この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照《あずま・てる》
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アンジュ・ピトゥ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第十二章 一七八九年七月十二日から十三日の夜にかけて起こったこと

 二人が河岸に降りると、別の集団がチュイルリー橋の上で発砲しているのが見えた。どう考えても軍隊ではない。二人は河岸の端まで走り、セーヌ川の堤に沿って下に降りた。

 チュイルリーの時計が十一時を鳴らした。

 川岸のポプラが流れに根を浸している。ビヨとピトゥは葉陰までたどり着くと茂みに隠れ、話し合いを始めた。

 ビヨ曰く、問題は安全(だと思われる)地帯に留まるべきなのか、それとも朝まで続きそうな小競り合いの真ん中に飛び込んで行くべきなのかを判断することだ。

 そうしてビヨはピトゥの答えを待った。

 ビヨの中でピトゥの評価はぐんぐん大きくなっていた。前日見せた智識にしても、先ほど見せた勇気にしてもそうだ。ピトゥの方でもそれを直感的に感じ取っていたが、驕るどころかビヨへの感謝の念をますます深めるのだった。

「ビヨさんは勇敢ですし、ボクも自分で思っていたほど臆病ではありませんでした。ホラティウスはボクらなんかとは比べものになりませんが、でも詩の文句を信じるなら、初めは武器を捨てて逃げたというではありませんか。ボクには小銃も弾薬も剣もある。ホラティウスより勇敢な証拠ですよ」

「結論を言え」

「結論はですね、ビヨさん、勇敢な人間は銃で撃たれて死ぬかもしれないってことです」

「で?」

「それで、ですね。農場をあとにする際、パリに大事な用があると仰っていたので……」

「そうだ! 小箱だ」

「小箱を取り返すためにいらしたんですね?」

「その通りだ。ほかに用事があるもんか」

「銃で撃たれたら目的でもない用事のせいで死んでしまうことになりませんか」

「返す返すもおまえさんの言う通りだ」

「ものを壊す音や人の叫ぶ声が聞こえますよね?」ビヨの言葉に背中を押されてピトゥは続けた。「木が紙のように千切られ、鉄が麻のようによじられているんです」

「みんな怒ってるってことだ」

「でもボクには、王様も怒ってるように見えるんです」

「王だと?」

「違いますか? オーストリア兵、ドイツ兵、帝国兵(Kaiserlicks)と仰っていたのは、国王の軍隊なんですよね。だとしたら、撃ったのは国王の命令だったってことになります。国王がそんな命令をするなんて、きっと怒っていたに違いありません」

「そいつは正しく且つ間違っている」

「そんなはずはありません。論理学の勉強をしていれば、そんな逆説言いっこないのに」

「正しく且つ間違っているんだ。そのうちわかるさ」

「そうなればありがたいですけど……」

「いいか、ピトゥ。宮廷には二つの派閥がある。庶民が大事な国王派と、外国人オーストリア人が大事な王妃派だ」

「国王はフランス人で、王妃はオーストリア人ということですよね」ピトゥがわかったような口を利いた。

「まあ待て。国王にはチュルゴーとネッケルがついていて、王妃にはド・ブルトュイユとポリニャック夫妻がついている。国王には力はない。チュルゴーとネッケルを罷免せざるを得なかったんだからな。力を持っているのは王妃の方、つまりブルトゥイユ夫妻とポリニャック夫妻の方さ。世の中が悪いのはそのせいだ。すべては赤字déficit夫人のせいなんだ、ピトゥ。赤字夫人がお怒りだ、ゆえに夫人の名の許に突撃命令が出された。オーストリア人がオーストリア女のために戦う。これほど簡単なこともない」

「でもビヨさん、『déficit』というのはラテン語で『足りない』という意味ですよね。何が足りないんですか?」

「お金に決まってるだろう! お金が足りないんだ。王妃の寵臣がお金を食い潰しているせいでお金が足りないから、王妃は赤字夫人の名を頂戴しているのさ。これでわかっただろう? お怒りになっているのは国王ではなく王妃の方だ。国王は世の中が悪くなってゆくのを苦々しく思っているだけさ」

「それはわかりました。だけど小箱はどうなったんですか?」

「そうだった! 政治の話になるとそんなつもりのないことにまで首を突っ込んじまう。まずは小箱だったな。先にジルベール先生に会ってから、政治の話に戻るとしよう。神聖なる務めだからな」

「神聖なる務め以上に神聖なるものはありませんからね」

「ではルイ=ル=グラン学校に行こう。セバスチャン・ジルベールに会えるはずだ」

「行きましょうか」ピトゥはため息をついて言った。柔らかい草の上から離れたくなかったのだ。

 おまけにその夜の昂奮も何のその、うぶな心と怠い身体を司る眠気というご主人様が、アンジュ・ピトゥの良心と疲労の上に、罌粟を両手に舞い降り始めていた。

 ビヨは既に立ち上がっていた。ピトゥも腰を上げたところで、四半刻の鐘が鳴った。

「待てよ? 十一時半にはルイ=ル=グラン学校は閉まってしまうんじゃなかったか」

「確かそうですよ」

「それに夜中だと待ち伏せに遭うかもしれん。パレ=ド=ジュスティスの方に野営の明かりが見えた気がする。捕まって殺される可能性だってある。ピトゥの言う通りだ。俺は捕まって殺されるわけにはいかないんだ」

 ビヨがピトゥの耳に「おまえの言う通りだ」という、人間の自負心を突く一言を囁いたのは、朝からこれで三度目だった。

 ピトゥとしてはビヨの言葉を繰り返すよりほかなかった。

「あなたの言う通りです。殺されてはいけません、ビヨさん」

 草の上に寝転がりながら口にされたその言葉は、最後まで発音されることはなかった。彼声留咽喉Vox faucibus hæsit。起きていればすべて口にされたであろうが、やんぬるかなピトゥは眠りに落ちてしまった。

 ビヨはそれに気づかず、「一つ思いついたんだが――」と独り言つ。

 ピトゥは「ぐう」と返事をした。

「いいか、一つ思いついたんだが、俺がどんなに気をつけたところで、白兵で殺されたり、遠くから撃たれて死んだりする可能性はなくならないだろう。そんなことが起こった場合に備えて、俺の代わりにジルベール先生に伝えるべきことを教えておこう。だがみだりに口にしちゃならんぞ、ピトゥ」

 ピトゥは聞いていなかった。ゆえに返答しなかった。

「俺が致命傷を負って思いを遂げられなかった場合は、おまえさんが代わりにジルベール先生のところに行って伝えてくれ……ピトゥ、聞いているのか?」ビヨはピトゥを覗き込んだ。「おまえさんが伝えてくれ……畜生! いびきをかいているじゃないか」

 ビヨの昂奮もピトゥの睡眠の前に立ち消えになった。

「眠るとするか」

 文句も言わずに、連れの隣に身体を横たえた。如何に重労働に慣れた農夫と雖も、一日中走り通しのうえに今晩のような事件に遭遇しては、眠りの力に抗うすべもない。

 そうして二人が眠りに就いてから――いや前後不覚に陥ってから――三時間が経過した頃。

 二人が再び目を開けても、パリの貌からは前夜の険しさが失われてはいなかった。ただし兵士がいない代わりにそこら中に一般人がいた。

 急拵えの槍や、撃ち方もわからぬ銃や、金や象牙や螺鈿で飾られた用途も仕組みも理解できない旧時代の武器を手にしている。

 兵士たちが立ち去るとすぐにガルド=ムーブルに陣取ったのだ。

 人々は市庁舎に向かって二台の砲台を押して行った。

 ノートル=ダム、市庁舎、教区中に警鐘が鳴り響いた。見れば、人が湧き出ている――何処から? わからない――舗道の下から湧き出たように、着の身着のままに痩せさらばえた男女が、前日までは「パンを!」と叫んでいたように、今では「武器を!」と叫んでいる。

 一、二か月前からこの辺りに現れていた斯かる幽霊の集団ほど不気味なものはあるまい。物も言わず門を越え、パリに居坐り、墓地の屍鬼グールのように腹を空かしていた。

 その日、パリだけではなくフランス全土が飢えをきっかけとして、「我らに自由を!」と国王に訴え、「飢えを満たし給え!」と神に訴えていた。

 ビヨに続いてピトゥが目を覚ますと、二人はルイ=ル=グラン学校に向かった。見渡せば辺りは血塗れ。その惨状に肝を潰した。

 今日カルチェ・ラタンと呼ばれている地区に近づき、ラ・アルプ街を上り、目的地であるサン=ジャック街にたどり着くに至り、フロンドの乱の時代を髣髴とさせるバリケードが築かれているのが目に入った。女や子供が家の上まで運んでいた。二つ折り本。重い家具。それに貴重な大理石。敵兵がパリに古くからある曲がりくねった狭い路地に侵入しようものなら、押し潰されよう。

 やがてビヨも気づいた。集団の中にフランス近衛兵が何人かいて、てきぱきと人々を組織し、銃の操作法を教えている。女や子供が好奇心や学習意欲に燃えて訓練している

 ルイ=ル=グラン学校は叛乱中だった。生徒たちが立ち上がり、教師たちを追い出していた。ビヨとピトゥが門まで来ると、生徒たちがそこまで押し寄せている。校長も恐怖に負けたほどの迫力だった。

 ビヨはこの内乱を一目見るや、大声を出した。

「セバスチャン・ジルベールというのは?」

「僕です」女性のように美しい十五歳ほどの若者が声をあげた。三、四人で梯子を立てかけて壁を登り、門をこじ開けられるか確かめようとしていた。

「こっちに来てもらえないか」

「何のご用です?」セバスチャンがビヨにたずねた。

「この子を連れ出すつもりか?」校長が怯えて声をあげた。目の前の二人は武装しており、しかもジルベールに声をかけた方は血塗れなのだから当然だった。

 ジルベールの方は驚いて二人を見つめ、乳母子ピトゥの面影を探そうとしたが、最後に会ってからかなり大きく成長していたし、兵士のような恰好をしていたこともあって、まるで見分けがつかなかった。

「連れ出すだって? ジルベールさんの息子を? こんな騒ぎの中、どんな危険に遭わないとも限らないというのに。冗談じゃない」

「ご覧なさい、セバスチャン。ご覧なさい、怒れる者よ。ご友人はあなたを必要ともしていないのです。こちらの方々はご友人なのでしょう。よいですか、ご友人の方々。よいですか、若者たちよ、生徒たちよ」校長が声を張り上げた。「どうか私の言うことを聞きなさい。お願いですから言うことを聞いて下さい」

我当懇願Oro obtestorque」とピトゥが言った。

「先生。」ジルベールが若さに似合わぬ毅然とした声を出した。「生徒たちを引き留めたければ引き留めるのはかまいません。でも僕だけは外に出してもらえませんか」

 ジルベールは門に向かいかけたが、教師に腕をつかまれた。

 白い額の上に栗色の髪を散らし、ジルベールは反論した。

「先生、ご自分が何をやっていらっしゃるかご存じですか。僕をほかの生徒と同じだと思わないで下さい。僕の父は逮捕され、投獄されているわけで、いわば君主の支配下にあるんですから!」

「君主の支配下だと? おいおい、詳しく話してくれないか?」ビヨが息巻いた。

「間違いありません。セバスチャンの言う通りです」生徒たちも怒鳴り返す。「お父さんは檻の中なんです。民衆によって牢屋が破られたので、お父さんも牢屋から出られるんじゃないかと期待しているんですよ」

「畜生!」ビヨはヘラクレスのような腕で門を揺すった。「ジルベール先生が逮捕されただと! カトリーヌの言う通りだったじゃないか!」

「そうなんです、父は逮捕されてしまいました。だから僕はここから抜け出し、銃を手に、戦いに向かおうとしているんです。父を助け出すその時まで!」

 この言葉はあらゆる賛同の怒号を持って迎えられた。

「武器だ! 武器をくれ!」

 路上に集っていた人々がこれを聞いて正義感に駆られ、門に押し寄せ学生たちに自由を与えてやろうとした。

 校長が生徒と群衆の間に身を投げて倒れ込み、門にしがみついて懇願した。

「皆さん! この子たちのことを考えて下さい!」

「もちろん考えているさ」フランス近衛兵が応じた。「そのつもりだがね。この子たちなら立派にやり遂げてくれるだろう」

「皆さん、この子たちは親御さんが私を信頼して預けて下さったんです。私には命に替えてもご両親の期待に応える義務があります。お願いです、この子たちを連れて行かないで下さい」

 路上、つまり人混みの最後列から野次があがり、悲痛な懇願に応えた。

 ビヨが駆け寄り、近衛兵や民衆や生徒たちに反論した。

「この人の言う通り、そいつは神聖な義務だぞ。大人たちが戦い、殺され合おうとも、子供たちは生きなきゃならん。未来の種子とならにゃならんのだ」

 反論の呟きがあがった。

「文句があるのは誰だ? 父親でないのは確かだな。誰に口を利いていると思っているんだ、俺は昨日この手で人を二人殺して来たんだぞ。服に着いているこの血を見るがいい!」

 ビヨが血塗れの上着とシャツを見せると、その仕種に一同はどよめいた。

「昨日、俺はパレ=ロワイヤルとチュイルリーで殺し合いをして来た。この子もそうだ。だがこの子には父も母もいない。それにほとんど大人だしな」

 ピトゥは胸を張ってみせた。

「今日も命のやり取りをすることになるだろうが、『パリの人間は弱くて外国兵と戦うことも出来やしない。子供の手を借りていた』だなんて言わせないでくれよ」

「その通りだ! 子供たちはすっこんでな!」女や兵士の声がこだました。

「ありがとうございます」校長は門の向こうにあるビヨの手をつかもうとした。

「誰よりもセバスチャンのことをよろしく頼む」

「頼むですって? 僕は誰にも頼まれたりはしませんよ」セバスチャンは顔を怒りに染めて、連れ戻そうとしている使用人たちと揉み合った。

「中に入れてくれ。俺が説得する」ビヨが言った。

 人混みが割れ、ビヨは学校の庭に足を踏み入れた。後ろからピトゥもついて行った。

 既に近衛兵数人と歩哨の一団が門を守り、暴れる生徒たちを遠ざけていた。

 ビヨは真っ直ぐセバスチャンに歩み寄り、節くれ立った大きな手で、白く華奢な手を包み込んだ。

「セバスチャン、俺のことがわかるか?」

「わかりません」

「ビヨと言って、お父さんの土地で農夫をやっている」

「あなたでしたか」

「この子は知っているな?」

「アンジュ・ピトゥです」

「そうです、セバスチャン、ボクですよ」

 ピトゥは大喜びで、乳母子であり学友でもある青年の首にしがみついた。

「どうしたんです?」それでもセバスチャンの顔に明るさは戻らなかった。

「どうしたって……お父さんが捕まったんなら、取り戻すに決まってるじゃないか」

「あなたが?」

「俺だよ。それに一緒にいる人たちだ。俺たちは昨日、オーストリア兵と戦ったんだ。ほらこの通り弾薬も手に入れた」

「その証拠にほら、ボクも持ってます」ピトゥも言った。

「俺たちに助け出せないと思うか?」ビヨが一同を煽った。

「俺たちなら助け出せるとも!」

 セバスチャンは悲しげに首を横に振った。

「父はバスチーユにいるんです」

「何だって?」

「わかるでしょう? バスチーユは難攻不落です」

「だったらどうするつもりだったんだ?」

「広場に行くつもりでした。小競り合いが起これば、鉄格子の嵌った窓越しに、僕の姿を見つけてくれるはずです」

「出来るわけがない」

「出来ない? どうしてです? 以前友人たちと歩いていた時、囚人の顔を見たことがあります。同じように父の顔が見えれば僕にはわかりますから、『安心して、父さん』と声をかけられます」

「バスチーユの兵士に殺されたらどうする?」

「父の目の前で殺せばいいんです」

「糞ッ垂れ! 何て子だ、父親の目の前で殺されに行くなんて。悲しみのあまり牢屋で死んじまうぞ。ジルベールさんには君しかいないんだ。それほど愛してるんだ。冷たい子だな」

 ビヨはセバスチャンを押し返した。

「本当に冷た過ぎますよ!」ピトゥも泣きじゃくって和した。

 セバスチャンから応えはない。

 無言で考え込んでいるのを、その白くつやつやした顔や、燃えるような目や、薄く冷たい口唇や、鷲のような鼻や、逞しい顎を見て、魂はもちろん血も貴族なのだと、ビヨは感心して眺めていた。

「お父さんはバスチーユにいると言ったな?」

「ええ」

「理由は?」

「ラ・ファイエットやワシントンの友人だからです。アメリカ独立のために剣を取って戦い、フランス独立のためにペンを取って戦ったからです。専制を憎む人間なのだと両世界で知られてしまったからです。人々を苦しめるバスチーユを恨んでいたからです……だから逮捕されてしまいました」

「いつのことだ?」

「六日前です」

「何処で?」

「ル・アーヴルで船から降りたところを」

「どうやって知った?」

「手紙を受け取ったのです」

「ル・アーヴル発の?」

「ええ」

「逮捕されたのもル・アーヴルで?」

「リルボンヌ(Lillebonne)です」

「そんなに嫌がらないで、知っていることを教えてくれ。約束しよう、バスチーユ広場に骨をうずめることになっても、君を父さんに会わせてやる」

 セバスチャンはビヨを見つめ、その言葉が心の底からのものだと認めて態度を和らげた。

「リルボンヌでは本に書き込みするだけの時間があったのです。

『セバスチャン、私は逮捕されてバスチーユに連行される。我慢だ。希望を忘れず、勉学に励みなさい。

 リルボンヌ、一七八九年七月七日

 追伸 罪状は「自由」だ。

 パリのルイ=ル=グラン学校に息子がいます。この本を見つけた方はどうか、息子に届けて下さい。息子の名はセバスチャン・ジルベールといいます。』」

「その本はどうなった?」ビヨは待ちきれずに叫んだ。

「金貨を紐で結んで、窓から投げられたんです」

「それから……?」

「村の主任司祭がそれを見つけて、教区の若者に伝えたのです。『十二フランで家族にパンを買ってやりなさい。残りの十二フランで、父親を逮捕されたばかりのパリのこの子のところまで、この本を届けてやりなさい。人を愛し過ぎたがゆえに逮捕されたこの方のために。』若者が到着したのは昨日の昼でした。そうして僕に父の本を手渡してくれました。こういう経緯で父が逮捕されたことを知ったのです」

「なるほどなあ! これで司祭の連中とも仲良く出来そうだ。もっとも、全部が全部その司祭みたいな人じゃないだろうが。で、その若者は何処に?」

「昨晩帰りました。持っていた十二リーヴルのうち家族に五リーヴル渡したがっていました」

「いい話だな!」ビヨが歓喜の涙を流した。「人間ってのはいいもんだ。さあ続きだ、ジルベール」

「でも、後はご存じです」

「そうだな」

「事情を教えて差し上げたら、父を取り返してくれるって言いましたよね。こうしてお話ししたんですから、約束は守って下さい」

「俺が言ったのは、お父さんを助けられないのなら死んだ方がましだってことさ。それはともかく本を見せてくれないか」

「これです」セバスチャンはポケットから『社会契約論』一巻を取り出した。

「お父さんの書き込みは何処に?」

「ここです」

 ビヨはそれに口づけし、

「もう安心していいぞ。俺がバスチーユまでお父さんを捜しに行ってやる」

「そんな! いったいどうやって政治犯に会うのです?」校長がビヨの手を握った。

「バスチーユを占拠すればいい」

 これを聞いて笑い出す近衛兵がいたと思う間もなく、嘲笑はあっと言う間に広がっていた。

「おいおい」ビヨの目に怒りの火が灯った。ぐいと睨みつけ、「だったらバスチーユとは何なんだ? 教えてくれ」

「岩だよ」兵士が言った。

「鉄だ」別の兵士が言った。

「それに火。燃やされないように気をつけ給え」三人目の兵士も言った。

「そうだ、燃やされてしまうぞ」怯えた群衆が繰り返した。

「パリの人々よ! つるはしを持っていながら岩を恐れ、鉛を手にしながら鉄を恐れ、火薬を掌中に収めながら火を恐れるとはどういうことだ。臆病者、卑怯者、奴隷根性の野郎どもしかいないのか? 俺やピトゥと一緒に国王のバスチーユを襲う勇敢な奴らはいないのか? 俺の名はビヨ、イル=ド=フランスの農夫だ。行くぞ!」

 ビヨの勇気は気高さの域に達していた。

 ぐつぐつと煮えたぎった人々が叫んだ。「バスチーユへ!」

 セバスチャンはビヨにしがみつこうとしたが、やんわりと押し戻された。

「なあ、お父さんは手紙の最後に何て書いていた?」

「勉学に励みなさい、と」

「だったらここで勉学に励むといい。俺たちは向こうで一励みしてくる。勉学じゃなく殺し合いにだけどな」

 セバスチャンは黙り込んでしまった。顔を両手で覆い、抱きかかえたピトゥの指をつかむことさえ出来ずにひきつけを起こして倒んだため、医務室に連れて行かれた。

「バスチーユへ!」ビヨが叫んだ。

「バスチーユへ!」ピトゥも叫ぶ。

「バスチーユへ!」人々も和した。

 そして一同はバスチーユへ向かった。


Alexandre Dumas『Ange Pitou』Chapitre XII「Ce qui se passait dans la nuit du 12 au 13 juillet 1789」の全訳です。


Ver.1 13/08/03

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[註釈]

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*2. []
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*3. []
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