アンドレが意識を取り戻し始めた。介抱されているともわからぬまま、直感的に助けが来たことは理解した。
身体を起こして、思いがけない助け船にしがみついた。
だが心までは甦らなかった。心はしばらくの間ぐらついたまま、怯えたように、半睡半醒を彷徨っていた。
シャルニー氏はアンドレを肉体的に目覚めさせると、今度は精神的に目を覚まさせようとした。だが心はいつまでも恐ろしく凝り固まった狂気にだけしがみついていた。
ようやくのこと、アンドレは怯えた目を向けると、誰に抱き起こされているのかも気づかずに発作的に悲鳴をあげて、シャルニーを乱暴に押しやった。
その間中、王妃は目を背けていた。女である王妃の務めは、自分が見捨てた女を慰めたり元気づけたりすることだったはずなのに。
シャルニーは抗おうともがくアンドレを逞しい腕で抱えると、振り返って冷たく強張ったままの王妃に話しかけた。
「何か恐ろしいことがあったに違いありません。シャルニー夫人は普段から失神するような質ではありませんし、そもそも意識を失くしたのを見るのは今日が初めてのことです」
「ひどくつらいことがあったのでしょう」王妃の頭からは、アンドレに会話をすっかり聞かれたのではないかという漠とした疑いが消えなかった。
「仰る通りつらそうに見えます。ですから陛下にお許しを願って、部屋まで連れて行かせようと思うのですが。侍女たちに世話させなくては」
「そうなさい」王妃が呼鈴に手を伸ばした。
すると銅が鳴り響くと共に、アンドレが身体を強張らせ、うわごとを叫んだ。
「ジルベール! ジルベールだわ!」
この名前を聞いて王妃は身体を震わせ、伯爵はぎょっとして妻の身体を長椅子に降ろした。
ちょうどこの時、鈴に呼ばれてやって来た使用人が入室した。
「用はありません」王妃は退がるように合図した。
二人きりになった伯爵と王妃は目を交わした。アンドレの瞼がまた降りている。どうやら悪い徴候ではないか。
シャルニー伯爵は膝を突いて、長椅子の上にアンドレを横たえた。
「ジルベールですか」王妃が繰り返した。「ジルベールという名を聞いたことは?」
「調べてみなくてはなりませんね」
「聞き覚えがあるような気がするんです。伯爵夫人の口からジルベールという名を聞いたのは初めてではないような気がします」
ところが王妃に思い出されては困るとでもいうように、痙攣のさなかに火をつけられたように、アンドレは目を開いて腕を宙に伸ばし、懸命な努力をして身体を起こした。
今度ははっきりとシャルニー伯爵に目を向け、それが誰なのかを認めて、穏やかな炎で伯爵を包み込んだ。
そんな無意識の振舞に禁欲的な心が耐えかねたのか、アンドレは目を背けて王妃を見つけた。
アンドレは慌てて頭を下げた。
「さあどうしたんだ?」シャルニー伯爵がたずねた。「あんなに強くて勇敢なお前が、失神するほど怯えていたなんて?」
「パリであんな恐ろしいことが起こっていますのに。殿方も震えていますもの、女なら気を失ってしまいますわ。パリから離れていたんですね、よかった」
「お前の具合が悪くなったのは、私のことが心配だったからだというのか?」シャルニーは疑わしげにたずねた。
アンドレは改めて夫と王妃を見つめたが、何も答えなかった。
「決まってるじゃありませんか。どうしてお疑いになるんです?」マリ=アントワネットが代わりに答えた。「伯爵夫人は王妃ではありませんもの、夫を心配する権利くらいあるでしょう」
シャルニーはその言葉の下に嫉妬が潜んでいるのを感じ取った。
「伯爵夫人が心配しているのは、私のことなどより陛下のことにほかなりません」
「もうよい。この部屋で気を失ったのはどういう訳で、どういういきさつがあったのですか、伯爵夫人?」マリ=アントワネットが質した。
「お話しすることなどできません。わたくしにもわからないのですから。それでも、このようにつらく恐ろしく心に負担のかかる生活をもう三日も続けていれば、女が失神してしまうのもごく当たり前のことかと存じます」
「そうなのでしょうね」王妃が呟いた。心の中に踏み込まれるのをアンドレが嫌がっていることに気づいたのだ。
「それに――」アンドレはひとたび落ち着くと、もはや抑えを失くすことはなかった。とは言え難しい局面のせいでますます負担が強まって来ると、そうした落ち着きがうわべのものでしかないことも、人間らしい感情を覆い隠していることも、自明であった。「陛下の目も潤んでいらっしゃいます」
最前の王妃の言葉のように、今度は妻の言葉に皮肉が込められていることに、伯爵は気づいた。
「アンドレ」伯爵の声には常ならぬ厳しさがあった。「王妃陛下が目に涙を浮かべていても驚くには当たるまい。陛下の愛していらっしゃる国民が血を流しているのだから」
「幸いにして
「うむ。だが当面の問題は陛下のことではなくお前のことだ。陛下のお許しがあればお前の話に戻ろうじゃないか」
マリ=アントワネットは同意の印にうなずいた。
「怯えていたんだな?」
「わたくしが?」
「それに苦しんでいた。否定はさせない。非道い目に遭ったんだな。どんなことだ? 知らないけれど、聞かせてくれるね」
「勘違いなさっています」
「誰か非難すべき相手がいるのか? 男か?」
アンドレが青ざめた。
「誰かを非難する謂れはありません。わたくしは国王陛下のお部屋から参ったのです」
「真っ直ぐ?」
「真っ直ぐ。陛下もお認めくださいます」
「そういう訳なら、言い分は伯爵夫人にあるのでしょう」マリ=アントワネットが言った。「国王陛下も伯爵夫人のことは大事になさっていますし、わたしがとても大切に思っていますからどんなことがあっても傷つけたりはしないということをご存じですもの」
「でも」シャルニーは引かなかった。名前を口にしたではないか」
「名前ですか?」
「ああ。目を覚ました時に」
アンドレは助けを求めるように王妃を見つめた。だが王妃はそれを汲み取ることが出来なかったのか、はたまた汲み取ろうとはしなかった。
「ええ、ジルベールという名を口にしましたよ」
「ジルベール? わたくしがジルベールと言ったのですか!」アンドレの声があまりに恐怖にわなないていたため、伯爵も妻が気絶した先ほどよりもその声を聞いた今回の方が不安を感じたほどだった。
「ああ。確かにそう言った」
「そうですか。おかしなこと」
稲妻に裂かれた天がすぐに閉じるように、恐ろしい名前を聞いて激しく歪んだ顔が徐々に落ち着きを取り戻し、今では顔の筋肉もかろうじて震えているくらいで、雷光の名残も残らず地平線に消えてしまった。
「ジルベールですか。知りません」
「ジルベールですよ。思い出してご覧なさい、アンドレ」王妃が名前を繰り返した。
「けれど陛下」伯爵がマリ=アントワネットに言った。「先ほどのはたまたまで、思い出そうにも覚えがないのでは?」
「いえ」アンドレが答えた。「覚えはありました。アメリカ帰りの学者で名医だとか。あちらでラ・ファイエットと親しくしていたそうです」
「本当かい?」
「もちろんです」アンドレはごく自然に答えた。「個人的には存じ上げませんが、大変に立派な方だという評判です」
「だったら、どうしてそんなに動揺しているの?」王妃がたずねた。
「わたくしが動揺していると仰るのですか?」
「ええ、ジルベールという名を口にした時には、拷問でも受けているように苦しんでいたもの」
「そうかもしれません。あんなことがあったんですもの。国王陛下のお部屋で、黒い服を着て険しいお顔をした殿方から、ぞっとするような恐ろしいお話を聞きました。ローネー殿とフレッセル殿が殺された際の実際のお話を聞かされたんです。それで気分が悪くなって、ご覧になったように気絶してしまったんですわ。そんなことがあったので、ジルベールさんの名前を口にしてしまったのかもしれません」
「そうかもしれないな」シャルニー氏にはもうそれ以上は問いつめる気がないようだった。「だが今はもう落ち着いたんだな?」
「すっかり」
「だったら一つ伯爵にお願いしたいことがあるんです」王妃が言った。
「仰せのままに」
「ブザンヴァルさんとブログリーさんとランベスクさん(MM. de Besenval, de Broglie et de Lambesc)のところに行って、部隊を今いる宿営地から動かさないようにと伝えて来て欲しいのです。国王陛下が明日、すべきことを会議で示して下さいます」
シャルニー伯爵は腰を屈めたが、退出間際に今一度アンドレに目を向けた。
その眼差しには優しさと気遣いが溢れていた。
王妃はそれを見逃さなかった。
「伯爵夫人、一緒に国王陛下のところに戻りませんか?」
「ご遠慮いたします」アンドレは即座に答えた。
「それはどうして?」
「お部屋に退るお許しをいただけないでしょうか。あまりにもいろいろなことが多すぎたので、しばらく休んで心を落ち着かせたいのです」
「包み隠さず仰い。国王陛下と何かあったのですか?」
「とんでもございません」
「何かあったのなら仰い。陛下は時々わたしの友人に冷たくなるんですから」
「国王陛下はいつもと変わらずお優しかったのですが……」
「なのに会いたくないと? やっぱり隠しごとがあるようよ、伯爵」王妃ははしゃいでみせた。
然るにアンドレが王妃に向かって訴えかけるような懇願するような無言の言葉に満ちた眼差しを送って来たため、もうそろそろ終戦する頃合いが来たのだと王妃も悟った。
「では伯爵夫人、シャルニーさんには先ほどの言伝を頼みますから、あなたはお部屋に戻るなりここに残るなり好きになさい」
「ありがとうございます、陛下」
「ではお願い、シャルニーさん」そう言ったマリ=アントワネットは、アンドレの顔に感謝の表情が広がっているのを見逃さなかった。
その表情にシャルニー伯爵は気づかなかったのか、或いは気づこうとしなかったのか、妻の手を取り体力と顔色が戻って来たことを喜んだ。
そして王妃に恭しく腰を屈めて退出した。
だが出しなに今一度王妃と目を交わした。
王妃の眼差しは「早く戻っていらして」と告げ、
伯爵の眼差しは「出来るだけ早く戻ります」と応えていた。
アンドレは胸を詰まらせ波打たせて、夫の動きの一つ一つを目で追っていた。
ゆっくり堂々と扉に近づいてゆく夫の足取りを、まるで祈りによって早めようとしているようだった。アンドレは意思の力で夫を部屋の外に押し出した。
だから扉が閉まって夫の姿が見えなくなると、事態に立ち向かおうとかき集めていた力のすべては消えてしまった。顔から血の気を失い、足の感覚を失くし、そばにあった椅子に倒れ込みながら、それでも礼を失したことを王妃に詫びようとあがいた。
王妃が暖炉に駆け寄り、塩壺をつかんでアンドレに嗅がせた。しかしながら今回すぐに意識を取り戻したのは、王妃の介抱が原因ではなくアンドレ自身の意思の力によるものだった。
それというのも、二人の間にはおかしな雰囲気が漂っていた。見たところ王妃はアンドレを可愛がっていたし、アンドレは王妃を敬愛していた。しかしながら、ある瞬間には、愛情深い王妃でも献身的な侍女でもなく、二人は敵同士のように見えた。
そういうわけでアンドレは強い意思の力で正気を取り戻した。一人で立ち上がって王妃の助けを恭しく断り、頭を下げた。
「申し訳ありませんが、どうか退出のお許しをいただけましたら……」
「もちろんです。いつだって好きになさい。作法など忘れて結構。だけどその前に、話すことがあるんじゃない?」
「話ですか?」
「ええ」
「わたくしにはありませんが、どういったお話でしょうか?」
「ジルベール殿の話です。姿を見て恐怖を覚えたのでしょう」
アンドレはがくがくと震え出したが、そんなことはないと首を振るに留めた。
「そういうことでしたら、もう引き留めません。自由になさい」
王妃は足を踏み出し、隣にある寝室に向かった。
アンドレは王妃に恭しくお辞儀をしてから出口に向かった。
だが扉を開こうとした瞬間、廊下に足音が響き、外側の取っ手に手が触れた。
と同時に、ルイ十六世が従者に夜間の命令を出すのが聞こえた。
「国王だわ!」アンドレが飛び退った。
「ええそうよ。どうしてそんなに怖がるの?」
「お願いです! 陛下にお会いしたくありません、陛下にこの姿をお見せしたくありません、どうか今晩だけは。恥辱のあまり死んでしまいます!」
「だったら話してくれるわね……」
「話せと仰るならすべてお話しいたします。でも今は匿っていただけませんか」
「寝室に入りなさい。陛下が立ち去ったら出て来ればいいわ。心配しないで、そんなに長く隠れていなくとも済むから。ここにはさほど長居しないでしょうから」
「ありがとうございます!」
アンドレは寝室に飛び込み、国王が扉を開いて戸口に現れた時には、姿を消していた。
国王が入室した。
Alexandre Dumas『Ange Pitou』Chapitre XXIX「Scène à trois」の全訳です。
Ver.1 15/05/23
[訳者あとがき]
[更新履歴]
[註釈]
▼*1. []。
[↑]
▼*2. []。
[↑]
▼*3. []。
[↑]