雪につけられた足跡はジルベールのものだった。先日バルサモと話し合いを持ってからというもの、監視を怠らず果たし復讐の準備をおこなっていたのだ。
何一つ苦労はなかった。甘い言葉と愛想の良さを弄して、ルソーの妻から受け入れられるどころか慈しまれてさえいた。方法は単純なものだった。ルソーからは書写代として一日三十スー貰っており、週に三回その中から一リーヴル取り除けて、テレーズにあげるささやかな贈り物を購入したのだ。
ある時はボンネット用のリボン、ある時は砂糖菓子や、ワインボトル。テレーズは味覚や誇りをくすぐられてその気になり、時には食卓に飛びついたジルベールから料理の腕前を褒められて気をよくした。
そうなのである。ルソーの口添えの甲斐あってジルベールは食卓に着くことを許されていた。こうして二か月前から面倒を見てもらえたおかげで、藁布団の下に仕舞い込んでいた財産に二ルイを加えることが出来た。その隣にはバルサモから預かった二万リーヴルがある。
それにしても何という生活だろう! 振舞や考えの端々に揺るぎがない。朝起きるとジルベールは無謬の目でアンドレの状態を確かめ、暗く規則的な隠遁生活に何の変化も入り込んでいないことを見極めた。
ジルベールの目から逃れられるものなどなかった。庭の砂上にあったアンドレの足跡も見逃さなかったし、閉められたカーテンの隙間の多寡によってアンドレの機嫌を見抜いた。カーテン――閉じ籠もったアンドレは天の光に晒されることさえ拒んでいたのだ。
このようにしてジルベールはアンドレの胸中や家の中で起こっていることを把握していた。
同じようにしてフィリップの歩き方から意図を推しはかるすべも覚えた。それがわかってからというもの、何の為に出かけようとしているのかも、どういう結果を持って帰って来たのかも、誤ることはなかった。
フィリップがルイ医師に会いにヴェルサイユに向かった晩には、跡を尾けるに至るまで徹底していた……このヴェルサイユ訪問にはジルベールも戸惑った。だが二日後に医師がコック=エロン街の庭に人目を避けて入り込んだのを見て、一昨晩の謎が氷解した。
日にちは知っているのだ。すべての希望が実現する瞬間が近づいているのを知らないわけがない。困難に満ちた計画を滞りなく成功させる為に必要な用意を始めていた。計画はこのように進められた。
二ルイはフォーブール・サン=ドニで二頭立ての二輪馬車を借りるのに使った。必要な日に指示通りに動いてくれるのだ。
さらにジルベールは三、四日休みを貰ってパリ近郊を調査した。その間、パリから十八里離れたところにある、巨大な森に囲まれた、ソワソネの小村を訪れた。
この村の名はヴィレル=コトレという。ジルベールは村を訪れると真っ直ぐにニケ氏という名の村でただ一人の公証人の許に向かった。
ジルベールは自分のことを大領主の会計係の息子だと名乗った。小作人の子のことを考えた領主から、子守りを見つけて来いと頼まれたのだと告げた。
大領主は気前がいいから子守りの月給に糸目はつけないはずだ、と伝えてから、子供の為にと言ってニケ氏の手に幾ばくかの金を握らせた。
なるほどニケ氏には三人の息子がいたので、ヴィレル=コトレから一里のところにアラモンという小村があり、息子たちの子守りだった女の娘が、この事務所で正式に婚姻の手続きをした後で母の仕事を継いでいると教えてくれた。
この女将さんの名はマドレーヌ・ピトゥといい、何処から見ても健やかな四歳の息子がいた。そのうえもう一人産んだばかりなので、ジルベールの好きな時に赤ん坊を連れてくればいい。
こうしてすべての手筈を整えると、几帳面なジルベールは休暇の終わる二時間前にパリに戻った。さて、ジルベールがどうしてほかの村ではなくヴィレル=コトレを選んだのか疑問に思われる方もおいでだろう。
今回もほかの多くの場合と同様に、ジルベールはルソーの影響を受けていた。
ルソーはかつて、ヴィレル=コトレの森を、類を見ないほど植生の豊かな森だと言っていた。そしてこの森の中に、木の葉の奥に隠れている巣のように、三つか四つの村が存在していると。
だから、この村のどれかでジルベールの子供を探そうとしても見つけられる心配はない。
分けてもアラモンはルソーに強い印象を与えた。人間嫌いで孤独な隠者であるルソーが、いつも繰り返すほどだった。
「アラモンはこの世の果て。人跡も途絶えた地。枝の上で生き葉の下で死ぬ鳥のように、生き死にすることが出来るのです」
ルソーは田舎家の詳しい事情までジルベールに話していた。心を温かくするような家庭の様子を語って聞かせていた。子守りの笑顔に、山羊の鳴き声。簡素なキャベツのスープの立てる食欲をそそる匂いに、野生の桑や紫ヒースの香り。
――あそこに行こう、とジルベールは考えた。ルソーさんが希望や失望を味わった木陰の下で、僕の子は大きくなるんだ。
ジルベールにとって思いつきで行動するのはいつものことだったし、今回の場合は表向き道徳的な理由があるのだからなおさらだった。
だからジルベールの気持を汲んだニケ氏が、希望にぴったりの村だと言ってアラモンの名を挙げた時には、喜びもひとしおだった。
パリに戻るジルベールが心配していたのは二輪馬車のことだった。
二輪馬車は立派ではないが頑丈だった。それでいい。馬はずんぐりとしたペルシュ馬で、御者は愚鈍な馬丁だったが、ジルベールにとって大事なのは人目を引かずに目的地に着くことだった。
ジルベールのついた嘘はニケ氏には何の疑念も抱かれなかった。新しい服を着て立派な身なりをしていたので、良家の会計係なり人目を忍んだ公爵や大貴族の従僕なりだと名乗っても不自然ではなかったのだ。
御者の方は輪を掛けて何も疑わなかった。庶民から貴族に至るまで秘密を持っていた時代なのだ。当時の人間は心づけを受け取りさえすれば何もたずねたりはしなかった。
そのうえ当時は二ルイに四ルイの価値があったし、四ルイは今日から見ても稼ぐに値する金額だ。
そこで御者は、二時間前に知らせてくれさえすれば、希望通りの場所に行くと約束した。
この計画はジルベールにとって、詩心と哲学観という異なる衣装を纏った二匹の妖精が好ましい事態と決断をもたらすという点において、魅力的なものだった。冷たい母から子を攫おう。恥と死を敵陣に撒き散らそう。その後で姿を変えて、田舎家に乗り込むのだ。ルソーの言う通りなら善良な村人たちの許に。そうして揺りかごの上に大金を置いておけば、貧しい人たちが守護神のように見守ってくれるだろう。大人物の子供なのだと思ってくれるはずだ。これで誇りと恨みを満足させられる。隣人の為の愛も、敵に対する憎しみも、満足させられる。
ついに運命の日がやって来た。この十日間というもの、日中は苦悶のうちに過ごし、夜間は眠れずに過ごしていた。どんなに寒かろうとも窓を開けて横たわり、アンドレやフィリップの一挙手一投足に耳を預けた。紐を引く手を呼鈴に預けておくように。
その日はフィリップとアンドレが暖炉のそばで語らっていた。女中が鎧戸を閉めるのも忘れて大急ぎでヴェルサイユに向かったのも目撃していた。ジルベールは直ちに御者に知らせに走った。御者は厩舎の前に馬を留めて拳を咬んだり歩道を蹴ったりして苛立ちを抑えていた。すぐに御者は馬に跨り、ジルベールは馬車に乗り込んだ。そして市場のそばの人気のない通りの端で馬を止めさせた。
そこでルソーの家に戻って、ルソーへの別れの手紙とテレーズへの感謝の手紙を書いて、南仏でちょっとした遺産が入ったことや戻って来るつもりのこと……詳しいことは書かずにそれだけを伝えた。ポケットに金を入れ、袖口に長庖丁を入れて、鉛管を伝って庭に降りた途端に、一つのことに思い当たった。
雪だ!……この三日というもの無我夢中だったので、そんなことを考える余裕もなかった……雪の上に足跡が残る……ルソー家の壁まで続いている足跡を見れば、フィリップとアンドレは間違いなくそれを調べさせるだろうし、そうすればジルベールの失踪と誘拐が関連づけられ、すべての秘密が明るみに出てしまうだろう。
こうなればコック=エロン街から迂回して、庭の門から入る必要がある。こんな時の為に、ジルベールは一月前から万能鍵を身につけていた。門から続いている小径は踏み固められているから、足跡は残らない。
ジルベールは時間を無駄にしなかった。目的地にたどり着くと、ちょうどルイ医師を運んで来た辻馬車が正面玄関に止まっているところだった。
ジルベールは慎重に門を開けたが、誰の姿も見えなかったので、温室から近い家の陰に隠れた。
恐ろしい夜だった。あらゆる声が聞こえて来た。苦痛による呻きや叫び。産まれた我が子の第一声も聞くことが出来た。
だがジルベールは剥き出しの石にもたれたまま、石の冷たさを感じもせずに、真っ暗な空から固く詰まった雪が落ちて来るのに任せていた。胸に押しつけているナイフの柄に、心臓の鼓動が伝わる。凝視する目には血の色が、炎の光が宿っていた。
ようやく医師が出て来て、フィリップと別れの言葉を交わした。
ジルベールは鎧戸に近づいた。くるぶしまで埋まって雪の絨毯に足跡をつけた。アンドレが寝台で眠っている。マルグリットが肘掛椅子でまどろんでいる。母の傍らに赤子を探したが、何処にも見えない。
すぐに状況を理解して玄関に向かい、音も立てずに扉を開けて、ニコルのものだった寝台までたどり着いた。手探りのまま凍えた指で赤ん坊の顔に触れると、痛がって泣き出した。アンドレが耳にしたのはこの声だった。
ジルベールは赤ん坊を毛糸の毛布にくるんで連れ出した。音を立てる危険を冒さないように、扉は半開きのままにしておいた。
一分後、ジルベールは庭から外に出ていた。二輪馬車まで駆けて行き、幌の下で眠っていた御者を押しのけた。革のカーテンを引いている間に、御者が改めて馬に跨った。
「十五分で市門を越えられたら半ルイやる」
蹄鉄をつけた馬がギャロップで駆け出した。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CLIX「Le village d'Haramont」の全訳です。
Ver.1 12/07/28
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