この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照《あずま・てる》
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アンジュ・ピトゥ

アレクサンドル・デュマ

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第三章 伯母の家のアンジュ・ピトゥ

 伯母の家に長逗留することにアンジュ・ピトゥが難色を示したのはお読みになった通りである。アンジュ・ピトゥは宿敵である動物に匹敵するどころか動物を凌駕しかねない本能に恵まれていた。ゆえに、滞在すればどのようなものがのしかかってくるのかをすっかり悟っていた。失望ではない。ピトゥは一瞬たりとも思い上がるような人間ではない。それは苦しみであり、試練であり、嫌悪であった。

 これは申し上げておかねばなるまいが、ピトゥが伯母を嫌っていたから、というわけではない。ジルベール医師が去ってしまうと、ピトゥを奉公に出す話など吹き飛んでしまった。公証人は正式な契約の言葉を述べたが、アンジェリク伯母ときたら、甥はまだ若く身体も弱いので体力が足りなくなるような仕事には就けない、と言い出した。これを聞いた公証人はアンジェリク伯母に心から思いやりがあるのだと思い込み、奉公を一年先延ばしにした。まだ時間はある。アンジュ・ピトゥはまだ十二歳になったばかりなのだから。

 家に着くと、アンジェリク伯母は甥を最大限利用する方法に頭を巡らせ、アンジュはアラモンの頃と同じような暮らしをヴィレル=コトレで送るために、森の地形をほぼすっかり頭に入れていた。

 散策の結果、最適な水たまりはダンプリュー、コンピエーニュ、ヴィヴィエール(Dampleux, Compiègne, Vivières)の路上にあり、獲物が多いのはブリュイエール=オー=ルー(Bruyère-aux-Loups)の村だということがわかった。

 ピトゥはこうして手筈を整えた。

 手に入れるのが容易で、軍資金がいらないのは、鳥もちともち竿である。柊の樹皮をすりこぎで挽き、水で洗えば、鳥もちが完成する。もち竿の方は近くの樺の木の上に幾らでも生えている。ピトゥは誰にも言わずにもち竿と最高級の鳥もちを幾つも作り、伯母のお金でパン屋でパンを買ったその翌朝、夜明け前に家を出て、一日中外で過ごし、すっかり陽が落ちてから帰宅した。

 ピトゥは何も先の見通しをつけずにこうしたことを決めたわけではない。嵐は予想していた。ピトゥにはソクラテスのような叡智こそなかったものの、かのアルキビアデスの主人(=ソクラテス)が妻クサンティッペの機嫌を察知できたように、アンジェリク伯母の機嫌を察知することが出来たのだ。

 部屋に入るなり雷が落ちた。

 アンジェリク嬢は甥を見逃すまいとして扉の陰で待ち伏せていた。ピトゥは部屋に足を踏み入れた途端、後頭部にばちんと一撃を喰らった。忘れようとしても忘れられない干涸らびた手による一撃である。

 幸いなことにピトゥは石頭だったのでさして揺らぎもしなかったのだが、手加減なく叩いたせいで指を痛めて怒りを募らせている伯母の同情を引こうとして、倒れそうなふりをして部屋の反対側までよろめいて見せた。ところが伯母が糸紡ぎ棒を手にして追って来たものだから、ピトゥは慌ててポケットからお守りを取り出し、家を抜け出ていたのを大目に見てもらおうとした。

 お守りとは鳥が二ダース。駒鳥一ダースと鶫半ダースも含まれていた。

 アンジェリク伯母は目を見開きながらも、形だけは小言を繰っていたが、小言を繰りながらも、手は獲物をつかんで明かりにかざしていた。

「何だい、これは?」

「それはですね、そのう、鳥です」

「食べられるのかい?」老嬢は信仰篤き人間の常として食欲が盛んであった。

「食べられるに決まってるじゃないですか! 駒鳥と鶫ですよ!」

「どっからくすねて来たんだい、タコ助?」

「くすねたんじゃなくて、捕まえたんです」

「どうやって?」

「水たまりでです!」

「水たまり? 何だい、それは?」

 ピトゥは驚愕を浮かべて伯母を見た。水たまりが何なのかを知らないまま生きている人間がいるとは信じられなかった。

「水たまりですよ? 水たまりです」

「だから水たまりがどうしたんだい」

 ピトゥは憐れみを浮かべていた。

「水たまりですから、水が溜まっているところです。そんなのが森の中に三十個くらいあって、周りにもち竿を仕掛けておけば、鳥が水を飲みに来たら、罠に気づかずに捕まってしまうんです」

「どんな風に?」

「鳥もちです」

「ああ、そういうことかい。でもお金はどうしたんだい?」

「お金ですか?」そこまで金に取り憑かれていたとは信じられなかった。

「そうだよ」

「誰からももらってません」

「だったらどうやって鳥もちを買ったんだい?」

「自分で作ったんです」

「もち竿は?」

「もち竿もです」

「じゃあこの鳥を……」

「何ですか、伯母さん?」

「捕まえるのに何の苦労もないんだね?」

「しゃがんで拾うだけです」

「水たまりにはいつでも行けるのかい?」

「毎日だって行けます」

「えらい!」

「でも無理ですけど……」

「何が無理なんだい?」

「毎日は行けません」

「何でだい?」

「だって駄目になってますから」

「何が駄目なんだい?」

「水たまりですよ! 鳥は捕まえたら……」

「ふん?」

「いなくなってしまいますから」

「その通りだね」

 ここに来てから伯母に認められたのは初めてのことであり、前代未聞の事態にピトゥはすっかり参ってしまった。

「だけど鳥を捕まえられない日はほかのものを捕まえますから」

「へえ?」

「兎です」

「兎?」

「うん。肉は食べれるし、皮は売れるでしょう。兎革は二スーになりますよ」

 アンジェリク伯母は驚嘆の眼差しで甥を見つめた。ここまで経済的観念があるとは思っても見なかったピトゥが、今し方頭角を現したのだ。

「兎革を売りに行くのはあたしかい?」

「駄目ですか? マドレーヌ母さんはそうしてました」

 獲物から取れる儲けのうち、食用以外の部分の権利も要求できるのだとは、子供の頭にはついぞ浮かんだことはないようだ。

「兎を捕りに行く予定はあるかい?」

「罠があれば」

「じゃあ罠を作りなさい」

 ピトゥはかぶりを振った。

「鳥もちともち竿はちゃんと作ったじゃないか」

「鳥もちともち竿は作れますけど、銅線は作れないので、完成品をお店で買ってるんです」

「幾らだい?」

「四スーで……」ピトゥは指を折って数えた。「二ダース作れます」

「二ダースで、兎を何羽捕まえられる?」

「それだったら……四、五、六です、多分――罠を番人に見つけられなければ、もっと使えますけど」

「ほら、四スーあるから、ダムブリュン(Damebrun)さんとこで銅線を買って、明日、兎狩りに行っておいで」

「明日になったら罠を仕掛けに行って来ます。でも罠に掛かったかどうかは、明後日の朝にならないとわかりません」

「それでいいよ。毎日行っといで」

 銅線は地元で買うより町で買った方が安かった。アラモンの業者がヴィレル=コトレに卸していたからだ。三スーで二十四の罠を作ることが出来たので、一スーは伯母に返した。

 思いも寄らない正直な行動に、老嬢は心を打たれた。ほんの一時ではあるが、使わなかった一スーを甥にやろうか、という気にすらなった。ピトゥにとっては生憎なことに、そのスー貨幣はハンマーで潰されて広がっていたので、黄昏の闇の中では二スーあるようにも見えた。そこでアンジェリク嬢は、百パーセント戻って来た小銭をわざわざ手放すことはないと考え、貨幣をポケットに仕舞い込んだ。

 ピトゥはその動きに気づいてはいたが、その意味を考えたりはしなかった。伯母が一スーくれるなどとは夢にも考えなかったのであろう。

 ピトゥは罠を作り始めた。

 翌日、ピトゥはアンジェリク嬢に袋をねだった。

「何に使うっていうんだい?」

「必要なんです」

 ピトゥは多くを言わなかった。

 アンジェリク嬢は言われた通りに袋を渡した。袋の中には朝食と昼食に出来るようにパンとチーズが入っていた。ピトゥはすぐさまブリュイエール=オー=ルーに向かった。

 アンジェリク伯母の方もまずは駒鳥十二ダースの羽を毟って、朝食と昼食の用意を始めた。それから鶫を二羽フォルチエ神父のところに持って行き、ブール=ドールの宿屋に一羽三スーで四羽を売り、同じものを持って来たらすべて同じ値で買うと約束させた。

 アンジェリク伯母は機嫌良く戻って来た。天の恩恵がピトゥと共に訪れたのだ。

「ほんとにねえ」頬白のようにふくよかで虫食ムシクイのように美味な駒鳥を頬張りながら、「情けは人のためならず、とはよく言ったものさ」と独り言ちた。

 夜になってアンジュが戻って来た。袋が丸々とふくらんでいる。アンジェリク伯母は待ちきれずに、部屋の中ではなく戸口まで出ていた。ピトゥを出迎えたのはびんたではなく、微笑みにも等しい渋面だった。

「戻りました!」ピトゥの堂々とした声からは、充実した一日だったことが窺える。

「袋も一緒だね」

「袋も一緒です」

「それで、中身は?」アンジェリク伯母はうずうずして手を伸ばした。

ブナの実です」

ブナの実だって!」

「そうですよ。ブリュイエール=オー=ルーの番人ラ・ジュネス(La Jeunesse)さんに、袋も持たずにうろついているのを見られたら、『何しに来たんだ?』って言われてしまいますから。怪しまれていることは抜きにしても。袋を持っていれば、何をしに来たのかたずねられても、『ブナの実を拾いに来たんです。それって禁止されてますか?』と答えられますから。『うんにゃ』『でしたら何も仰らないで下さい』 実際にラ・ジュネスさんには何も言う権利はないんですよ」

「じゃあ一日じゅう罠を掛けるんじゃなくて木の実を拾っていたのかい!」甥の機転が利くばっかりに兎が逃げてゆくのが目に見えるようだった。

「違います。ブナの実を拾いながら罠を仕掛けているところを見られたんです」

「それでも何も言われなかったのかい?」

「言われました。『伯母さんによろしく言っといてくんな』って。ラ・ジュネスさんっていい人でしょう?」

「そんなこといいから兎は?」どんなことでもアンジェリク伯母の考えを逸らすことは出来なかった。

「兎ですか? 真夜中になれば月が昇るので、掛かっているかどうか一時頃に見に行って来ます」

「何処に?」

「森の中ですよ」

「やれやれ、夜中の一時に森に行くだって?」

「そうですよ!」

「怖くないのかい?」

「何が怖いんですか?」

 ピトゥのものの考え方に驚いたばかりだというのに、またしても驚かされた。こんなにも勇気があるとは。

 実のところは野生児の如く単純なピトゥには町の子供たちを怖がらせている恐ろしい空想が理解できなかっただけの話だ。

 だから真夜中に、何も顧みずに墓地の壁に沿って歩いて出かけた。少なくとも本人なりに神も人も傷つけたことのない無垢な子供には、死者の方が生者よりも怖いということはなかったのだ。

 恐れていたのはただ一人の人間のみであり、その人物とはラ・ジュネス親父にほかならない。だからラ・ジュネス氏の自宅前は念のため遠巻きにして通った。門と鎧戸は閉まっていて、室内に明かりは見えなかったので、門番は門番小屋ではなく家にいるのか確認するため、犬の鳴き声を完璧に真似ると、ラ・ジュネス氏の飼い犬であるロンフロ(Ronflot)は喧嘩を売られたのだと勘違いして、声を限りに吠え立て、門の下の空気を掻き回した。

 助かった。ロンフロが家にいるということは、ラ・ジュネス親父も家にいるということだ。ロンフロとラ・ジュネス氏は切り離せない。どちらかを目にしたなら、どちらもいると考えて間違いない。

 ピトゥは安心してラ・ブリュイエール=オー=ルーに向かった。二羽の兎が罠に掛かって死んでいた。

 ピトゥは長すぎる上着のポケットに兎を入れて――と言っても、一年後には短すぎるようになってしまうのだが――とにかくそうして家に帰った。

 アンジェリク嬢は横になっていた。だが金銭欲は目を覚まし続けていた。ペレットよろしく、週に四枚兎の皮が手に入ると皮算用したせいで気分が高ぶり、目を閉じることが出来なかった。はやる気を抑えて今日の獲物をたずねた。[*1]

「二羽です。アンジェリク伯母さん、もっと獲れなかったのはボクのせいじゃありません。ラ・ジュネスさんとこの兎は狡賢いそうですから」

 期待が叶うどころか期待以上だった。アンジェリク伯母は喜びに震えて二羽の兎を取り上げ、皮に傷のないことを確かめてから、食料品棚に放り込んだ。その食料品棚を一杯にしたいという思いをピトゥが抱いてから、これほどのものが収まったのは初めてだった。

 アンジェリク伯母からもう寝なさいと優しい声をかけられたピトゥは、疲れていたこともあって、何よりも夜食と聞けば元気になると思われていたのだが、その夜食を食べようともせず言われた通り床に入った。

 翌々日、ピトゥは罠を交換した。前回よりも幸運なことに、今回は三羽の兎を捕まえることが出来た。

 二羽はブール=ドールの宿屋行きとなり、一羽は司祭館に。アンジェリク伯母はフォルチエ神父のことを非常に大事にしていたので、神父の方でも教区民たちに向かってアンジェリク嬢のことを褒めていた。

 三、四か月の間はこうして過ぎて行った。アンジェリク伯母は満足していたし、ピトゥもそれなりの居場所を見つけていた。実際、母の愛情が注がれていたことを除けば、ピトゥはヴィレル=コトレでもアラモンでも同じような暮らしを送っていた。だが思いがけないとは言え予期していて然るべき状況が、伯母の牛乳壺を壊し、甥の散策を止めることとなっった。

 ニューヨークからジルベール医師の手紙が届いたのだ。アメリカに上陸した哲学者氏は、庇護していた子供のことを忘れていなかった。医師はニゲ氏に手紙を書いて、今も指示が守られているかどうかを確かめ、守られていない場合には速やかに実行し、守るつもりがないのなら関係を絶つ、としたためていた。

 事態は深刻だった。責任は公証人にある。アンジェリク嬢の許を訪れ、手紙を手に、約束を守れと命じた。

 退く必要はない。身体が弱いという言い訳を、ピトゥの肉体が否定している。ピトゥは確かにひょろりとしたのっぽだが、森の若木だってひょろりとしたのっぽではないか。痩せこけていることと健康状態とは必ずしも一致しない。

 アンジェリク嬢は一週間の猶予を求めた。その間に甥をどのような職業に就かせたいか考えておくという約束で。

 残念なのはピトゥにとっても同様だった。現在の状態こそが素晴らしいと思っていたから、ほかのことなど望んではいなかった。

 一週間の間は水たまりや密猟どころではなかった。冬になっていたし、冬には鳥は何処ででも水を飲む。それに雪が降ったばかりの日には、ピトゥは罠を張ろうとはしなかった。雪に足跡が残るので、敷地内を荒らしていた盗っ人が何者なのかを、二十四時間のうちにラ・ジュネス氏に知られる危険を残してしまう。

 一週間の間にアンジェリク嬢は爪を研ぎ直していた。ピトゥが目にしているのはかつてのアンジェリク伯母だった。ピトゥを怖がらせ、金銭欲をすべての原動力にしていつでも爪を隠すことの出来る人物だった。

 期限が近づくにつれ、老嬢はぴりぴりし始めた。ついに五日目になると、ピトゥは伯母がさっさと仕事を決めてくれないかと思い始めた。今までのように老嬢のそばで虐げられるような仕事でなければ、職種など何でもいい。

 不意に神々しい考えが老嬢の動揺した頭に飛来し、六日前から失われていた落ち着きを取り戻した。

 フォルチエ神父の教室に無償で入れてもらえるようお願いしてみてはどうだろうか。ドルレアン公殿下から神学校設立のために賜った基金をピトゥのために手に入れられないだろうか。見習いであればアンジェリク伯母の懐はこれっぽちも痛まないし、フォルチエ神父にしたところで、六か月前から鶫や兎を贈っていたのは別にしても、教会の椅子を貸し出している人間の甥っ子に対してはほかの人間より礼遇して然るべきではないか。こうしてガラス蓋の下で大事にしておけば、アンジュは蜜をもたらしてくれるし、将来の利益も約束してくれる。

 こうしてアンジュはフォルチエ神父のところに無償で預けられた。私欲のない神父は、貧しい心には科学を、貧しい肉体にはお金を授ける誠実な人間だった。ただし妥協できない点が一つだけあった。文法の誤りと破格には容赦がない。ことこのことに関しては、友も敵も貧も富も、有料の生徒も無料の初学者もなかった。公平なること土地配分の如く、厳格なることスパルタの如く、力強い腕で、力強く鞭をふるった。このことを知らぬ親はいなかったので、フォルチエ神父の許に我が子を預けるか預けないかも、ひとたび預けてしまえば神父のやり方に従うことになるのも、承知のうえだ。母親からどんな苦情が寄せられても、神父は一つの標語で答えた。へらの腹や鞭の柄に彫られた「愛を尊ぶ者、即ち罰を尊ぶ」という言葉である。

 こうしてアンジュ・ピトゥは、伯母に勧められるがままにフォルチエ神父の生徒の一人となった。伯母は入学が認められたことに気を良くしたものの、ピトゥにはありがたくない話であった、というのも、気ままで自由な生活に終わりを告げられることになったからだ。アンジェリク伯母はニゲ氏を訪ね、つい今し方ジルベール医師の意向を汲んだどころか、それ以上のことをして来たばかりである、と報告した。ピトゥには立派な職業に就いてもらいたい、と医師が言付けていったのは事実である。アンジェリク伯母は言われた以上のことをやってのけた。ピトゥに優れた教育を受けさせたのだから。しかも教育を受ける場所は? 五十リーヴルを支払って教育を受けているセバスチャン・ジルベールと同じ寄宿舎なのだ。

 現実にアンジュは無料で教育を受けていたのだが、ジルベール医師に知らせる必要は微塵もなかった。知らされていたところで、フォルチエ神父の無私と公平さはもとより誰もが知るところであった。神父は良き教師として、両腕を広げて「子供たちよ来たれ」と公言していた。ただし父性愛に満ちた両手の先は、教科書と鞭で武装されていた。つまり幼き子らを涙で迎えて慰めで送り返したイエスとは違い、フォルチエ神父は怯えてやって来る子らを見つめ涙にくれる子らを送り返していたのである。

 新入生となったピトゥは、腕に古い長持を抱え、角製のインク壺を手に、耳にお古の羽根ペンを二、三本挟んで、教室に入った。長持は窮余の策の机代わりである。インク壺は食料品店の店主からのいただきものだったし、羽根ペンはアンジェリク伯母が前日ニゲ氏を訪問した際に拝借して来たものだ。

 アンジュ・ピトゥは子供たちの間で生まれ大人になっても消えることのない温かいもてなしで迎えられた。即ち野次によって。授業が終わるまでピトゥの見た目をからかう声はやまなかった。黄色い髪をからかったために二人の生徒が居残りを命じられ、別の二人の生徒は先述した膝をからかった。この二人はピトゥの足を見て、井戸の縄を結んだ結び目かと思った、と言ったのだ。この表現は的を射ていたために瞬く間に広がって爆笑を誘い、フォルチエ神父の怒りを引き起こすこととなった。

 こうして正午、つまり授業の四時間後に、誰にも話しかけずに長持の陰で欠伸をしながら教室を出た時には、ピトゥには六人の敵がいた。この六人は、ピトゥには非がないだけにいっそう執念かった。暖房を故郷の祭壇に見立て、ある者は黄色い髪を毟り取ることを誓い、ある者は碧い目を煮ることを誓い、ある者は曲がった膝を真っ直ぐにしてやることを誓った。

 ピトゥはこうした敵意にまったく気づいていなかった。だから教室から出がけに、隣にいた生徒に、みんな帰っているのにあの六人が帰らずにいるのはどうしてなのかとたずねた。

 少年はピトゥから目を逸らすと、告げ口屋と罵り、話したくないと言って立ち去った。

 授業の間一言もしゃべらなかったのに告げ口屋とはどういうことなのかピトゥにはわからなかった。授業の間中、同級生やフォルチエ神父の話は聞こえていたものの、ピトゥには理解できないことばかりだったので、少年から罵られたのにも自分には難し過ぎるのだと考えていた。

 ピトゥが昼に戻って来たのを見て、教育に糸目をつけずにお金をかけたと思われていたアンジェリク伯母が、何を習ったのかとたずねた。

 口を閉ざすことを学んだ、というのがピトゥの答えだった。ピタゴラス派に相応しい答えといっていい。ただしピタゴラス派なら身振りで答えるところだが。

 午後になるとピトゥはさして嫌がりもせず教室に戻った。朝の授業は生徒たちがピトゥの肉体を改めることに費やされたが、午後の授業は教師がピトゥの精神を改めることに費やされた。結果的にピトゥがロビンソン・クルーソー・タイプの人間だというフォルチエ神父の評価は変わらず、フォントネルやボシュエになる可能性は限りなく低いと見積もられた。[*1]

 将来の神学生にとって、午後の授業は朝よりもっとしんどいものだった。ピトゥのせいで罰を受けた生徒たちが、何度も拳を振り上げた。文明国であれなかれ世界中のどの土地でもその行為の意味するところは脅しにほかならない。ゆえにピトゥは警戒を怠らなかった。

 ピトゥは正しかった。外に出ると――より正確に述べるなら参事会教会付属の建物から出た直後、居残りをさせられた六人を見て、経費、利息、元金すべて引っくるめてれから二時間にわたって無理矢理拘束されることになるのだ、と悟った。

 こうなったら殴り合いせざるを得まい。アエネーイス(Énéide)の第六巻を習ったのは昔のことだったが、若きダレスと老エンテルス(Darès et le vieil Entelle)が殴り合いをしてトロヤの亡命者から拍手喝采を受けたことは覚えていたし、そうした息抜きがこの町の農夫にとっても取り立てて特別なことではないとわかっていた。そこで、そんなに喧嘩したいのなら、六人と順番に戦う用意は出来ている、と言ってのけた。これを聞いて六人目の生徒はじっくり考え始めた。

 状況はピトゥの望む通りになった。周りに輪が出来ると、二人は上着を脱ぎ捨て、或いは礼服を脱ぎ捨て、互いに歩み寄った。

 お話しした通り、ピトゥの手は見目よいものではないし、触れて気持のいいものでもない。ピトゥは子供の頭大の拳を腕の先で振り回した。まだボクシングはフランスに伝わっていなかったから、ピトゥとて基礎すら身につけてはいなかったのだが、振り抜いた拳が一人目の目に何とか的中したために、相手の目の周りには優れた数学者がコンパスで計ったような黒い正円が見る見るうちに浮かび上がった。

 二人目が出て来た。ピトゥに一戦目の疲れが残っていようと、今度の対戦者は一人目ほど強そうではなかった。ゆえに勝負はあっけなく終わった。見事な拳が鼻に命中し、それが証拠に鼻血が二筋吹き出していた。

 三人目は歯を折られて退いた。三人のうちでもっとも軽傷だった。残った三人はもう充分だと口々に答えた。

 ピトゥが人垣を分けると、畏まって道を譲られたので、つつがなく家――とはつまり伯母の家――に戻った。

 翌日、三人が登校すると、一人は目を腫らし、一人は鼻を腫らし、一人は口唇を腫らしてていたので、フォルチエ神父が何事かと問いつめた。だが三人にはいいところもあった。みんな口が堅かったので、フォルチエ神父は遠回りをして――即ち喧嘩の目撃者経由で――翌日になってから、昨日気になっていた顔の傷をつけたのはピトゥである旨を知ったのである。

 フォルチエ神父は生徒の父母に対して、精神面はもちろん肉体面も保証していたので、三家族から抗議の三重奏を聞かされることになった。罰を受けるのは免れ得ず、ピトゥは三日間の居残りを命じられた。一日は目の分、一日は鼻の分、一日は歯の分である。

 三日間の居残りと聞いて、アンジェリク嬢には閃いたことがあった。フォルチエ神父がピトゥに帰宅を禁じたように、昼食を禁じてはどうか。そうすればピトゥの教育にいい影響を与えるに違いない。今回は二つの罰を受けることになったが、今後は過ちを犯す前によく考えるようになるはずだ。

 ただしピトゥには、一言もしゃべっていないのに告げ口屋と言われた理由も、殴りかかって来た人間を殴ったからといってどうして罰せられなければいけないのかも、決して理解できないだろう。だがこの世の理をすべて理解することなど、謎と偶然という人生の大事な楽しみを失うことに等しい。

 居残りさせられた三日間、ピトゥは朝食と夕食だけで腹を満たした。

 腹を満たした、というのは正確ではない。ピトゥはちっとも満ち足りていなかったのだから。だが我々の言語には限界があるし、アカデミーは寛容ではないので、我々としては既にある言葉で満足せねばなるまい。

 ところが、買わざるを得なかった喧嘩だということには一言も触れずに、甘んじて罰を受けたことで、ピトゥは同級生たちの尊敬を勝ち得た。見事な拳を三発入れたのを目撃されたことがこの敬意の理由であると見て、まず間違いはない。

 この日からピトゥの日常はほかの生徒と変わらなくなった。一つだけ違う点を挙げれば、ほかの生徒の試験の結果がその時々の運次第だったのに対し、ピトゥはビリから五、六番目の順位を守り抜き、ほかの生徒の優に二倍は居残りをさせられていた。

 ただし言っておくと、ピトゥの気質、最初に受けた――というか、受けなかった教育による気質、居残りの三分の一はその気質のせいだと見積もっておかなくてはなるまい。即ち動物に寄せる偏愛である。

 アンジェリク伯母が畏れ多くも机と名づけ給うた例の長持は、広い内部にピトゥが幾つも仕切りを作ったために、さながらノアの方舟の如く、様々な虫や小動物がよじ登ったり這ったり飛んだりしていた。蜥蜴、蛇、蟻地獄、黄金虫、蛙たちが、厳しい罰の原因となればなるほど愛おしさも増すのであった。

 これは一週間にわたる散策の賜物であった。ピトゥは前々から山椒魚火蜥蜴が欲しかった。フランソワ一世の紋章であり、暖炉という暖炉に彫られていた火蜥蜴は、ヴィレル=コトレではことのほか人気があったのだ。それをようやく手に入れることが出来た。しかしながら一つだけ気になったことがあり、それも最終的には理解の範疇を越えている幾多の物事と一緒くたに放り投げてしまったのだが、それは即ち、詩人たち曰く火中に生きるというこの爬虫類がいつも決まって水中で見つかったという事実である。これによって生真面目なピトゥに詩人への軽蔑が芽生えた。

 二匹の山椒魚を手に入れたピトゥは、次に避役カメレオンを探し始めた。だが今度はいくら探しても無駄であり、如何なる努力も実らなかった。仕方なくピトゥは結論づけた。カメレオンは存在しない。存在するとしてもこの辺りの緯度には棲息していないのだ。

 この点がはっきりするや、ピトゥは敢えてカメレオンを探そうとはしなくなった。

 居残りの残り三分の二の理由は、文法の破格と誤りである。これがピトゥの作文の中に、麦畑の毒麦の如く芽を出していた。

 木曜と日曜は休みだったので、これまで通り水たまりに通って密猟を続けていた。ただしピトゥも大きくなり、身長五ピエ四プス【約170cm】、十六歳になっていたために、習慣を変えるある事態が起こった。

 ブリュイエール=オー=ルーの途上に、恐らくはフランソワ一世の愛妾アンヌ・デイリーの名にあやかったであろうピスルーという村があった。

 この村にビヨという農家があり、この農家の戸口に、たまたまピトゥが行き来する際に、決まって十七、八の美しい娘が立っていた。瑞々しく、色っぽく、朗らかで、カトリーヌという洗礼名で呼ばれていたが、父親の名からビヨットと呼ばれることの方が多かった。

 ピトゥは初めこのビヨットに会釈していたが、やがて大胆にも会釈に加えて笑いかけるようにもなった。そしてついにある日、会釈と笑顔を送ってから立ち止まり、顔を赤らめながら大胆にも次のような言葉をかけた。

「こんにちは、カトリーヌさん」

 カトリーヌは良い子だった。ピトゥを旧知のように受け入れた。事実、二、三年前から週に一度は家の前を通り過ぎるのを見ていたという限りに於いて旧知であったのだ。ただしカトリーヌはピトゥを見ていたが、ピトゥはカトリーヌを見ていなかった。何となればピトゥが通り始めた頃、カトリーヌは十六歳だったが、ピトゥはまだ十四歳でしかなかったからだ。だが今回の出来事が起こった時には、ピトゥの方が十六歳になっていた。

 カトリーヌは少しずつピトゥの才能を理解し始めた。ピトゥが肥えた鳥や兎をお土産にして才能の一端を明らかにしていたこともあって、カトリーヌはピトゥにお礼を言うようになった。ピトゥの方は言われ慣れていないお礼を言われれば言われるだけどぎまぎし、経験したことのない気持ちよさにとろけ、いつものようにブリュイエール=オー=ルーの道を進むこともやめて途中で立ち止まり、ブナの実を集めたり罠を仕掛けたりすることもやめてビヨ家の周りをうろついて時間を潰し、ほんの一瞬でもカトリーヌを見たいと願っていた。

 結果、作る兎革の量が目に見えて減り、駒鳥と鶫に至ってはほぼ無くなってしまった。

 これにはアンジェリク伯母が黙っていなかった。ピトゥが答えて言うには、兎も用心深くなったし、鳥も罠に気づいて葉の窪みや木のうろで水を飲むようになったのだそうだ。

 だがアンジェリク伯母には一つの慰めがあった。兎に智恵がついたのも鳥の気が回るようになったのも哲学が進歩したせいだが、甥がいずれは奨学金を手に入れ、神学校に入り、そこで三年間を過ごし、神学校を出て神父になる。神父の家政婦となることは、アンジェリク嬢の長年の夢であった。

 この夢が叶えられるのは間違いない。アンジュ・ピトゥが神父になれば、伯母を家政婦にせざるを得まい。何しろそれまで散々ピトゥのために尽くして来たとなれば。

 一つだけ、きらめく夢を揺るがす気がかりがあった。フォルチエ神父にその話をした時に、神父から首を振ってこう言われたのだ。

「ピトゥさん。神父になろうと思ったら、甥御さんは博物学への興味を抑えて、『偉人伝(De viris illustribus)』や『Selectae e profanis scriptoribus(historia)Jean Heuzet、1660-1728』にもっと関心を持たなくてはなりません」

「どういうことでしょうかね?」

「文法の誤りと破格が多過ぎるんですよ」

 その答えを聞いて、アンジェリク嬢は悲しみの波間に漂うに任せていた。


Alexandre Dumas『Ange Pitou』Chapitre III「Ange Pitou chez sa tante」の全訳です。


Ver.1 13/03/02

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[訳者あとがき]


 

[更新履歴]


 

[註釈]

*1. [ペレット]
 Perrette。ラ・フォンテーヌ「Perrette et le pot au lait」より。少女ペレットは牛乳壺を運びながら、牛乳を売ったお金でできることを妄想しているうち、壺を割ってしまう。「捕らぬ狸の皮算用」。[]
 

*1. [ペレット]
 ベルナール・フォントネル、1657-1757、フランスの思想家。ジャック=ベニーニュ・ボシュエ、1627-1704、フランスの神学者。[]
 

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