道すがら何を見聞きしてもジルベールは怯えていた。後ろを走る馬車や追い抜いてゆく馬車の音、葉の落ちた木々の間を吹き抜ける風の呻き――そうした音の一つ一つが、群れをなして追って来る追跡者の声や、子供を奪われた者たちの叫びのように聞こえた。
だが危険は迫ってなどいなかった。御者は立派に務めを果たし、二頭の馬は湯気を立てて時間通りにダマルタンに到着した。曙光もまだ見えてはいない。
ジルベールは御者に半ルイ渡し、馬と御者を替えて逃走を続けた。
この間赤ん坊は毛布にくるんでジルベールが自ら抱えていた。寒さでひきつけを起こしたり泣き声もあげたりもしなかった。陽が昇ると間もなく遠くに村が見えた。ジルベールはいっそう安心を確かにし、ぐずり始めた赤ん坊をおとなしくさせる為に、タヴェルネで狩りから帰る時に歌っていた歌を歌い始めた。
車軸や革紐の軋み、車体の金属音、馬の鈴の音が不気味な伴奏となっているところに、御者がブルボネーズをがなり立てたおかげで、いっそう騒がしくなった。
こうしたわけで、馬車の中に赤ん坊がいるとは、御者はゆめゆめ疑わなかった。御者はヴィレル=コトレの前で馬を止めると、約束通り馬車賃に加えて六リーヴル=エキュ受け取った。ジルベールは赤ん坊を念入りに毛布でくるむと、いっそう力を込めて歌を歌いながら馬車から離れ、溝を跨いで落葉の散らばった小径に姿を消した。道を下り、左に曲がれば、アラモン村に着く。
寒さが増して来た。数時間前から雪の量が増えていた。固い地面は棘や筋のある茂みで覆われている。上空には葉の落ちた陰気な森の木々がくっきりと姿を見せ、まだ靄に覆われた白い空に枝がさやかに浮かび上がっていた。
痺れるような空気、楢の蜜の香り、枝の先から垂れる氷の粒……こうした野性や詩情の何もかもが、ジルベールの想像力を荒々しく揺すぶった。
小さな谷間を自信満々に素早く歩き回った。身じろぎもせず、躊躇いもしなかった。木立の中で、村の鐘や、暗い枝の格子越しに洩れて来る暖炉の青い煙を探していたのだ。小半時後、土手に木蔦と黄クレソンの生えた小川を渡り、最初に見つけた小屋で、農夫の子供たちにマドレーヌ・ピトゥの家まで案内を頼んだ。
子供たちは呆然として固まるような農夫の如き反応は見せずに、無言でいそいそと立ち上がり、余所者の顔を覗き込み、手を繋いで、それなりに大きく立派な藁葺きの家までジルベールを連れて行った。その家はこの村のほかの家と同じように、小川のへりに立っていた。
小川には澄んだ水が流れ、雪解けでわずかに増水していた。木で出来た橋、というか、大きな板の向こうには、家の土台と同じ高さにある道が見えた。
案内している子供の一人が、マドレーヌ・ピトゥはあそこに住んでいる、とジルベールに目顔で教えた。
「あそこかい?」
子供が口を閉じたままうなずく。
「マドレーヌ・ピトゥだね?」ジルベールが改めてたずねた。
またも子供が無言で同意を示したので、ジルベールは橋を渡って扉を押した。それを再び手を繋いだ子供たちがじっと見つめていた。茶色い服を着て留金つきの短靴を履いたこの紳士は、マドレーヌの家で何をするつもりなのだろう。
扉が開くと、一般的に言って誰の目にも魅力的な光景が――分けても哲学者の卵の目には魅力的な光景が、飛び込んで来た。
体格のいい女将さんが生後数か月の赤ん坊に乳をやっていた。その前では四、五歳の逞しい男の子がひざまずいて祈りを口にしていた。
窓のそばにある暖炉の角に三十五、六の夫人が一人いて、亜麻を紡いでいた。もっとも、窓といっても壁に空いた穴にガラスを嵌めたようなものであった。夫人の右には紡ぎ車が、足許には木製の腰掛けが、腰掛けの上には大きなプードルがいた。
犬はジルベールを見て礼儀正しく歓迎の吠え声をあげた。それが犬の示した警戒心のすべてであった。祈っていた子供が主の祈りをやめて振り返った。二人の夫人は驚きと喜びの中間くらいの声をあげた。
ジルベールは子守りに向かって微笑んだ。
「マドレーヌさん、はじめまして」
夫人が飛び上がった。
「あたしの名前を知っていなさるんですか?」
「お聞きの通りです。でもどうか口を挟まないでいただきたい。世話をする赤ん坊を一人から二人に増やしてもらいます」
ジルベールは村の赤ん坊が寝ている揺りかごに、抱いていた町の赤ん坊を寝かせた。
「可愛いねえ!」糸を紡いでいる夫人が言った。
「そうだね、アンジェリク、可愛いよ」マドレーヌも言った。
「ご
「ええ、良人のね」
「ジェリク伯母さんなんだ」男の子がひざまずいたまま低い声で呟いた。
「お黙りなさい、アンジュ。話の邪魔をしちゃいけないよ」
「面倒なことをお願いするつもりはありません。この子は主人の領地で働いていた農夫の息子なのですが……その農夫は破産してしまい……主人はこの子の代父だったことから、田舎で育てて、立派な農夫にさせてやりたいと……健康で……善良な……この子を預かっていただけますか?」
「でも旦那さん……」
「昨日産まれたばかりで、まだ子守りもいません。この子のことはヴィレル=コトレの公証人ニケさんからお聞きしているかと思いますが」
マドレーヌはすぐに赤ん坊を抱き寄せ、惜しみなく乳を与えた。ジルベールはそれを見て感動を覚えた。
「間違ってはいませんでした。あなたは立派な方です。主人の名の許に、この子をお預けいたします。ここでなら幸せになれるでしょうし、何かを見つけてこの藁葺き家に幸運をもたらしてくれるものと願ってます。ヴィレル=コトレのニケ氏の子供には月に如何ほど費やしておいでですか?」
「十二リーヴルです。でもニケさんはお金持ちですから、砂糖代や世話代に何リーヴルか足して下さることもありました」
「マドレーヌさん、ではこの子には月に二十リーヴルお支払いいたしましょう。年に二百四十リーヴルです」ジルベールは誇らしげに答えた。
「それはまあ! ありがたいことです」
「今年の分です」ジルベールが卓子の上に十ルイ並べると、二人の夫人は目をまん丸くし、アンジュ坊やはがさがさの手を伸ばした。
「でも赤ん坊が死んでしまったら?」子守りがおずおずとたずねた。
「それは大変な不幸ですね。起こってはならない不幸です。これが子守りの月給になりますが、不満はありませんか?」
「ええ」
「来年からの宿代の話に移りましょう」
「この子はずっとここで預かることに?」
「そうなるでしょうね」
「そうなりますと、あたしらがこの子の父母になるんですか?」
ジルベールは青ざめた。
「そうです」押し殺した声を出す。
「そうしますと、可哀相にこの子は捨てられたんですね?」
こうした不安や質問はジルベールにはまったくの不意打ちだったが、どうにか自制することが出来た。
「まだお話ししていないことがあります。この子の父親は苦しみのうちに死にました」
二人の夫人は感情も豊かに手を合わせた。
「母親は?」子守りのアンジェリクがたずねた。
「母親ですか……母親は……」ジルベールはやっとのことで深呼吸した。「……既に産まれて来た子であろうと、これから産まれて来る子であろうと、あのひとを当てにすることは出来ません」
ちょうどその時、父親のピトゥが畑から帰って来た。穏やかで機嫌が良さそうだ。グルーズが絵に描いたような、優しさと健康に満ちあふれた無骨な正直者といった類の人物だった。
話をすっかり聞くまでもなかった。ピトゥは自尊心によって状況を――それも自分には理解できない状況を――理解していた。
ジルベールはピトゥに話をした。赤ん坊が大人になるまで――つまり智恵と肉体の力を借りて一人で生きられるようになるまでは――必ずや宿代を払い続けると。
「そうだな。この子のことを可愛がってやれるだろう。何たって可愛いしな」
「この人もだよ!」アンジェリクとマドレーヌが言葉を交わした。「あたしらと同じことを感じたらしいね!」
「では一緒にニケ氏のところまで来ていただけますか。必要なお金はニケ氏に預けようと思います。そうすればあなたがたにもご満足いただけるだろうし、この子も幸せになれるはずですから」
「すぐ参りますよ」と言ってピトゥが立ち上がった。
ジルベールは夫人たちに暇乞いをして、家の子を押しのけて我が子を寝かせておいた揺りかごに近づいた。
覗き込んで初めて我が子をしっかりと見てみると、アンドレに似ていることに気づいた。
心が音を立てて砕けた。身体に爪を立てて、心の奥から湧き出てこようとする涙を懸命に堪えた。
おずおずと、震えながら、赤ん坊の冷たい頬に口づけをしてから、ふらふらになって後ろに下がった。
ピトゥは既に戸口に向かい、手には鉄を履かした杖を持ち、上着を身につけていた。
ジルベールが足許にまとわりついていたアンジュ・ピトゥ坊やに半ルイやると、夫人たちが田舎特有の親密さで抱擁を求めた。
こうした感動は十八歳の父親には刺激が強すぎたので、もう少しでそれに負けそうになった。青ざめて神経質になり、冷静さを失い始めた。
「行きましょうか」ジルベールがピトゥに言った。
「いつでもどうぞ」先に進んでいたピトゥが答えた。
そうして二人は出かけた。
突然、マドレーヌが戸口から大声でジルベールを呼んだ。
「旦那さん!」
「何か?」
「名前ですよ! 名前! この子の名前は?」
「ジルベールと言います!」若者は誇らしげに答えた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CLX「La famille Pitou」の全訳です。
Ver.1 12/08/11
[註釈・メモなど]
・メモ
・註釈
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