ピトゥは悪魔の集団に追いかけられでもしたように全速力で走り、あれよという間に村の外れにいた。
墓地の角を曲がると、馬の尻に顔を突っ込みそうになった。
「危ない!」聞き慣れた甘い声がした。「そんなに急いで何処に行くの、アンジュさん? カデが昂奮しちゃうじゃない。驚かさないでよ」
「カトリーヌさん!」問いかけに応えたのではなく、自分に向かって口にした一言だった。「カトリーヌさんだ、何てこった!」
「何なの?」カトリーヌは道の真ん中で馬を止めた。「どうしたの、アンジュさん?」
「実は……」ピトゥは罪でも打ち明けるように答えた。「神父にはなれなくなったんです」
だがピトゥの予想に違い、ビヨ嬢はけたたましく笑い出した。
「神父になれないですって?」
「ええ。駄目みたいです」ピトゥは力なく答えた。
「だったら軍人になればいい」
「軍人に?」
「ええ。つまらないことにくよくよするもんじゃないわ。伯母さまが急死なさったのかと思っちゃったじゃない」
「はぁ」というその一言に胸の裡が込められていた。「死んじゃったのと一緒です。伯母のところを追い出されてしまったんですから」
「ごめんね」ビヨットはなおも笑っていた。「伯母さまを悼んであげられるほど余裕がないのね」
カトリーヌがいっそう声をあげて笑いこけたのが、ピトゥの癇に障った。
「追い出されたって言ったじゃないですか!」
「あらよかった!」
「そんなふうに笑ってられるなんてうらやましいですよ、ビヨさん。それも長所ですよね。他人が悲しんでいるのを見ても何にも感じないなんて」
「本当に悲しいことが起こったのなら、気の毒に思うに決まってるでしょう?」
「同情してくれるって言うんですか? でもあなたは知らないんだ。ボクにはもう何にもないんです!」
「なおいいわ!」
ピトゥはもう何が何だかわからなくなっていた。
「それにご飯も! 食べなくちゃやってけません。いつもお腹がぺこぺこなんですから」
「働くつもりはないの、ピトゥさん?」
「何をして働くっていうんですか? フォルチエ神父とアンジェリク伯母さんに嫌というほど言われましたけど、ボクには何にもいいところがないんです。神父にさせようとなんかしないで、家具屋さんや車大工さんのところで見習いさせてくれていたらよかったのに! きっと呪われているんでしょうね」ピトゥは絶望に喘いだ。
「可哀相!」カトリーヌは同情的だった。この辺りでピトゥの哀れむべき事情を知らぬ者などいなかったのだ。「アンジュさん、あなたの言い分ももっともだけど……一つ忘れてない?」
「何をですか?」溺れた人間が柳の枝にすがりつくように、ピトゥはビヨ嬢の言葉にすがりついた。「教えて下さい」
「後見人がいらっしゃるじゃない」
「ジルベール
「息子さんとお友達だったんでしょう。二人ともフォルチエ神父のところで教わっていたんだから」
「そうですよ。それどころか、いじめられているところを助けてあげたことも何度もありました」
「ねえ、だったらどうしてお父様に知らせないの? 絶対に何とかしてくれるはずよ」
「今どうしているのか知っていればそうしてます。でもビヨさんのお父さんなら知っているかもしれませんね。ジルベール先生は地主なんですから」
「アメリカで小作料の一部をパパに渡して、残りをパリの公証人に預けていたと聞いたっけ」
ピトゥはため息をついた。「アメリカか……何て遠いんだろう」
「アメリカに行くつもり?」ピトゥの考えを察してはっとした声をあげた。
「ボクが? まさか! 行き場と食べる手だてさえわかれば、フランスで楽しく暮らせるのに」
「楽しく?」ビヨ嬢が繰り返した。
ピトゥは目を伏せた。ビヨ嬢が言葉を継がなかったため、沈黙がしばらく続いた。ピトゥは考えに耽っていた。論理の人たるフォルチエ神父がそれを見たらば驚いたに違いあるまい。
一つ曖昧な点があるのを明らかにしようと考えに耽った結果、霧は晴れた。と思ったそばから、雲に覆われた。如何に光が輝いていようとも、稲妻の出ずる来し方が見えず、その源流の
ところがカデがゆるりと歩き始めたため、ピトゥも籠に手を置いたままカデに併行し出していた。カトリーヌ嬢もまた考えに耽り始めていたのである。カトリーヌ嬢は馬が暴れる可能性を一顧だにせず、手綱をゆるめていた。もっとも、路上に怪物などいるはずもなく、カデの血筋はヒッポリュトスの馬とは何の繋がりもない。[*1]
馬が止まるとピトゥも止まる。気づけば農場に着いていた。
「おや、おまえさんか、ピトゥ!」雄々しい立ち姿の猪首の男が声をあげた。水たまりで馬に水を飲ませている。
「ええボクです、ビヨさん」
「ピトゥさんが困ってるの」カトリーヌが馬から飛び降りた。ペチコートがめくれ、ガーターの色が見えようともお構いなしだ。「伯母さまに追い出されちゃったんだって」
「あの業突張りに何をしたってんだ?」
「ギリシア語があまり得意じゃなかったからだと思います」とピトゥが言った。
愚かなるかな見栄なるものは! ラテン語が、というべきであったのに。[*2]
「ギリシア語が苦手だ?」肩幅の広いビヨ氏がたずねた。「どうしてギリシア語に強くなりたいんだ?」
「テオクリトスを理解して、イリアスを読みたいからです」
「それが何の役に立つ?」
「神父になるためです」
「おいおい。俺はギリシア語が出来るか? ラテン語が出来るか? フランス語が出来るか? 読み書きが出来るか? 出来ないからと言って、種蒔きや収穫や蔵入れするのに困ることがあるか?」
「ありませんけど、ビヨさんは神父じゃなくて、農夫じゃありませんか。ウェルギリウスが言うような、
「農民が坊主より劣っているとでも? だったらそう言っとくんな、小坊主! 外に出れば六十アルパンの土地、家に入れば千ルイの金を持っていてもか?」
「神父であるに
「おまえさんは間違ってないさ。俺だってその気になれば詩も詠めるんだ。神父より向いていることがあるんじゃないのか。どのみちこの時期なら神父にならないのは好都合だ。農夫の経験から言わせてもらうと、神父でいるには風向きが良くない」
「風向きが?」
「ああ、嵐が来る。嘘は言わん。おまえさんは正直で、頭もいい……」
ピトゥは深々とお辞儀をした。頭がいいなどと褒められたのは生まれて初めてだ。
「だから神父にならずとも暮らしていけるさ」
ビヨ嬢は鶏と鳩を降ろしながら、ピトゥと父の間で交わされる会話に耳を傾けていた。
「暮らしを立てるなんて出来そうにありません」
「何か出来ることは?」
「鳥もちや罠を仕掛けることなら出来ます。それに、鳥の鳴き声も上手に真似られますよね、カトリーヌさん?」
「うん、
「だがそりゃあ仕事じゃないな」ビヨ氏が評した。
「そう言っているじゃないですか、糞ッ!」
「そんな口が利けるだけでもたいしたもんだ」
「あっ、汚い口を利いてしまいました。ごめんなさい」
「気にするな。俺にもよくある。こいつめ!」と、馬に向かって、「ちっとはおとなしくしていろ! こいつらと来たら、絶えずいなないてそわそわしっぱなしだ。ところで」と、ピトゥに向き直った。「やる気がなかったのか?」
「わかりません。ラテン語とギリシア語しかしませんでしたし……」
「それに?」
「正直に言うとあんまり理解できなかったんです」
「上出来だ。おまえさんは俺が思っていたほど馬鹿じゃないってことだな」
ピトゥは目を剥いた。こんなことを言われたのは初めてであり、これまで聞かされて来た意見を覆すような見解だった。
「では尋こう。疲れるのが嫌で手を抜いたりは?」
「それなら断言できます。手を抜いたりなんか絶対にしません。十里走ったってへっちゃらですから!」
「充分じゃないか。あとちょっと痩せたら、伝令になれるぞ」
「痩せるですって?」ピトゥは細い胴や骨の浮いた腕やひょろりとした足を見つめた。「今でも充分に痩せてませんか」
「おまえさんは財産だよ」農夫ビヨがからからと笑い出した。
これほど高い評価を受けたのは初めてだったので、ピトゥはいよいよ驚きに打たれてしまった。
「さて、働くのは嫌いか?」
「どんな仕事でしょうか?」
「仕事全般だ」
「働いたことがないので、よくわかりません」
ビヨ嬢が笑い出したが、ビヨ氏の方は真剣だった。
「坊主どもと来たら!」町に向かって拳を突き出し、「怠け者と役立たずばかり育て上げているじゃないか。なあ、そんな小僧が兄弟たちに善を施すことが出来ると思うか?」
「たいしたことは出来ないでしょうね。ボクには兄弟がいなくてよかったですけど」
「人類という意味で兄弟という言葉を使ったんだ。まさか人類みなが兄弟ではないと言うつもりか?」
「まさか。聖書に書いてありますし」
「では平等だと思うか?」
「それは別です。だってフォルチエ神父と平等だったら、鞭やヘラでぶたれたりはしなかったでしょうし、伯母さんと平等だったら、追い出されたりもしなかったでしょうから」
「人間はみな平等なのさ。いずれ王様たちにそいつをわからせてやるんだ」
「君主たちに!」
「その証拠に、俺の家に来るといい」
「あなたの家にですか! からかっているんじゃありませんよね?」
「もちろんだ。必要なものは?」
「パンを一日三リーヴル」
「パンには何もつけないのか?」
「バターとチーズを少し」
「そりゃあいい。銭のかからない坊主だ」
「ピトゥさん、パパにほかのお願い事はないの?」
「ボクが? ありませんよ!」
「だったらどうしってここに来たの?」
「あなたが連れて来たんじゃないですか」
「親切でしょう? でもお礼は受け取らないことにしているの。保護者の方がどうしているかパパにたずねに来たんじゃなかったの?」
「あっ、そうだ。馬鹿だな、すっかり忘れてました」
「あのジルベールさんのことを聞きたいって?」ビヨ氏の声からは、地主に対する深い敬意が窺えた。
「ええ。でも今はいいです。ビヨさんが家に置いて下さるなら、アメリカから戻るまでじっと待っていればいいですから」
「そういうことなら長く待つ必要はないな。帰っていらしてるぞ」
「えっ! いつですか?」
「詳しくはわからんが、一週間前ならル・アーヴルにいた。俺の革袋の中にある小包はジルベールさんからもらったんだ。帰国した時に送ってくれたのが、ちょうど今朝ヴィレル=コトレに届いたんだ。嘘だと思ったら見てみるといい」
「これがジルベールさんからだって誰から聞いたの、パパ?」
「何言ってやがる! 手紙が入ってたんだよ」
「ごめんなさい」カトリーヌは笑顔で謝った。「でもパパは字が読めないでしょう。そう言って自慢してたじゃない」
「ああそうさ! 『ビヨの親父は人に頼るような男じゃない。教師にだって頼らない。自分の運命は自分で切り開いたんだ、ビヨって奴は』と言われたいからな!手紙を読んだのは俺じゃない。騎兵隊の伍長さんに会ったんでな」
「それで、手紙には何て書いてあったの? 悪い内容じゃなかったんでしょう?」
「自分で確かめな」
ビヨ氏は革の鞄から手紙を取り出して娘に手渡した。
カトリーヌが読んだのは以下の内容であった。
『親愛なるビヨ様
僕はアメリカに来ました。ここには僕らよりも豊かな人たち、立派な人たち、幸せな人たちがいます。この国の人々は自由なんです。僕らとは違う。それでも僕らも歩き続けます。新時代に向かって。一人一人が努力して、一日でも早く光の輝く日を招かなくてはなりません。僕はビヨさんの主義思想を知っていますし、ビヨさんが同業の農場主の方々に影響力を持っているのも、あなたの下で働く素晴らしい人夫や作男の方々に影響力を持っているのも存じ上げています。それも国王のものとは違い、父親のような影響力です。あなたがご存じの献身と友愛の思想を是非とも皆さんにご教授なさって下さい。哲学は誰のものでもありません。人間であれば誰であろうと、哲学の光に照らされて、自分たちの権利や義務を読まなくてはなりません。その義務と権利のすべてが書かれた本をお送りいたします。表紙に名前こそありませんが、この本は僕が書いたものです。どうかこの思想を広めて下さい。全世界が平等であるという思想です。冬の夜長に声に出して読んでもらって下さい。本を読むことは精神の糧になります。パンが肉体の糧となるように。
近いうちにお伺いして、アメリカで用いられている新しい形の小作法をお伝えいたします。農夫と地主の間で収穫を分け合うというものです。これは僕には社会本来の原理に則っているように思えます。さらに言えば、神の御心に則っているのではないでしょうか。
愛と親しみを込めて。
オノレ・ジルベール、フィラデルフィア市民』
「凄い! 何て感動的な手紙なんだろう」ピトゥが洩らした。
「だろう?」
「そうね。でもパパ、騎兵隊長も同意見かしら?」
「何だと?」
「この手紙のせいでジルベール
「馬鹿だな、怖がりめ。ここに本があることに変わりはあるまい。そしてこれがおまえさんの仕事だ、ピトゥ。夜にはこれを読んでくれ」
「日中は?」
「日中は羊と牝牛の番をしてくれ。ほら、本だ」
ビヨ氏は革袋から赤い表紙の本を取り出した。当局の許可があるかないかは別にして、当時はこのように幾多の本が出版されていた。
ただし許可がない場合には、その本の著者はガレー船行きの危険にさらされていた。
「題名を読んでくれ、ピトゥ。中身を読む前に題名を知りたい。残りは後で読んでくれるか」
ピトゥは扉に書かれた文字を読んだ。将来に於いては取るに足らない使われ方に過ぎぬが、当時に於いてはありとあらゆる人の心に訴えかける言葉であった。
「人間の独立と国民の自由」
「どう思う、ピトゥ?」
「独立と自由とは同じ意味だと思います。こんな同義反復をしていたら、フォルチエ神父に教室から追い出されてしまいます」
「同義反復かどうかはさておき、この本は人間の本だということだな」
「そんなことはいいから、パパ、その本を隠して」素晴らしきは女の勘というべきであろう。「悪いことが起きそうな気がするの。その本を見ているだけで怖くなる」
「著者に悪いことが起きていないのに、どうして俺に起こるんだ?」
「わからないの、パパ? この手紙が書かれたのは一週間前。ル・アーヴルからここに届くのに一週間もかからないでしょう。わたしも今朝手紙を受け取ったの」
「誰から?」
「セバスチャン・ジルベールもわたしたちに手紙を書いていたの。乳母子のピトゥ宛てに言伝を頼まれていたっけ。すっかり忘れてた」
「内容は?」
「三日前からお父様を待っていて、もう着いているはずなのに、いまだに来てないって」
「お嬢さんの言うことはもっともです」ピトゥも続けた。「遅れているのには嫌な予感がします」
「怖がってぐだぐだ言わずに、先生の本を読みな。そうすれば学者はもちろん人間にもなれる」
当時の人間が斯かる言い方をしたのにはわけがある。当時のフランス国民はまだギリシアとローマが築いた歴史の幕開けに居合わせたに過ぎず、これから十年をかけてその大いなる歴史を模倣してゆくことになる。忠誠、追放、勝利、隷属という言葉で表されるその歴史を。
本を抱えたピトゥの態度が厳かだったのが、ビヨ氏の心を打った。
「飯は食ったか?」
「いいえ、ビヨさん」ピトゥは本を受け取ってからの英雄然とした厳粛な態度を崩さずに答えた。
「ちょうどご飯の時間に追い出されちゃったんだよね」カトリーヌも言葉を添えた。
「よし、だったらかみさんに用意してもらえ。明日から仕事に入れよ」
ピトゥはビヨ氏に感謝の眼差しを向け、カトリーヌに連れられて、ビヨ夫人の絶対的な権力下にある台所という名の領地に入った。
Alexandre Dumas『Ange Pitou』Chapitre V「Un fermier philosophe」の全訳です。
Ver.1 13/04/13
[訳者あとがき]
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[註釈]
▼*1. [ヒッポリュトス]。
ギリシア神話より。怪物に驚いた馬が暴れてヒッポリュトスを轢き殺した伝説による。[↑]
▼*2. [ラテン語が、というべき…]。
一般にラテン語よりギリシア語の方が難しいと言われる。ピトゥはギリシア語よりも容易なラテン語すら出来ないのに、ギリシア語が――と見栄を張った。[↑]
▼*3. [何と幸いなるかな]。
ウェルギリウス『農耕詩』(Virgile『Géorgiques』)2:458より。「その恵みの大いなるを知らば、何と幸いなるかな、農夫たちよ」。[↑]
▼*4. []。
[↑]