市庁舎の中で国王は手厚いもてなしを受け、自由の回復者(le Restaurateur de la liberté)と呼ばれた。
国王は話を求められて――演説をおこないたいという思いは日に日に激しくなっていたし、やはり相手方が何を考えているのか知りたかったこともあり――国王は胸に手を置き一言だけ言った。
「諸君はいつでも余の愛を当てにしてくれ給え」
国王が市庁舎で政府の――というのも、この日からフランスには玉座に加えて国民議会という紛れもない政府が誕生していた――国王が市庁舎で政府の言葉に耳を傾けている間、庁舎の外では市民たちが国王の上馬や豪華な馬車や従僕や馭者に親しんでいた。
国王が市庁舎に消えると、ピトゥはビヨからもらった一ルイを使って、青と白と赤の紐をふんだんに用いて大きな国民の徽章を幾つも作り、馬の耳や馬具や供回り一堂を夢中になって飾っていた。
それを見た者たちが真似をして、ものの見事に国王の馬車を徽章の山に変えてしまった。
馭者と従僕はすっかり飾り立てられた。
市民たちはさらに馬車の中にまで幾つもの徽章を滑り込ませた。
広場で騎乗したままだったラ・ファイエット氏が、国民の色を広めようとする者たちを押し返そうとしたが、上手くは行かなかった。
だから外に出て来た国王は、色鮮やかな光景を見て声をあげた。
それからラ・ファイエット氏に手を向け、近くに寄るよう合図した。
ラ・ファイエット氏は剣を降ろしておそばに寄った。
「ラ・ファイエット殿、そなたを捜していたのだ。国民衛兵の指揮権はそなたにあることを断言しよう」
そう言うと、割れんばかりの歓声の中、国王は馬車に戻った。
これで国王の身は安心だと確信したジルベールは、選挙人とバイイと共に会議室に残っていた。
話はまだ終わっていなかったからだ。
だが国王の出発を敬する歓声を聞いて、窓に近づき広場を一瞥し、ビヨとピトゥの様子を確かめた。
二人は先ほどと同じく国王と良い関係を築いていた。少なくともそのように見えた。
そこに突然、ペルティエ河岸(le quai Pelletier)を通って、馬に乗った軍人が埃まみれで慌ただしく到着した。群衆はそれでも恭しく素直に道を開いた。
この日の人々は機嫌が良かったため、笑顔で繰り返した。
「国王のご家来だ!」
そして「国王万歳!」の声がその将校に浴びせられ、女たちが汗で白くなった馬を撫でた。
将校は馬車まで馬を進め、馬係が閉めたばかりの扉までたどり着いた。
「シャルニー、そなたであったか」
ルイ十六世は声をひそめた。
「そちらの様子はどうだ?」
そしてさらに声をひそめる。
「王妃は?」
「心配なさっています」将校は馬車に首をほとんど突っ込んで答えた。
「ヴェルサイユに戻るのか?」
「はい」
「では友人たちを安心させてくれ。すべて順調に行っておる」
シャルニーはお辞儀をしてから顔を上げ、親しげな素振りのラ・ファイエット氏に気づいた。
シャルニーが近づくと、ラ・ファイエットが手を差し出した。その結果シャルニーと馬は群衆の手で今までいた場所から河岸まで押し流された。河岸には国民衛兵の厳格な指示の許、国王の通り道に人垣が出来ていた。
国王の命令は、来た時と同じように並足で馬車をルイ十五世広場まで進ませよ、というものだった。広場には国王のお戻りを待ちわびていた護衛隊が見えた。待ちわびていたのは誰もが同じであったので、広場を過ぎてからは馬も速度を上げ、ヴェルサイユに向かうにつれてどんどん速くなって行った。
ジルベールは窓の手すりから将校の到着を認めていたが、それが誰であるのかはまったくわからなかった。如何ほどの苦しみを王妃が受け取ることになるのか、ジルベールはそのことを考えていた。三時間前からは疑われることもやましさを見せることもなく人込みを抜けてヴェルサイユに伝令を送ることは不可能だったのだから、王妃の苦しみはなおさらであろう。
そうは言うものの、ジルベールが危ぶんでいたのは、ヴェルサイユで起こっていたことのうちささやかな部分(une faible partie/a faint idea)でしかなかった。
読者諸兄にはヴェルサイユにお戻りいただくことにしよう。長々と歴史の講義なぞさせる気はない。
王妃が国王からの伝令を最後に迎え入れたのは三時であった。
ジルベールは伝令を送る方法を、国王が鋼のアーチの下を通って市庁舎に入った瞬間に見つけていたのだ。
王妃のそばにはシャルニー伯爵夫人アンドレがいた。気分が優れないため昨日から潜り込んでいたベッドを、抜け出て来たばかりであった。
顔色はまだかなり悪い。目を上げるのもやっとだった。苦しみのためか恥ずかしさのためか、瞼は重たげに伏せられたままだった。
王妃はシャルニー伯爵夫人に気づいて微笑みかけたが、近しい者たちには、王族が口許に浮かべる形式的な微笑みにしか見えなかった。
それでも王妃はルイ十六世が安全であると確認できたために、まだその喜びの昂奮が治まらないような態度を見せていた。
「今度もいい報せだといいわね」王妃は周りの者たちにこぼした。「今日一日がこうして過ぎてゆけばよいのだけれど」
「心配なさり過ぎです。パリの者たちも自分たちがどのような責任を負っているかは重々承知しておりますとも」
「でも陛下」と別の廷臣(courtisan)が半信半疑でたずねた。「報せが間違いなく本物だと思ってらっしゃいますか?」
「もちろんです。報せを送っている者が国王の安全を誓ったのです。そもそもその方は友人ですから」
「その方が友人だというなら、話は違いますね」その廷臣が頭を下げた。
近くにいたランバル夫人がそばに寄った。
「新しく国王の侍医になった者のことですね?」
「ええ、ジルベールよ」王妃は何の気なしに答えた。それが周りに恐ろしい衝撃を与えるとは考えもしなかった。
「ジルベール!」アンドレが叫び声をあげ、心臓を蝮に咬まれたかのようにがくがくと震え出した。「ジルベールが、陛下の友人だと仰るのですか!」
アンドレが王妃を見つめた。怒りと恥に瞳をたぎらせ、手を握り締め、面と向かって非難の眼差しと態度をぶつけた。
「でも……だけど……」王妃は口ごもった。
「陛下!」と呟くアンドレの声には、より強い非難の色が見えた。
死のような沈黙が生じて、その不可解な事態を取り囲んだ。
その沈黙のさなか、控えめな足音が隣室の床を鳴らした。
「シャルニー殿ね!」王妃が小声で呟いた。自分がもう落ち着いたことををアンドレに知らせようとでもするかのように。
シャルニーが聞いていた。シャルニーが見ていた。ただし理解はしていない。
シャルニーはアンドレの顔色の悪さとマリ=アントワネットの狼狽に気づいた。
シャルニーには王妃に質問する権利はない。だがアンドレは妻だ。問いただす権利がある。
シャルニーはアンドレに近づき、優しく好意的な口調でたずねた。
「どうしたんだ?」
アンドレはどうにか気力を保った。
「何でもありません、伯爵」
そこでシャルニー伯爵は王妃を見た。王妃は如何ともしがたい状況には相当に慣れていたにもかかわらず、何度も微笑みを作ろうとして上手く行かなかった。
「ジルベールの忠誠心を疑っているようだね」シャルニーはアンドレにたずねた。「疑るような理由があるのかい?」
アンドレは答えなかった。
「答えてくれ」シャルニーが重ねて言った。
それでもアンドレが無言を貫いているので、
「話してくれないか。ここでそんなふうに慎ましくするのは褒められたことではないよ。ことは両陛下の安全に関わるんだ」
「何のことを仰っているのかわかりません」アンドレが答えた。
「話しているのが聞こえたんだ……何なら公妃に思い出してもらってもいい……」そう言ってシャルニーはランバル公妃に頭を下げた。「声をあげていたはずだ、『あの人が、陛下の友人だと仰るのですか!』と……」
「仰る通りです」ランバル公妃が馬鹿正直に答えた。
そして公妃もアンドレに近寄り、
「何かご存じなのでしたら、シャルニー殿の仰る通りですよ」と言った。
「お願いです!」アンドレの強い言葉は、公妃にしか聞こえないほど小さかった。
公妃が引き下がった。
「まったくもう! たいしたことではないんですよ」礼儀を欠くことになろうとも、もはやぐずぐずせず口を出すべきだと王妃は悟った。「伯爵夫人が不安がっていたのは、漠然となんです。アメリカの革命家でありラ・ファイエット氏の友人である人間がわたしたちの友人になれるのだろうかと言っていたんです」
「ええ、漠然となんです……」アンドレが機械的に繰り返した。「本当に漠然と」
「同じような不安を、こちらの殿方たちも伯爵夫人より前に口にしていましたよ」
マリ=アントワネットはそう言って廷臣たちに目を向けた。廷臣が疑問を口にしたことが、そもそものきっかけだったのだ。
だがシャルニー伯爵を納得させるにはそれではまだ足りなかった。来た時の混乱から考えて、隠しごとのありそうな気配があった。
シャルニーは引き下がらなかった。
「それでもやはり、漠然とした不安を口にするだけでなく、はっきりと説明するのが義務だと思わないか?」
「どういうことです?」王妃がかなり厳しい声を出した。「まだその話をするのですか?」
「陛下!」
「申し訳ないけれど、まだシャルニー伯爵夫人に質問するおつもりのようね」
「お願いです、重要なのことなのです……」
「あなたの自尊心のために、でしょう? シャルニー殿」王妃の嘲るような追い打ちが、シャルニー伯爵をずっしりと打ちのめした。「あなたは嫉妬なさってるんです」
「嫉妬?」シャルニーは真っ赤になった。「何に嫉妬すると仰るのです? お答え下さい」
「どうやら奥さまについてではありませんか」王妃が辛辣に言葉を重ねた。
「陛下!」シャルニーは口ごもり、その挑発にすっかり狼狽えてしまった。
「おかしなことではありません」王妃は素っ気なく続けた。「伯爵夫人には確かに嫉妬されるだけの価値がありますもの」
シャルニーが王妃に視線を飛ばし、行き過ぎだと伝えようとした。
だがそれは無駄な努力であり余計な警告であった。焼けるような痛みを刻みつけられては、この牝獅子を止めることはもはや何ものにも出来なかった。
「ええそうです、あなたは嫉妬なさってるんです、シャルニー殿。嫉妬と不安を感じてるんです。人を愛し、そのために眠れない人間にはよくあることです」
「陛下!」シャルニーが繰り返した。
「わたしだって――」と王妃は続けた。「今のあなたと同じ気持を感じてるんです。嫉妬と不安を持ってるんです」王妃は嫉妬という単語を強調した。「国王はパリにいてもう会えないんですから」
「ですが陛下」シャルニーは降り注ぐ風雨にだんだんと稲妻と雷電が帯びられつつあることにまったく気づかなかった。「陛下は国王からの便りを受け取ったばかりではありませんか。あれは良い報せだったのですから、陛下も安心なさったはずです」
「先ほど伯爵夫人とわたしに事情を説明されて、あなたは安心していたかしら?」
シャルニーが口唇を咬んだ。
アンドレが驚きと怯えを見せながら少しずつ顔を上げていた。驚いたのは耳にしたことのためであり、怯えたのは理解したつもりのことのためだ。
先ほどはシャルニーの最初の質問に対しアンドレによって作られた沈黙が、今度は王妃の言葉を待つ廷臣たちによって作られていた。
「当然です」王妃の声は何処か怒っているようだった。「愛している相手のことしか考えられないのは、人を愛する者にとっては避けられないことだもの。胸が押し潰されそうになりながらすべてを捧げている者には、それがどれだけの慰みになることか。ええそう、胸を掻き乱すような感情のすべてを捧げているんです。わかりますか? 国王のことが心配でならないんです!」
「陛下」廷臣の一人が思い切って口を挟んだ。「これからも次々と伝令がやって来るはずです」
「嗚呼! どうしてわたしはパリにいないでこんなところにいるんでしょう? 国王のおそばにいないんでしょう?」王妃は気づいていた。王妃自身が感じていた激しい嫉妬心をシャルニーにもぶつけようとしてからというもの、シャルニーが狼狽えていることに気づいていた。
シャルニーが深々と頭を下げた。
「それだけのことでしたら、私がパリに参ります。陛下がお考えのように国王の安全が脅かされ、国王の首が危険に晒されているのであれば、この私が幾度となく自分の首を晒したことでしょう。では参ります」
シャルニーはお辞儀して実際に足を踏み出した。
「お待ち下さい!」アンドレが叫んでシャルニーの前に飛び出した。「お命を粗末になさってはいけません!」
もはやいつ何時アンドレが恐怖の発作を起こしてもおかしくなかった。
いつも冷静なアンドレとは思えぬほどの取り乱しようを目にし、ついぞ見られなかった心遣いの言葉が洩れたのを耳にした王妃は、目に見えて顔色を変えた。
「それは王妃の役目ですよ、どうしてお奪りになるの?」王妃がアンドレに声をかけた。
「わたくしですか」アンドレが口ごもった。長いこと心を燃やしていた炎が初めて口唇からほとばしったことを自覚していた。
「わかりませんか? そなたの夫君は国王に仕えていて、国王のところに向かおうとしているのです。危険に身を晒すのは国王のためであり、ことは国の務めだというのに、そなたはシャルニー殿の身を案じているのですよ!」
そうした激しい言葉をぶつけられて、アンドレは落ち着きを失くし、よろめいて床に倒れそうになった。シャルニーが駆け寄って腕で支えなければ、実際に倒れていたことだろう。
シャルニーが怒りの衝動を抑えきれなかったのを見て、マリ=アントワネットはすっかり絶望してしまった。自分はただの心破れた恋敵だと思っていたのに、不当な君主だったというわけか。
「王妃の仰る通りだ」ようやくのことでシャルニーはそう言った。「君の言動は軽率だった。夫だからなんて言っている場合じゃない、ことは国王の利害に関わるんだ。僕のために不安を感じてくれたんだと、それがわかっていても、そうした感受性は仕舞っておくべきだと真っ先に君に意見するのも僕の務めだろう」
それからマリ=アントワネットに向かい、
「王妃の仰せのままに」と事務的な言葉を伝えた。「では出かけて参ります。この私が国王の報せを持って帰って参りましょう。必ずや良い報せを。そうでなければ持って帰る報せなどありません」
そう言ったかと思うと、深々とお辞儀をして、恐怖と怒りに打たれた王妃が引き留めようとするいとまも与えず、立ち去ってしまった。
それからすぐに、馬の蹄鉄が中庭の石畳をギャロップで駆け出してゆく音が響き渡った。
王妃は身じろぎもしなかったが、内心では激しく動揺していた。動揺を隠そうと懸命になればなるほど動揺はますます大きくなっていた。
王妃の動揺の原因を理解していたにしろしていなかったにしろ、廷臣たちは少なくとも王妃の平安を尊重して、一人また一人と立ち去った。
王妃は一人残された。
アンドレも一緒に部屋を出て、王妃のことは二人の子供に慰めてもらうことにした。王妃から請われて連れられて来たところだった。
Alexandre Dumas『Ange Pitou』「Chapitre XXXVIII Ce qui se passait à Versailles tandis que le roi écoutait les discours de la municipalité」の全訳です。
Ver.1 16/05/07
[訳者あとがき]
・141「シャルニーの最初の質問」とは、ジルベールの忠誠心を疑うような理由があるのか?という問いのことか。
[更新履歴]
[註釈]
▼*1. []。
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▼*2. []。
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▼*3. []。
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