人に従うという義務を満たすと、今度は心に適う欲求を満たしたくなった。
人に従うのは心地よい。とりわけその人の指示が自分の内心の思いを体現しているとなれば。
そこでピトゥは一目散に駆け出して、プリューからロネ街(la rue de Lonnet[異本 Lormet])まで緑のベルトのように二本の生垣の続いている小径に沿って、畑を横切り、ピスルー(Pisseleu)の農家まで全速力で走り続けた。【※la rue de Lormet(Lonnet, L'ormet)、いずれも不詳】
だがやがて足取りをゆるめた。足を運ぶたびに思い出が甦ってきた。
生を受け、少年期を過ごし、懐かしい日々を暮らした時間は、英国の詩人の言葉を借りれば、故郷に戻った旅人を讃えて足許に広がる絨毯のようであった。
そんな日々を過ごした町や村に戻ると、一足ごとに思い出が胸を打って甦った。
つらかった場所に、嬉しかった場所。苦しくて泣きじゃくった場所に、嬉し泣きに泣いた場所。
分析は柄ではない。ただ男らしくあらねばならなかった。道々過去を積み上げてゆくと、ビヨ夫人が待つ農家にたどり着く頃には胸が一杯になっていた。
百歩ほど先に屋根の天辺が見え、苔むした煙突の煙を見下ろすゴツゴツと年経た楡の木々が目に飛び込み、家畜の物音やら鳴き声やら犬の唸り声や荷車のガタゴトいう音が遠くから聞こえて来ると、ピトゥは兜をかぶり直し、腰に龍騎兵刀を固定し、男としても軍人としても出来るだけ勇ましく見えるように心がけた。
誰にも気づかれなかったところを見ると、まずは成功と言える。
水飲み場(la mare)で馬たちに水を飲ませていた馬丁(valet (d'écurie))が物音に振り返り、ざんばら髪の向こうからピトゥに目を留めた。否、兜と太刀に目を留めた。
馬丁は吃驚して固まってしまった。
ピトゥが通りしな声をかけた。
「バルノー(Barnaut)、こんにちは」
兜と太刀に名前を呼ばれて驚いた馬丁は、帽子を脱いで馬の繋索を放した。
ピトゥが笑顔を浮かべた。
だが馬丁の緊張はほぐれずにいた。にこやかな笑みはすっかり兜に隠れていたからだ。
ちょうどこの時ビヨ夫人が食堂の窓からこの兜を見つけた。
ビヨ夫人は飛び上がった。
地方一帯がピリピリしていた。不穏な噂が広まっていたからだ。噂によれば、森を切り倒しまだ青い小麦を刈り取る野盗が出没していると云う。
兵士が現れた意味は? 襲撃だろうか? 援軍だろうか?
ビヨ夫人はピトゥの全身に目を走らせ、ぴかぴかの兜をかぶっているのに田舎びた長靴下を履いていることに疑問を持った。希望を掛けたくもあるが不審に思いたくもあると言わざるを得ない。
何はともあれ兵士が台所に入って来た。
ビヨ夫人が足を踏み出した。ピトゥは無礼にならぬよう兜を脱いだ。
「アンジュ・ピトゥ! どうして此処に?」
「こんにちは、ビヨおばさん(m'ame Billot)」
「アンジュ! わからないもんだね、じゃあ軍隊に入ったのかい?」
「軍隊?」
ピトゥは誇らしげに笑顔を見せた。
それから周りに目を遣ったが、目指すものは見つからない。
ビヨ夫人が微笑んで、ピトゥの目当てを察して単刀直入にたずねた。
「カトリーヌかい?」
「ご挨拶したくて。ええと、その通りです」
「洗濯物を干してるよ。まあ此処に坐ってあたしと話でもしようじゃないか」
「そうさせて貰います。嗚呼、こんにちは、ビヨおばさん」
ピトゥは椅子に坐った。
戸口や階段には、馬丁(valet d'écurie)の話を聞いて下男下女や農夫たち(les servantes et les métayers)が集まって来ていた。
野次馬が増えるたびに囁きが繰り返された。
「ピトゥかい?」
「うん」
「驚いたな」
ピトゥは懐かしい知り合いたちに温かい目を向け、愛しむように微笑んだ。
「じゃあパリから戻ったんだね?」ビヨ夫人がたずねた。
「真っ直ぐ戻って来ました」
「うちのはどうしてる?」
「元気です」
「パリはどうだった?」
「最悪でした」
「そうかい……!」
人の輪が小さくなった。
「王様は?」ビヨ夫人がたずねた。
ピトゥは首を横に振って、国王には屈辱的なことに舌打ちをした。
「お后様は?」
今度は返答すらしなかった。
「そうなのかい!」ビヨ夫人が声をあげた。
「そうなのか!」居合わせた人々も同じく声をあげた。
「いろいろ話しておくれ」ビヨ夫人が改めてピトゥに言った。
「何でも聞いて下さい」ピトゥは注目を浴びるような話をカトリーヌのいないところで口にしたくはなかった。
「何で兜をかぶってるんだい?」ビヨ夫人がたずねた。
「戦利品です」
「戦利品?」
「そうなんです」ピトゥは大人が子供に説明して聞かせる時のような笑みを見せた。「ご存じないかもしれませんが、戦利品っていうのは敵を倒した時のものです」
「あんたが敵の一人を倒したっていうのかい?」
「一人ですって?」ピトゥが教え諭すように言った。「そうかビヨおばさんは知らないんですもんね、バスチーユを占拠したのはボクたち二人、ビヨさんとボクなんです」
その言葉を聞いた者たちは魔法に打たれたようになった。昂奮した人々の息がピトゥの髪にかかり、椅子の背に何人もの手が掛けられた。
「話しとくれよ、うちの人のことを」ビヨ夫人が誇りと不安の入り混じった声を出した。
ピトゥはカトリーヌが戻ってやしないかと改めて確かめたが、まだ姿はない。
こうしてピトゥが最新の情報を持ち帰っているというのに、洗濯物から離れないでいるとは許しがたい。
ピトゥは首を振った。不機嫌になりかけていた。
「話すのにはだいぶ時間がかかります」
「お腹が空いてる?」
「そうですね」
「水は?」
「いただけますか」
馬丁や下男下女がすぐに行動に移った。ピトゥの頼みを考えて理解するよりも先に、水差しやパンや肉やあらゆる果物をピトゥに届けていた。
現地の言い方に倣うならば、ピトゥは熱い胃袋を持っていた。つまりどれだけ食べても消化できた。だがいくら消化が早くとも、アンジェリク伯母の鶏肉を消化しきるのには早すぎた。まだ三十分も経っていない。
望みが叶えられるのに思ったほど時間がかからなかったせいだ。それだけ食べ物の出て来るのが早かった。
これは頑張らねばならないとわかり、ピトゥは食事に取りかかった。
だが気持だけは強かったものの、すぐに手は止まってしまった。
「どうしたんだい?」ビヨ夫人がたずねた。
「おばさん、実は……」
「飲み物を持って来ておくれ」
「林檎酒がありますから」
「でもきっとブランデーの方がいいんだろうね?」
「ブランデー?」
「パリではしょっちゅう飲んでたんだろう?」
無邪気なビヨ夫人と来たら、ピトゥが地元を離れていた十二日の間に悪習を身につけて来たと考えていたのだ。
ピトゥは胸を張ってそんな勘ぐりを退けた。
「ブランデーなんて飲みません!」
「わかったよ、じゃあ続きを」
「続きを話すのはカトリーヌさんが来てからにします。長い話なので」
何人かが洗濯場まで走ってカトリーヌを捜した。
だが誰もがあちこちと走り回っている間に、ピトゥは何気なく二階に通ずる階段に目を向けた。階下から吹き上げる風が二階まで空気の流れを作り出し、扉が開くと、窓を見ているカトリーヌが見えた。
カトリーヌは森の方を見ていた。言い換えるならブルソンヌ(Boursonne)の方を。
カトリーヌは見つめるのに夢中で、階下の騒ぎにもまったく慌てていなかったし、屋内のことにもとんと気を留めずに、家の外で起こっていることだけに目を注いでいた。
「ああ」ピトゥは溜息をついた。「森の方、ブルソンヌの方、イジドール・ド・シャルニーの方、つまりそう言うことだ」
そして再び溜息をついた。先ほどよりもずっとつらそうな溜息だった。
その時、探しに行っていた者たちが洗濯場をはじめカトリーヌのいそうなところから戻って来た。
「どうだった?」ビヨ夫人がたずねた。
「見当たりません」
「カトリーヌ!」
ビヨ夫人の声は娘には届いていなかった。
ピトゥが思い切ってビヨ夫人に伝えた。
「ビヨおばさん、カトリーヌさんが洗濯場で見つからないのは当然です」
「どうしてだい?」
「洗濯場にはいないからです」
「居場所を知ってるのかい?」
「はい」
「何処だい?」
「二階です」
ピトゥは夫人の手をつかんで階段を何段か上り、カトリーヌが朝顔と木蔦で囲われた窓縁に坐っているのを見せた。
「おや髪を結ってるよ」
「それどころか完璧に結ってますよ」ピトゥが苦しげに声を出した。
ビヨ夫人はピトゥの苦悩には気づかず、大きな声で呼びかけた。
「カトリーヌ!」
カトリーヌは吃驚して身体を震わせ、慌てて窓を閉めた。
「何?」
「早くおいで」ビヨ夫人は自分の言葉がもたらすであろう効果を疑いもしていなかった。「アンジュがパリから帰って来たよ」
ピトゥはカトリーヌの返事におそるおそる聞き耳を立てた。
「そう」カトリーヌは素っ気なかった。
ピトゥの胸が締めつけられ打ちのめされた。
ファン・オスターデ(Van Ostade)やブラウエル(Brauwer)の絵画に描かれたフランドル人のように、カトリーヌはだらだらと階段を降りて来た。[*1]
「あら、ピトゥじゃない」一階に降りたカトリーヌが声をあげた。
ピトゥが顔を赤らめて身体を震わせ、お辞儀した。
「兜をかぶってたんですよ」女中がカトリーヌに耳打ちした。
その言葉を聞いたピトゥは、反応を確かめようとしてカトリーヌの顔を窺った。
愛らしい顔が若干青ざめはしたものの、相変わらずふくよかでつやつやとしていた。
だがピトゥの兜に対してはまるっきり感心した様子は見せなかった。
「兜? 何で?」
今回ピトゥの胸に渦巻いたのは憤りの感情だった。
「兜と刀を持ってるのは――」ピトゥは胸を張って答えた。「どうしてかと言うと、龍騎兵やスイス人衛兵と戦い、やっつけたからです。お疑いならお父上に聞いてみて下さい。簡単なことです」
何かに気を取られているようなカトリーヌの耳に届いたのは、ピトゥの返事の終盤だけのようだった。
「パパはどうしたの? どうして一緒に帰って来てないの? パリはいま非道い状態なの?」
「とても非道い状態です」
「全部うまく行っていると思っていたのに」
「うまく行きました。でも何もかもが混乱しているんです」
「国民と王様の話はまとまらなかったの? ネッケルさんは復帰しなかったの?」
「ネッケルさんのことは順調に行ってます」ピトゥは誇らしげに答えた。
「それでもみんな納得しなかったの?」
「納得したからこそ、復讐に励んで敵対者を殺しているところなんです」
「敵対者?」カトリーヌが驚きの声をあげた。「誰が国民(peuple)の敵だっていうの?」
「そりゃ貴族のことですよ」
カトリーヌの顔から血の気が引いた。
「どんな人が貴族だというの?」
「決まってるじゃないですか。広い土地を持っていて――立派な城館を持っていて――国民(nation)を飢えさせて――ボクらは何も持っていないのに何でも持っている人たちのことです」
「ほかには?」カトリーヌが急かした。
「ボクらが歩いているというのに立派な馬と立派な馬車を持っている人たちです」
「そうなんだ」カトリーヌの顔色は土気色にまで変わっていた。
ピトゥも顔色の変化に気づいた。
「あなたたちの知り合いも貴族ですよ」
「わたしの知り合いが?」
「あたしたちの知り合いが?」ビヨ夫人も声をあげた。
「誰のことよ?」カトリーヌが問いただした。
「例えばベルチエ・ド・ソーヴィニーさんです」
「ベルチエ・ド・ソーヴィニーさんが?」
「イジドールさんとダンスした日につけていた金の耳飾り(les boucles d'or)をくれたじゃありませんか」
「それで?」
「心臓を食べられているのを見ました。ボクのこの目で」
恐怖の絶叫がほとばしり、カトリーヌが坐っていた椅子に崩れ落ちた。
「実際に見たのかい?」ビヨ夫人が恐ろしさに震えながらたずねた。
「ビヨさんも見ました」
「何てむごい」
「きっと今ごろは、パリとヴェルサイユの貴族はみんな殺されているか火あぶりにされているに違いありません」
「非道い!」カトリーヌが呟いた。
「非道い? どうして? ビヨさん、あなたは貴族じゃないのに」
「ピトゥさん」カトリーヌが力を振り絞って「パリに行く前はそんなに残忍じゃなかったはずなのに」
「前より残忍だなんてことはありません」ピトゥは激しく狼狽えた。「でも……」
「だったらパリの人たちのやった犯罪を自慢しないで。キミはパリの人間じゃないんだし、罪を犯したわけでもないんでしょ」
「ほとんど何も出来ませんでした。ビヨさんとボクはベルチエさんを守って殺されそうになったんです」
「やっぱりパパは勇敢だったんだ」
「あの人らしいよ」ビヨ夫人が目を潤ませた。「それで、あの人はどうなったんだい?」
ピトゥはグレーヴ広場の惨劇やビヨの絶望やヴィレル=コトレに帰りたがっていたことを語った。
「どうして帰って来ないの?」カトリーヌの声の響きがピトゥの心を抉った。占い師に不吉な予言を告げられたように、胸に深く突き刺さった。
ビヨ夫人が両手を合わせた。
「ジルベールさんにそのつもりがないんです」
「ジルベールさんはうちの人が死んでもいいっていうのかい?」ビヨ夫人がしゃくり上げた。
「うちが滅茶苦茶になってもいいっていうの?」カトリーヌも悲痛な声をあげた。
「そんなことはありません! ビヨさんはジルベールさんと同意のうえで、もう少しだけパリに残って革命を最後までやり遂げるつもりなんです」
「二人だけでそんなことを?」ビヨ夫人がたずねた。
「ほかにラファイエットさんとバイイさんも」
「ほんとかい!」ビヨ夫人が感嘆の声をあげた。「ラファイエットさんとバイイさんも一緒なら……」
「いつ帰って来るつもりなの?」カトリーヌがたずねた。
「ボクにはわかりません」
「だったらキミが帰って来た事情は?」
「フォルチエ神父のところにセバスチャン・ジルベールを連れて行き、ここにビヨさんの言伝をお伝えしに来たんです」
そう言うとピトゥは立ち上がった。公使めいた威厳が見え隠れしていることに、使用人連中はともかく主人格なら気づくことが出来た。
ビヨ夫人も立ち上がって人払いした。
カトリーヌは坐ったまま、ピトゥが口を開く前に頭の奥の奥まで見透かそうとしていた。
――パパからはいったいどんな話があるのだろう?
Alexandre Dumas『Ange Pitou』「Chapitre LIX Pitou révolutionnaire」の全訳です。
Ver.1 18/01/27
[訳者あとがき]
初出『La Presse』紙、1851年5月22日。
[更新履歴]
[註釈]
▼*1. [フォン・オスターデやブラウエル]。
Adriaen Van Ostade(1610-1685)、フランドルの画家。Adriaen Brauwer(1605-1638)、フランドルの画家。いずれも同門でオランダの農民の日常を描いた画家であり、flegme という作風ではない。。[↑]
▼*2. []。
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▼*3. []。
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▼*4. []。
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▼*5. []。
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