この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照《あずま・てる》
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アンジュ・ピトゥ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第四章 一つの語形間違いと七つの構文間違いが人生に及ぼす影響

 読者諸兄の察しの良さがどれほどのものにせよ、学校を追い出されたピトゥが自分の立場に気づいた時の恐怖が如何ほどのものであるのかを理解していただくためには、これまで事細かに説明して来たのもゆえあってのことだと了承されたい。

 ピトゥは片手を下げ、頭に乗せた長持を片手で支え、フォルチエ神父の怒鳴り声にいまだ耳を震わせながら、物思いに耽るというよりは極度の茫然自失に陥ったまま、プリューに向かった。

 ようやく頭に浮かんだことがあり、その思いのすべてが口唇から洩れた。

「そうだ! 伯母さんに何て言おう!」

 すべての希望が潰えたことを、これからアンジェリク嬢に伝えなくてはならないのだ。

 だがピトゥがアンジェリク嬢の思惑を知るすべと言ったら、主人の思惑を推し量る忠犬と一緒だった。言い換えるなら、表情を確かめることによって。本能こそかけがえのない案内人だ。過つことはない。翻って、理性なるものは想像によって歪められることがある。

 沈黙の末にアンジュ・ピトゥが口唇からほとばしらせた痛ましい悲鳴の意味は、つまり衝撃的な報せを聞いた伯母がどれだけの不満を募らせるのかを理解した、ということにほかならない。これまでの経験から、その結果どうなるかはわかっている。だが今回ばかりは、不満の原因となった勢いが未知数なだけに、どんな結果が待ち受けているのか想像も出来なかった。

 斯かる恐ろしい気持でプリューに足を踏み入れた。フォルチエ神父の門を出てからこの道のとば口に来るまで十五分近くもかかったが、距離にして三百歩しか離れてはいない。

 教会の時計が一時を打った。

 その時気づいた。神父と最後の会話を交わしたりたったこれだけの距離をとぼとぼと歩いていたりしたせいで、六十分も遅くなっていた。つまりアンジェリク伯母の家で昼食を摂るために着かなければならない時間を三十分も過ぎていたのだ。

 既に述べたように、これがピトゥの居残りやのぼせ上がりに対して老嬢が取った有効な対策であった。こうして老嬢は哀れなピトゥの食事を六十食ばかり浮かせていた。

 だが今回ばかりは遅れて心配しているのは昼食ではなかった。たとい朝食を抜いていたとしても、今のピトゥには気がかりなことが多すぎて、胃袋が空っぽであることにまでは気が回らなかった。

 落ちこぼれであろうと学生なら誰もが知っている。学校から除名されたら、後は何処か辺境で誰にも認められずに過ごすしかないことを。級友たちが鞄と教科書を抱え毎日授業に行っている間も、問答無用で休暇を取らざるを得ないのだ。あれほど嫌だった学校が今では恋しかった。作文にも翻訳にもこれまで真面目に取り組んだことはなかったというのに、自分がいないところで取り組まれているかと思うと、いてもたってもいられない。教師に追い出された生徒と不敬がもとで破門された生徒の間には幾つもの共通点がある。もはや教会には戻れないというのに、弥撒を聴きたくてたまらない。

 だからこそ、伯母の家に近づくほどに、そこで過ごすことが恐ろしく思えた。だからこそ、殺戮の天使フォルチエ神父が炎の剣の代わりに鞭をふるった学校を、人生で初めて、地上の楽園だったのだと感じていた。

 だが如何にゆっくり歩いて、十歩ごとに立ち止まり、近づくにつれて立ち止まっている時間を長びかせようとも、結局は敷居を跨がないわけにはいかない。戸口にたどり着いたピトゥは足を引きずり、無意識に手でキュロットの縫い目を叩いていた。

「伯母さん、何だか具合が悪いんです!」嘲りや非難を見越して、或いは憐れんでもらおうとして、ピトゥは訴えた。

「そいつならよくわかってるよ。時計の針が一時間半戻れば簡単に治るんだろう」

「違うんです! お腹が空いているわけじゃありません」

 アンジェリク伯母は耳を疑い、不安にさえなった。具合が悪いと聞けば、良き母であろうと継母であろうと不安になるものだ。良き母は病気によって深刻な事態が引き起こされるのを恐れて。継母は財布の口がなくなるのを恐れて。

「何があったんだい? 話してご覧」

 だが優しさなど微塵も籠っていないその言葉を聞いて、アンジュ・ピトゥは泣きじゃくりながら打ち明けざるを得なかった。ぐずって泣くその歪んだ顔は、およそ人の見ることの出来る顔のうちでも群を抜いて醜いものだった。

「伯母さん! 最悪なことが起こったんです」

「どんなことだえ?」

「神父さんに追い出されてしまったんです!」アンジュ・ピトゥは泣きじゃくって声をあげた。

「追い出された?」いまいちよくわからないというように復唱した。

「そうなんです」

「何処から追い出されたんだい?」

「学校からです」

 ピトゥの泣き声がいよいよ大きくなった。

「学校から?」

「はい」

「完全に?」

「はい」

「だったら、定期試験も選抜試験も奨学金も神学校もパーなのかい?」

 ピトゥの嗚咽が咆吼に変わった。アンジェリク嬢は目を皿のようにして、心の奥まで見透かして退学の原因を探ろうとした。

「また森にお勉強しに行ってたんだろう。またビヨ農場の辺りをうろついてたんだろう。将来は神父になれたはずなのに!」

 アンジュは首を横に振った。

「嘘つくでないよ!」事態は深刻だと確信するにつけ、老嬢の怒りは膨れ上がった。「この嘘つきが! 日曜日にまたビヨットとスピール小径にいるのを見られてるんだからね」

 嘘をついていたのはアンジェリク嬢の方であった。だが常日頃から、信心深い人間には嘘をつく権利があると考えていたので、「嘘も方便」なる詭弁を弄した。

「スピール小径で見られてるわけありませんよ。オランジェリの辺りを歩いていたんですから」

「そらみたことか! やっぱり一緒にいたんじゃないか」

「でも伯母さん」アンジュは真っ赤になって答えた。「今はビヨさんのことはどうでもいいんです」

「ああそうだね。さん付けしておけば不純交遊もごまかせるだろうさ! あのあばずれ、懺悔僧にチクってやろうかね!」

「だけどビヨさんはあばずれじゃありませんよ」

「やましいところがあるから庇うってわけだ! そのうちいちゃつき出すんだろうさ。どうなっちゃうんだろうねえ!……十六歳の子供たちだよ!」

「カトリーヌといちゃついてなんかいませんでした。カトリーヌはいつもそっけないんですから」

「ほら口を滑らしたね! カトリーヌと呼び捨てにしたじゃないか! つれないのはうわべだけ……人に見られてるからさ」

 ピトゥが顔を輝かせた。「そう言えばそうですね。そんなこと考えもしませんでした」

「いいかい」ピトゥが素直に叫んだのを利用して、ビヨットと通じ合っているのを認めさせようとした。「任せておきな。あたしが元通りにしてやるからね。フォルチエ神父があの娘の懺悔僧だったね。神父さんに頼んであんたを閉じ込めて、二週間パンと水だけにしてもらおう。カトリーヌ嬢ちゃんも修道院に入って恋心を抑えなくちゃならないのなら、試してみるといいさ。サン=レミに行ってもらおうかねえ」

 あまりにも力強く確信に満ちたその言葉に、ピトゥは震え上がった。

「誤解です」ピトゥは両手を合わせた。「ボクが非道い目に遭ったのは、ビヨさんとは関係ありません」

「不純な行為は悪徳の母なんだよ」アンジェリク嬢は格言でも引用するように遮ってみせた。

「伯母さん、もっかい言いますけど、いけないことをしてたから追い出されたんじゃないんです。文法が滅茶苦茶だったうえに、言い間違いも多かったから、奨学金を手に入れる見込みを自分から手放してしまったようなものなんです」

「見込みがパーだって? じゃあ奨学金はもらえないのかい? 神父にはなれないのかい? あたしは家政婦にはなれないのかい?」

「ごめんなさい、伯母さん!」

「それじゃあ将来いったい何になるつもりだい?」

「わかりません」ピトゥは絶望的な仕種で天を仰いだ。「どうすれば神の御心に適うんでしょうか?」

「神様だって? それならわかってるよ。混乱させて、新しい考えを吹き込み、哲学の原理を教え込めばいいのさ」

「そんなの無理です。修辞学を習ってからじゃないと、哲学学級には入れないし、第三学年から上には行けたことがありませんから」[*1]

「馬鹿をお言いでないよ。あたしの言っている哲学ってのは、哲学者の哲学のことさ。ムッシュー・アルエの哲学、ムッシュー・ジャン=ジャックの哲学、『修道女』を書いたムッシュー・ディドロの哲学のことだよ」

 そう言ってアンジェリク嬢は十字を切った。

「『修道女』ですか?」

「読んだかい?」

「読んでるわけないじゃないですか!」

「だから教会が嫌なんだね」

「そうじゃなくて、教会がボクを嫌ってるんです」

「やっぱりこの子は蛇だよ。口答えしちゃって、まあ」

「口答えじゃなくて、返事をしただけです」

「終わったねえ!」アンジェリク嬢は嘆きをあげ、例の椅子にくずおれた。

 なるほど『ピトゥが』終わってしまえば、それはそのままアンジェリク嬢自身が終わったことを意味する。

 一刻一秒を争う。アンジェリク伯母は決断を下した。足にバネがついてでもいるように勢いよく立ち上がり、フォルチエ神父に会いに走り出した。説明を求めるためと、なかんずく差し向かいで説得を試みるためだ。

 伯母が玄関から出て見えなくなったため、ピトゥが玄関に出てみると、ソワッソン街に向かってがむしゃらに突進している伯母が見えた。それを見て、伯母が何をしたいのかがピトゥにもわかった。先生のところに行くのだ。

 これで十五分、静かな時間が出来た。有効利用しなくては……これぞ神が与え給うた十五分だ。蜥蜴の餌にするために伯母の昼食の残りをかき集め、蟻と蛙に食べさせるために蠅を二、三匹捕まえた。次に長持と戸棚を開けて、いそいそと自分の分の食事を取った。一人になった途端に食欲が舞い戻って来たのだ。

 それが終わるとピトゥは戸口に戻り、第二の母が戻って来て驚かされないように、見張りを再開した。

 第二の母とはアンジェリク嬢が自ら名乗った呼び名である。

 ピトゥが見張りを続けている間に、一人の少女がプリューの外れを通りかかった。そこはソワッソン街の端とロルメ街の端を結んでいる路地に通じている。少女は二つの籠を背負った馬に跨っていた。籠の一つには鶏肉が、もう一つには鳩が詰まっている。カトリーヌだった。アンジェリク嬢の家の戸口にピトゥがいるのを見つけて馬を止めた。

 ピトゥはいつものように真っ赤になって、口をぽかんと開けたまま、見つめていた――言い換えるならば、見とれていた。何となればビヨ嬢こそがピトゥにとって人類最高の美の化身だったのである。

 ビヨ嬢は通りに目をやり、頭を軽く下げてピトゥに挨拶すると、そのまま先に進んで行った。

 ピトゥは喜びに震えながら挨拶を返した。

 演じられたのはささやかな場面であったが、経過したのはそれなりの時間であった。ピトゥは我を忘れてカトリーヌ嬢のいた場所を見つめ続けていたために、アンジェリク伯母がフォルチエ神父のところから戻って来たことに気づかなかった。怒りに青ざめた伯母に手をつかまれて初めて気づいたのだった。

 アンジュは瞬く間に麗しい夢から覚めた。アンジェリク嬢に触れられるたびに、いつも決まって電気を流されたような衝撃に打たれた。振り返ったピトゥは、青筋を立てている伯母の顔から目を移して自分の手を見つめ、恐怖におののいた。手にはパンの半切れがあり、二つに重ねた新鮮なバターと白いチーズがたっぷりと塗られているではないか。

 アンジェリク嬢の罵声が飛ぶや、ピトゥは怯えた声を出した。アンジェリク嬢の歪んだ手が上がるのを見て、ピトゥは頭を低くした。アンジェリク嬢がそばにあった箒の柄をつかむと、ピトゥはパンを落として言い訳もせず一目散に逃げ出した。

 こうして今しがた二人とも互いの気持を理解した。二人の間には何物をも存在し得ないことはよくわかっていた。

 アンジェリク嬢は家に戻って扉を閉め、しっかりと錠を掛けた。錠の軋りが嵐のような音を立てる。ピトゥはそれを聞いて恐ろしい思いをいっそう募らせた。

 こうしてこの場面から導き出されたのは、アンジェリク嬢が極めて遠くまで先を見通せるのに対して、ピトゥは先を読むことが出来ない、という結論である。


Alexandre Dumas『Ange Pitou』Chapitre IV「De l'influence que peuvent avoir sur la vie d'un homme un barbarisme et sept solécismes」の全訳です。


Ver.1 13/03/23
Ver.2 18/12/16

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[訳者あとがき]


 

[更新履歴]

▼・18/12/16 タイトルになっている「barbarisme」と「solécisme」をそれぞれ「破格」と「誤用」から「語形間違い」と「構文間違い」に変更した。
 

[註釈]

*1. [修辞学/哲学学級/第三学年]
 []
 アンシャン・レジーム下のコレージュでは、古典文法(grammaire)に3〜4年、人文学(humanité)に1年、修辞学(rhétorique)に1年、最終学年2〜3年が哲学(philosophie)に当てられた。第三学年(troisième)とは、文法四年目に当たる。フランスの学校では一年目から数えて第六、五、四、三、二、一、最終学年、と呼ばれる。

*2. []
 []
 

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