この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照《あずま・てる》
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アンジュ・ピトゥ

アレクサンドル・デュマ

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第三十章 国王と王妃

 王妃は周りを一瞥してから、夫の挨拶に応えて温かく迎え入れた。

 それから差し出された国王の手を取った。

「どうなさいましたの? いらしていただけるなんて」

「本当にたまたまなんだ。シャルニーに会ってね。聞けばそなたに言われて血気盛んな者たちに、落ち着くべしと伝えに行くところだと云う。そなたが素晴らしい解答を選んでくれたことが嬉しくてね、感謝を伝えずにはとても素通り出来なかったのだ」

「ええ、よく考えたんですけれど、やっぱり部隊を動かして内戦の口実を与えたりはしない方がいいと思ったんです」

「そんな風に言ってくれるとありがたい。もっとも、そなたに感謝することになるのはわかっていたがね」

「その予想がぎりぎりで外れてしまったのはご存じのくせに。だってわたしが決心したのには、陛下のお心とは別の理由があるんですから」

「それこそ理性の証ではないか。どんな考え事を伝えられても、そなたの理性がぶれることはなかろう」

「わたしたちが二人とも同意見だとしたら、考えることなど無意味ではありませんか」

「やめ給え、議論がしたい訳ではない。二人ともそんなことは好かぬではないか。議論ではなく会話をしよう。仲の良い夫婦が家庭の話でもするように、時々二人でフランスの情勢を話し合うのは楽しくないかね?」

 この台詞を、ルイ十六世は何の含みもなく親しみを込めて口にした。

「時々どころかいつも話したいくらいですけれど、お時間は構いませんの?」

「もちろんだ。戦闘を始めるべきではないと、先ほど言ったようだが?」

「申しました」

「だが理由は言わなかったな」

「おたずねになりませんでしたから」

「ではたずねよう」

「無力だからです」

「鋭いな。では誰よりも強ければ、戦争を始めるのだな」

「誰よりも強ければ、パリを焼き払っていました」

「なるほど。どうやら戦を避けるのは余と同じ理由のようだな」

「と仰ると?」

「理由かね?」

「ええ、陛下のお考えを」

「理由は一つきりだ」

「仰って下さい」

「すぐに済む。国民(le peuple)と戦争を始めたくないのだ。国民が正しいとわかっているからね」

 マリ=アントワネットは驚愕を露わにした。

「正しい? 叛乱を起こすのが正しいと?」

「無論だ」

「バスチーユを陥落させ、司令官を殺害し、パリ市長を嬲り殺し、兵たちを皆殺しにしたのが正しいと?」

「ああ……残念ながら、そうだ」

「それが陛下のお考えですか! わたしに伝えようとしたのは、そういう話なのですか!」

「思い浮かんだ通りに言ったまでだ」

「お食事中にですか?」

「丁度いい、食事の話に戻ろうか。どうして食べさせてくれぬのだ。詩人か仙人にでもするつもりか? どうしろというのだ? 余の家系は大食いなのだ。アンリ四世は大食いなうえに大酒飲みだった。大王にして風流なルイ十四世は恥ずかしいほどの大食いだった。ルイ十五世は安心してよく食べよく飲めるように、自分でベニエを作り、デュ・バリー夫人に珈琲を淹れさせていた。仕方があるまい。余は腹が減ったら我慢が出来ぬのだ。ルイ十五世、ルイ十四世、アンリ四世のひそみに倣うほかあるまい。やむにやまれぬ時には大目に見てくれ。間違っていた時には許してくれ」

「つまり陛下が仰りたいのは……」

「腹が空いても食べてはならぬのか? そんなことはないと言いたかったのだ」国王は力なくかぶりを振った。

「もうその話は結構です。国民のことをお話ししましょう」

「わかった」

「国民は間違っていると仰りたかったのでは?」

「叛乱のことか? それはもうよい。大臣のことを考えて見給え。我々の治世になってから、心から国民の幸福のために働いていた人間がいったい何人いる? 二人。チュルゴーとネッケル氏だ。そなたと取り巻きが追放させた二人だよ。一人のために暴動が起きた。きっと二人目のために革命が起きるだろう。話を変えぬか。面白い人間たちがいるではないか? モールパ氏(M. de Maurepas)、叔母たちの子分、小唄の作者。褒め称えるべきは大臣ではなく国民ではないか。カロンヌ(M. de Calonne)氏? 都合のいい言葉を伝えたそうではないか、知っておるぞ、それが今もまだ尾を引いておる。何を尋きに行ったのかは知らぬが、何かをたずねた折り、『出来そうなことであれば実現します。出来そうになければそのうち実現します』と言われたそうだな。その言葉は国民にとっては一億フランの痛手だった。国民がその言葉にそなたほど感銘を受けなかったとしても驚くには当たるまい。いい加減に理解し給え。いくら国民から搾取している者たちを守り、国民を愛しむ者たちを追放したりしても、今の政府には国民をなだめる手だても惹きつける手だてもないのだよ」

「だから叛乱も当然であると? それを堂々と宣言なさればいいでしょう! そんなことを仰ったのが二人きりの時で本当によかった。誰かに聞かれていたらどうなっていたことか!」

「そうだとも、知らない話ではあるまい。そなたの取り巻きポリニャック、ドルー=ブレゼ、クレルモン=トネル、コワギー(Coiguy)たちが余の話を聞いて、見えないところで肩をすくめているのはよくわかっておる。だがそれはそれとして可哀相な奴らではないか。あのポリニャック一族は、そなたを食い物にして、そなたの威を借り、そなたからある朝フェネトランジュ(Fénétrange)の伯爵領をもらい、百二十万リーヴルをたかった。サルチーヌは、余から八万九千リーヴルの年金をもらっている癖に、非常用としてさらにそなたから二十万リーヴル受け取った。ドゥー=ポン公(prince des Deux-Ponts)のために、そなたは余に九十四万五千リーヴルの借金を肩代わりさせた。マリー・ド・ラヴァル(Marie de Laval Anne-Alexandre-Marie de Montmorency-Laval 1747-か?)とマニャンヴィル(Magnenville Magnanville?)夫人は、それぞれ八万リーヴルの年金を支給された。コワギーもなんやかやと満たされておるし、給料を削ろうとした日には、玄関先で余を捕まえおった。願い通りにしていなければ、殴られていたかもしれぬ。これがみんなそなたの友人ではないか。一つだけ言っておこう。そなたは信じぬかもしれぬな、それが真実であるだけに。そなたの友人たちがいるのが宮廷ではなくバスチーユであったら、国民は監獄を破壊などせず補強していたであろうな」

「何ですって!」王妃は思わず怒りを見せた。

「言いたいことがあるなら言ったらどうだね」ルイ十六世は落ち着いて答えた。

「陛下がご贔屓なさってる国民も、いつまでもわたしの友人たちを憎んだりはしませんよ、みんな逃げ出してしまったんですもの」

「いなくなったのか!」

「ええ、いなくなりました」

「ポリニャックも? 貴婦人たちも?」

「ええ」

「それは結構! ありがたいことだ」

「結構ですって? ありがたい? 残念だとは思わないのですか?」

「思う訳がなかろう。旅費は足りるのか? 足りない分は出してやろう。悪い使われ方にはなるまい。殿方もご婦人もご機嫌よう、良い旅を!」国王はにっこりと笑った。

「そんな卑怯な行動をお認めになるのですね」

「まあ待て。ではあれたちが正しいと?」

「出かけたのではなく、逃げ出したのですよ!」

「遠くに行ったのならどちらでもよい」

「しかもそんな卑怯な行動をそそのかしたのが陛下のご家族なのですから!」

「余の家族がそなたの取り巻きをそそのかして立ち去らせたと言うのか? 余の家族がそれほど賢かったとは知らなんだ。そんな親切をしてくれたのが誰なのか聞かせてくれ、礼を言わねばなるまい」

「アデライード叔母さまと、弟君のダルトワ殿下です」

「ダルトワが? そそのかしただけでなく自分でも実行するだろうか? ダルトワも逃げ出すのだろうか?」

「しないとお思いですか?」マリ=アントワネットは辛辣な言葉を返した。

「どうにでもなれ! ダルトワが行くと言うのなら同じ言葉をかけるまでだ。ご機嫌ようダルトワ、良い旅を!」

「弟君なのに!」マリ=アントワネットは愕然とした。

「残念がれとでも? 機智も勇気も備えているが、生憎と脳みそが足りぬお坊っちゃんだ。ルイ十三世時代のめかし屋のような、フランス貴族を気取っておる。人騒がせで軽率なあまり、そなたを危険に巻き込みおった。カエサルの妻であるそなたを」

「カエサル?」王妃は切れるほど冷やかな声で呟いた。

「それともクラウディウスか? 好きな方で呼べばよい。クラウディウスはネロと同じく皇帝カエサルだったのだからな」[*1]

 王妃はうつむいた。落ち着いて歴史を持ち出されて混乱していた。

「カエサルよりもクラウディウスの方がお気に召すというのならそうするが、そのクラウディウスがヴェルサイユの門を閉めて、そなたの帰りが遅いのをたしなめたことがあったであろう。その原因を作ったのがダルトワ伯だった。叔母のことなら知っての通りだ。あれもまた皇帝カエサルの一族と言うに相応しかろう。だが何も言わんでおこう、何しろ叔母だからな。とは言え、逃げ出したとてやはり残念には思わぬ。プロヴァンス伯のことだって、余が残念がると思うかね? 逃げ出すというのなら、ご機嫌よう!だ」

「行けだなんて言わないで下さいまし」

「それはがっかりだ。ラテン語ではプロヴァンス伯に勝てぬからな、見返すには英語を話さなくてはならん。ボーマルシェの件を押しつけて来たのはプロヴァンス伯だった。ビセートルだかフォール=レヴェックだか知らぬが勝手に投獄させおって。そのうえしっかりと送り返して来よった。プロヴァンス伯は残るのか! それはがっかりだな。気づいておるのか? そなたの周りで信用できるのはシャルニー殿しかおらぬではないか」[*2]

 王妃は真っ赤になって顔を逸らした。

「シャルニー殿も逃げ出すのか? それは残念だな、行っては欲しくない」

 王妃は何も答えなかった。

「バスチーユの話に移ろうか……」国王はすぐに話を続けた。「占拠されたのを嘆いておったな」

「せめてお坐り下さい。まだまだ仰るべきことはたくさんあるのでしょうから」

「いや結構。歩きながら話す方がよい。健康のためだ。誰も気にかけてはくれぬからな。実際たらふく食べても消化が出来ぬ……今ごろ何と言われているかわかるかね? 『国王は夜食を食べたから、眠っているに違いない』と言われておるのだ。眠っているかどうかよく見給え。こうしてここで消化を助けるため立ったまま、妻と政治の話をしているのだ。そうだ、償おう!……」

「何を償うと言うのですか?」

「余が代償を払わされることになった時代の罪を償おう。ポンパドゥール夫人、デュ・バリー夫人、鹿の園のことを償おう。幾つかの独房で三十年にわたって朽ち果てて、その苦しみによって名を成した、あの哀れなラチュード(Latude)のことを償おう。それにバスチーユに憎しみを向けさせた者のことも。余は確かに馬鹿な真似をしたが、そうしておきながら他人が馬鹿な真似をするのを放っておいたのだ! 哲学者に経済学者、科学者に文学者どもの迫害に喜んで手を貸して来た。あやつらの望みは余を愛することだったというのに。愛してくれていたなら、今の世に栄光と幸福をもたらしてくれたであろうに。例えばルソー、あのサルチーヌの猪を見た日のことだ。そなたがトリアノンに呼んだ日のことだよ。ブラシもかけられていない服を着ていたのは間違いないし、髭が伸びていたのも間違いはない。だがそれでもはやり、立派な男だよ。余がゆったりとした灰色服と絹靴下を身につけていたなら、『ヴィル=ダヴレー(Ville-d'Avray)の森まで一緒に苔を探しに行かないか』とルソーに話しかけていたところだ……」

「だったらどうだと仰るの?」王妃が呆れた様子で遮った。

「だったらルソーも『サヴォワの叙任司祭』や『社会契約論』を書かなかっただろう」

「ええ、そうね。何て正しいのかしら。陛下は慎重な方ですもの、犬が飼い主を怖がるように、国民を怖がってらっしゃるんです」

「逆だよ、飼い主が犬を怖がるようにだ。犬に咬まれないようにするのは一仕事だよ。イスパニアの国王から贈られたピレネー犬のメドールと散歩するたび、友だちでよかったとつくづく鼻が高い。笑いたければ笑うがいい。メドールが友人でなければ、あの大きな白い牙で食い殺されていても不思議はない。『ようしメドール。いい子だ、メドール』と言ってやれば、舐めてくれるよ。牙なんかより舌の方がいい」

「だったら叛徒たちを甘やかして、撫でて、お菓子を放ってやったら如何です」

「ではそうしよう。ほかに案もない、本当だ。うん、決めたぞ。金を集めて、ケルベロスのような殿方を相手にしよう。さて、ミラボー氏だが……」

「ええ、あの猛獣の話を聞かせて下さい」

「月に五万リーヴル使えばメドールにもなろうが、手をこまねいていては月に五十万かかってしまう」

 王妃は情けなさの余り笑い出した。

「あんな人たちにごまをすらなきゃならないなんて!」

「バイイ氏(M. Bailly)も、美術大臣という地位でもこね上げて就任させてやれば、あれもまたメドールになるだろう。そなたの考えとは違うて悪いがね、余は父祖であるアンリ四世の考えに従っておるのだ。そのたぐいまれなる政治家の言ったことを思い出しておった」

「何と仰いましたの?」

「酢を用いても蠅は捕れぬ」

「サンチョ・パンサも似たようなことを言ってます」

「だがもしバラタリアが実在していれば、サンチョ・パンサならその島民を幸せにしていたに違いない」

「陛下の仰ったアンリ四世なら、蠅だけでなく狼だって捕まえてらっしゃいました。その証拠に、ビロン元帥の首を斬らせたではありませんか。アンリ四世なら好きなことを口にすることが出来ました。アンリ四世のように考えながら陛下のように動いてしまっては、玉座の生命線である威光は剥がれ落ちてしまいます。陛下はすべての根幹を傷つけていらっしゃるのです。威厳マジェステが何になるというのですか? 威厳とは言葉に過ぎません。でもその言葉の中にこそ、『敬う者は愛し、愛する者は従う』という君徳が張り渡されているのではありませんか」[*3]

「では威厳の話をしようか」国王は笑顔で応えた。「例えばそなたにも、誰にも負けぬほどの威厳がある。欧州には勝てる者はなかろう。そなたと同じく威厳という学問を極めた母御のマリア=テレジアさえそなたには届かぬ」

「仰りたいことはわかっています。わたしがフランス国民から忌み嫌われているのは威厳のせいではないと仰りたいのでしょう」

「忌み嫌われているとは言わぬよ、アントワネット」国王が優しい言葉をかけた。「だがやはり、そなたに相応しいほど愛されているとは思えぬ」

「陛下は思っていることを口にして回ってるんですわ」王妃はひどく傷ついて言った。「でもわたしは誰にも迷惑はかけていません。それどころか、ためになることだってして来ました。どうして憎まれなくてはならないのでしょう? 『王妃が嫌いだ!』と一日中繰り返す人がいるだけなのに、どうして嫌われるのでしょうか? 百人が繰り返すには、一人が繰り返せば充分だからです。百人の声に温められて一万の声が孵化するでしょう。やがて一万の声に引きずられて、誰もが『王妃が嫌いだ!』と繰り返すのです。王妃を嫌っているのは、誰かが『王妃が嫌いだ』と言っているからに過ぎません」

「何てことだ!」国王が呟いた。

「何てことでしょう! わたしには人気がありません。でもことさら不人気だと煽り立てられているだけだとも思ってます。讃辞の声がないことも事実ですが、それでも崇めてくれてはいました。崇める気持が強すぎたせいで、憎む気持も強くなっているということなんだと思います」

「待て待て。そなたはすべて知っている訳ではないし、いまだに幻想を抱いているのではないか。バスチーユの話をせぬか?」

「わかりました」

「バスチーユの書庫にはそなを批判しているありとあらゆる本が何冊も収められていた。すべて焼けていればよいのだが」

「わたしの何が批判されていたというのですか?」

「察してくれ。余はそなたを裁きたくもないし、非難するつもりもない。ああした諷刺小冊子パンフレットが出るたび、余はすべての版を回収させ、バスチーユに放り込ませた。だが時にはこの手に転がり込んで来ることもある。例えば」と言って国王はポケットの辺りを叩いた。「これなどは忌まわしいものだったよ」

「お見せ下さい」

「とても見せられぬ。版画にもなっているのだ」

「そこまでなのですか。中傷の出所を探そうとなさらないほどに、お気持も乱れ、弱気になってらっしゃるのですか?」

「もちろん出所は探させた。警察が徹底的に悪評をそそいで来たのだよ」

「では作者をご存じなのね?」

「一人は知っている。フュルト氏だ。何せほら、ここに二万二五〇〇リーヴルの受領書がある。それだけの価値があると思えば、金額に糸目はつけぬよ」

「ほかには誰がいるんです?」

「大抵はそうだな、イングランドやホラントでかつかつと暮らしている飢えた連中だよ。そうした連中に咬まれたり刺されたりするのに腹を立ててサテどうにかしてやろうと思い、鰐や蛇でも見つけてこてんぱんに殺してやるつもりで出かけてゆく。ところが鰐も蛇もいない。いるのは虫けらだけだ。それもちっぽけで弱々しく薄汚れた虫けらだよ。罰するためとはいえ触れたくもないような連中だ」

「ご立派だこと! 虫けらに触れたくないというのなら、虫けらを生み出したものを告発なさって下さらないと。さもないと言われてしまいますよ、フィリップ・ドルレアンは太陽だと……」

「いよいよたどり着いたな」国王が拍手した。「ドルレアン公か! 仲違いさせたいのならさせればよかろう」

「相手は陛下の敵です。立派な言葉じゃありませんか」

 国王は肩をすくめた。

「それは解釈次第だな。ドルレアン公か! ドルレアン公を非難するというのか。叛徒と戦うために。パリを離れヴェルサイユに駆けつけたのだぞ。ドルレアン公が余の敵だと? どうやらそなたはドルレアン家を尋常でないほど憎んでいるようだな」

「駆けつけた理由をご存じですか? 忠義者たちの中にいないことに気づかれるのを恐れていたからです。駆けつけたのは卑怯者だからです」

「仕方ない、仕切り直そう。そんなことを思いついた方こそ卑怯者ではないか。ドルレアン公がウェサン(Ouessant)で恐れていた新聞に、そんなことを書かせたのはそなただ。名誉を傷つけたかったのだろう。誹謗中傷も甚だしい。フィリップは恐れてなどいなかった。フィリップは逃げてなどいない。逃げるようなことがあれば一族の顔に泥を塗っていただろう。ドルレアン家は勇敢なのだ。誰だって知っている。アンリ四世というよりはアンリ三世の血を引いているようなところのあった一族の始祖は、デフィア侯爵やロレーヌ士爵(son d'Effiat et son chevalier de Lorraine)のことはあっても、勇敢だった。カッセル(Cassel)の戦いでそれを証明して見せた。摂政公には生活態度の面で反省すべき点があったが、ステーンケルク(Steinkerque)やネールウィンデン(Nerwinde)やアルマンサ(Almanza)では、最後の一人となるまで軍人として戦ったのだ。お望みとあらば話すのは良い面の半分だけにしておくが、悪い面などはないのだから話しようがない」[*4][*5]

「陛下は革命家たち(révolutionnaires)の無実を証明しようとなさってるんですね。ドルレアン公がどれだけ力があるかご存じだというのに。あの人のことを考えると、バスチーユがまだあればと思ってしまいます。だってそうじゃありませんか。犯罪者が収容されていたのにあの人が投獄されていないのが残念でなりません」

「そうかね? ドルレアン公がバスチーユに入っていれば、さぞかしありがたい状況になっていただろうな」

「どうなっていたというのですか?」

「民衆たちがネッケル氏の胸像だけでなくドルレアン公の胸像を花で飾って練り歩いていたのを、知らぬ訳ではあるまい?」

「もちろん知っています」

「つまりバスチーユから出た途端、ドルレアン公はフランス王になっていただろう」

「陛下はきっとそれを正しいとお感じになっていたことでしょうね!」マリ=アントワネットは棘のある皮肉を込めて答えた。

「そうだとも。それで気が済むというのなら肩でもすくめればよい。他人のことをしっかりと判断するためには、他者の視点が必要なのだ。玉座の上からでは庶民をしっかりと見ることは出来ぬ。同じ高さに降りてみるのだ。そうして、自分が中産市民(bourgeois)や地方民(manant)だったとして、領主から鶏や牛のような生産品扱いされることに耐えられたかどうかと考えてみる。自分が百姓だったとして、領主の飼っている一万羽の鳩に毎日小麦や烏麦や蕎麦を十グレイン、つまり約二ボワソー食べられることに耐えられたかどうか。収穫の大部分が食べられてしまうのだぞ。その間にも領地の兎や領主の飼い兎(ses lièvres et ses lapins)には馬の飼料ウマゴヤシを食べられ、猪には馬鈴薯を掘り返され、収税人には財産(bien)を掠め取られ、妻や娘に手まで出され、国王には息子を戦争に取られ、坊さんには怒りに触れるたびに魂を地獄に落とされているというのに」

「そんなに言うのでしたら」王妃が睨みつけた。「つるはしをお持ちになって、バスチーユを壊しに行けばいいんです」

「冗談のつもりかね。国王にならペンの一筆で同じことが出来るというのに、つるはしを持つのが変ではないというのなら、壊しに行こうではないか、嘘は言わぬぞ。余がつるはしを持てば、喝采が起こるだろう。余とて、この偉業を成し遂げる力のある者たちには喝采を惜しまぬ。何せ余のために素晴らしいことをしてくれる。バスチーユを壊してくれるのだ。そなたのためにはさらに大きな贈り物となろう。取り巻きの気まぐれに踊らされて正直者を独房に放り込むことも出来なくなるのだからな」

「正直者をバスチーユに? わたしが正直な人たちを投獄させたと仰るのですか? 正直者とはロアン枢機卿のことでも仰っているのでは?」

「こちらから持ち出さない限り、二度とその話はせんでくれ。ロアンを投獄したのは失敗であったよ、すぐに高等法院が出してしまった。もっとも、バスチーユは枢機卿という人間を入れる場所ではないがね、今のあそこは偽造犯を入れる場所だ。偽造犯や泥棒があそこで何をすればいいというのだ? 高い金をかけてパリに監獄を用意してあるのは、そんな輩を養うためではなかろう? 偽造犯や泥棒はまだよい。だが正直者をバスチーユに入れるのだけはやってはならぬ」

「正直者と仰いますか?」

「うむ。今日、一人会ったぞ。バスチーユから出て来たばかりだった」

「いつ出て来たのです?」

「今朝だ」

「今朝バスチーユを出た男に、今晩会ったというのですか?」

「さっき別れて来た」

「どんな人なのです?」

「そなたの知っている人物だ」

「わたしが?」

「うむ」

「お名前は?」

「ジルベール医師」

「ジルベール! ジルベールですって! アンドレがうわごとで呼んでいた名前では?」

「であろうな。充分にあり得る。少なくとも余は疑わぬ」

「その男がバスチーユに入っていたと仰るのですか?」

「そなたは知らぬようだな」

「まったく存じませぬ」

 国王の顔に驚きが浮かんでいることに、王妃は気づいた。

「もしかすると何か理由があったのを忘れてしまったのかもしれませんが……」

「これだ。こうした非道には忘れている理由があるものなのだ。だが理由や医師のことをそなたは忘れていても、シャルニー夫人は忘れてはいなかったぞ」

「陛下!」

「二人の間に何かがあったのに違いあるまい……」

「陛下、お願いです」王妃は寝室の方に不安な目を向けた。隠れているアンドレにも、話はすべて聞こえているはずだ。

「なるほどな」国王が笑い出した。「シャルニーがやって来て、知ってしまわないかと思っておるのだな。シャルニーも可哀相に!」

「どうかお願いです。シャルニー夫人は純粋で貞淑なひとなんです。わたしとしてはむしろそのジルベールという男が……」

「ほう? この正直者のせいにするのか? 余は自分の知っていることなら知っているが、最悪なのは、幾つものことを知っているからといって、まだすべてを知っているわけではないということだ」

「怖いくらい冷静でいらっしゃるのね」王妃は寝室に目を向けたまま口にした。

「もちろん落ち着いているよ、慌てる必要もあるまい。始め良ければ……と云うではないか。結果はジルベールが直接教えてくれるだろう。今では余の侍医になっておる」

「侍医ですって? その男が陛下の侍医に? 国王の命を余所者に預けるのですか?」

「駄目かね?」国王は冷たく答えた。「自分の判断力は信じておる。その男の魂の中を読んだのだ」

 王妃は怒りと軽蔑で我知らず身体を震わせていた。

「それで気が済むのなら肩をすくめればよい。ジルベールが物知らずであるかのような言い方はよせ」

「ご熱心だこと!」

「余の立場になってみてはくれぬか。メスメル氏がそなたやランバル夫人におかしな影響を与えなかったかどうか知りたがるであろう?」

「メスメル氏ですって?」王妃は真っ赤になった。

「そうだ。四年前、そなたたちが変装して集会に行った時のことだ。警察がしっかり仕事をしてくれたからな、余はすっかり知っておるぞ」

 国王はそう言って、マリ=アントワネットににこやかに笑いかけた。

「すっかりご存じというのでしたら、随分と隠しごとがお上手ですのね、これまで一度も口になさらなかったじゃありませんか」

「必要あるかね? ゴシップ屋の声や新聞屋のペンが充分にそなたの軽挙に報いていたではないか。それはそれとしてジルベールとメスメルの話にまとめて戻ろう。メスメルはそなたを桶のそばに坐らせ、鋼の棒で触れ、非現実的な光景に囲まれて、まるでペテン師のようだった。ジルベールはあれこれしたりはしなかった。眠りに就いたばかりのご婦人に手を伸ばすと、婦人が眠ったまま話し始めたのだ」

「話をしたというのですか!」王妃はぞっとして呟いた。

「そうだとも」国王は妻の怯えを和らげようとは一切しなかった。「ジルベールに眠らされた婦人が話をしたのだが、驚くべき内容だったのだぞ」

 王妃の顔から血の気が引いた。

「シャルニー夫人なら驚くようなことを言ったはずだわ」と呟いた。

「結局のところ、よかったのかもしれん……」

「おやめ下さい!」マリ=アントワネットが遮った。

「やめろとはどういうことだ! 余はただ、眠っている間に話を聞かれたのは本人にとってよかったと言いたかっただけだ」

「お願いですからもう一言も仰らないで下さい」

「喜んでそうするよ。もうへとへとだ。腹が減ったら食事をする。眠たくなったら寝るだけだ。おやすみ。これまでの話から、そなたも実のある結論を導き出したであろう」

「どういうことでしょうか?」

「我々と友人がやって来たことを国民(peuple)が破壊したのは正しかったということだ。ジルベール医師を見ればわかる。では失礼するよ。痛みを指摘したからには、どうにかその痛みを止めるつもりだと思ってくれ給え。良い夢を、アントワネット!」

 国王は戸口に向かったが、足を戻して言った。

「忘れていた。シャルニー夫人に伝えてくれ。ジルベール先生と仲直りした方がいい。時間があったらで構わない。では」

 国王はゆっくりと立ち去った。錠がきちんと動くのを整備士が指先で実感した時のように、満足げに扉を閉めた。

 国王が廊下に出て幾らもしないうちに、シャルニー伯爵夫人が寝室から出て来て、扉に駆け寄り閂を掛け、窓にカーテンを引いた。

 狂気と怒りに駆られたように、慌ただしく激しく乱暴な動きだった。

 誰にも見聞き出来ないことを確かめてから、ようやく王妃のところに戻ってむせび泣き、膝を折って訴えた。

「助けて下さい、どうか助けて下さい!」

 そして呼吸を整えてから、

「すべてお話しいたします!」と口にした。


Alexandre Dumas『Ange Pitou』Chapitre XXX「Un roi et une reine」の全訳です。


Ver.1 15/08/02

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[訳者あとがき]


 

[更新履歴]


 

[註釈]

*1. [カエサル…クラウディウス…ネロ]
 クラウディウスは第4代ローマ皇帝、悪妻で有名。ネロは第5代ローマ皇帝、暴君として有名。[]
 

*2. [ボーマルシェ]
 『フィガロの結婚』はルイ十六世により危険と見なされ上演禁止になった。ボーマルシェは1785年にはサン=ラザール牢獄に入れられている。[]
 

*3. [ビロン元帥]
 le maréchal de Biron。Charles de Gontaut-Biron。アンリ4世の寵臣だったが陰謀が発覚して処刑された。[]
 

*4. [デフィア侯爵やロレーヌ士爵]
 son d'Effiat et son chevalier de Lorraine。ドルレアン家の初代当主フィリップ一世は、男色趣味があり、上記二人はその相手。[]
 

*5. [ステーンケルク、ネールウィンデン、アルマンサ]
 ステーンケルク(Steinkerque ステーンケルケ)やネールウィンデン(Nerwinde)やアルマンサ(Almanza)。それぞれ1692年ベルギーのステーンケルクおよび1693年ベルギーのネールウィンデンにおける対英蘭戦争、1707年スペインのアルマンサにおける対英蘭葡戦争。[]
 

*6. []
 []
 

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