ひどい疲れに襲われ、眠ってそれを癒している間に、心は二つの力を勝ち取ったようだ。安全な状況を理解し、死ぬほど憔悴している肉体に目を配っていた。
意識を取り戻したアンドレが目を開けると、傍らに女中が眠っている。火床が元気に爆ぜる音を聞き、部屋が静けさに包まれているのを感じた。何もかもが自分と一緒に眠っていたようだった……
智性はまだ目覚めきってはいない。さりとて眠りに就いているわけでもない。そんな半醒半睡の状態をだらだらと引き延ばすのが心地よかった。疲弊した意識の中に感性が一つ一つゆっくりと戻って来るに任せよう。理性のすべてが突然戻ってしまうのが怖いわけではないけれど。
不意に、遠くでかすかな泣き声のするのが、厚い壁を通して聞こえて来た。
あれほど苦しんでいた震えが甦る。壜の中でたゆたっていた澱が衝撃で濁るように、数か月前から無垢と善意を濁らせていた憎しみが甦った。
その瞬間から、眠りも安らぎもなくなった。忘れられない憎しみを覚えていた。
だがたいていの場合、感情の力も肉体の力に比例する。アンドレに残されていたのは、フィリップと過ごした夜に見せた力がすべてだった。
赤ん坊の泣き声が傷のように脳を穿ち、拷問のように脳を穿った……フィリップが思いやりからこの子を遠ざけたのだとすれば、残酷な命令を実行したりはしなかったのか……。
幾ら悪いことを考えようとも、こんな状況ほど嫌悪を抱かせることなどない。アンドレはまだ見ぬこの子を憎んでいた。この子が形を表すのが怖かった。この子の死を望んでいた。それなのに、泣き声を聞くと心が痛んだ。
「辛いのだわ」とアンドレは考えた。
それからすぐに自問する。
「あの子が辛がっているからどうだと言うのかしら……わたくしほど不幸な人間はいないのに」
赤ん坊がさらに大きく辛そうな声をあげた。
その声が不安な声を呼び覚ましたように感じられたことに気づき、見えない糸に引かれるように、泣きじゃくっている見捨てられた存在に向かって心が引っ張られるのを感じた。
漠然とした予感が現実となった。この世の摂理が準備の一つを終えた。腹を痛めたという事実は強い吸引力を持っていた。こうして赤ん坊の僅かな動きにも母親の心は引き寄せられた。
「いけない。今あの子は泣き叫んでいる。天に向かってわたくしを恨んで泣いている。産まれて間もない赤子たちに、気持が届けられるような大きな声を、神様がお与えになったのだ……この子たちを殺して苦しみから救うことは出来るけれど、辛い思いをさせる権利などない……そんな権利があるのなら、そもそもこの子たちがこうして泣き喚くことなど神様も許しはしないはずだもの」
アンドレは顔を上げて女中を呼ぼうとした。だが弱々しい声では眠っている女中を起こすことが出来なかった。いつの間にか赤ん坊も泣きやんでいた。
「きっと子守りが来たのだわ。扉の音が聞こえたもの……ほら、隣の部屋で足音がする……もう泣いてない……助けが来たのだとわかって、小さな心も安心したのでしょう。何てことかしら! あそこにいて子供の面倒を見ているのが母親なのでは?……僅かなお金で……わたくしの腹から産まれたあの子もやがて母を目にすることになるはず。そのうち、あれほど苦しんで命を与えたわたくしのそばを通りかかっても、わたくしには見向きもせずに、献身的な雇われ者に向かってわがままいっぱいに『お母さん!』と声をかけるのだわ。確かに恨みに感じているわたくしよりはよほど献身的でしょうけれど……そんなことさせるものですか……あれほど苦しんで、この子の顔を覗き込んでじっと見つめる権利を得たのだから……わたくしには愛してもらえるように世話をする権利があるし、立派な人だと思ってもらえるように犠牲を払い苦しみを舐める権利があるはずですもの!」
アンドレは懸命に身体を動かし、力を振り絞って声をかけた。
「マルグリット! マルグリット!」
女中がようやっと目を覚ましたが、身動きもせずに痺れたように椅子に沈んでいた。
「聞こえた?」
「はい、お嬢様、只今!」ようやく頭がはっきりとして来たらしい。
マルグリットは寝台に近寄った。
「お飲物でしょうか?」
「いいえ……」
「只今の時刻ですね?」
「そうじゃ……ない」
アンドレは隣の部屋の扉から片時も目を離さなかった。
「わかりました……お兄様がお戻りになったかどうかお知りになりたいのですね?」
高慢な魂が弱々しく、そして熱く高潔な心が力強く、アンドレの願いと戦っていた。
「わたくしは……」アンドレがついに口を開いた。「わたくしは……その扉を開けなさい、マルグリット」
「かしこまりました……まあ寒い!……風が!……凄い風!……」
アンドレの部屋にも風が吹き込み、蝋燭や燈火の炎を揺らした。
「子守りが扉か窓を開けっ放しにしているのではないかしら。見て来て、マルグリット……あの……子が寒がっているでしょうから……」
マルグリットが隣の部屋に向かった。
「毛布でくるんで参りましょうか」
「いい……え!」アンドレの声は途切れがちだった。「ここに連れて来て」
マルグリットが部屋の中で立ち止まる。
「その……フィリップ様が仰るには、赤ちゃんはあそこに寝かせておけと……お嬢様をご不快にさせたり昂奮させたりしないようにとのご配慮かと存じますが」
「連れて来なさい!」心が破けそうなほどの叫びだった。苦しみのただ中で乾ききった目から、涙がほとばしった。幼子たちの守護天使がそれを見ればきっと天国で笑顔を見せたに違いない。
マルグリットが部屋に駆け込む。アンドレは坐ったまま両手で顔を覆っていた。
マルグリットはすぐに戻って来たが、何が起こったのかわからないといった顔をしていた。
「どうしたの?」
「それが……どなたかいらっしゃったのですか?」
「どういうこと?……誰かとは?」
「赤ちゃんがいらっしゃいません!」
「さっき物音がしたけれど……足音が……あなたが眠っている間に子守りが来て……起こしたくなかったのだと……それよりお兄様は何処? 部屋を見て来て」
マルグリットが慌ててフィリップの部屋に向かったが、誰もいなかった!
「変ね!」胸の動悸が激しくなっていた。「わたくしに会いもせずにまた出かけたのかしら……?」
「お嬢様!」
「何?」
「通りの扉が開きました!」
「確認して!」
「フィリップ様です、お戻りになりました……早く、早くお入り下さい!」
確かにフィリップだった。後ろには粗末な毛糸の外套を纏った農婦が、家庭的な好ましい笑顔を見せている。女中は改めて歓迎の言葉を伝えた。
「アンドレ、戻って来たぞ」部屋に入るなりフィリップが言った。
「お兄様!……迷惑をかけてしまってごめんなさい! あら、そこにいるのは子守りの方ね……出て行ってしまったかと思っておりました……」
「出て行ったって?……今来たところだぞ」
「戻って来たと仰りたいの? だって……先ほど確かに聞いたんです、静かにとは言え歩いているのを……」
「どういうことだい。誰も……」
「ありがとう」アンドレがフィリップを引き寄せて、言葉の一つ一つをはっきりと口にした。「お兄様はわたくしのことをよくわかって下さってますもの。わたくしがこの子に会って……抱きしめるまでは、連れ出そうとはなさらなかったんでしょう……フィリップ、わかって下さって嬉しいわ……ええ、そうなんです、落ち着いて聞いて下さい、わたくし、この子を好きになれそうなんです」
フィリップがアンドレの手をつかんで口唇を押し当てた。
「ここに連れて来てくれるよう子守りに伝えて……」若き母親はそう言った。
「それがフィリップ様、赤ちゃんはあそこにはいらっしゃいませんから」
「何だって? 何を言っているんだ?」
アンドレが不安げに兄を見つめた。
フィリップが女中の寝台に向かい、そこに誰もいないのを目にして恐ろしい悲鳴をあげた。
アンドレは鏡に映ったフィリップの動きを追って、フィリップが青ざめ、腕を硬直させるのを見た。悲鳴に応えるように吐き出された溜息を聞き、真実の一部を悟った。アンドレは気を失って枕の上に倒れ込んだ。またもや不幸が起こるとは、しかもこれほど大きな衝撃だとは、よもやフィリップも想像していなかった。懸命になって、アンドレをさすり、慰め、涙を流し、ようやく意識を取り戻させた。
「赤ちゃんは何処?」アンドレが囁いた。「赤ちゃんは?」
――母親を助けなければ、とフィリップは考えた。「アンドレ、ぼくらも馬鹿だなあ。先生が連れて行ったのを忘れていたよ」
「先生が?」その声には疑いと希望が相半ばしていた。
「ああ、そうさ。そうだとも……ちょっと混乱していたんだ……」
「フィリップ、誓って本当なのね?……」
「アンドレ、ぼくが誠実なのはわかっているだろう……どうしてあの子が……いなくなるだなんて思ったんだ?」
フィリップは子守りと女中に同意を求めるようにして作り笑いを浮かべた。
アンドレはなおも言い募った。
「でも聞こえたんです……」
「何をだい?」
「足音が……」
フィリップがぎょっとした顔を見せた。
「何を言っているんだ! 眠っていたんだろう?」
「いいえ、起きていました。聞こえたんです……聞こえたんです!……」
「そうか、じゃあ先生だよ。赤ん坊の具合が心配で、後で戻って来て連れて行こうとしたんだろう……そんな風に話していたからね」
「本当ね」
「本当に決まっているじゃないか……何でもないよ」
「でもそうしますと、あたしはここで何をすればよろしいのでしょうか?」子守りがたずねた。
「まったくだ……先生があなたのお宅で待っているはずだ……」
「あらまあ」
「先生のところに行くといい。さあ……マルグリットはぐっすり眠っていたから、先生の言ったことが聞こえなかったんだ……或いは先生が何も言おうとしなかったのかもしれない」
アンドレが衝撃から立ち直り、落ち着きを取り戻した。
フィリップは子守りを追い払い、女中を部屋に残した。
それから明かりを手に取り、隣室の扉を丹念に調べ、庭の門が開いて雪の上に足跡があるのを見つけた……足跡をたどって門までたどり着いた。
「人間の足跡だ!……赤ん坊は攫われたんだ……何てことだ! 何てことだ!」
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CLVIII「L'enlèvement」の全訳です。
Ver.1 12/07/28
[註釈・メモなど]
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