この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照《あずま・てる》
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アンジュ・ピトゥ

アレクサンドル・デュマ

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第七章 長い足の踊るには醜かれど走るには役立てると明らかにされし次第

 納屋には何人もの聴衆が詰めかけていた。以前に申し上げた通り、ビヨ氏は雇い人たちに敬意を払っており、叱ることもしばしばなれど、滞りなく食べさせ、滞りなく給金を支払っていた。

 だからビヨ氏の誘いとあらばこうして人が集まって来る。

 もっとも、この当時は人々が奇妙な熱に浮かされていた時代であり、事を起こそうとする国民は決まってそうした熱に罹っていた。聞き慣れないどころかまるで知らぬような新しい言葉が、それまで口にしたこともない人間の口から飛び出していた。自由、独立、解放。些か不思議なことに、この言葉を耳にするようになったのは庶民の間ではなく、まずは貴族の口からであり、それに呼応した庶民の声は所詮こだまであった。

 焼けつくまでに照らすその光は西からやって来た。アメリカから昇ったその太陽は、運行を終えると、フランスを焼け野原に変え、血文字で書かれた共和国という言葉をその火で照らして怯えた国民に読ませる定めであった。

 ゆえにこうした集会では、政治問題について議論されることも、想像以上に珍しくなかった。人々が何処からともなく現れ、まだ見ぬ神の使徒となって、ほぼ人知れず、町や村を駆け巡り、自由という言葉を撒き散らした。そうなってみて初めて、盲政府も目を開け始めることになる。国家と呼ばれる斯かる巨大機関を率いる者たちは、何が故障の原因かもわからぬながらに何処かの部品が障害を起こしたのを感じていた。叛乱は既に脳を侵しており、腕や手に広がるのも時間の問題だった。目にこそ見えぬが、存在し、実感できる、脅威であった。幽霊のように捕らえがたく、目にしてもその手でつかむことは出来ぬだけに、いっそう脅威ともなるのであった。

 ビヨに雇われている二十数人の作男が納屋に集まっていた。

 ビヨがピトゥの後から入って来ると、作男たちは帽子を取って振りかざした。主人の合図で死ぬことさえも厭わぬに違いない。

 ビヨから説明があり、ピトゥが読むのがジルベール医師の著作である旨が告げられた。ジルベールの名は村中に知れ渡っていた。村に幾つも地所を持っており、ビヨの農場はその筆頭であった。

 ピトゥは用意されていた樽に上がり、その即席の演壇上で朗読を始めた。

 ご存じの通り、庶民というものは――はっきり申さばおしなべて男というものは――理解できぬものにこそ耳を傾ける。この本の言葉はどれも、田舎人の心には穿たれなかったし、ビヨにも理解できなかった。だが難解な言葉の中にも、曇天に電気を湛えてきらめく稲光のように、光を湛えた言葉があった。独立、自由、平等。ほかには何もいらなかった。拍手が巻き起こり、「ジルベール先生、万歳!」の声が響き渡った。三分の一ほどまで読まれていた。三度目の日曜日には読み終わるだろう。

 次週の集いにも誘われた聴衆は、また集まることを約束した。

 つつがなく読み終えられた。成功こそ最大の褒美である。本に向けられた喝采も一部は読み手に届けられたものであったし、その智識に圧倒されてビヨ氏にさえピトゥへの敬意が生まれていた。ピトゥは肉体的には人並み以上であったが、これで精神的にも一回り大きくなっていた。

 足りないものは一つだけ。カトリーヌ嬢がその勇姿を見届けてくれなかったことだ。

 だが医師の本がもたらした反応に酔いしれていたビヨ氏は、その成果を妻や娘とも分かち合いたがった。ビヨ夫人は無反応だった。先を見通せない女なのだ。

 だがカトリーヌは悲しげな笑みを浮かべた。

「まだ何かあるのか?」ビヨ氏がたずねた。

「パパのことが心配なの」

「凶鳥は使わないのか? 俺は梟より雲雀がいいね」

「パパが見張られてるから伝えてくれるよう頼まれたんだってば」

「誰がそんなことを?」

「友達」

「友達? 忠告痛み入るね。その友達の名前を聞かせてもらおうか。何処のどいつだ?」

「もの知りな人」

「だから誰なんだ?」

「イジドール・ド・シャルニーさん」

「あのめかし屋が何だって言うんだ? 俺の考え方にご忠告申し上げるだと? あいつの服の着方に俺がご忠告申し上げたことがあったか? 言われたらには言い返さなきゃならんようだな」

「怒らせようと思ってこんなこと言ったんじゃないの。親切から教えてくれたのに」

「ならこっちもお礼をしなくちゃな。伝えてくれ」

「何を伝えれば?」

「お仲間たちは気をつけろってことだ。国民議会じゃ貴族のお歴々はやり玉に挙げられているし、寵臣寵姫のことが議題に挙げられるのもしょっちゅうだ。お兄さんのオリヴィエ・ド・シャルニーによろしく伝えてくれ。あっちでオーストリアと仲良くしてるそうじゃないか」

「何でもご存じのようだから、勝手にするといいわ」

「それで――」朗読の成功で自信を深めていたピトゥが呟いた。「イジドールさんはどうしてそんなことを?」

 カトリーヌには聞こえなかったのか、聞こえぬふりをしたのか、話はそこでお終いになった。

 昼食はいつも通りに摂られたが、昼食をこれほど長く感じたのはピトゥには初めてだった。自信に溢れたピトゥはカトリーヌ嬢と腕を組むのを見て欲しくてじりじりしていた。ピトゥにとって今日この日曜日は記念日であった。七月十二日のことは忘れまいと心に誓った。

 三時頃になってようやく人がいなくなった。カトリーヌは可愛かった。黒い瞳に金の髪、水汲み用の泉に影を落とす柳のように細くしなやか。女らしさをひときわ輝かせるような色気を、生まれながらに纏っていた。手製の帽子が驚くほどに似合っている。

 ダンスはいつも七時にならないと始まらない。四人のヴァイオリン弾きが壇上に上がり、コントルダンス一曲につき六ブランで、野外舞踏会上に案内していた。差し当たり六時までは、アンジェリク伯母の話にあったあのスピール小径をぶらついている人や、近隣の若者たちがドルレアン公閣下のポーム教師長ファロレ氏(maître Farolet, paumier en chef)の許でポームに興じているのを眺めたりしている人がいた。ファロレ氏は神託を授かりし如くに、陣取チェルス打撃権シャス、ポイントの判断を下し、年齢と功績に相応しい称讃を手にしていた。[*1][*2]

 さしたる理由があったわけではないが、ピトゥとしてはスピール小径から離れたくはなかったかもしれない。だがカトリーヌが驚くほど小粋な女に化けたのは、何もブナ小径の木陰でじっとしていたいからではなかった。

 女とは心ならずも木陰に追いやられた花のようなものだ。我先にと光を目指し、香りに満ちた花冠を必ずや太陽の下で花開かせる。太陽が花をしぼませ、枯れさせるものだとしても。

 詩人曰く、身を潜めるほど慎ましいのは菫だけ。もっとも菫とてその美しさの無為に散るのを嘆いてはいるのだ。

 カトリーヌに腕を引かれて、ピトゥたちはポーム場までたどり着いた。無論ピトゥも引っ張られるのに抵抗していたわけではない。ピトゥの方も空色の外着や洒落た三角帽を早く見せたいのは、カトリーヌがガラテイア風の帽子ボネや玉虫色の胴衣を見せたいのと同じだった。[*3]

 我らが主人公を何よりも嬉しがらせたのは、一時的にせよカトリーヌ争奪戦で優位に立てたことだ。これほど着飾ったピトゥを見た者など絶無ゆえ、会ってもピトゥだとは気づかれぬどころか、都会からやって来たビヨ家の親戚か何かか、果てはカトリーヌの婚約者に間違われたりもしたのだ。だが早く正体を明らかにしたい衝動が頭をもたげたので、勘違いも長くは続かなかった。友人に会うたびお辞儀をし、知り合いに会うたび帽子を取っていると、村人たちもようやくフォルチエ神父の生徒に気づき、どよめきが起こった。

「ピトゥだ! アンジュ・ピトゥを見たかい?」

 騒ぎはアンジェリク嬢にまで届いた。だが甥だと言って騒がれているのが颯爽とした少年だと聞き、外股で胸を張って歩いているからには、いつも内股で背を丸めているピトゥではないと確信し、あり得ないと言って首を振った。

「見間違いだよ、あの出来そこないじゃあない」

 カトリーヌとピトゥはポーム場にやって来た。その日はソワッソンとヴィレル=コトレの試合があったため、球戯場は盛り上がりを見せていた。二人は土手の一番下に張られたロープのそばに腰を落ち着けた。その場所がいいとカトリーヌが選んだのだ。

 やがてファロレ氏の声が聞こえた。

「両者コートチェンジ」

 言葉通り選手は移動していた。つまり自分の陣地シャスを守り、敵のポイントを奪いに行った。選手の一人が移動しながらカトリーヌに微笑みかけると、カトリーヌもお辞儀を返し、頬を赤らめた。その瞬間、自分の腕に添えられたカトリーヌの腕に震えが走るのをピトゥは感じた。

 感じたことのない苦悶がピトゥの心を抉った。

「シャルニーさんですか?」

「ええ。知ってたの?」

「知りませんでした。でも、そうじゃないかと」

 その若者がシャルニー氏だということは、前日カトリーヌから聞いたことを考えればわかった。

 カトリーヌに挨拶をしたのは二十三、四歳の顔立ちと身体つきのよい貴公子であった。身なりといい身ごなしといい洗練されていて、揺籃より授けられた貴族教育が板についている。幼年期より貴族教育を施されていればかくあるべしといった立ち居振る舞いを、完璧に体現していた。そしてまたその時々に応じた服装を見事に着こなしていた。狩猟服はその趣味の良さが引き合いに出され、剣道着は聖ゲオルギウスさえ手本にしそうなほどで、乗馬服は特別仕立てというわけではないのだが着こなしのおかげでそう見えていた。

 この日、我らがシャルニー伯爵の次弟シャルニー氏は、朝に整えたままの髪に、明るい色の細身のズボン姿、これが細く逞しい太腿やふくらはぎを引き立てている。赤い踵の靴か折り返しブーツの代わりに、お洒落なポーム・サンダルが革紐で結ばれ、白いピケ織りの上着がコルセットで締めたように胴にぴっちり馴染んでいる。土手の上では召使いが金筋つきの緑の外着を携えていた。[*4]

 動き回っているシャルニーは若く爽やかな魅力に溢れていた。二十三歳にして夜更かし、夜遊び、日の出まで賭け事に興じていたがため、普段はそんなものはとっくに失われていたのだが。

 カトリーヌも気づいたはずのこうした長所を、ピトゥが見逃すはずもない。シャルニー氏の手足を見て、靴屋の息子に勝った時に感じた自信も萎え、神様も身体を構成する部品をもっと上手く組み立ててくれたら良かったものを、と感じずにはいられなかった。

 ピトゥの足、手、膝の余りで綺麗なふくらはぎを作ることだって出来たはずだ。ところが肉はあるべきところにはなく、細くあるべきところに密集し、丸くあるべきところはすかすかだった。

 自分の脚を見る寓話の鹿のように、ピトゥは自分の足を見つめた。[*5]

「どうしたの?」

 カトリーヌにたずねられたが、ピトゥは答えず首を振って溜息をついた。

 一セットが終わった。シャルニー子爵がセット間の空いた時間を使ってカトリーヌに会いに来た。子爵が近づくにつれ、カトリーヌの頬が染まり、腕の震えるのがピトゥにもわかった。

 子爵はピトゥにお辞儀をし、当時の貴族にとっては中流娘やお針子もお手のもの、たるくだけた調子でカトリーヌの機嫌を伺い、ダンスに誘った。カトリーヌが受諾すると、子爵の顔が感謝でほころんだ。次のセットが始まり、呼ばれた子爵はカトリーヌに挨拶して、受諾してもらえたことに安心した様子で遠ざかった。

 子爵がピトゥに優越感を抱いているのが、ピトゥには痛いほどわかった。その口振り、笑い方、歩き方、立ち去り方。

 シャルニー氏の何気ない所作をひと月真似てみたところで、戯画にしかなり得ないことはピトゥ自身にもよくわかった。

 ピトゥの心は憎しみを知り、これ以来シャルニー子爵が大嫌いになった。

 選手たちが召使いを呼んで上着を受け取るまで、カトリーヌはポームを観戦し続けていた。試合が終わるとカトリーヌはダンスに向かった。残念なことに、その日はすべてがピトゥの思惑とは裏腹に進んでゆくらしい。

 カトリーヌの腕がピトゥの腕から離れ、真っ赤になってパートナーと輪の中に進んでゆくのを見て、ピトゥはこれまでになく気分が悪かった。冷や汗が額に浮かび、目に霞がかかった。手を伸ばして手すりをつかんだ。膝が強張り、今にも崩れ落ちそうだった。

 ピトゥの胸に飛来した気持のことなど、カトリーヌは考えもしなかったはずだ。カトリーヌが感じていたのは嬉しさと誇らしさだ。近隣一のパートナーと踊るのは、嬉しかろうし、誇らしかろう。

 ピトゥとしても、ポーム選手としてのシャルニー氏は渋々認めていたのに引き替え、ダンサーとしては正当に評価せざるを得なかった。当時はまだダンスをせずに散歩するという流行は訪れていなかった。ダンスは教養の一環であった。国王のカドリールにて初めに披露したダンスで成功したド・ローザン氏を引き合いに出すまでもなく、貴族たちは足を伸ばし爪先を前に出すそのステップを真似て、首尾良く宮廷に出入りしていた。この点において子爵は優雅で完璧なお手本であり、国王でも俳優でもない身でも、ルイ十四世のように舞台で喝采を浴びることさえ出来ただろう。

 ピトゥは改めて自分の足を見つめてみた。大きな変化でも起こらない限り、シャルニー氏が勝ち得ているような栄誉を望むことは断念しなくてはなるまい。

 ダンスが終わった。カトリーヌには一瞬の出来事であったが、ピトゥには一世紀にも思える時間だった。パートナーの腕を取って戻って来たカトリーヌにも、顔つきが変わっていることを気づかれた。顔からは血の気が引き、額には汗が流れ、嫉妬に苛まれた目には涙が浮かんでいる。

「どうしたの、ピトゥ?」

「あなたとダンスなんて出来ませんよ、シャルニーさんのダンスを見せられてしまったら」

「そんなことで落ち込まないで。踊りたいように踊ればいいでしょう。キミとダンスするのも楽しみにしてたんだから」

「慰めてくれるのはありがたいけれど、自分のことはよくわかってます。こちらの方と踊る方が楽しいに決まってますから」

 カトリーヌは何も言えなかった。嘘をつきたくなかったのだ。それでも、よく出来た人間だったので、ピトゥの心にこれまでとは違った感情が生まれていることに気づいて、出来るだけ優しく接した。だがいくら優しくされても、消え去った喜びも明るさもピトゥには戻らなかった。ビヨ氏は正しかったのだ。ピトゥは男になりつつあった――そのために苦しんでいた。

 カトリーヌはまた五、六回ダンスをし、シャルニー氏と二度目を踊った。ピトゥも今度は前ほど苦しまずに表面上は落ち着いて見ていられた。カトリーヌたちが動くのを目で追い、口唇の動きから何を話しているのか読み取ろうとし、動きの中で手が触れ合えば、手が触れているだけなのか握り合っているのかを見極めようとした。

 カトリーヌはシャルニー氏ともう一度だけ踊りたかったのだろう。ダンスが済むとピトゥに向かい、そろそろ家に帰ろうと声をかけた。ピトゥの返事はつれないものだった。おまけに、歩いている間も時々カトリーヌが呼び止めねばならないほど大股でずんずん進み、一切口を利こうとはしなかった。

「どうしたの? 何で黙ってるの?」

「シャルニーさんみたいにしゃべれませんから。ダンスしながら素敵な言葉をかけられたのに、そのうえボクが話さなきゃいけませんか?」

「勝手なこと言わないで。じゃあアンジュさん、キミのことを話そう」

「どうしてボクのことを?」

「ジルベールさんが戻らないなら、代わりを考えなきゃ」

「農家の帳簿つけには向いてませんか?」ピトゥは溜息をついた。

「むしろ農家の帳簿つけじゃあもったいないと思わない? それだけの教育を受けていれば、もっとやりがいのある仕事が出来るはず」

「やれることなんてありませんし、シャルニー子爵を通さないと出来ないことなら何もやりたくありません」

「どうしてシャルニーさんの手を借りたくないの? お兄さんのシャルニー伯爵は宮廷で一廉の地位にあるという話だし、王妃の付き人とご結婚なさっているって聞いたけど。わたしさえよければ、ピトゥさんに塩税署の仕事をお世話してくれるんだって」

「ありがたい話ですけど、さっき言ったように、今のままでいいんです。ビヨさんに追い出されない限り、ずっと農家で働きます」

「何だって俺がおまえさんを追い出すんだ?」父の大声を聞いてカトリーヌが震え上がった。

「ピトゥ、イジドールさんの話はしないでね」カトリーヌは囁いた。

「おい、答えるんだ!」

「でも……わかりません。ビヨさんの役に立てるほど頭が良くないからじゃないんですか」ピトゥはまごついて答えた。

「頭が良くないだと! バレーム(Barrême)みたいに計算できて、自分を大学者だと自惚れている教師よりも本読みが上手いのにか? 馬鹿だな、ピトゥ、おまえさんは俺の家に人を呼んでくれる神様だよ。神様のおかげでみんな一度足を運んだらずっといてくれるんだ」

 ピトゥはそう請け合われて農家に戻ったものの、まだ気持は晴れなかった。家を出た時と戻った時とでは大きな違いが訪れていた。あるものを失くし、失くしたきり見つけられずにいたのだ。あるものとは自信である。そのせいでいつもとは違い上手く寝つけなかった。眠れずにいると、ジルベール医師の本の内容が脳内に浮かび上がって来る。あの本は、貴族、特権の濫用、泣き寝入り、そうしたものを批判していた。今朝読んだ時にはまだ内容をわかりかけただけだったから、夜が明けたら、声に出してみんなに聞かせたあの傑作を、一人きり小声で読み返してみよう。

 ところが眠れなかったせいで寝過ごしてしまった。

 それでも本を読もうという思いは変わらなかった。七時。ビヨ氏は九時まで戻って来ない。それに戻って来たとしても、自分が薦めた本を読んでいるのを見たら、大喜びで褒めてくれるだけのような気もする。

 ピトゥは梯子段を降りて、カトリーヌの部屋の窓辺にあるベンチに向かった。ピトゥがそこに向かったのは果たして偶然であったのだろうか、それとも窓やベンチの場所を初めから知っていたのだろうか?

 いずれにせよ、着替える暇がなかったのでピトゥは普段通りの服装に戻っていた。黒いキュロット、緑の外套、赤い靴。そんな恰好でポケットから本を出して読み始めた。

 読み始めた時からピトゥの目がちらほらと窓に向けられていたことは敢えて言うまい。しかしながら金蓮花と朝顔で縁取られた窓の中にカトリーヌの姿は見えなかったので、ピトゥの目も遂に紙面に戻された。

 ページをめくる手が滞っていたし、意識すればするほど手が動かなくなっていたので、傍から見れば心が余所に行き、本を読んでいるのではなく夢を見ているのではないかと思われたことだろう。

 ページに影が落ちた。朝の陽射しがここまで伸びて来たのだ。雲の影にしてははっきりし過ぎている。物体の影だ。見たくてたまらない物体があるピトゥは、急いで振り返って光を遮っているものを確かめた。

 早とちりだった。ディオゲネスがアレクサンドロス大王に頼んだように、日光と温もりを遮っていたのは、確かに物体には違いない。だがこの物体はとても見たいとは言いがたく、むしろぞっとするような見た目をしていた。

 影は四十五歳の男のものだった。ピトゥより背が高くピトゥより痩せており、ピトゥよりみすぼらしい服を着て、首を傾げて、ピトゥが上の空だった本を興味深そうに読んでいるように見えた。

 ピトゥが驚きから動けずにいると、黒服の男が笑みを見せた。そこから覗いた歯は四本しかない。上下に二本ずつ、猪の牙のように尖っている。

「アメリカで出版された本だな」鼻にかかった声だ。「八つ折り本。『人類の自由と国民の独立について』、ボストン、一七八八年」

 男が読み上げるにつれピトゥの目はだんだんと丸くなり、読み終わった頃には真ん丸くなっていた。

「ボストン、一七八八年。その通りです」

「ジルベール医師の論文だね?」

「はい、そうです」ピトゥは行儀よく答えた。

 坐ったまま目上の人と話すのは失礼だ、と何度も言われていたから、ピトゥは立ち上がった。まだうぶなピトゥにしてみれば、誰が目上であっても不思議とは思わなかった。

 だが立ち上がった時、窓の向こうに薔薇色の影が動くのが見えた。カトリーヌだ。はっとしたような顔で合図を送っている。

 男は窓に背を向けていたため、それに気づいていない。「失礼だが、その本はどなたのものかな?」

 ピトゥの手の中にある本を指さしたが、触れはしなかった。

 ビヨ氏のものだと答えようとした時、請うような声が聞こえた。

「自分のだって言って」

 目ばかりを光らせていた男には、この言葉が聞こえなかった。

「この本はボクのです」ピトゥは堂々と答えた。

 男が顔を上げた。先ほどからピトゥの目が男から離れてある点に注がれていることに気づき始めたのだ。窓を見たが、カトリーヌは動きを察して鳥のように素早く隠れていた。

「何を見ていたのかね?」

「失礼ですが、好奇心が旺盛でらっしゃいますね。好奇心、フォルチエ先生風に言えば智識欲avidus cognoscendiですが」

「先ほど――」男はピトゥの発したラテン語にひるみもしなかった。第一印象より頭が切れると思わせようとしたピトゥの作戦は空振りだった。「自分の本だと言ったね?」

 改めて窓を視野に入れると、片目をつぶって見せた。カトリーヌがわかったというようにうなずいた。

「ええ、あなたもお読みになりますか? 欲読書或読稗史乎Avidus legendi libri ou legendae histori

「身なりよりも随分と高いご身分のようですな。雖衣襤褸賢者也Non dives vestitu sed ingenio。従って逮捕させていただきます」

「えっ、逮捕?」意味がわからなかった。

「ええ、ご一緒していただけますな」

 ピトゥが我に返って見回すと、軍人が二人、男の指示を待っていた。地面から湧き出たとしか思えない。

「調書を取らせてもらいましょうか」

 軍人がピトゥの手を縛り、ジルベール医師の本を預かった。

 それから窓の下の輪っかにピトゥを結びつけた。

 ピトゥは抗おうとしたが、神にも等しい先ほどの声が囁くのが聞こえた。「そのままでいて」

 ピトゥが素直に従ったので、軍人も黒服も気をよくして、疑いもせず農家に入った。軍人二人は椅子に坐って休むため。黒服の男は……理由は後ほど明らかとなろう。

 三人の姿が消えるとすぐに声がした。

「手を挙げて」

 ピトゥが手だけでなく顔も上げると、怯えて青ざめたカトリーヌの顔が見えた。手にはナイフを握っている。「もっと……もっと上に……」

 ピトゥは足も伸ばした。

 カトリーヌが身を乗り出して縄に刃を当てたので、ピトゥの手は自由になった。

「はい、ナイフ。これで輪っかに結んである縄を切って」

 言われるまでもない。ピトゥは縄を切って自由の身となった。

「この大型デュブルルイをあげる。足の速さなら誰にも負けないよね。パリに行って医師せんせいに知らせて」

 きちんとした話は出来なかった。軍人たちが戻って来たので、大型ルイ金貨をピトゥの足許に落とすことしか出来なかった。

 ピトゥは大急ぎで金貨を拾った。軍人たちが戸口でぽかんとした顔をして、先ほど縛り上げたはずのピトゥが自由になっているのを眺めていた。軍人の姿を目にしてピトゥは髪が逆立ち、何とはなく復讐の三女神の蛇髪を連想した。

 軍人とピトゥはしばし兎と猟犬のように微動だにせず睨み合っていた。犬が少しでも動こうものなら兎は逃げ出してしまう。軍人が動いた途端にピトゥは垣根を飛び越えていた。

 軍人のあげた声を聞きつけて黒服の男が駆けつけた。腕に小さな箱を抱えている。あれこれ問いただしたりはせず、すぐにピトゥを追いかけて走り出した。軍人二人も後に続く。だがピトゥのように三ピエ半(※一メートル強)もある垣根を飛び越えることなど出来ないので、迂回せざるを得なかった。

 それでも垣根の切れ目までたどり着くと、ピトゥが五百パッスス(※約750m)ほど先にいて、真っ直ぐ森に向かっているのが見えた。よくて約四半里、時間にして数分というところだ。

 ピトゥが振り返ってみると、軍人が追跡を始めているのが見えた。追いつけるとは思っていないが義務だから追いかけているといった様子だったので、ピトゥはさらに速度を上げ、森の外れに姿を消した。

 ピトゥはなお十五分走り続けた。必要とあらば二時間でも走っていただろう。鹿のように速いだけではない。鹿のような肺を持っていた。

 だが十五分の後、本能的に危険は脱したと判断し、足を止めて深呼吸し、耳を澄ませた。大丈夫だ、誰もいない。

「信じられないや。こんなにたくさんのことがたった三日のうちに起こるなんて」

 ピトゥは大型ルイとナイフを代わる代わる見つめた。

「時間があったらなあ。この大型ルイを両替して、カトリーヌさんに二スー返すのに。このナイフに友情を切り裂かれるのは嫌だもんな。でもいいか。パリに行けと言われたんだから、行くまでだ」

 ピトゥは心を決め、ブルソンヌとイヴォール(Boursonne et Yvors)の間にいることを確認してから、砂州を進んだ。真っ直ぐ行けばゴンドルヴィル荒野に出るはずだ。そこにパリ街道が通っている。


Alexandre Dumas『Ange Pitou』Chapitre VII「Où il est démontré que si de longues jambes sont un peu disgracieuses pour danser, elles sont fort utiles pour courir」の全訳です。


Ver.1 13/05/11

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[訳者あとがき]


 

[更新履歴]


 

[註釈]

*1. [六ブラン]
 1ブラン=10ドゥニエ。1スー=12ドゥニエ、1リーヴル=20スー=240ドゥニエ。なので、1ブラン≒0.83スー≒0.042リーヴル。[]
 

*2. [陣取、打撃権、ポイント]
 それぞれ tierce, chasse, quinze。有利なポジションを得ること、スマッシュ権のようなものを得ること、15点得ること。
 ※【ポームのルール】ボールが二バウンドする前にレシーブできないと相手に「chasse」権。バウンド地に目印をつけ、コートチェンジ(passer)する。権利を手にした者は目印の向こうで二バウンド目するようにボールを打つ。二バウンド目が手前の場合、相手に15ポイント。それを防ぐには二バウンド目する前にボールを打ち直さなくてはならない。それが出来なければ相手は労せずポイントを獲得できる。「chasse」を打てるのは、中央のロープ(ネットの前身)と自陣のあいだ、もしくはサーヴ地点から敵陣の端までであり、前者の場合はロープの上を越えなくてはならず、後者の場合はロープの下でよいうえに地面を転がしてもよい。[]
 

*3. [ガラテイア風の帽子《ボネ》]
 bonnet à la Galatée。ガラテイアとはギリシア神話に登場する、1.アーキスとポリュペーモスに愛される女、2.ピグマリオンの妻(彫像)。ガラテイア風のボンネットとはどういうものなのかは特定できませんでした。さまざまな芸術家が絵や彫刻を造っているので、いずれかに影響を受けたものか。時代的には Charles de la Fosse「Le Triomphe de Galatée」や Jean-Baptiste Deshays「Pygmalion et Galatée」などに描かれたガラテイアが、花でできた冠のようなものを頭に巻いているので、これを模してボンネットの縁取りなどに花飾りをつけたものか?。ガラテイア風というシニヨン風の髪型もあったが、これは時代も下るので違う。[]
 

*4. [赤い踵の靴]
 宮廷人の印。[]
 

*5. [寓話の鹿]
 『ラ・フォンテーヌ寓話集』より、6-9「水に映った自分の姿を見るシカ」。水に映った姿を見た鹿は、立派な角に比べて細い脚を厭った。だが猟犬に追われて逃げるとき、角が邪魔になって必死に走る脚の歩みを妨げた。[]
 

*6. []
 []
 

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