中断は一時的なものだったし、たったいま王妃を突き動かしている二つの嫉妬という感情に何の変化ももたらさなかった。女としての愛情に関わる嫉妬と、王妃としての権力に関わる嫉妬だ。
結果として、一周目で論じ尽くされたように見えながらその実は表面をなぞっていただけの会話が、これまでにも増して鋭く甦ろうとしていた。さながら戦場にて、ぽつぽつとした点上を攻撃していた第一射撃が止んだ後、戦を決定づける第二第三の射撃がありとあらゆる線上に放たれるのに似ていた。
そのうえ事態がこうなってしまっては、王妃はおろか伯爵にも言い訳の必要がありそうだった。そこで扉が閉められると、伯爵の方から口を開いた。
「私が戻って来たのは妻のためなのかとおたずねになりましたね。ということは陛下はお忘れなのですか? 二人の間で交わした約束を。私が誠実な人間だということを」
「ええ」王妃は首を傾けた。「約束を交わしました。あなたは誠実な方です。わたしの幸せのために身を捧げると誓って下さった。だからこそ苦しんでいるのです。わたしの幸せのために身を捧げるということは、高貴な女と気高い人間と……それに罪に身を捧げるということなんですから」
「そこまで言う必要はありません。ただ一言、私が誠実な男らしく約束を守ったと言って下さればよいのです」
「そうですね。どうかしていたんです。許して下さいな」
「偶然と必然から生まれたものを罪と呼ぶことは出来ません。偶然と必然が結びついたところで、王妃の名誉を守ることしか出来ませんでした。嘆いてみても始まりません。四年というもの私が耐え忍んで来たように、もはや耐えることしか出来ないのです」
「わかっています。でも。でも、わたしにあなたの苦しみがわからないと、あなたの悲しみが理解できないと思っているのですか? 深い敬意という形で姿を見せている苦しみや悲しみのことが、何もわからないと思っているのですか?」
「お願いです」伯爵が頭を下げた。「私が味わっている苦しみだけではまだ足りず、周りの人間にかける苦労もまだ足りないというのなら、教えて下さい。私にも周りの人間にも倍の苦痛を与えましょう。いくらあなたに身を捧げたところで永遠に届かないことはよくわかっているのですから」
王妃は伯爵に手を伸ばした。伯爵の言葉には抗いがたい力があった。実直で熱烈な心からあらゆるものが発していた。
「命じて下されば従います。ご命令を恐れないで下さい」
「ええ、わかってますとも。わたしが間違っていました。わかっています、ごめんなさい、そうですよね。でも、密かに敬意を捧げている胸に秘めた偶像がおありなら……あなたにとって世間の何処かに憧れの女がいるのなら……もうそんな言葉は口にしません。恐ろしすぎます。いつその言葉が空気を震わせ耳をおののかせるのかと気が気ではありませんから。もし誰にも知られていないそんなひとがいるのなら、どうか忘れないで下さい、誰の目にも明らかな、あなたからもほかの人からも隠れもしない、若く美しい女(une femme jeune et belle)がいることを……あなたが細やかに欠かさず世話をしている女がいることを。あなたの腕にもたれながら、あなたの心にももたれている女がいることを」
オリヴィエが眉をひそめた。端整な顔立ちが一瞬だけ歪んだ。
「何を仰りたいのですか? シャルニー伯爵夫人を遠ざけろと? 黙っておしまいになりましたね。図星ですか? ご命令にならいつでも従うつもりでおります。けれどご存じの通り、妻は孤独な身の上。孤児なのです。お父君のタヴェルネ男爵は昨年亡くなりました。今現在起こっている出来事を目にするのを拒んだかのように、古き時代の立派な貴族らしく亡くなりました。兄君のメゾン=ルージュが姿を見せるのはせいぜい一年に一度、妹を抱き寄せ、王妃陛下にご挨拶した後、立ち去ってからどうしているのかは誰にもわからないのです」
「ええ、すべて知っています」
「よくお考え下さい。わたしが神の御許に呼ばれてしまえば、天使たちの中でもひときわ清らかな天使も、如何なる夢を見ようと如何なることを考えようとも妻であった時の言葉も名前も記憶も思い出すことなく、娘時代の名前を取り戻すことが出来るでしょう」
「ええ、わかっています。アンドレは地上の天使、愛されて当然のひとだと。だからこそ、未来はアンドレのものであり、わたしからは遠ざかっていると考えているのです。どうか伯爵、お願いです、それ以上は言わないで。王妃らしくない口を利いて申し訳ありません。我を忘れていました、けれどどうしろと?……わたしの心の中には、不幸や戦争や死を囁く忌まわしい声の隣で、いつも幸福や喜びや愛を歌っている声がするのです。わたしが生き延びて来た若き日の声です。シャルニー、許して下さい、わたしもいつかは若くなくなるし、もう二度と微笑むことも、人を愛することもないでしょう」
王妃が細く痩せた手に目を落とした。ダイヤの涙が指の間からこぼれ落ちた。
シャルニー伯爵はまたしてもひざまずかざるを得なかった。
「お願いですから、あなたから離れて、逃げ出して、死んでしまえとお命じになって下さい。あなたが泣いているところをもう見たくはないのです」
そう言っている伯爵自身の言葉も嗚咽にまみれていた。
「もう終わりです」マリ=アントワネットは顔を上げてゆっくりと首を横に振り、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
そうして愛らしい仕種で髪粉のついた髪を後ろに払うと、白鳥のように白い首に髪が降りかかった。
「ええ、そう、もう終わりです。これ以上あなたを悲しませたりはしません。こんな馬鹿げたことはすべて忘れてしまいましょう。王妃としてしっかりしていなければならない時に、弱い女でいるなんておかしな話。パリからいらしたんでしたね? その話をしましょう。あなたから聞くまですっかり忘れていましたが、事態は極めて深刻なのですね、シャルニーさん?」
「ええ、話を戻しましょう。仰る通り、事態は極めて深刻だと申し上げました。仰る通りパリから駆けつけました。王権が崩壊するのをこの目で見て来たのです」
「深刻だと仄めかしてみたのは正しかったようですね、けちけちせずに教えてくれたのですから、シャルニーさん。暴動が成功したのを、あなたは王権の崩壊と呼びましたね。バスチーユが占拠されたから、王権が停められたと言うのですか。お忘れですよ、バスチーユがフランスに根づいたのは十四世紀からのことに過ぎませんし、王権は六千年前から世界中に根を張っているのです」
「自分を誤魔化かせたらどんなによかったでしょうか。せめて陛下のお心を悲しませぬよう、少しはましな報せをお伝えいたします。生憎なことに楽器には決まった音しか出せはしないのです」
「もうよい。わたしがあなたを支えて見せましょう、一人の女として、正しい道に連れ戻して見せましょう」
「それ以上の望みはありません」
「パリの民衆は叛乱を起こしたのですね?」
「はい」
「内訳は?」
「八割ほどです(douze sur quinze)」
「その数字をどうお考えです?」
「考えるまでもありません。この国の八割が庶民に当たり、残りの二割が貴族と聖職者で構成されているのですから」
「その数字は確かなものなのでしょう。ご自身の口にすることはよくわかっておいででしょうから。ネッケル父娘の著作を読んだことが?」
「ネッケル氏のものでしたら」
「上手い言葉があります。裏切りは身内にあり。わたしにはわたしの数字があります。聞きたいかしら?」
「謹んで」
「八割の内、半数は女ですね?」
「仰る通りですが……」
「最後まで聞いて。八割の半数が女ですから、残りが四割。一割半が動けない老人や無関心な人間だと考えては多すぎますか?」
「いいえ」
「残りの二割半のうち、半数は臆病者や不熱心な者と考えることにしましょう。これでもフランス人を評価しているのですよ。残った一割強の者たちが、狂信的な者、意志の堅い者、勇敢な者、戦好きな者(enragés, solides, vaillants et militaires)だと考えて下さい。これはパリのことだけを考えた数字です。地方のことを考えても仕方ありませんから。奪い返す必要があるのはパリだけですもの」
「それはそうですが……」
「『ですが』ばかり……返答は後になさい」
シャルニー伯爵は頭を下げた。
「パリの人口の一割、わたしは十万人と見積もりました。如何です?」
今回は伯爵は答えなかった。
王妃が答えた。
「ろくに武器も持たず、規律もなく、訓練も受けていないその十万人は及び腰です。自分たちが悪いことをしていると自覚しているからです。その十万人にわたしは、欧州中にその名を知られた勇敢な兵士五万人をぶつけましょう。シャルニーさん、あなたのような将校をです。さらには神権という名の不可侵な大義を。それにわたしの魂という、感じやすく壊れにくいものを」
伯爵はなおも沈黙を守った。
「このたびの戦に於いて、平民二人に、軍人一人を上回る働きが出来るとお考えですか?」
伯爵は無言だった。
「正直に答えなさい。あなたの考えは?」
「陛下」伯爵がついに口を開いた。とうとう王妃に命令までされては、いつまでも口を控えてばかりもいられない。「規律も武器も持たないばらばらの人間が十万人集まっているだけの戦場に於いては、軍人が五万人いれば半時間で片がつくでしょう」
「つまりわたしの考えは正しかったと」
「そうではございません。まず、パリで暴動を起こしたのは十万人ではなく五十万人です」
「五十万人?」
「まさしく。陛下は女と子供を数にお入れになりませんでした。誇り高き勇敢な女性でいらっしゃるフランス王妃陛下! どうかパリの男と同じように、パリの女も数にお入れ下さい。いつの日か、パリの女を悪魔として数えなければならない日が来るのです」
「つまり?」
「女性が内戦でどのような役割を担っているかご存じですか? ご存じないのならお教えしましょう。女一人に兵士二人でも足りないくらいです」
「気が違ったのですか、伯爵?」
シャルニー伯爵は悲しげに微笑んだ。
「バスチーユで女たちをご覧になりましたか? 砲撃の下、弾丸の中、兵たちに叫び、武装したスイス兵に拳を振り上げ、死んだ者たちを踏み越えて罵声を浴びせ、その声で生きている者たちを飛び上がらせたのです。
「スパルタは三百の戦力でクセルクセス(Xerxès)の軍勢を破ったではないか、シャルニー殿」
「その通りです。しかし現在の状況では、三百人のスパルタ兵とは八十万のパリ市民であり、五十万の兵士がクセルクセスの軍隊に当たるのです」
王妃は拳を握り締めて立ち上がった。顔は怒りと恥辱で真っ赤になっていた。
「わたしが玉座から転がり落ちるというのか、五十万のパリ市民に八つ裂きにされて殺されるというのか。わたしに尽くしているはずのシャルニーという男にこんな話し方をされとうはない!」
「こんな話し方をするのも、やむにやまれぬゆえのこと。あなたの仰いますシャルニーという男には、祖先に恥じぬ血が流れておりますし、あなたに尽くすに相応しい血が流れているのです」
「ではわたしと二人でパリに向かい、一緒に死のうではないか」
「惨めにも戦う機会さえ持たずに。立ち向かうことさえせず、ペリシテ人やアマレク人(des Philistins ou des Amalécites)のように死ぬのです。パリに向かう? 現状をご存じなのですか? 私たちがパリに着いた途端に、紅海の波に押し潰されたファラオのように、崩れた家に押し潰されてしまいます。あなたはフランスに汚名を残し、お子様たちは狼の子らのように屠られてしまうでしょう」
「わたしがどのように死ぬと?」王妃は尊大にたずねた。「どうか聞かせてもらえますか」
「生贄として」シャルニー伯爵は恭しく答えた。「王妃の死に相応しく、石もて投げ打つ者たちに微笑みと許しを与えて。私と同じ人間が五十万いれば、『発きましょう。今宵発ちましょう。今すぐ発ちましょう』と申し上げることも出来ますし、明日にはあなたにチュイルリーの統治をお約束し、玉座を取り戻すことも出来るのですが」
「では諦めているのですか? あなたに希望を託しておりましたのに」
「仰る通り諦めております。フランス中がパリと考えを同じくしておりますし、軍隊もパリでは勝利を収めてもリヨンやルーアンやリリーやストラスブールやナントをはじめとした幾多の飢えた町々には呑み尽くされてしまうでしょう。どうか勇気を持って、剣を鞘にお収め下さい」
「嗚呼こんなことなら周りに勇敢な人間を集めておけば。そして勇気を囁いておけば」
「私の考えが受け入れられないというのなら、ご命令を。今夜にでもパリに向かいましょう。さあどうぞ」
伯爵の提案には忠誠の意が満ちていたにもかかわらず、王妃にはそれが拒絶よりも恐ろしかった。王妃は狂ったように長椅子に身を投げ、しばらく自尊心と戦っていた。
やがて顔を上げ、
「何もせずにいろ、と?」
「僭越ながらそれがよろしいかと」
「そうしておきましょう。戻りなさい」
「もしやお怒りになりましたか?」伯爵は愛情に溢れた顔に悲しみを滲ませて王妃を見つめた。
「いいえ。手を」
伯爵は身を屈めて手を差し出した。
「一つ文句がありますの」マリ=アントワネットは微笑もうとした。
「何でしょうか?」
「ご兄弟がいらっしゃるでしょう。わたしが知ったのはたまたまだったんですよ!」
「と言われましても」
「今晩、ベルシュニー(Bercheny)軽騎兵隊の若将校さんが……」
「ああ、ジョルジュですか!」
「どうしてこれまで教えて下さらなかったの? どうして聯隊の幹部に就任してらっしゃらないの?」
「まだまだ若く未熟者ですから、指揮官が務まるような器ではございません。それに陛下がシャルニーの名で呼び私に目を留めて友情をお掛け下さろうとしているからといって、もっと相応しい勇敢な貴族たちを押しのけてまで血の繋がった弟たちを高い地位に据えていいような理由などございません」
「というと、ほかにもご兄弟が?」
「はい、兄二人と同じく、陛下のために死ぬ覚悟は出来ております」
「望みはないの?」
「ありません。生きているだけでも結構なうえに、陛下のお足許にひざまずく幸運を授かっているのですから」
この言葉を聞いた王妃がその忠誠心に心を穿たれ、その威厳に胸を打たれていた瞬間、隣の部屋から呻き声が聞こえたために、二人ともはっとなった。
王妃が立ち上がって戸口に駆け寄り、扉を開くと悲鳴をあげた。
絨毯の上でひきつけを起こしている女がいた。
「伯爵夫人だわ! 聞かれてしまった」王妃がシャルニー氏に囁いた。
「そんなはずはありません。声が聞こえるのならそう陛下にお伝えしていたはずです」
伯爵はアンドレに駆け寄り、抱き起こした。
王妃はそばに立ち尽くしたまま、不安で凍えて、青ざめ、胸を波打たせていた。
Alexandre Dumas『Ange Pitou』Chapitre XXVIII「Olivier de Charny (suite)」の全訳です。
Ver.1 15/04/18
[訳者あとがき]
[更新履歴]
[註釈]
▼*1. []。
[↑]
▼*2. []。
[↑]
▼*3. []。
[↑]