この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照《あずま・てる》
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アンジュ・ピトゥ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第三十七章 旅程

 こうして押し合いへし合いしながらも、ボーヴォー氏の副官に従うままに、ジルベールとビヨとピトゥは国王の馬車のそばまで来ていた。デスタン氏とヴィルキエ氏(MM. d'Estaing et de Villequier)に随走されていた馬車は、いや増す人込みの中をゆっくりと進んでいた。

 前代未聞の珍しい光景だった。そもそもこんなことが起こったのは初めてだった。即席の兵士である田舎の国民衛兵が、歓声をあげて国王の馬車行列に駆け寄り、国王を言祝ぎながら、姿を見てもらおうとし、家に戻りもせずに御幸に加わり国王と歩みを共にしていた。

 何故か? 誰にもわからない。本能だったのだろうか? 国王を一度見た者たちも、この最愛の王をもう一度見たがっていた。

 何しろ、言っておかねばなるまいが、この当時、ルイ十六世は愛されていた。ヴォルテール氏が祭壇なるものに対する甚だしい軽蔑をフランス人に吹き込んでいなければ、フランス人はルイ十六世のために祭壇を立てていたことだろう。

 だからルイ十六世は祭壇を持たなかったが、それは単に、当時の自由思想家にとってルイ十六世とはそうした侮辱をぶつけることが出来ないほど高い評価を得ていたからに過ぎない。

 ルイ十六世がビヨの腕にしがみついているジルベールを見つけた。その後ろには相変わらず大きな剣を引きずっているピトゥがいる。

「ほら先生、いい天気にいい人たちだ」

「仰る通りです」ジルベールが返事をした。

 それから国王の耳許に口を寄せた。

「お約束した通りになりました」

「うむ、その通りだ。そなたは約束を守った」

 国王は顔を上げ、周りにも聞こえるように言った。

「ゆっくりと進もう。それでも今日見るべきものをすべて見るためには速すぎると思うが」

「ですが陛下」ボーヴォー氏が声をかけた。「そのような進み方ですと、一里に三時間かかります。これ以上ゆっくりさせるのは難しいかと」

 なるほど馬はしょっちゅう止まっていた。長々とした話のやり取りがおこなわれていた。国民衛兵は国王護衛隊と――流行りの言い回しを用いれば――友愛を結んでいた。

 ――何てことだ! ジルベールは目の前の不思議な光景を見て感慨に耽っていた。護衛隊と友愛関係になるということは、友になる前は敵だったということじゃないか?

「ねえジルベールさん」ビヨが声を潜めて言った。「俺は国王をこの目でしっかりと見たし、この耳でしっかりと聞きましたよ。俺に言わせりゃ、国王ってのは信頼できる人だね」

 昂奮していたせいで、ビヨの最後の一言は、国王と参謀にも聞こえるほどに大きくなっていた。

 参謀が笑い出した。

 国王は微笑んでからうなずいた。

「嬉しい誉め言葉だね」

 ビヨにも聞こえるほどの声だった。

「仰る通りだ。誰にでも言っているわけじゃありませんからね」ビヨはミショーがアンリ四世にしたように、すぐに国王の会話に割り込んだ。[*1]

「いよいよ照れるね」国王は困っていた。国王の尊厳を守りながら愛国者らしい話し方を滑らかにするにはどうしたらいいのかわからなかった。

 哀れな君主は、フランス人の王と呼ばれることにまだ慣れていなかったのだ。

 自分はまだフランス国の王と呼ばれていると思っていた。

 ビヨは有頂天になっていたため、哲学的な面から見て、ルイが人間という肩書きを得るために国王の肩書きを捨てていたのかどうか、わざわざ深く考えようとはしなかった。ルイの言葉がどれほど朴訥な農夫に似ていたかを感じて、国王を理解し理解されたものだと、一人喝采していた。

 だからビヨはこの時以来ますます昂奮していた。ウェルギリウスの表現に従えば、国王の顔の中から、立憲王制の愛をじっくりと飲み干し、ピトゥにもそれを感染させた。ピトゥは自分の愛とビヨの過剰な愛で満杯になり、それをすっかり外に撒き散らした。初めは力強い声で。それから叫び声で。最後には声がかれるほどに。[*2]

「国王万歳! 国民の父万歳!」

 ピトゥの声はこうして変わりながらかれて行った。

 ピトゥの声がすっかりかれた頃に、行列はポワン=デュ=ジュール(Point-du-Jour)に到着した。ラ・ファイエット氏が有名な白い軍馬に跨っている。無秩序にざわめいている国民衛兵の一団が苛々を募らせていた。国王にお供するために朝の五時からこの場所に並んでいたのである。

 今は二時頃だった。

 国王とフランス軍の新代表(=ラ・ファイエット)の会見は居合わせた者たちにとって満足のいく通りにおこなわれた。

 だが国王は疲れを感じ始めていたので、口を利くこともなく微笑みを見せるだけで済ませていた。

 パリ民兵隊の総司令官(=ラ・ファイエット général en chef)も、もはや号令を発することもなく、身振りで用件を済ませていた。

 国王は「国王万歳」の声が「ラ・ファイエット万歳」の声と同じだけあるのを見聞きして満足を覚えた。生憎なことに国王がこのように自尊心を満足させることが出来たのは、これが最後のことであった。

 それに加えて、ジルベールが国王の馬車のすぐそばから離れずにいたし、ジルベールのそばにはビヨが、ビヨのそばにはピトゥがいた。

 ジルベールは約束を守って、ヴェルサイユを発ってからというもの、たいしたことに王妃に四人の飛脚を送っていた。

 飛脚が運んでいたのは良い報せだけであった。何しろ道中の何処であろうと、国王の目に映るのが宙に振られた縁なし帽であったのは事実である。ただしこの縁なし帽には国民の色をした徽章が輝いており、国王護衛隊と国王の帽子についていた白い徽章にまるで非難を向けているようであった。

 喜びと昂奮のさなかにあって、この徽章の違いだけはビヨには我慢ならなかった。

 ビヨは三角帽に三色の徽章をつけていた。

 国王は白い徽章を帽子につけていた。つまり臣下と国王はまったく違う趣味をしているらしい。

 そうした考えに取り憑かれてしまったため、ジルベールが国王と話すのをやめた瞬間に、ビヨはジルベールに自分の思っていることを打ち明けた。

「ジルベールさん、どうして国王は国民の徽章(la cocarde nationale)をつけてないんでしょうね?」

「そうだねビヨ、きっと国王は新しい徽章があるのを知らないのか、それとも自分の徽章こそ国民の徽章に相応しいと考えているんじゃないかな」

「何言ってんですか、国王のは白くて俺らのは三色だからじゃありませんか」

「早まっちゃいけない」新聞の言葉に軽々しく飛びつこうとしたビヨを、ジルベールが止めた。「国王の徽章はフランス旗のように白いけれど、それは国王のせいじゃない。徽章と旗は国王が生まれる前から白かったんだ。しかもね、ビヨ、旗はその役目をしっかりと果たして来たし、白い徽章だってそうだった。シュフラン執行官(bailly de Suffren)がインド半島にフランスの旗を再び掲げることに成功した時にも、帽子には白い徽章が輝いていた。ダッサス(d'Assas)も帽子に白い徽章をつけていた。それがために夜中ドイツ人に気づかれても、奇襲されて味方を失うよりは自分が殺される方を選んだ。サックス元帥(Maréchal de Saxe)がフォントノワでイギリスと戦った時にも、帽子には白い徽章が輝いていた。それから、ロクロワ、フライブルク、ランス(à Rocroy, à Fribourg et à Lens)で帝国軍を破ったコンデ公の帽子にも白い徽章があった。これが白い徽章の果たして来たことなんだ、ビヨ。しかもまだこれだけじゃない。それに引き替え国民の徽章(la cocarde nationale)はいずれラ・ファイエットが予言したように世界を駆け巡ることになるだろうけれど、今はまだ何かを果たすだけの時間がなかった。出来たのが三日前なのだからね。このまま何もせずじまいだなんてことはない。つまるところ、まだ何も果たしていないということは、何か果たすのを待つ権利を国王に与えるということなんだ」[*3]

「国民の徽章がまだ何も果たしていないってのはどういうことですか?」ビヨがたずねた。「バスチーユを占拠しなかったとでも?」

「そんなことはない」ジルベールは悲しげに答えた。「君は正しいよ、ビヨ」

「だったら決まってまさぁ」ビヨは勝ち誇って断言した。「国王は国民の徽章をつけるべきじゃありませんか」

 ジルベールがビヨの脇腹を肘で小突いた。国王が耳を傾けていることに気づいたのだ。声を潜めた。

「気は確かか、ビヨ? 何のためにバスチーユを占拠したんだ? 王権に抗うためだと思っていたよ。すると君は、君の勝利の記念品と国王の敗北の証を、国王の身につけさせたいのか? 正気じゃない! 国王は優しく善良で率直な人だ、そんな人を偽善者にさせたいのか?」

「ですけどね」ビヨは口調を和らげたものの、完全に譲歩したわけではなかった。「厳密に言えばバスチーユの占拠は国王に抗ったわけではなく、専制政治に抗ったわけですからね」

 ジルベールは肩をすくめた。それには、下にいる者を踏み潰さぬようにという、上に立つ者の配慮が見えた。

「そうですとも」ビヨが昂奮して先を続けた。「俺らが戦った相手は国王じゃない。幕臣(satellites)なんだ」

 当時、政治の上では兵士(soldats)と言わずに幕臣(satellites)と言った。芝居の中では馬(cheval)と言わずに駒(coursier)と言うように。

「そのうえにですね」ビヨがもっともらしい顔で話を続ける。「国王は俺らのところにいらっしゃる以上、幕臣とは対立する。国王が幕臣と対立するなら、俺らとは仲良くするってことです。俺らの幸せと国王の名誉のために、俺らは行動を起こしたんです、そしてこの俺らが、バスチーユで勝利を収めたんです」

 ジルベールは国王の顔をよぎったものと心をよぎったものとの間にどのように折り合いをつければよいのかわからずにいた。

 国王は国王で、ざわついた行列の囁きの中でも、自分のそばまで踏み込んで来た議論の言葉を拾い始めていた。

 ジルベールは国王が議論に注意を傾けていることに気づいて、ビヨが踏み込んだ滑りやすい場所からもっと滑りにくい場所に連れ出そうと必死だった。

 突然、行列が止まった。ラ・レーヌ大通り、旧コンフェランス門、シャン=ゼリゼーにたどり着いたのだ。

 そこにはバイイ新市長を筆頭とした選挙人と市役人の代表団が整列していた。さらには聯隊長(un colonel)率いる三百人の衛兵と、第三身分から顔を連ねたのが明らかな国民議会の議員も少なくとも三百人いた。

 選挙人が二人、上手く力とコツを合わせて金箔張りの大皿を傾かないように支えている。大皿の上には巨大な鍵が二つ、アンリ四世時代のパリ市の鍵が戴せられていた。

 斯かる迫力ある光景を目の当たりにして、お喋りをしていた者たちもぴたりと口を閉じた。人込みの中にいる者たちも行列の中にいる者たちも、状況の違いはあれど皆それぞれに、今から交わされるであろう会話に耳を傾けようとした。

 著名なる研究者にして優れた天文学者であるバイイは、意に反して代表にされ、意に反して市長にされ、意に反して演説を任されてしまい、栄えある大演説の用意をしていた。この演説はまず前置きとして、厳格なる修辞の駆使された、チュルゴー氏の政権就任からバスチーユ襲撃に至るまでの、国王への讃辞で始まっていた。如何に雄辯が優れた結果をもたらすものであろうと、事態の主導権を国王にもたらすには程遠かった。哀れな君主は事態を最大限甘受していた。これまで見て来たように、渋々と甘受していたのである。

 バイイは演説に満足していた。とある出来事のせいで――バイイ自身が回想録にこのことを書いているが――とある出来事のせいで、用意していた前置きとは違う形の、なかなかに印象的な前置きが生まれたのである。そのうえ事実に基づいた名言至言を手ぐすね引いて期待している人々の記憶に残されたのはその一事のみであった。

 バイイは市役人と選挙人と共に前に進みながら、国王に手渡す予定の鍵の重さに不安を感じ始めた。

「どうだろう」バイイは笑って話しかけた。「この記念品を国王にお見せした後でパリに持ち帰るのは疲れるとは思わんかね?」

「ではどうするおつもりで?」選挙人の一人がたずねた。

「そうだな、君たちにあげるか、そうでなければ木の根元にある溝にでも捨ててしまいたいね」

「何てことを」選挙人が憤慨して言い返した。「この鍵がパリ攻囲後にパリ市からアンリ四世に贈られたものだということをご存じないのですか? 大変に貴重な、歴史的な遺物ですよ」

「その通りだ。この鍵はアンリ四世に贈られた。パリの征服者たるアンリ四世にね。それがルイ十六世に贈られる。ルイ十六世は……ううん、いや待てよ!」バイイは独り言ちた。「これはいい対句が書けるな」

 すぐに鉛筆を握って、用意していた演説の上に以下の前置きを書き足した。

『畏れながらこうして陛下にパリ市の鍵をお持ちする運びとなりました。この二つの鍵こそアンリ四世に贈られたものであります。アンリ四世はパリ市民を取り戻しました。そして今、パリ市民は国王を取り戻したのです』

 美しく正確な文章が、パリ市民の心に植えつけられた。ありとあらゆるバイイの演説や、バイイの著作まで含めてみても、後の世に残ったものはこれだけであった。

 ルイ十六世は同意の印にうなずいたものの、真っ赤になっていた。というのも敬意と美辞麗句の下に隠された諷刺や皮肉に気づいていたからだ。

 だから小声で呟いた。

 ――マリ=アントワネットならバイイ氏によるこうしたおべんちゃらに騙されはせぬだろうし、余とは違った対応をするであろうな。

 このような事情により、ルイ十六世はバイイ氏の演説の冒頭に気を取られ過ぎていたせいで、結びをまったく聴いていなかった。選挙人代表ドラヴィーニュ氏(M. Delavigne)の演説に至っては、始めから終わりまでまったく聴いていなかった。

 だがそれでも国王は、演説が終わると、自分を嬉しがらせようとした演説に対し喜んでいないように見えるのはまずいと思い、堂々たる言葉をもって応えた。演説の内容に何ら非難めいたことも言わず、パリ市と選挙人の敬意を充分に受け止めた。

 その後で国王は出発を命じた。

 だが動き出す前に国王は護衛隊を退らせ、選挙人とバイイ氏の演説によってパリ市が表明したささやかな礼儀に対し、底意のない信頼があることを示して応えた。

 すぐに国民衛兵と野次馬でごった返す中、馬車だけが先ほどよりも速い速度で前に進んだ。

 ジルベールとビヨは馬車の右側から離れずについて行った。

 馬車がルイ十五世広場を通り過ぎていた瞬間、セーヌの対岸から銃声が轟き、白い煙が香烟のように青い空に立ち上り、すぐに見えなくなった。

 あたかも銃声に揺さぶられたように、ジルベールは激しい衝撃に打たれるのを感じていた。一瞬だけ息が止まり、鋭い痛みを感じて胸に手を当てた。

 同時に苦しげな悲鳴が馬車のそばであがった。女性が一人、右肩の下を撃たれて倒れている。

 ジルベールの服のボタンは、当時の流行に従い、黒く大きな鉄にカットが施されていたが、そのボタンにぶつかった弾丸が斜めにはじかれたのだ。

 ボタンが鎧の役目を果たし、弾丸を逸らした。それがジルベールの感じた痛みと衝撃の原因だった。

 黒いジレと胸飾りの一部がなくなっていた。

 ジルベールのボタンにぶつかって逸れた弾丸が、不幸な女性を殺したのだ。瀕死の女性は血塗れになって運ばれて行った。

 国王にも銃声は聞こえたが、何一つ目にはしなかった。

 国王はジルベールに顔を寄せて微笑んだ。

「余のために向こうで火薬を鳴らしてくれているようだね」

「そのようです」

 ジルベールはそう答えたものの、先ほどの歓迎の意味に対する自分の考えを国王には伝えぬよう気をつけた。

 だが心の中では、王妃の恐れが少なからず正しかったのだと呟いていた。馬車の扉をぴったりと塞いでいるジルベールがいなければ、弾丸は鉄のボタンにはじかれることなく、真っ直ぐ国王のところに届いていただろう。

 いったい何者によってこのような正確な射撃がおこなわれたのだろうか?

 その時、知ろうとする者はいなかった……そのため永遠に明らかになることはないだろう。

 ビヨは真っ青になり、ジルベールの服(l'habit/coat)とジレと胸飾りの裂け目から目を離せずにいた。ビヨはピトゥに、さらに大きな声で「フランス人の父万歳」と叫ぶように促した。

 もっとも、並々ならぬ事態のさなかだったため、このささやかな事件は瞬く間に忘れ去られた。

 こうして遂にルイ十六世は市庁舎に到着した。ポン=ヌフで受けた祝砲には、少なくとも砲弾は入っていなかった。

 市庁舎の正面には大きな文字の銘文が記されている。日中は黒ずんでいるものの、夜になれば透明に明るく輝いて見えた。

 この銘文は市庁舎の人間が苦労して作ったものだ。

 銘文には次のように書かれていた。

『フランス人の父にして自由市民の王、ルイ十六世に』

 バイイの演説とはまた違った極めて意義深い対句表現に、広場に集まっていたパリ市民が称讃の叫びをあげていた。

 この銘文がビヨの目を惹いた。

 だがビヨは字が読めなかったので、ピトゥに読んでもらった。

 一度だけでは聞こえなかったかのように、ビヨは二度も繰り返させた。

 だからピトゥは一字一句違えずにその文章を繰り返した。

「そう書いてあるのか? そうなんだな?」

「そうです」ピトゥが答えた。

「市の奴らが、国王は自由市民の王だと書かせたのか?」

「ええ、ビヨさん」

「国民に自由があるというのなら、国民には国王に徽章を渡す権利があるんじゃないか」

 そう言ったかと思うと身を躍らせ、市庁舎の階段前で馬車を降りていたルイ十六世の前に飛び出した。

「陛下、ポン=ヌフにあるアンリ四世像に国民の徽章がつけられているのをご覧になりましたか?」

「うん?」

「いいですか! アンリ四世が国民の徽章を身につけているなら、あなただって身につけていいはずです」

「そうだな」ルイ十六世は困った顔を見せた。「持っていれば余とて……」

「そんなことですか」ビヨは声を荒らげ、手を持ち上げた。「でしたら国民の名に於いて、あなたの徽章の代わりに、あたしのを差し上げますよ、お受け取り下さい」

 バイイが割って入った。

 国王は青ざめた。事態が進んでいるのを実感し始めたのだ。答えを求めるようにバイイを見つめた。

「陛下、これがフランス人を象徴する徽章なのです」バイイが言葉をかけた。

「そういうことなら受け取ろう」国王はビヨの手から徽章をつかみ上げた。

 白い徽章は外さずにおいたまま、三色の徽章を帽子に取りつけた。

 巨大な勝鬨が広場に轟いた。

 ジルベールは深く傷ついたように顔を背けた。

 国民がこれほどまでに素早く踏み込み、国王が何ら抵抗しなかったことに気づいていた。

「国王万歳!」というビヨの声が、二度目の喝采の合図となった。

「国王は死んだ」ジルベールが呟いた。「もはやフランスに王はいない」

 国王が馬車から降りた地点から出迎えられた部屋まで、幾つもの剣が掲げられて鋼のアーチが出来ていた。

 ルイ十六世はこのアーチの下をくぐり、市庁舎の奥に消えた。

「これは勝利のアーチじゃない。カウディウムの槍道(les fourches Caudines)だ」[*4]

 ジルベールは溜息をついた。

「王妃は何と仰るだろう」


Alexandre Dumas『Ange Pitou』「Chapitre XXXVII Le voyage」の全訳です。


Ver.1 16/04/09

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[訳者あとがき]

・バイイの演説は史実では1789年7月17日。
 

[更新履歴]


 

[註釈]

*1. [ミショー]
粉屋のミショーは国王と知らずにアンリ四世に食事を出した。 Alexandre Menjaud による絵「Henri IV chez le meunier Michaud」がある。 []
 

*2. [ウェルギリウスの表現]。ウェルギリウス『アエネーイス』第一巻748〜749行。 Virgile『Enéide』「De son côté aussi, l'infortunée Didon prolongeait la nuit,/parlait de tout, et buvait l'amour à longs traits ;/ディドーは夜長をし、話をしながらじっくりと愛を飲み干した」。
 []
 

*3. [シュフラン/ダッサス/サックス]。▼シュフラン Pierre André de Suffren, le bailli de Suffren、1729-1788。▼ダッサス Louis d'Assas, le chevalier d'Assas、1773-1760、斥候に出た際、敵兵に囲まれて殺される瞬間、「À moi Auvergne, voilà l'ennemi !(助けてくれオーヴェルニュ聯隊、敵がいる!)」と叫んで味方に危険を知らせた。▼サックス元帥 Maréchal de Saxe、1696-4750。
 []
 

*4. [カウディウムの槍道]。les fourches Caudines 古代ローマにて、カウディウムの隘路で敗北を喫したローマ軍が、槍でできたアーチの下を歩かされた故事による。
 []
 

*5. []
 []
 

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