この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照《あずま・てる》
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アンジュ・ピトゥ

アレクサンドル・デュマ

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第三十五章 胸当て

 翌朝が訪れた。前日のようにまばゆく澄んだ太陽が輝き、ヴェルサイユの大理石と砂を黄金色に染め上げていた。

 無数の鳥たちが庭園の木々の上に集い、新しい日が暖かさと喜びで愛に応えてくれるのを祝って、盛大な囀りで挨拶を送っていた。

 王妃は五時に起床しており、国王が目を覚ましたらすぐに王妃の許を訪れるように頼んでおいた。

 ルイ十六世は昨日参上した議会代表とのやり取りで些か疲れていた。代表団に向かって、これが話し合いの第一歩だ、と答えざるを得なかった。かなり遅い時間に眠りに就いたため疲れは充分に取れなかったし、立ち居振る舞いにも何処かいつもにはないところがあった。

 とにもかくにも、服を着替えて剣を佩いたところに、王妃の願いが伝えられた。国王は心持ち眉をひそめた。

「何だ、王妃はもう起きているのか?」

「久しい前からでございます」

「まだ具合は悪いのかね?」

「そのようなことはございません」

「こんな朝早くに何の用だね?」

「仰いませんでした」

 国王は朝食にブイヨンと葡萄酒を少し摂ってから、マリ=アントワネットの部屋に向かった。

 王妃は式典の時のように正装していた。美しく、青ざめて、堂々と、冷たく微笑んで夫を迎え入れた。微笑みは冬の太陽のように、そして宮廷の招宴で群衆に光を投げかけなくてはならない時のように、頬の上で輝いていた。

 国王はその眼差しや微笑みに潜む悲しみを見抜けなかった。一つのことで頭が一杯だったのだ。即ち、昨夜決まったはずの方針に王妃が抵抗を試みるのではないかということで頭が一杯になっていた。

 ――また何か気まぐれを起こしたのだろう。

 国王が眉をひそめていたのはそうした理由による。

 王妃が口にした最初の一言で、国王はその思いをいっそう強くした。

「昨日からよく考えておりました」

「思った通りだ」

「お人払いを願います。親しい者のほかはご遠慮下さい」

 国王は不満を洩らしながらも、将校たちに退るように命じた。

 王妃の侍女だけがそばに残った。カンパン夫人である。

 すると王妃は美しい両の手で国王の腕にすがった。

「どうしてしっかりした服装をしていらっしゃるのですか? いけません」

「いけない? 何故だ?」

「こちらにいらっしゃる前に服を着替えないで下さるようお願い申し上げませんでしたか? 上着と剣を身につけていらっしゃるじゃありませんか。部屋着でいらっしって欲しかったのに」

 国王は驚いて王妃を見つめた。

 王妃の突飛な言葉を聞いて、国王の頭に様々な考えが去来した。中にはとてもありそうもないものまであった。

 真っ先に湧き起こったのは疑念と不安であった。

「どうしたのだ? 昨夜決めたことを延期したいとか取りやめたいとか言い出すのか?」

「決してそのようなことではありません」

「頼むからもう巫山戯るのはやめてくれ、真面目な問題なのだぞ。余はパリに行かねばならぬし、それを望んでおるのだ。もう後戻りは利かぬ。家の者たちには指示を出してあるし、一緒に来てもらう者たちは昨夜のうちに選んでおる」

「何も訴えるつもりはありませんが……」

「よいかね」国王は少しずつ感情を高めて勇気を出そうとした。「余がパリに向かうという情報はとうにパリの住民のところまで届いているはずだ。用意を整え、待ち受けていることだろう。ジルベールのご託宣によれば、このパリ行きによって人心に芽生えた好意的な感情も、場合によっては無惨な敵意に変えてしまうことになるのだ」

「けれど陛下、お言葉に異を唱えるつもりはありません。昨日諦めたのですもの、今日も諦めております」

「では先ほどの前置きは何だったのだ?」

「他意はありません」

「待ち給え。余の服装や予定の話をしたのは何故だ?」

「お洋服については大変結構だと思います」王妃は幾度と消えかけた笑みを保とうとした。放っておけばどんどんと暗くなってしまう。

「服装をどうして欲しいというのだ?」

「礼服を脱いでいただけますか」

「不適切かね? 紫の絹服だが。パリの民はこの恰好を見慣れておるし、余がこの色を身につけているのが好きなのだ。何より青綬によく映える。そなたもよく言っておったではないか」

「礼服の色については何の不満もありません」

「では何だ?」

「裏地です」

「またそうやって微笑んでたぶらかそうとしおって……裏地だと……冗談もたいがいにせぬか!……」

「冗談などではありません!」

「では上着を触ってみるがよい。それでも不満か? 白と銀のタフタだぞ、裏打ちにはそなたが自分で刺繍したではないか。上着」

「上着についてはもう何もございません」

「ひねくれ者め。気に入らぬのは胸飾りか? それとも刺繍の入ったバチストのシャツか? パリの町を見に行くのにお洒落をしてはならぬのか?」

 王妃の顔に苦い微笑みが浮かび、口唇に皺を寄せた。オーストリア女がこれほど謗られたのだ、怒りと憎しみの毒が回ったように下口唇が膨れ上がって前に突き出た。

「いいえ、お洒落や身だしなみを責めているわけではありません。とにかく裏地です。裏地、裏地なんです」

「裏地か……刺繍入りのシャツの裏地かね。そろそろ説明してもらおうか」

「ご説明いたします。勝利と革命思想に酔いしれたパリ市民七十万人のただ中に、憎まれ疎まれている国王が飛び込んでゆくのですよ。国王は中世の君主ではありませんが、今パリに入るには、鉄の鎧とミラン鋼の兜が必要です。弾丸も矢も石もナイフも身体にたどり着けないようにしなくてはならないのです」

「実際にはその通りだ」ルイ十六世の声が憂いを帯びた。「だがな、余はシャルル八世でもフランソワ一世でもアンリ四世でもない。今現在の君主制が天鵞絨と絹に包まれて生まれたように、余は絹の衣に包まれて生まれた。いや、もっと正確に言えば……弾丸に狙われる的を身につけて生まれて来たのだ。心に勲章をつけておるのだよ」

 王妃が苦しそうに呻きを洩らした。

「もうそろそろお互いわかり合わなくては。あなたの妻が冗談を口にすることなどないと、わかっていただけませんか」

 王妃が合図すると、部屋の奥に退っていたカンパン夫人が、洋箪笥の抽斗から、絹に包まれた細長く平べったいものを取り出した。

「陛下、国王の心が第一にフランスのものだということは認めますが、それでもなお、妻のものであり子供たちのものであると考えております。わたしとしては、国王の心を敵の弾丸に晒したくはありません。わたしはこれまで、あらゆる手を尽くして、あらゆる脅威から、夫であり国王であり子供たちの父親である方を守って参りました」

 そう言って絹の包みを開き、鉄糸の編み込まれたジレを取り出した。アラビアの織物のような素晴らしい細工であった。横糸の編み目は波の水紋を模し、しなやかで伸びのある布地の表面が流れるように揺らめいていた。

「それは?」

「ご覧下さい」

「ジレのようだな」

「それはそうです」

「首まで覆っている」

「ご覧のように、この襟を上着の襟や襟飾りに重ねることが出来るんです」

 国王はジレを手に取ってじっくりと眺めた。

 王妃はその関心の高さを見て、喜びを覚えた。

 国王は見たところ網の目の一つ一つを嬉しそうに数えて、毛織物のように柔らかく波打っているのを指で感じているようだった。

「いやはやたいした金属だ」

「でしょう?」

「見事なものだな」

「でしょう?」

「何処でこれを手に入れたのか見当もつかぬ」

「昨夜ある方から購入したんです。ずっと以前から、陛下が戦争にいらっしゃる場合に備えてと言って勧められていたんですけれど」

「本当にたいしたものだ!」それを見つめる国王の目は芸術家のものに変わっていた。

「きっと仕立屋に作らせたジレと同じようにお似合いです」

「そう思うかね?」

「お試し下さい」

 国王は何も言わずに、紫色の礼服(habit)を脱いだ。

 王妃は喜びに震えて勲章を外すのを手伝い、そのほかはカンパン夫人が手を貸した。

 だが国王は剣を自分で外した。今この瞬間、王妃の顔を観察する者があれば、至福を写した勝利の輝きに照らされているのが見えたはずだ。

 王妃の上品な手が襟飾りを外し、金属製の襟を挟み込むのを、国王はされるがままにしていた。

 王妃がジレのホックを留めた。国王の身体がきゅっと引き締まり、袖付き部分が隠れた。金属が肌に当たっても痛くないように細い革紐で裏打ちされていた。

 このジレは胴鎧より長かったから、胴体全体を守ることが出来る。

 上から上着とシャツを着せると、ジレは完全に見えなくなった。身体の輪郭はさして変わらない。何の不自由もなく身動きすることが出来た。

「重くありませんか?」王妃がたずねた。

「いや」

「ほら見て、素敵じゃない?」王妃は手を叩いて、袖のボタンを留め終えたカンパン夫人にたずねた。

 カンパン夫人も王妃と同じように素直に喜びを見せた。

「わたしは王様を救ったんです!」王妃が声を出した。「この見えない鎧をお試しになって下さい。テーブルに置いて、ナイフで切りつけるなり弾丸で撃ち抜くなりなさって見て下さい。さあお試しになって!」

「ううむ」国王は疑わしげな声を出した。

「お試し下さい!」王妃は熱に浮かされたように繰り返した。

「面白そうだ。是非やってみよう」

「なさってみる必要はありません」

「何だと? そなたの傑作がどれだけ素晴らしいのかを証明する必要がないだと?」

「人間って何なんでしょう! ことは夫の命、フランスの救い主の命だというのに、無関係な赤の他人の証言を信用するとお思いですか?」

「だがアントワネット、そなたのしたことを考えれば、やはり信用したということでは……」

 王妃は魅力的な仕種で、しかし断固として首を振った。

「どうかおたずね下さい」王妃は同席している夫人を指さし、「ここにいるカンパン夫人に、わたしたちが今朝したことをおたずねになって下さい」

「何をしたというのだ?」国王が不思議そうにたずねた。

「今朝、と言いますか夜明け前に、わたしたちは気でも狂ったように侍女たちを遠ざけ、二人きりで夫人の部屋に籠りました。使用人棟の一番奥に位置するところです。そうそう、使用人たちは昨夜のうちにランブイエ(Rambouillet)の住まいに移動させました。わたしたちは計画を実行する前に、誰にも見られないかどうかを、しっかり確認いたしました」

「何だかぞくぞくするな。その二人のユディトは何を計画していたのかね?」[*1]

「ユディトはさほどのことはしていません。少なくともさほどの音は立てませんでした」王妃は言った。「その点を除けば、適切な喩えではないでしょうか。カンパン夫人がこの胸当ての入った袋を持っておりました。わたしは父のものだったドイツ製の長い狩猟用ナイフを手にしておりました。この刃で何頭もの猪を確実に仕留めたそうです」

「ユディトだ! 何処までもユディトではないか!」国王が笑い出した。

「いいえ、ユディトはあんなに重い拳銃を持ってはいませんでした。陛下の武器の中からわたしが取り出し、ヴェーバーに装填させた拳銃です」[*2]

「拳銃だと?」

「そうです。わたしたち二人が夜中に、かすかな物音にも怯え惑い、口さがない者たちの目を盗み、二匹の飢えた二十日鼠のように誰もいない廊下を走り回っているのが見えたはずです。カンパン夫人は扉を三つとも閉め、一番内側の扉の隙間に布を詰めて塞ぎました。わたしのドレスを掛けておく壁際の洋服台に、二人して胸当て(le plastron)を掛けました。わたしはしっかりと、力を込めて、胸当て(la cuirasse)にナイフを突き立てました。すると刃が曲がって飛んでゆき、恐ろしいことに、床に突き刺さったのです」

「何だと!」

「お待ち下さい」

「穴は空かなかったのか?」

「続きをお聞き下さい。カンパン夫人が刃を拾って下さり、『お力が充分ではございませんでした。手が震えておいででしたから。私ならもっと強く刺せます』。そう言ってナイフを握り、壁際の洋服台に力一杯突き立てると、ナイフの刃は網の目の上で綺麗に折れてしまいました。この二つが刃の欠片です。残った部分は短刀にしてお返しいたします」

「想像以上だな。網目は破れなかったのか?」

「一番上の鎖にかすり傷がついた程度です。隣り合って三つあります、如何ですか」

「見てみたい」

「ご覧下さい」

 王妃は素早く国王の服を脱がせ、自分の考えと偉業を国王に感心してもらおうとした。

「ここに少し傷があるようだな」国王は表面にある一プスほどの凹みを指さした。

「それは拳銃の弾です」

「弾丸の入った拳銃を撃ったのか?」

「潰れて黒いままの弾丸をお見せいたします。これで確実に生き延びられると確信していただけますか?」

「そなたは守護天使だ」国王はジレのホックを一つずつ外し、ナイフと弾丸の跡をもっとよく確かめようとした。

「胸当てを撃たなくてはならなかった時の、わたしの恐怖をご想像下さい。あれほどぞっとする音は聞いたことがありませんでした。そのうえ、あなたを守ってくれるジレを撃っているはずなのに、あなたを撃っているように感じていました。網の目に穴が空いているのではないか、わたしの努力も苦しみも希望も永遠に打ち砕かれてしまうのではないかと、恐ろしくて仕方がありませんでした」

「それでこそ我が妻だ」ジレのホックを外し終わったルイ十六世が言った。「感謝してもし足りない」

 そう言って胸当てをテーブルに置いた。

「どうなさったんです?」

 王妃はジレをつかんで再び国王に差し出した。

 だが国王は気品と威厳に満ちた笑顔を見せて答えた。

「それはいらぬよ。ありがとう」

「断るのですか?」

「断る」

「でも、よくお考え下さい」

「陛下……」カンパン夫人も懇願した。

「これは救世主なのですよ、命そのものなのですよ」

「かもしれぬな」国王が答えた。

「神がもたらしてくれた助けを拒むというのですか」

「もうよい」

「断るというのですか?」

「うむ、断る」

「殺されてしまいます!」

「よいかね、十八世紀の貴族は、従軍する際に羅紗の服と上着とシャツで弾丸に立ち向かってゆくのだ。栄えある戦場に向かう際には、シャツしか身につけぬ。剣にはそれで充分だ。余はフランス第一の貴族だ。友たちと同じことしかせぬ。加えて言うなら、友たちが羅紗を着るのであれば、余にだけは絹を身につける権利がある。ありがとう、妻よ。ありがとう、王妃よ」

「嗚呼!」王妃は絶望と歓喜の入り混じった声を出した。「あの者たちが今のを聞いていてくれたら!」

 国王は慌てず騒がず服を着替え終えていた。それが勇敢な行為なのだと自覚している素振りも見せなかった。

「だったら滅びかけているのでは?」王妃は呟いた。「そんな瞬間を誇らしいと感じてしまうような君主制は?」


Alexandre Dumas『Ange Pitou』「Chapitre XXXV Le plastron」の全訳です。


Ver.1 16/02/13

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[訳者あとがき]


 

[更新履歴]


 

[註釈]

*1. [ユディト]
 ユディト(Judith)。旧約聖書に登場する、信仰心が篤く勇敢な女性。敵将の首を掻いてユダヤの町を守った。[]
 

*2. [ヴェーバー]
 Weber。マリ=アントワネットの乳母子ヨーゼフ・ヴェーバー(Joseph Weber)か?[]
 

*3. []
 []
 

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