィリップの背筋が凍り、目に炎が灯った。

「ジルベールに借りがあるのか?」

「ええ」アンドレは当たり前のように答えた。「季節の初めから花を届けてくれましたから。それにお兄様も仰ったように、あの子には不当に厳しく接することもありましたし。何だかんだ言っても慇懃な子だったのに……何らかの形でお礼をしようと思っています」

「ジルベールなど放っておけ」フィリップが声を絞り出した。

「どうしてですか?……庭にいるでしょうから、何なら呼びに行かせましょう」

「駄目だ! 貴重な時間を無駄にするな……そんなことをせずとも、並木道を歩いて行けば、途中で出くわすだろうから……ぼくが話して……お礼を言っておくよ……」

「そういうことでしたら構いません」

「ああ。それじゃあ晩に」

 フィリップは腕の中に飛び込んで来たアンドレの手に口づけをした。心臓の鼓動が伝わるまで優しく抱き締めると、時間を無駄にせずパリに向かい、コック゠エロン街の門前で馬車から降りた。

 そこに行けば父と会えることはわかっていた。タヴェルネ男爵はリシュリューとおかしな仲違いをしてからは、ヴェルサイユでの耐えがたい生活を良しとせず、活動的な人々がよくやるように、場所を変えることで無為な感覚を紛らそうとしていたのだ。

 フィリップが正門の小窓から訪いを告げた時には、男爵は悪態をつきながら宿の花壇や隣接する中庭を歩き回っていた。

 男爵は呼鈴の音に驚いて自ら門を開けに出た。

 人が来るとは思っていなかったので、こたびの予期せぬ訪問に期待を抱いていたのだ。転落した人間はどんな枝にもしがみつきたがる。

 そういうわけだから、男爵は悔しさと好奇心の入り混じった捕えがたい気持ちで、フィリップを迎え入れた。

 だが息子の青ざめて強張った顔や痙攣する口を見るや、質問しようとして開いた口は凍りついた。

「お前か!」とだけ言うのがやっとだった。「どういう風の吹き回しだ?」

「これからご説明いたします」

「ふん! 一大事か?」

「極めて重大なことです」

「お前はいつも仰々しいから不安でならん……それで、今回の報せは不幸と幸運のどっちじゃ?」

「不幸の方です」フィリップの声は重かった。

 男爵の身体がかしいだ。

「ここにはぼくたちしかいませんね?」

「無論だ」

「家に入りませんか?」

「どうして外ではいかん? この木の下では……?」

「明るい空の下では言えないようなことだからです」

 男爵は息子を見つめ、無言で招かれるがままに従った。平静を装って笑みまで浮かべて下階までついて行くと、フィリップが扉を開けて待っていた。

 扉がしっかり閉められると、フィリップは父親の合図を待った。そうして男爵が部屋で一番いい椅子に腰を下ろしたのを見て口を切った。

「父上、アンドレとぼくは、父上とお別れすることになりました」

「どういうことだ?」男爵は驚いてたずねた。「行ってしまうというのか!……では兵役はどうなる?」

「もう兵役などありません。ご存じの通り、国王のお約束は実現しませんでしたから……幸いなことに」

「『幸い』だと? 意味がわからん」

「父上……」

「説明せんか。聯隊長になれぬのが幸いとはどういうことだ? 哲学をこじらせおったか?」

「たいした哲学ではありません。不名誉よりは運命を取ったまでです。ですがそういった事情には踏み込まないでいただけませんか……」

「踏み込まずにおられるか!」

「お願いです……」フィリップのかたくなな言葉からは、『嫌だ!』という叫びが聞き取れた。

 男爵が眉をひそめた。

「妹はどうなんじゃ?……あれも務めを忘れてしまったのか? 妃殿下のおそばにお仕えするという……?」

「まさしく、ほかにしなくてはならない務めがあるのです」

「どういった務めじゃ?」

「極めて緊急性の高いものです」

 男爵が立ち上がった。

「うつけ者めが。謎めいたたわごとをほざきよって」

「ぼくの言ったことが謎めいていたでしょうか?」

「謎ばかりではないか」と答えた男爵は驚くほどに冷静だった。

「それでは説明いたします。アンドレが立ち去るのは、不名誉から逃れるために雲隠れを余儀なくされたからです」

 男爵が笑い出した。

「はッ! たいした親孝行どもじゃのう! 息子は不名誉を恐れて聯隊という希望を諦め、娘は不名誉を怖がってせっかくつかんだ地位を捨ててしまうのだから。ブルートゥスとルクレティアの時代に戻れればのう! わしの若かった頃は良い時代ではなかったし、哲学にとっては冬の時代だったろうが、不名誉を蒙るのがわかっておって、お前のように腰に剣を佩いているうえに、二人の師と三人の隊長に教えを受けているのなら、剣の切っ先にその不名誉を突き刺していたところだぞ」[*4]

 フィリップは肩をすくめた。

「そうじゃろう。血を見たくない博愛主義者にとっては、わしの言っていることは嫌なことじゃろうな。だがな、そもそも軍人というものは博愛主義者になるために生まれて来たわけではない」

「父上と同様、ぼくにだって名誉に関わる問題を背負う覚悟はあります。ですが血を流してあがなうのではなく……」

「口先だけは達者だのう……まるで……まるで哲学者じゃわい!」男爵は苛立ちのあまりむしろ堂々として見えた。「危うく、まるで臆病者だと言うところじゃったぞ」

「言わないで下さったのは正解でしょう」フィリップは青ざめ、震えていた。

 フィリップの挑むような視線に、男爵は毅然として応えた。

「わしの考え方が間違っていると思わせようとしても無駄じゃぞ。この世のあらゆる不名誉を生み出すのは、行為そのものではなく言葉なのだ。つまるところ……聾や盲や啞の前で罪深い言動を取ったからといって、お前の名誉が潰れたりするか? 馬鹿な格言を持ち出すのはよせ。

「『恥を生むのは罪であり、断頭台ではない』じゃと?[*5]

「女子供が相手ならそれでも良かろう。だが男相手にそんな台詞は通じぬわい……男を育てあげたと思っておったのだが……それはともかく、盲の目が開き、聾の耳が聞こえ、啞が口を利けたとしたら、剣の柄に手をかけ、目を潰し、鼓膜を破り、舌を切り取らねばならん。タヴェルネ゠メゾン゠ルージュの名を戴く男は侮辱に対してそのように答えねばならんのだ!」

「その名を戴く人間なら、やるべきことの中でも第一にしなければならないのは、不名誉な行動を取らぬことだと心得ております。だからこそ議論に応じるつもりはありません。ただし、時には避けがたい不運から恥が生まれることもあるものです。それがアンドレとぼくに起こったことなのです」

アンドレの話に移ろうか。わしに言わせれば、男なら抗えることから逃げてはならぬし、女とて毅然として耐えねばならぬ。哲学者殿よ、悪意ある攻撃を防ぐことが出来ぬのであれば、美徳に何の意味があるのだ? 悪意を退けられぬのなら、美徳に活躍の場などあるのか?」

 そう言ってタヴェルネ男爵はまた笑った。

「タヴェルネ嬢は怯えている……そうだな?……それで弱気になっている……つまり……」

 出し抜けにフィリップが間を詰めた。

「父上、タヴェルネ嬢は弱気になったのではなく、征服されたのです! 罠に嵌められ、陥れられたのです」

「罠だと……?」

「そうです。先ほど燃え立たせた激情の幾ばくかは、穢れなき者の名誉に泥を塗ろうと画策した卑怯者たちを挫くために、収めておいてもらえませんか」

「よくわからんが……」

「すぐにおわかりになります……ある卑劣漢がタヴェルネ嬢の部屋に人を引き入れたのです……」

 男爵の顔から血の気が引いた。

「犯人はタヴェルネの名に……ぼくの……そして父上の名に……消せない汚点をつけようとしたのです……さあ、父上の剣は何処ですか? 血を流すに足る出来事ではありませんか」

「フィリップ……」

「大丈夫です、心配はいりません。表だって誰かを告発してはいませんし、誰かに会いに行ったりもしていません……犯罪は暗がりの中で計画され、暗がりの中で実行されたのです……その結果も暗がりの中に消えてくれることを願っています! ぼくだって我が家の栄光をぼくなりに理解しているつもりはありますから」

「それなら、どうしてわかったのだ……?」呆然としていた男爵が、下卑た野心と醜い希望に導かれるようにして我に返った。「何を見て気づいたのだ……?」

「誰かがこれから何か月かの間に、妹を――あなたの娘を見かけたとしても、誰一人としてそんなことを尋ねたりはしないはずです!」

「ならばフィリップ」男爵の目には歓喜が溢れた。「我が家の運命と栄光は消えてなくなってはおらぬ。わしらの勝ちだ!」

「やはり……父上はぼくの考えていた通りの人でした」フィリップの言葉には激しい嫌悪が滲んでいた。「本音を洩らしましたね。息子の前で思いやりを欠いてしまっただけでなく、大いなる裁きを前にしても心を無くしてしまったのですね」

「たわけ者めが!」

「もううんざりです。そんなに大きな声を出しては、母の幽霊が目を覚ましてしまいますよ。生きていれば娘を見守ってくれたでしょうに、今となっては薄い影のようになってしまった」

 フィリップの目からほとばしる光のまぶしさに、男爵は瞼を伏せた。

「わしの娘は、父の意思に反して立ち去ったりはせんよ」しばらくしてようやく口を開いた。

「ぼくの妹は、父上と二度と会うことはないでしょう」

「本人がそう言ったのか?」

「父上にそう伝えるように本人から言われたのです」

 男爵は震える手を伸ばし、血の気の引いた湿った口唇を拭った。

「まあよいわ!」

 と言って肩をすくめた。

「子供に関しては運がなかったのう。馬鹿と人でなしとは」

 フィリップは口答えしなかった。

「もうよいわ。もうお前たちなどいらぬ。行ってしまえ……言いたいことを言ってしまったのであればな」

「あと二つ申し上げたいことがあります」

「言うてみろ」

「一つ目です。国王が父上に下さった真珠の宝石箱ですが……」

「お前の妹に、であろう……」

「父上に、です……何にしてもどうでもいいことです。アンドレはあのような宝石を身につけたりはませんから……タヴェルネ嬢は娼婦ではありません。宝石箱をお返しして下さるよう言づかって来ました。ただし、ぼくらにあれほど親切にして下さった陛下のご機嫌を損ねるのがご心配でしたら、どうかお手元にお留め下さい」

 フィリップは父に宝石箱を差し出した。男爵は箱を受け取って蓋を開き、真珠を見つめてから洋箪笥の上に箱を放った。

「次は?」

「二つ目ですが、ぼくらは裕福ではありません。父上が母の財産まで質に入れたり売り払ったりしてしまったからです。とは言え、非難するつもりなど毛頭ありません。ですが……」

「非難された方がましだわい」男爵が歯を軋らせた。

「ですが、その結果、遺されたささやかな財産から得られるのはタヴェルネしかないのです。ですから父上にはタヴェルネかこの家のどちらかを選んでいただきたいのです。選んだ方に住んでいただければ、ぼくらは残った方に引き籠もります」

 男爵がレースの胸飾りをしわくちゃにした。怒りに耐えていることを窺わせる様子は、その手が震え、額が汗ばみ、口唇が震えている点しかなかったが、フィリップはそれに気づきもしなかった。男爵の方を見てもいなかったのだ。

「タヴェルネにしよう」

「ではぼくらは宿を」

「好きにせい」

「いつ出発なさいますか?」

「今晩……いや、今すぐにだ」

 フィリップが頭を下げた。

「タヴェルネでなら、三千リーヴルの収入があれば王様並みの暮らしが出来る……ということは、並みどころか王の二倍か」

 男爵は洋箪笥に手を伸ばし、宝石箱を摑んでポケットに入れた。

 それから戸口に向かったが、不意に残忍な笑みを浮かべて引き返して来た。

「フィリップよ、いつか哲学の論文でも初出版することがあれば、我が家の名を冠しても構わぬぞ。アンドレには……あれの初作品には……ルイかルイーズと名づけるよう伝えてくれ。幸運をもたらす名じゃからの」

 男爵は卑屈に笑って立ち去った。フィリップは目を血走らせ、顔を上気させ、剣の鍔に手を掛けて呟いた。

「神よ! 我に忍耐と忘却を与え給え!」


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CL「Le père et le fils」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年12月25日(連載第148回)。


Ver.1 12/05/19
Ver.2 12/10/20
Ver.3 26/05/31

[註釈・メモなど]

・メモ
 

[更新履歴]

・12/10/20 「今こうして美徳の限りに非難してしている人たちに対して、罪が犯されるのを目にしながら無実を訴えたんだ」→「今こうして美徳の限りに非難してしている人たちに対して、罪が犯されるのをその目で見た為に、無罪を言い渡したんだ」(=犯罪の現場を千里眼によって目撃したので、それまで非難していた人を弁護するようになった)

・26/05/31 Le secret m'est commandé par le destin qui nous accable ; ce secret, qu'un éclat compromettrait avec l'honneur de notre famille, une dernière faveur de Dieu le rend inviolable pour tous. この「éclat」は「噂,醜聞」の意であろう。「ぼくらを悩ましている運命が、それが明らかにならぬよう定めたのだ。秘密にしておこうという願いも我が家の名誉と共に危険に晒されたけれど、神がせめてもの情けをかけて誰からも触れられぬようにしてくれるはずだ。誰からも……」 → 「ぼくらを苦しめている運命が、今回のことを封印しようとしているのだ。噂が立てば我が家の名誉ともどもその封印にも危険が及ぶが、神がせめてもの寵を授けられ、誰にも触れられぬよう計らって下さったのだ」に訂正。

・26/05/31 – Mais… nous avons un père… Comment traitera-t-il sa fille ? traiterをtrahirと読み違えていたので、「お父様が娘を裏切ると言うのですか?」 → 「お父様はこんな娘のことをどう思うかしら?」に訂正。

・26/05/31 – Oh ! cher ami, elles ne sont pas dignes d'être comparées à celles-ci ; elles ornaient pourtant la toilette de notre bonne mère, il y a quinze ans… La montre, les bracelets, les pendants d'oreille sont enrichis de brillants. Il y a aussi le portrait. Mon père voulait vendre le tout, parce que, disait-il, rien n'était plus de mode. 「le portrait」とは「肖像画」のことだが、次の台詞で「partraitの宝石は売ろう」とあるので、肖像画を入れたロケットのことだと思われる。「でもこの宝石とは比較にはなりません。母がお洒落をした時に身につけていたもので、十五年も前の……懐中時計、ブレスレット、ダイヤの散りばめられた耳飾り。それに肖像画もあります。お父様はみんな売ろうとなさいました。流行遅れだからと言って」 → 「この宝石と比べればささやかなものですけれど。お母様の装いを飾っていたもので、もう十五年も前の……懐中時計、ブレスレット、ダイヤの散りばめられた耳飾り。それにロケットもあります。お父様はみんな売ろうとなさっていました。流行遅れだからと言って」に訂正。

・26/05/31 Lorsque les portes furent soigneusement fermées, Philippe attendit un geste de son père pour commencer la conversation, et, le baron s'étant assis commodément dans le meilleur fauteuil du salon : 文章の流れから見て、ここで言う「un geste de son père」とは、男爵が腰を下ろすことであろう。「扉がしっかりと閉められると、フィリップは父親が話せと合図するのを待った。男爵は部屋で一番いい椅子にどっかりと腰を下ろしている。」 → 「扉がしっかり閉められると、フィリップは父親の合図を待った。そうして男爵が部屋で一番いい椅子に腰を下ろしたのを見て口を切った。」に訂正。

・26/05/31 – Oui, c'est assez pauvre, ce que je dis là, pour un philanthrope qui n'aime pas à voir couler le sang. Mais, enfin, les officiers ne sont pas précisément nés pour être philanthropes. 二つ目のphilanthropeをなぜかphilosopheと読み違えていたので、「そうじゃろう。血を見たくない博愛主義者にとっては、わしの言っていることは嫌なことじゃろうな。だがな、軍人というのは哲学者になる為に生まれて来たわけではない」 → 「そうじゃろう。血を見たくない博愛主義者にとっては、わしの言っていることは嫌なことじゃろうな。だがな、そもそも軍人というものは博愛主義者になるために生まれて来たわけではない」に訂正。

・26/05/31 – Phrases !… phrases de… de philosophe ! s'écria le vieillard irrité au point de devenir majestueux. Je crois que j'allais dire de poltron. 男爵は「phrases de poltron」と言おうとして思いとどまり、「phrases de… philosophe」と言い直したので、訳文でもそれがわかるようにした。「口先だけ!……詭弁か……哲学者のお家芸じゃな!」男爵の怒りに凄みが現れ始めていた。「確か、臆病者の話をしようとしていたところじゃったな」 → 「口先だけは達者だのう……まるで……まるで哲学者じゃわい!」男爵は苛立ちのあまりむしろ堂々として見えた。「危うく、まるで臆病者だと言うところじゃったぞ」に変更。

・26/05/31 – C'est ce que ne demandera personne de ceux qui pourraient entrevoir ma sœur, votre fille, dans quelques mois, monsieur le baron ! demanderaは単純未来形であり、pourraientは条件法現在形なので、「ここ何か月かの間にぼくの妹を――あなたの娘を――見かけた人の誰一人として、そのようなことをたずねたりはしませんでした!」 → 「誰かがこれから何か月かの間に、妹を――あなたの娘を見かけたとしても、誰一人としてそんなことを尋ねたりはしないはずです!」に訂正。

・26/05/31 「」 → 「」

・26/05/31 「」 → 「」

 

[註釈]

*1. [お兄様はあの男に会いに……]
 第144章で、フィリップはバルサモがアンドレに影響を及ぼしていたことを知ってアンドレの部屋を飛び出し、第146章で実際にバルサモと対面している。[]
 

*2. [神を畏れよ……]
 「神を畏れよ」……旧約聖書『コヘレトの言葉』第5章第7節、第12章第13節など。「父を敬え」……旧約聖書『出エジプト記』第20章第12節「十戒」の第5「父母を敬え」より。[]
 

*3. [真珠だけでも十万リーヴル]
 実際には第116章でタヴェルネ男爵は「真珠だけでも五万リーヴルはする」と評している。同じく第116章の少し前では「贈り物の中身は、少なく見積もっても三万エキュは下るまい」と評している。1エキュ=3リーヴルなので、三万エキュ=九万リーヴル。「真珠だけでも十万リーヴル」というのはアンドレの勘違いということになる。第116章によると、国王からアンドレへの贈り物は、宝石箱に入った真珠飾りのセットで、イヤリングや髪留めがあった。[]
 

*4. [ブルートゥスとルクレティア]
 ルクレティアは古代ローマの女性。夫の留守中に王家の者に辱めを受け、夫たちに復讐を恃んで剣で自ら命を絶つ。ブルートゥスは夫の友人で、王家を退け共和制になったローマで執政官となる。[]
 

*5. [恥を生むのは罪であり、断頭台ではない]
 Le crime fait la honte et non pas l'échafaud. 劇作家トマ・コルネイユの言葉。のちにマラー殺害後(前)にシャルロット・コルデーが父に書いた手紙の言葉として有名になる。[]
 

*6. []
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