この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照《あずま・てる》
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アンジュ・ピトゥ

アレクサンドル・デュマ

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第十一章 七月十二日から十三日にかけての夜

 道には誰もいないように見えた。逃げる群衆を追う騎兵隊はサン=トノレ市場を戻り、ルイ=ル=グラン街とガイヨン(Gaillon)街に散らばっていた。だがパレ=ロワイヤルに近づくにつれ、無意識に怒声をあげ復讐の呟きを唱える人々が街角に姿を見せた。並木道の外れや、正門の陰から、声も立てず恐る恐る顔を出して周りを窺っていたが、騎兵隊がいないことを確かめると、葬列に加わり、小さな呟きからやがてはっきりとした声で、遂には大声で「復讐を! 復讐を!」と繰り返していた。

 ピトゥはサヴォワ人の帽子を手に、ビヨの後ろを歩いていた。

 やがて不吉な葬列はパレ=ロワイヤル広場にたどり着いた。怒りに駆られた民衆が問答の末、外国軍対策をフランス軍に頼んでいた。

「あの軍服は何だ?」部隊の前まで来ると、ビヨが問うた。その部隊は立て銃の姿勢でシャルトル街の城門からパレ=ロワイヤル広場を塞いでいた。

「フランス近衛聯隊だ!」

「よし!」ビヨは近づいてゆき、死体同然のサヴォワ人を兵士に見せた。「あんたたちはフランス人だろう? ドイツ人が俺たちを殺すのを放っておくのか?」

 近衛兵たちは思わず後じさった。

「死んでいる!」隊列から幾つかの声が洩れた。

「そうだ、死んでいる。殺されたんだ。こいつも、ほかの奴らも」

「誰がやったんだ?」

「ドイツ騎兵聯隊さ。悲鳴や銃声や蹄の音が聞こえなかったんですか?」

「そうだ、そうだ!」幾百の声がこだまする。「ヴァンドーム広場で殺されたんだぞ」

「あんたたちだってフランス人じゃないか!」ビヨが兵士に向かって叫んだ。「同胞を見殺しにするようならとんだ臆病者だ!」

「臆病者だと!」凄む声がする。

「ああ……臆病者だと言ったんだ。何度でも言ってやる」ビヨは声の聞こえた方に向かって足を踏み出し、「俺を殺さないのか? 臆病者じゃないと証明しないのか?」

「まあまあ……あんたは勇敢だよ。だけど一般人だからやりたいことをやれるのさ。だが一兵卒たる軍人は命令ありきなのだ」

「だから俺たちのような武器も持たない人間を殺せと命令されれば、殺すというのか! 第一撃が始まったと言ってイギリス軍に水をあけたフォントノワの後輩たちは何処に行ったんだ?」

「俺は撃たないぞ」一人が答えた。

「俺も撃たない」「俺もだ」幾つもの声があがる。

「だったら発砲する奴らを止めてくれ。ドイツ野郎に殺されるのを放っておくなんて、あんたたちがその手で殺すようなもんだぞ」

「騎兵隊だ! 騎兵隊だ!」広場から溢れてひしめいているのはリシュリュー街から逃げて来た者たちだ。

 まだ遠くとも、騎兵隊の足音が舗石を蹴って近づいて来るのが聞こえて来た。

「こっちも武器を取れ!」と、逃げて来た者たちが叫んでいる。

「畜生!」ビヨが抱えていたサヴォワ人を地面に放り出した。「使うつもりがないのなら、その銃を貸してくれ」

「使わんわけがないだろう!」相手の兵士はビヨの手から銃を奪い返した。「さあ、薬包を噛み切れ! オーストリア野郎が何か言って来たら、目にもの見せてやる」

「おう、見せてやろう」兵士たちが弾薬入れを外し、薬包を口に運んだ。

「糞ッ! 猟銃を持ってくればよかった」ビヨが地団駄を踏んだ。「死んだオーストリア野郎から銃を拝借するか」

「だったらこの薬包を持って行け。たっぷり詰まっている」

 見知らぬ男がびっちり詰まった薬包をビヨに手渡した。

 その瞬間、騎兵隊が広場になだれ込み、目の前の群衆を蹴散らし、斬りつけた。

 フランス近衛兵の将校が前に出た。

「騎兵隊の諸君! ひとまず休戦と行かぬか?」

 騎兵隊には聞こえなかったのか、聞く気がなかったのか、或いは制御できぬほどの激情に駆られていたのか、止まらずに広場で右に舵を切り、婦人と老人にぶつかって踏みつぶした。

「撃て! 撃て!」ビヨが叫んだ。

 ビヨがいたのは将校のそばだったので、それが将校の声のように聞こえた。近衛兵は銃を肩に構え、一斉射撃で騎兵隊の足を止めた。

「近衛兵の諸君!」ドイツ騎兵隊長が慌てふためく騎兵隊から一歩前に出て言った。「誰に発砲したのかわかっているのか?」

「わかっていたらどうする?」

 一言言ってビヨは騎兵隊長を撃ち倒した。

 すかさず近衛兵が第二撃を放つに至り、ドイツ兵も遂に悟った。今回の相手は剣の音を聞いて逃げ出した一般人ではなく、一歩も引かずに待ち受けていた兵士たちだ。騎兵隊がきびすを返してヴァンドーム広場に戻ると、勝鬨と喝采に驚いて馬たちが暴れ、鎧戸に頭をぶつけ始めた。

「フランス近衛兵万歳!」

「祖国の兵士万歳!」ビヨも倣った。

「ありがとう。発砲したのが見えたのでね。幸運は我々に微笑んだようだ」兵士たちが答えた。

「ボクにも見えました」ピトゥが言った。

「何だって?」ビヨが驚きの声をあげた。

「思ったほど怖くありませんでした」

「ところで――」カービン銃をじっくり調べたビヨは、それが立派なものであることに気づいていた。「この銃は誰のだ?」

「ご主人様のものです」先程来後ろから聞こえていた声が応えた。「ですが随分とお役に立っているようでしたので、取り返すのは忍びないとお考えになったようです」

 ビヨが振り返ると、ドルレアン公のお仕着せを着た馬丁がいた。

「それで、ご主人様は何処だ?」

 馬丁は半開きの鎧戸に顔を向けた。つい先ほどまでその陰からドルレアン公がすべてを見ていたのだ。

「つまり俺たちと一緒だったのか?」

「心身共に民衆と一緒です」

「ではもう一度叫ぼう。ドルレアン公万歳! 同胞達ともよ、ドルレアン公は俺たちの味方だ。ドルレアン公万歳!」

 ビヨはドルレアン公が佇んでいたという鎧戸を指さした。

 すると突然鎧戸が開いてドルレアン公が姿を見せ、三度挨拶を送った。

 すぐに鎧戸は閉められた。

 姿を見せたのは一瞬ではあったが、熱狂を引き起こすには充分だった。

「ドルレアン公万歳!」幾千の声がこだまする。

「武器屋に押し入ろう」人混みの中から声がした。

「廃兵院に向かうぞ!」古参兵たちが怒鳴った。「ソンブレイユ(Sombreuil)のところになら銃が何挺もあるはずだ」

「廃兵院だ!」

「市庁舎を目指せ!」幾多の声が唱和する。「市長のフレッセルが武器庫の鍵を持っている。渡してもらおう」

「市庁舎へ!」

 三つの人垣は三様に散らばって行った。

 その間に騎兵聯隊はブザンヴァル男爵とランベスク公を中心にルイ十五世広場に集結していた。

 ビヨとピトゥはそれに気づかずに、三つの流れのどれにもついてゆかなかったので、いつの間にかパレ=ロワイヤル広場に二人きりになっていた。

「ビヨさん、ボクらはどうすればいいでしょうか?」

「知れたこと。勇敢な奴らについて行くまでよ。武器屋はナシだ、もう立派な銃が一挺あるからな。市庁舎か廃兵院だろう。だがな、パリに来たのは戦うためじゃなく、ジルベールさんの居所を探すためだ。ルイ=ル=グラン学校コレージュに行くべきだろうな、息子さんがいるはずだ。先生に会った後でなら、幾らでもこの騒ぎに参加してやろうじゃないか」

 ビヨの目がきらりと光った。

「ルイ=ル=グラン学校に行くのはもっともなことだと思われます」と、ピトゥがもったいぶった口を利いた。「そのためにパリに来たんですから」

「だったら銃でも剣でも何でもいい、そこに寝ている奴らの武器をいただきな」ビヨは地面に横たわっている五、六人の騎兵隊員を指さし言った。「そうしたらルイ=ル=グラン学校に行くぞ」

「でも……」ピトゥは躊躇った。「この武器はボクのものじゃありません」

「じゃあ誰のものだと言うんだ?」

「国王のものです」

「民衆のものさ」

 ビヨは麦粒一つたりと雖も人様に迷惑をかけるのを嫌うような男だ。そんな男の言葉に力を得て、ピトゥは一番近くにいた騎兵隊に慎重に近づき、死んでいることをはっきりと確かめてから剣と小銃ムスクトンと弾薬入れを取った。

 ヘルメットも欲しかったが、ビヨの言う武器というのが防具まで含まれるのかどうか確信が持てなかった。

 だが武器を身につけている間も、ヴァンドーム広場に聞き耳を立てておくのを忘れてはいなかった。

「もしかしたらドイツ人騎兵聯隊が戻って来たのかもしれません」

 なるほど騎馬の足音が近づいて来るのが聞こえる。ピトゥがカフェ・ド・ラ・レジャンスの角から顔を出すと、サン=トノレ市場の上に、小銃を低く構えて進む斥候の姿が見えた。

「急いで下さい! 戻って来ました」

 何とかならないものかとビヨは周囲に目を走らせたが、広場には誰もいない。

「ルイ=ル=グラン学校に行こう」

 ビヨがシャルトル街に進路を取ると、ピトゥも後からついて来た。ところがベルトに付いている小銃吊りのことを知らなかったものだから、ピトゥは長い剣をずるずると引きずっている。

「何やってるんだ。屑屋じゃあるまいし。その棒きれを引っかけとけよ」

「何処にです?」

「ほら、こうだ」

 剣を腰に差してもらい格段に歩きやすくなったので、ピトゥもすたすたと進むことが出来た。

 二人は苦もなくルイ十五世広場まで来たが、そこでまた行列にぶつかった。廃兵院に向かった連中が難渋していたのだ。

「どうしたんだ?」ビヨが問うた。

「ルイ十五世橋を渡れないのさ」

「河岸は?」

「そっちもだ」

「シャン=ゼリゼーを抜ける道は?」

「駄目なんだ」

「なら引き返してチュイルリー橋を渡ろう」

 当然の話だった。人々はビヨに同意し、ビヨに従った。だがチュイルリー公園前の道では剣がその刃を光らせていた。河岸は騎兵隊に塞がれていた。

「糞ッ! また騎兵隊か。何処にでもいやがる」ビヨが吐き捨てた。

「ビヨさん、ボクらは捕まっちゃうんですね」

「五千人以上の人間が捕まえられるもんか。俺たちはそのくらいにはなるはずだ」

 騎兵隊がゆっくりと前に進んでいた。少しずつではあるが、確かに前に進んでいる。

「まだロワイヤル街がある。そっちから行こう」

 ピトゥは影のようにビヨにくっついた。

 だがサン=トノレ門(Porte-Saint-Honoré)の道も兵士の列で埋まっていた。

「おまえさんの言う通りだったのかもしらんな、ピトゥ」

 ピトゥは「はあ」とだけ答えた。

 だがその一言だけで充分だった。そこには悪い予感が当たったことに対する悔しさが込められていた。

 人波からどよめきが聞こえて来る。自分たちの置かれた状況に対し、ピトゥに劣らず動揺しているのだ。

 ランベスク公の働きにより五百人以上の野次馬や謀叛人が取り囲まれ、ルイ十五世橋、河岸、シャン=ゼリゼー、ロワイヤル街、フイヤン修道院の鉄門に閉じ込められてしまった。チュイルリー公園の塀に張られたの如く越えるのは難しく、ポン=トゥルナンの柵の如く打ち破るのもしがたかった。

 ビヨは状況を推しはかった。良くはない。だがそこは幾多の危険をくぐり抜けて来た男のように冷静沈着たらんとして、周りに目を走らせると、川岸に瓦礫が積んであるのが見えた。

「考えがある。来てくれ」

 どんな考えなのかたずねもせずに、ピトゥはビヨについて行った。

 ビヨは瓦礫に近寄り、一つつかむとピトゥに一言「手伝ってくれ」とだけ言った。

 ピトゥも何もたずねずにビヨに手を貸した。とは言えビヨのことは信頼していたから、共に地獄に堕ちようとも気にならない。地獄への階段は長く底も見えないと知らされる必要もない。

 ビヨが梁の端を持ち、反対端をピトゥが持った。

 常人なら五、六人いないと持てぬほど重い木材を二人きりで持ち帰った。

 如何なる時でも民衆は力を讃美する。道を埋めている人々は、ぎゅうぎゅう詰めだというのにビヨとピトゥに道を譲った。

 やがて、二人はみんなのために行動しているのだと気づいた人々が、ビヨの前に出て「どけろ! どけろ!」と連呼し始めた。

「ねえビヨさん」三十歩ばかり歩いたところでピトゥがたずねた。「このまま何処まで行くんですか?」

「チュイルリーの鉄門までさ」

「いいぞ! いいぞ!」意図を理解した群衆が声を和し、これまでより一層素早く道を開け始めた。

 ピトゥが見ていると、あれよあれよと言う間に鉄門まで三十歩ばかりの距離に近づいていた。

「行くぞ!」ピトゥはピタゴラスのように一言だけ発した。

 屈強な男たちが五、六人ほど手を貸したので、運ぶのも大分楽になった。歩く速度もぐんと上がった。

 五分後には鉄門の前まで到達していた。

「じゃあやるぞ」ビヨが言った。

「そっか、武器を運んでたんですね。古代ローマでひつじと呼ばれていた武器ですよね」

 梁を動かし、恐ろしい音と共に鉄門の閂に打ちつけた。

 チュイルリーの内側で歩哨に立っていた兵士たちが駆け寄り、侵入を防ごうとした。だが三度目の追突で門は一気に開き、大きく開いた暗い口から群衆がなだれ込んだ。

 ランベスク公は瞬時に悟った。さっきまでは囚人だった者たちに出口が出来てしまった。怒りに駆られて馬を前進させ、状況を見極めようとした。居並ぶ騎兵隊が突撃命令を受け、後に続く。いきり立った馬たちは抑えが効かない。騎兵たちもまた、パレ=ロワイヤル広場の雪辱を晴らさんとして、敢えて馬たちを止めようとはしなかった。

 この騒ぎを抑えることは出来ないだろう、と見て取ったドルレアン公は何の手も打たなかった。神に返報を祈る女や子供の悲痛な叫びがこだまする。

 闇中に繰り広げられたのは凄惨な光景であった。傷を負った者たちは苦痛に我を忘れ、傷を負わせた者たちは怒りに我を忘れていた。

 露台の高さから応戦が始まり、騎兵隊に椅子が投げつけられた。そのうちの一つがランベスク公の頭に当たり、七十歳ほどの老人が椅子を投げてもいないのに斬りつけられ、倒れた。

 それを見たビヨが怒りの声と共に肩口からカービン銃を撃った。たまたま馬が棒立ちにならなければランベスク公は死んでいたところだった。

 首を撃たれた馬がどうと倒れた。

 ランベスク公が殺されたと誤解した騎兵隊がチュイルリーになだれ込み、逃げ惑う人々に向かって銃弾を浴びせた。

 だが立錐の余地もないほどだった先ほどまでとは違い、人々は木陰に散らばって逃れた。

 ビヨは落ち着いてカービン銃に弾を籠め直した。

「糞ッ! 言う通りだったな、ピトゥ。俺たちは大変な時期に来ちまったらしい」

「ボクが勇敢になれていたら……」ピトゥは騎兵隊の真ん中に小銃をぶっ放した。「思ってるほど難しくはなさそうなのに」

「そうだな。だが役に立たなきゃ勇敢であっても何の意味もない。こっちへ来い、ピトゥ。剣に足を引っかけないように気をつけろよ」

「待って下さい、ビヨさん。見失ったら迷子になってしまいます。あなたと違ってパリのことは何にも知らないんです。来たのは初めてなんですから」

「早く来るんだ」

 ビヨは水際の露台を進み、河岸を進んでいる部隊を追い越そうとしたが、今回ばかりは部隊も速度を上げて、必要とあらばランベスク公の騎兵隊を応援しようとしていた。

 露台の端まで来るとビヨは欄干に跨り、河岸に飛び降りた。

 ピトゥも後に続いた。


Alexandre Dumas『Ange Pitou』Chapitre XI「La nuit du 12 au 13 juillet」の全訳です。


Ver.1 13/07/07

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*3. []
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