国王が王妃の部屋を出た途端、パリ行きのお供を命じておいた士官や家の者たちに取り囲まれていた。
ボーヴォー氏、ヴィルロワ氏、ネール氏、デスタン氏である。[*1]
ジルベールは人込みに混じって、ルイ十六世が現れるのを待っていた。通りがけに視線を投げるだけでも構わない。
ここにいる人々に迷いが生じ、国王の決心が続くのかどうか信じられなくなっているのは明らかだ。
「諸君、朝食が終わったら出発しよう」国王が言った。
それからジルベールに気づき、
「そこにいたのか、先生。よかった。もちろんそなたも連れてゆくぞ」
「仰せのままに」
国王は仕事部屋に立ち寄り、そこで二時間、政務をこなした。
それから家族と共に弥撒を聞き、九時頃には食卓に着いた。
食事はいつも通りにおこなわれた。ただし王妃だけは、弥撒からこっち真っ赤にした目を見開いて、ほとんど食事も摂らずに、国王の食事に同席して少しでも長く一緒にいようとしたがった。
王妃は二人の子供を連れていた。二人とも母親から話を聞いて胸を痛め、父親の顔や士官や衛兵の人だかりを、心配そうに見比べていた。
それから、母に言われて、睫毛を濡らす涙を時折り拭っていた。その光景はある者には憐れみを、ある者には怒りを、その場にいる者たちすべてにつらい気持を引き起こさせていた。
国王は毅然とした態度で食事を摂った。目を見ずに何度もジルベールに話しかけ、深い愛情を込めて王妃にほぼずっと話しかけ続けた。
最後に、隊長たちに指示を与えた。
食事を終える頃、パリから歩いてやって来た人々の行列が、アルム広場に通じている大並木道のはずれに姿を見せた、と知らされた。
それを聞いた士官と衛兵たちが部屋の外へと飛び出した。国王は顔を上げ、ジルベールを見つめたが、ジルベールが微笑んでいるのを見て、落ち着いて食事に戻った。
王妃は青ざめて、ボーヴォー氏の方に首を傾げ、事情を確認して来るよう頼んだ。
ボーヴォー氏が急いで外に向かった。
王妃は窓に駆け寄った。
五分後、ボーヴォー氏が戻って来た。
「パリの国民衛兵です。陛下がパリの者たちに会いにいらっしゃるという噂が昨日のうちに広まったため、一万人ほどの人数が集まって陛下に目通りを求めに来たのですが、陛下のお許しがなかなか出ないためため、ヴェルサイユにまで押し寄せて来たのです」
「用件は何だと思う?」国王がたずねた。
「このうえない用件かと」ボーヴォー氏が答えた。
「構いません。門を閉じてしまいなさい」王妃が言った。
「扉を閉じておくだけで充分だ」
王妃は眉をひそめてジルベールを睨んだ。
ジルベールはそれを予期していた。というのも予言が半ば当たっていたからだ。二万人がやって来ると断言していたところを、既に一万人が集まっていた。
国王がボーヴォー氏に向かって言った。
「その勇敢な者たちに冷たいものを差し上げるよう伝えなさい」
ボーヴォー氏は再び退出し、国王の指示を膳部官たちに伝えに行った。
やがてボーヴォー氏が戻って来た。
「どうだった?」国王がたずねた。
「はい、パリの者たちは衛兵たち(MM. gardes)と言い争っております」
「ほう、言い争いを?」
「ええ、極めて礼儀正しいものですが。陛下が二時間後には出発すると知ると、陛下の出立を待って馬車の後ろからついて行きたいと申しております」
「歩いて、ですか?」今度は王妃がたずねた。
「そうです」
「馬を繋いだ馬車ですよ。大変な速度です。ボーヴォーさん、国王は移動の際にはいつも全速力なのですから」
その言葉の響きは、まるで「陛下の馬車に翼をつけなさい」と言っているようであった。
国王が手を挙げてやめさせた。
「並足で行こう」
王妃が怒気を思わせる溜息をついた。
「よいかね」ルイ十六世は落ち着いて答えた。「余に敬意を表するためにわざわざ足を運んでくれた者たちを走らせるのはしのびない。並足で行こう。ゆっくりでもよい。追いかけて来られるようにしよう」
居合わせた者たちは同意の呟きを以て感嘆を示した。だが同時に、何人かの顔の上には、王妃の顔に表われていたあからさまな非難の気持が反映されていた。王妃が弱気と呼んでなじっていた国王の人の良すぎる心根のせいだ。
窓が開いた。
王妃がぎょっとして振り返った。ジルベールだった。医師としての権利を行使して、窓を開けて食堂の空気を入れ換えたのだ。それだけ空気は食事の匂いと百人以上の息によって汚れていた。
ジルベールが開いた窓のカーテンの裏に行くと、中庭に集まっている人々の声が聞こえて来た。
「どうかしたかね?」国王がたずねた。
「石畳の上にいるのが国民衛兵です。陽射しに照らされて暑くなっているに違いありません」
「国王とのご会食に招待なさらないのですか?」寵臣の一人が王妃に小声でたずねた。
「日陰に連れて行かねばならぬ。大理石の中庭や、玄関広間、涼めるところなら何処でもよい」国王が言った。
「一万人を玄関広間に?」王妃が声をあげた。
「宮殿中に振り分ければ入るだろう」国王が言った。
「宮殿中に? でもそれだと、陛下の寝室までの道のりを教えてしまうことになるのですよ」
三か月もしないうちに、まさにこのヴェルサイユで実現することになる、恐ろしい予言だった。
「子供たちもたくさんついて来ております」ジルベールがやんわりと言った。
「子供たち?」
「ええ、何人もの人間が、散歩にでも行くように、子供たちを連れて来ているのです。子供たちは小さな国民衛兵の制服を着ています。それだけこの新しい組織に対する熱狂は大きいのです」
王妃は口を開きかけたが、すぐに下を向いた。
親切な言葉を口にしたかったのだが、誇りと憎しみが邪魔をした。
ジルベールがそれをしっかりと見つめていた。
「子供たちが可哀相だな!」国王が声をあげた。「子供を連れて来ているということは、一家の父親を傷つける気はないということだ。日陰に連れて行くのはこの子たちのためでもある。入って貰うがいい」
ジルベールがゆっくりと首を振ったのは、沈黙を守っていた王妃に向かってこう言っているかのようであった。
――これがあなたが口にすべき言葉だったのですよ。せっかく機会を作って差し上げたのに。そうすればあなたの言葉は人の口の端に上り、向こう二年間は人気を得ることが出来たでしょうに。
王妃はジルベールの無言の言葉を理解し、顔を赤らめた。
王妃はしくじったと感じて、自尊心と反抗心から、すぐさま言い訳のようにジルベールに返事を返した。その間にボーヴォー氏は国民衛兵に国王の言伝を伝えていた。
すると国王の指示によって宮殿内に入ることを許された国民衛兵の歓喜の声と感謝の言葉が聞こえて来た。
喝采、祝福、歓呼の声が、渦を巻いて国王夫妻のところにまで届いた。パリの状況を恐れていた二人には、胸を撫で下ろす出来事だった。
「陛下」ボーヴォー氏が言った。「どのような順序にいたしましょうか?」
「国民衛兵と軍人たちの言い争いは?」国王がたずねた。
「すっかり治まって立ち消えてしまいました。あの勇敢な者たちは喜びのあまり今ではこんなことを言っております。『何処であろうと我々は行ける。国王は我々のものであり、国王が何処へ行こうとも我々のものである』と」
国王がマリ=アントワネットを見ると、口唇を引き攣らせて蔑むような薄笑いを浮かべていた。
「国民衛兵に伝えてくれ」ルイ十六世は言った。「行きたいところに行ってよいと」
「陛下はお忘れではありませんか」王妃が言った。「国王護衛隊には四輪馬車を警護するという譲れない義務があります」
士官たちは国王が迷っているのを見て、王妃の味方につこうとした。
「確かにその通りだ」国王が言った。「まあよい、そのうちわかる」
ボーヴォー氏とヴィルロワ氏が席を外して自分たちの部隊に指示を与えに行った。
十時の鐘がヴェルサイユに響いた。
「では仕事は明日だ。勇敢な者たちを待たせるわけにはいかぬ」
国王が立ち上がった。
マリ=アントワネットが腕を広げ、国王に抱擁を与えた。子供たちが泣きながら父親の首にぶら下がった。ルイ十六世はほろりとしながらも、それを優しく振りほどこうとした。溢れ出す感情を隠そうとした。
王妃が腕や剣をつかんで士官たちを止めた。
「どうか皆さん!」
その声がすべてを物語っていた。出て行ったばかりの国王の安全を託されたのだ。
誰もが手を胸や剣に置いた。
王妃が感謝の笑みを見せた。
最後の集団の中にジルベールがいた。
「ジルベールさん」王妃が言った。「パリに行くよう国王に助言したのはあなたです。わたしの懇願を無視して、国王に決断させたのはあなたです。あなたは妻と母を前にして、恐ろしい責任を引き受けたのですよ」
「承知のうえです」ジルベールは平然として答えた。
「では国王を無事に帰して下さるのですね」王妃の態度は威厳に満ちていた。
「はい」
「命に懸けて国王を守ることだけを考えなさい」
ジルベールは深々とお辞儀をした。
「命に懸けてですよ!」マリ=アントワネットの言葉には、絶対的な力を持つ王妃にだけ許された威圧感と威厳があった。
「命に懸けて」医師は頭を下げたまま答えた。「お約束いたします。国王陛下に危険が迫っていると感じた時には、我が命に人質として何の価値も見出すつもりはありません。ですが申し上げたはずです、国王陛下を今日お連れするのは勝利の道だと」
「嬉しい報せを期待しております」
「必ずやお届けいたしましょう」
「では出発なさい、太鼓が聞こえました。国王の準備が出来たようです」
ジルベールがお辞儀をしてから大階段を降りていると、国王から頼まれてジルベールを捜していた親衛隊副官と鉢合わせした。
ジルベールはボーヴォー氏の四輪馬車に乗せられた。身許を明らかに出来なかったジルベールを国王の四輪馬車に乗せるのを式部長官が嫌ったのだ。
ジルベールは自分が紋章付き馬車に自分一人きりで、ボーヴォー氏は馬に乗って国王の馬車に併走していることに気づいて、苦笑いを浮かべた。
それから、王冠と紋章を戴いた馬車にこの自分が坐っているだなんてどれだけ滑稽なんだという気持になった。
自虐から立ち直れないうちに、馬車に押し寄せる国民衛兵に囲まれていた。乗客を見ようと身を乗り出して囁いているのが聞こえて来る。
「ボーヴォー公だ!」
「違うよ」
「だったらこの紋章はどうなる」
「紋章……紋章……そんなの関係ない。紋章が何の証拠になる?」
「ボーヴォー公の紋章が馬車に付いているなら、ボーヴォー公が乗っているという証拠じゃないか」
「ボーヴォー公ってのは愛国者なの?」女がたずねた。
「はん!」
ジルベールはまたも苦笑いした。
「それはともかく、この人はボーヴォー公じゃない。ボーヴォー公は太っているのに、この人は痩せている。ボーヴォー公は護衛隊司令官(commandant des gardes)の制服を着ているはずなのに、この人は黒い執事みたいな服装をしているじゃないか」
不快な呟きが追い打ちをかける。ジルベールの人となりは、あまり誇らしいとは言えない執事という肩書きに傷つけられていた。
「馬鹿なこと言うもんじゃない!」大きな声がしてジルベールをはっとさせた。声を出した男が、腕を振り回して馬車まで人を掻き分けて来る。「ボーヴォー公でも執事でもない。勇敢で有名な愛国者だぞ。フランス一有名な愛国者と言ってもいい。ジルベールさん、ボーヴォー公の馬車でいったい全体何をなさってるんですか?」
「まさか、ビヨさんか、こんなところに!」
「好機は逃さないようにしてるんでね」
「ピトゥは?」ジルベールがたずねた。
「近くにいますよ。おいピトゥ、こっちだ。ほらおいで」
するとピトゥが招きに応じてビヨのところまで肩で人込みを掻き分けると、ジルベールに恭しくお辞儀をした。
「お久しぶりです、ジルベールさん」
「元気かい、ピトゥ」
「ジルベール? 誰だそりゃ?」人込みから声があがる。
――これが栄光というものか! ジルベールは心中で思った。ヴィレル=コトレでは有名でも、パリでの知名度なんてこんなものさ!
ジルベールは並足になった馬車から降りて、ビヨの腕を借りながら人込みの中を歩き続けた。
そうしながら、ヴェルサイユ宮殿を訪れたことや、国王や国王一家から好意を得たことを、ビヨに向かって簡潔に物語った。こうしてしばらくの間、人込みの中で国王寄りの言葉を触れ回っていると、お人好しで感じやすいこの勇敢な者たちはあっさり感動してしまい、「国王万歳!」という歓声を長々と繰り返した。その声は次々と伝わってふくらみ、車中のルイ十六世の耳に大きく届くまでになった。
「この目で国王を見たいものだ」昂奮したビヨが言った。「近くから国王を見なくてはならん。そのためにここまで来たんだ。顔を見れば判断できる。信用できる人間かどうかは目に出るからな。近くまで行こうじゃありませんか、ジルベールさん」
「待って下さい、どうやら簡単に行きそうです」ジルベールが言った。「ボーヴォー氏の副官がこっちの誰かを捜している」
なるほど馬に乗った軍人が、へとへとな癖して意気揚々とした群衆の中を、注意深く通り抜けながら、ジルベールが降りた馬車に近づこうとしていた。
ジルベールが声をかけた。
「ジルベール医師をお捜しですか?」
「その通り」副官が答えた。
「だったら私です」
「そうでしたか。国王陛下の命により、ボーヴォー長官がお呼びです」
その言葉が響き渡ると、ビヨは目を見開き、群衆は道を開いた。ジルベールは開いた道に飛び込み、ビヨとピトゥがそれに続いた。副官が先頭で繰り返している。
「道を開けてくれ、諸君。道を開けてくれ。人が通る。国王の御名に於いて、道を開けてくれ」
やがてジルベールは、メロヴィング朝時代の牛のようにのろのろと進んでいた四輪馬車にたどり着いた。
Alexandre Dumas『Ange Pitou』「Chapitre XXXVI Le départ」の全訳です。
Ver.1 16/03/12
[訳者あとがき]
[更新履歴]
[註釈]
▼*1. [ボーヴォー氏、ヴィルロワ氏、ネール氏、デスタン氏]。
Charles-Juste de Beauvau-Craon?、1720-1793。プロヴァンス司令官(1782-1790)、陸軍大臣(1789)。Gabriel Louis François de Neufville de Villeroy?、1731-1794。中将(1781)。de Nesle、不明。Charles Henri d'Estaing?、1729-1794。国民衛兵(1789)[↑]
▼*2. []。
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▼*3. []。
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