初めて王妃は深く心を動かされたように見えた。それは理屈に打たれたのが原因だったろうか、医師のへりくだった態度が原因だったろうか?
もっとも、国王は心を決めた様子で立ち上がっていた。実行しようと考えていたのだ。
だが国王はいつも、何をするにも王妃の意見を聞くようにしていた。
「そなたは賛成かね……?」
「そうせざるを得ません」
「自己犠牲を望んでおるわけではない」国王は辛抱強く訴えた。
「では何をお望みなのです?」
「余の確信を後押しして欲しいのだ」
「確信ですか?」
「うむ」
「そういうことでしたら、確信しております」
「何を?」
「君主制というものが、この世でもっとも嘆かわしく落ちぶれた国家に変わってしまう瞬間が来てしまったことを」
「それは言い過ぎだ。嘆かわしいとは思うが、落ちぶれることなど絶対にない」
「歴代の国王が負の遺産を残していらっしゃったのです」マリ=アントワネットが沈痛な
「その通りだ。その遺産の痛みをそなたと分かち合わねばなるまい」
「失礼ですが」ジルベールが口を挟んだ。失墜した君主たちの悲運に心の底から同情を示していた。「陛下が仰ったようなひどい未来を目にすることはないと考えております。専制君主制が終わり、立憲帝国が始まるのです」
「そうなのか? フランスにそのような帝国を築くために余は必要な人間なのか?」
「そうでない理由などありませんもの」王妃はジルベールの言葉に幾らか勇気づけられた。
「王妃。余には良識も学識もある。濁ったまま見ようとはせずはっきりと見えておるし、この国を治めるのに知る必要のないことまですべて正確に知っている。不可侵な絶対君主の高みから突き落とされ、大っぴらにただの人間として扱われる日から、フランスを統治するためだけに必要だった紛い物の力をすべて失うのだ。はっきりと言えば、ルイ十三世もルイ十四世もルイ十五世もその紛い物の力のおかげで完璧な統治を維持していたのだからな。今のフランスに必要なものは何だ? 指導者だ。余は父であることしか出来ぬ。革命に必要なものは何だ? 剣だ。余にはふるう力もない」
「剣をふるう力もないと仰るのですか! ご自分の子どもから財産を奪う者たちに、剣をふるう力もないと? 陛下の頭に戴いたフランス王冠の宝石を次から次へと打ち壊そうとする者たちに、何をすることも出来ないと言うのですか?」
「何と答えれば満足なのだね?」ルイ十六世は落ち着いて答えた。「否定すれば良いのか? 余の人生をかき回している嵐を、そなたのところでまた巻き起こせば良いのか? 憎むことが出来るのは、そなたにとっては良いことだな。そなたは不当な人間にもなれる。責めはせぬよ。支配者なら幾らでも持っている特質だからな」
「もしかして、革命に対する態度が不当だと仰っているのですか?」
「もちろんだ」
「もちろんですって? もちろんと仰ったのですか!」
「アントワネット、ただの市民になればそのような口を利かずとも良いのだぞ」
「わたしは市民などではありません」
「だからこそそなたを許すのだ。だがそなたに同意するという意味ではない。そうではない。諦め給え。我々は苦難の時にフランスの玉座に着いてしまったのだ。我々には革命と呼ばれる大鎌の戦車を前方に押し出す力が必要なのに、その力が欠けているのだ」
「冗談ではありません! その戦車が通るのは子供たちの上ではありませんか」
「わかっておる。だがそれでも押さねばならぬのだ」
「押し返せば良いのです」
「いけません」ジルベールが重苦しい声を出した。「押し返せば、潰されるのはあなたです」
「これだけは言っておきます」王妃は我慢強く続けた。「はっきり口に出すのも度が過ぎているのではありませんか」
「では口を閉じましょう」
「お願いだから言わせてやってくれ」国王が言った。「今そなたが聞いたことを、この一週間というものどの新聞も書き立てているのだ。先生がそれを新聞で読んだのでないとしたら、読まぬようにした、ということだ。事実を棘でくるまなかっただけでもありがたいと思ってくれぬか」
マリ=アントワネットは口を閉じてから、げっそりした様子で溜息をついた。
「結論を申し上げますが、いえ、繰り返しになりますが、あなたの意思でパリに行くということは、起こったことすべてを容認するということですよ」
「その通りだ。わかっておる」
「譲歩するということは、あなたを守る準備をしていた軍隊を裏切ることになるのですよ」
「フランス人の血を流さずに済むということだ」
「これからは暴動や暴力沙汰を起こせば、謀反人や煽動者の望むような方針を、国王の意思に刻み込むことが出来ると、公言するようなものです」
「余の言葉に納得したことをすぐに認めてくれると信じておるぞ」
「すぐに認めますとも。今まではヴェールの隅は上げられていたのに、仰る通りまた閉ざされてしまいました。教育や伝統や歴史によって身に染み込まされた華やかさを、心の中で眺めている方がましです。侮辱や憎しみをぶつけて来る国民にとって出来の悪い母でいるよりも、いつまでも王妃でい続けている自分を見ている方がましです」
「アントワネット!」ルイ十六世は、王妃の頬から見る見るうちに血の気が引いてゆくのを見て、ぎょっとして声をあげた。激情の発作が起こる前触れだった。
「誤解なさらないで下さい。お話しいたしますから」
「昂奮するでないぞ」
国王は王妃に、目顔で医師の存在を知らせた。
「この人ならわたしの言うつもりのことなどすべてお見通しです……考えていることさえお見通しですから」ジルベールとの間に起こったことを、苦々しく思い出して言った。「どうしてわたしが我慢しなくてはならないのですか? 第一、この人を相談役に選んだのはわたしたちなのですから、何を恐れなくてはならないというのですか! ドイツ民謡に謡われている不幸な王子のように、あなたが運び去られ連れ去られているのは、わたしにもわかります……何処に向かってらっしゃるんですか?……わたしには何もわかりません。けれどあなたは離れてゆき、決して戻ってはいらっしゃらないんです!」
「それは違う。ただパリに行くだけだ」
マリ=アントワネットは肩をすくめた。
「気が違ったと思ってらっしゃるんですね」王妃の声には苛立ちが滲んでいた。「パリにいらっしゃる。いいでしょう。でもパリが底なしの深淵ではないと誰に断言できるのですか? この目で見てはいなくてもそのくらいわかります。あなたの周りで騒動が起こるのは確実だというのに、どうして殺されないと思うのですか? 流れ弾が何処かから飛んで来るかもしれないのに? 十万もの拳が怒りに燃えて突き出されている中で、そのどれかからナイフが突き出されるかもしれないというのに?」
「その点については恐れる必要はない。あの者らは余を愛しておるのだから!」
「そんなことは仰らないで下さい、惨めではありませんか。あなたを愛しているから、あなたの代理たる者たちの命を奪い、喉を掻き切り、皆殺しにしたと言うのですか。神の似姿たる国王を! 国王の代理人たるバスチーユの司令官を! 大げさ過ぎると責められるつもりはありません。勇敢で忠実だったローネーの命を奪った以上は、あなたの命を奪ってもおかしくはありませんし、捕まったのがローネーではなくあなただったなら、ことはさらに容易です。みんなあなたのお顔はご存じなのですし、あなたが身を守ったりせずに身柄を明け渡すはずだということもわかっているのですから」
「つまりどういうことだね?」
「結論は申し上げたつもりです」
「余は殺されると?」
「はい」
「それで?」
「それから子供たちです!」
ジルベールは口を挟む頃合いだと感じ取った。
「ご安心下さい、パリの者たちは国王に敬いを示すでしょうし、熱狂に沸き返ることでしょう。一つ心配があるとすれば、それは国王のことではなく、神像を戴せた山車に轢かれようと身を投げるヒンズー僧のように馬に踏みつぶされかねない狂信者のことです」
「おやめなさい!」マリ=アントワネットが叫んだ。
「パリへの道は勝利の道です」ジルベールが答えた。
「陛下は反論なさいませんのね」
「つまり先生に同意するということだ」
「その勝利を味わいたくてじりじりしてらっしゃるのですか!」
「それももっともではありませんか。じりじりしていらっしゃるのは、人や物事に対する陛下の判断力が正しいものだということの証明になります。早ければ早いほど、勝利は大きなものになるのです」ジルベールはなおも言った。
「うむ、そう思うかね?」
「確信しております。ぐずぐずしていては、国王が自らの意思でおこなうことの利点がすべて失われてしまいます。考えてもみていただけますか、他人に指揮権を握られるかもしれないのですよ。パリ市民の目の前で陛下のお立場を変えようと要求する人間、言い換えるなら陛下を命令に従わせようとする人間に、主導権を握られるかもしれないのです」
「おわかりいただけましたか? 先生が認めました。あなたが人から命令される日が来ると。陛下、おわかりですか?」
「既に命令された、とは先生は言っていない」
「今は堪えて下さい。時間を無駄にしていては、要求だろうと命令だろうと実行される時が来るのです」
ジルベールは口唇をわずかに引き攣らせ、不満を表した。顔に浮かんだのは一瞬だったが、王妃は見逃さなかった。
「何を言っていたのかしら? ちょっとおかしくなっていたようです。思ってもいないことを話してしまいました」
「何の話だね?」国王がたずねた。
「遅れが出れば、主導権が失われるそうですが、わたしはその遅れを要求いたします」
「何でもお願いして下さって構いませんし、何でも要求して下さって構いません。けれどそれだけはおやめ下さい!」
「アントワネット」国王が首を振った。「そなたは余を破滅させると明言したのだぞ」
「陛下」王妃の言葉に宿る非難の響きから、心の苦悶が滲み出ていた。「どうしてそのようなことを仰るのですか!」
「どうしてパリ行きを遅らせようとするのだ?」
「どうかお考え下さい。こうしたことは時機がすべてなのです。こうしている間にも過ぎてゆく時間が、どれほどの重みを持つかお考え下さい。その瞬間が近づくのを、人々が怒りに燃えながら指折り数えて待っているのですよ」
「今日はいけません、ジルベールさん。明日です、陛下」王妃が声を出した。「明日。明日まではわたしの言う通りにして下さい。そうすればもうパリ行きには誓って反対いたしません」
「一日無駄になる」国王が呟いた。
「二十四時間は長すぎます」ジルベールが訴えた。「お考え直し下さい」
「どうしてもそれだけ必要なのです」王妃が懇願した。
「せめて理由を教えてくれぬか」
「何もありません。わたしの絶望、わたしの涙、わたしの懇願、それだけです」
「だが今から明日までの間に、何かが起こるかもしれぬのだぞ」国王は王妃の絶望を目の当たりにしてすっかり取り乱してしまった。
「何が起こると考えているのですか?」王妃はジルベールに向かって哀願するようにたずねた。
「向こうではまだ何も起こりません。たとい雲のように不確かな希望でも、希望さえあれば、明日までは人々も待てるでしょうが……」
「問題はここか?」国王がたずねた。
「ここです」
「議会かね?」
ジルベールがうなずいた。
「議会と共にモニエ、ミラボー、シェイエスに建白書を送って寄こされては、自発的に行動するという利点がすべて失われてしまう」
「結構じゃありませんか」王妃が静かに怒りを爆発させた。「拒否し、国王の尊厳を保ち、パリに行かずに済みますもの。この戦いにここで堪えなくてはならないというのなら、堪えようではありませんか。ここで死ななくてはならないというのなら、ここで死のうではありませんか。ただし高貴な人間として無傷のままで。王族として、君主として、神を恃むキリスト教徒として、王冠を預かったまま」
ルイ十六世は熱に浮かされたような王妃を見て、今は妥協するよりほかないと理解した。
ジルベールに合図を送ると、マリ=アントワネットに近寄って手を取った。
「落ち着き給え。望み通りになるはずだ。そなたの嫌がるようなことはしたくない。そなたのような美点を持つ女性、さらに言えばそなたのような美徳を持つ女性には、それだけの愛情を注ぐのも当然ではないか」
ルイ十六世は威厳を込めてその言葉を強調し、傷ついた王妃を必死で慰めようとした。それも見聞きしたことをいつでも口に出来る証人の目の前で。
マリ=アントワネットはこの思いやりに深く心を打たれ、差し伸ばされていた国王の手を両手で握り締めた。
「明日までです、それより遅くなることはありません。けれどこの日限だけはひざまずいてお願いいたします。誓って申し上げますが、明日のご希望の時間には、パリにお発ちになっているはずです」
「わかっておるな、先生が証人だぞ」国王がにっこりとして答えた。
「わたしが言葉を違えたことがあったでしょうか?」
「いや、ない。だが一つ言っておきたいことがある」
「何でしょうか?」
「遂に諦めたように見えるそなたが、二十四時間遅らせる理由を知りたい。パリからの報せを待っているのか? それともドイツからの? いったい何を……?」
「何も訊かないでいただけますか」
国王は好奇心を満たすことに喜びを感じていた。フィガロが怠けることに喜びを感じていたように。
「軍隊の到着を待っているのか? 援軍か? 政治的同盟か?」
「お願いです、陛下!」王妃が非難を滲ませて囁いた。
「いったい何を……?」
「何もありません」
「秘密というわけか?」
「怯えている女の秘密に過ぎません」
「気まぐれではないのか?」
「気まぐれと仰りたいなら」
「絶対的原理というわけか!」
「その通りです。哲学だけでなく政治にもあっていいではありませんか? 政治的気まぐれを絶対的原理に引き上げるくらいのことは王族になら許されるのではありませんか?」
「いずれにしてもそうなるだろう。安心するがいい。余の方はもう終わった」国王が冗談めかして言った。「では明日」
「では明日」王妃は悲しげに答えた。
「先生は残った方がよいのかな?」
「まさか、結構です!」王妃の拒絶があまりに激しかったため、ジルベールが笑みを洩らしたほどだった。
「では連れて行くぞ」
ジルベールは三たびマリ=アントワネットに頭を下げたが、今度の挨拶は王妃に対するものではなく一女性に対するものに近かった。
国王が戸口に向かい、ジルベールがそれに続いた。
「どうやら」国王は回廊を渡りながら話しかけた。「そなたは王妃と仲がいいようだな、ジルベール殿」
「それも国王陛下のご厚意によるものです」
「国王万歳!」廷臣たちが声を限りに叫んだ。ルイ十六世が姿を見せた時にはとっくに控えの間に集まっていた。
「国王万歳!」中庭からも声が応えた。将校や外国兵たちが宮殿の押し寄せていた。
歓声が大きく広がっているのを聞いて、ルイ十六世の心にかつて感じたことのない喜びが湧き起こった。幾度もこのような場面に立ち会っていながら、これほどまでの喜びを感じたことはなかった。
一方、王妃は窓辺に坐ったまま、たったいま恐ろしい時を過ごしたその場所で、忠誠と愛情のこもった声援を国王が受け取っているのを聞いていた。やがて歓声は遠ざかり、柱廊の下や鬱蒼とした木陰に消えて行った。
「国王万歳!」王妃は呟いた。「そうよ、万歳。国王は末永く生きるの、汚らわしいパリよ、お前の思い通りにはならない。おぞましい渦を巻く血塗れの深淵も、生贄を飲み込むことなど出来はしない……わたしが奪い返してみせる、それもこのか弱くか細い腕で、今お前を脅かし、世界の憎悪と神の復讐を誓ってみせよう!」
王妃の言葉からほとばしる激しい憎しみを見聞きしたならば、革命の怒れる友たちも必ずや怖気を震ったことであろう。王妃はパリの方角に腕を伸ばした。か弱い腕は鞘から抜かれた剣のようにレースの裾から光り輝いていた。
それから王妃は信頼しているカンパン夫人(madame Campan)を呼び、小部屋の中に閉じ籠もると、誰にも扉を入らせないようにした。
Alexandre Dumas『Ange Pitou』「Chapitre XXXIV Décision」の全訳です。
Ver.1 16/01/09
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