この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照《あずま・てる》
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アンジュ・ピトゥ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第五十二章 十月五日の日中

 ジルベールは舞台を演じている登場人物を一瞥すると、マリー=アントワネットに向かって恭しく歩を進めた。

「王妃、ご夫君がいらっしゃいませんので、携えて参りました報せは王妃にお伝えしても構いませんか?」

「お話しなさい。随分と急いでいるのが見えたので、覚悟を決めておりました。悪い報せに違いないのでしょう?」

「不意打ちの方がお好きでしたか? 予め知らされていればこそ、陛下に相応しいその明晰な智性と確かな判断力に基づいて、危険に飛び込み、危険を退らせることが出来るのではありませんか」

「危険とは何のことです?」

「七、八千人のご婦人がパリを離れ、武器を手にヴェルサイユに向かっているのです」

「婦人が七、八千ですか」王妃は蔑むように応じた。

「ですが途中途中で足を止めていますから、ここに来る頃には一万五千から二万人にはなっているものと思われます」

「目的は?」

「腹を空かせて、国王にパンを要求しに来るのです」

 王妃はシャルニー伯爵に顔を向けた。

「危惧していたことが起こってしまいました」シャルニーが応じた。

「どうすべきでしょうか?」王妃がたずねた。

「まずは国王にお知らせに」ジルベールが答えた。

 王妃が慌てて振り返った。

「国王に! いけません。そんなことをして何になると?」

 その叫びはマリー=アントワネットの口から出たというよりは心からほとばしったものだった。それは王妃の勇敢さを示すものであり、王妃自身の強さを自覚している印であり、また同時に夫である国王にはあってはならないし他人には見せてはならない弱さを自覚している証でもあった。

 だがシャルニーは他人だろうか? ジルベールは他人だろうか?

 否。この二人は神意によって選ばれたのではないだろうか? 一人は王妃を守るため、一人は国王を守るために。

 シャルニーが王妃とジルベールの二人に対して答えを口にした。シャルニーは主導権を取り戻していた。そのためには誇りなどとっくに捨てていた。

「陛下、ジルベール殿の言う通り、国王にお知らせしなくては。国王陛下は今も国民に愛されていらっしゃいますから、ご婦人たちの前に姿をお見せになって訴えれば、武器を捨てさせることが出来るでしょう」

「でも誰が知らせに行く役を負うというのですか?」王妃がたずねた。「道が断たれているのは間違いないことでしょうから、危険な務めになりますよ」

「国王はムードンの森にいらっしゃるのでは?」

「ええ、ですが恐らく道が……」

「軍人として見ていただけませんか」シャルニーがぴしゃりと遮った。「兵士は死ぬためにいるのです」

 そう口にするやシャルニーは答えも待たず嘆息するのも聞かずに、素早く下まで降りると、衛兵の馬に飛び乗り、二人連れてムードンに走らせた。

 アンドレが窓から届けた別れの挨拶に向かい、最後に一つ挨拶を返してシャルニーが姿を消した途端、遠くから時化の日の海原のような唸りが聞こえ、王妃は耳をそばだたせた。パリの路地から遠く離れた木々から湧き起こってくるような音だった。王妃のいる部屋からは、霧を通して、ヴェルサイユのはずれにある家にまで路地(木々?)が広がっているのが見えていた。

 唸りが耳を驚かしたように、やがて目を脅やかす光景が訪れた。突き刺すような雨が鼠色の靄に白い線を引き始めた。

 だが恐ろしい空模様とは裏腹に、ヴェルサイユには人が溢れていた。

 密使が次々と宮殿に到着した。密使たちからの報告によれば、パリから来た人の列が幾重にも連なっていると云う。誰もが先日の拍子抜けするほどの勝利と歓声のことを思い浮かべて、心に後悔を感じもすれば、或いは恐怖を感じている者もいた。

 兵士たちは不安げに顔を見合わせ、恐る恐る武器を手に取った。将校たちは兵士たちが目に見えて狼狽えているのを目にしたり群衆が愚痴っているのを耳にしたりしてすっかり士気をくじかれてしまい、酒を抜こうとしている酔っぱらいのように、自分たちに降りかかった不運で一杯の空気をしんどそうに吸い込んでいた。

 傍らには三百人ほどの護衛隊が馬に乗っていた。表向き動じた様子は見られなかったが、相手の出方がわからない時の剣士が見せるような躊躇を示していた。

 敵意を剥き出しに武器を持ってパリを出たものの、到着した時には武器も持たず腕を上げることさえ出来ぬほど疲れ切って腹を空かせた女たちに向かって、することがあるとでもいうのだろうか?

 そうは言っても念には念を入れて隊列を組み、剣を抜いて待機した。

 遂に女たちが二本の通りから現れた。途中で二手に別れていたのだ。それぞれサン=クルー(Saint-Cloud)の道と、セーヴル(Sèvres)の道を取っていた。

 別れる前に八つのパンを分かち合っていた、というのもセーヴルで見つけられたのはそれだけだったからだ。

 三十二リーヴルのパンを七千人で!

 ヴェルサイユに着いたとはいえ、這うのがやっとの状態だった。四分の三以上が武器を道に放り出して来た。先述した通り(?)マイヤールはヴェルサイユ(la ville)に入ってすぐに、残りの四分の一には近くの家に武器を置いて進むよう指示していた。

 そして街なかを歩きながら呼びかけた。「聞いてくれ。王制の味方だとわかってもらうために『アンリ四世万歳!』を歌おう」[*1]

 すると女たちはパンを求めるのがやっとの絶え入りそうな声で、王国の歌を歌い始めた。

 宮殿の驚きが如何ばかりであったかは想像に難くない。何しろ嘆き声や怒鳴り声ではなく歌声が聞こえて来たうえに、歌っている者たちが飢えのあまり酔っぱらいのようによろめいて憔悴した顔を突き出しに(coller)来るのが見えたのだ。血の気も生気も失せた泥だらけの顔には水と汗がしたたり、幾つもの手が金メッキの柵を握って揺り動かしているのを見ては、重なりあった幾千の恐ろしい顔も取り乱した目には実際より何倍も多く見えていた。

 それから時折り女たちの胸から悲痛な叫びが洩れ、死にかけた面持ちから光がほとばしっていた。

 それからまた時折り、しがみついていた手が柵から離れ、虚空を泳ぎ、宮殿の方に伸ばされた。

 開いて震えている手は懇願していた。

 握り締めて引き攣っている手は激昂していた。

 何と陰鬱な光景だったことか!

 空と地は雨と泥で塗られていた。

 取り囲む女たちは飢えと怒りで。

 取り囲まれた貴族たちは憐れみと猜疑で塗られていた。

 ルイ十六世を待っている間も、昂奮している王妃の心は決まっていた。守りを命じた王妃の許に、だんだんと廷臣や将校や役人たちが集まっていた。

 その中にパリ大臣サン=プリースト氏がいた。[*2]

「やはりあの者たちの希望を確認して来ていただけますか」

 王妃に言われてサン=プリースト氏は外に出て中庭を渡り、鉄柵まで歩いて行った。

「ご用件は?」

「パンだよ! パンをおくれ!」幾千もの声が一斉に応えた。

「パン?」サン=プリースト氏は苛立った声を出した。「主人が一人しかいなかった時にはパンに困ることもなかったのに、山ほど主人が出来た結果こうなってるんじゃないのか?」

 そう言うとサン=プリースト氏は柵門は開けぬように命じて、飢えを訴える声を尻目に引き上げた。

 だが構わず使節団(une députation)の女たちが詰め寄るので、そのうち柵門を開かざるを得なくなるのは目に見えていた。

 マイヤールは女たちを代表して議会に名乗りをあげると、議長に頼んで使節団の十二人の女たちを連れて国王に建白しに行ってもらうことを約束させた。

 使節団(la députation)がムーニエ(Mounier)議長を先頭に議会から出て来たところに、国王が召使い棟を通って大急ぎで現れた。[*3]

 ムードンの森でシャルニー伯爵に捕まったのである。

「そなたか。余に用があるのか?」

「その通りです」

「何があったのだ? 急いでいるようだが」

「一万人のご婦人が今まさにヴェルサイユに集結しております。パリからパンを求めてやって来たのです」

 国王は肩をすくめた。蔑みではなく憐れみの仕種であった。

「余がパンを持っていたなら、そもそもパン目当てにヴェルサイユまで来てもらう必要もあるまいに」

 だがほかには何の感想も洩らさず、邪魔が入ったせいで狩りの獲物が遠のいてゆくのを名残惜しそうに見つめた。

「ではヴェルサイユに行くとしよう」

 そう言ってヴェルサイユ帰還の途についた。

 先述した通り、国王が到着したのは、大きなどよめきがアルム広場に響き渡った時だった。

「何事かね?」

「あれは――」やって来たジルベールは死人のように青ざめていた。「ジョルジュ・ド・シャルニー殿に率いられた衛兵隊・護衛隊(vos gardes)が、国民議会の議長と、議長が陛下の許に連れて来ようとしている使節団とを攻撃しているのです」

「馬鹿な!」

「殺される者たちの声をお聞き下さい。逃げ惑う者たちをご覧下さい」

「門を開けよ! 使節団と面会しようではないか」

「陛下!」王妃が悲鳴をあげた。

「門を開けよ」ルイ十六世が繰り返した。「国王の宮殿は安らぎの場なのだ」

「安らぎ?」王妃が言った。「国王以外の者にとってでしょうか?」


Alexandre Dumas『Ange Pitou』「Chapitre LII Journée du 5 octobre」の全訳です。


Ver.1 17/05/13

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[訳者あとがき]

 初出『La Presse』紙、1851年5月9日。
 

[更新履歴]


 

[註釈]

*1. [アンリ四世万歳!]
 元々アンリ四世を讃える歌として知られており、1770年ごろには舞台上でも歌われ親しまれた。その後、革命期には歌詞を変えて歌われた。[]
 

*2. [パリ大臣サン=プリースト氏]
 monsieur de Saint-Priest, ministre de Paris。François-Emmanuel Guignard de Saint-Priest。1735-1821。1789年6月〜1791年1月まで国務卿 secrétaire d'État de la Maison du roi(ministre de Paris)を務める。[]
 

*3. [ムーニエ]
Jean-Joseph Mounier, Président à l'Assemblée Nationale。[]
 

*4. []
  []
 

*5. []
  []
 

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