この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照《あずま・てる》
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アンジュ・ピトゥ

アレクサンドル・デュマ

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第六十章 ビヨ夫人、身を引く

 尊敬すべき父の意向を聞くべく、母娘が耳をそばだたせた。これからおこなおうとするのが難しいことであるのはピトゥも重々承知していた。働いているビヨ夫人とカトリーヌをこれまでずっと見て来たから、ビヨ夫人が日頃から他人に指示を出していることもカトリーヌがひどく束縛を嫌うこともわかっていた。

 カトリーヌは優しくよく働く気立ての良い娘だったから、当然ながら農場の人間に強い影響力を持つようになっていた。そして他人の意のままになるまいとする堅い意思こそ、支配者気質というものにほかなるまい。

 事を進めればそれがどれだけ一人を喜ばせることになり、もう一人を悲しませることになるのかよくわかっていた。

 ビヨ夫人が二番手に引き下ろされるのは非常識で不合理なことだとしか思えない。ピトゥの報告が終わればカトリーヌの地位は上がるが、それが現状にとってどんな意味があるというのか。

 だがピトゥが今この農家で務めているのはホメロスの伝令使の役であった。智識はなくとも口と記憶がある。而してピトゥはこうした表現を用いた。

「ビヨさんはおばさんに出来るだけつらい思いをさせたくないと考えていました」

「どういうこと?」ビヨ夫人は驚いてたずねた。

「つらい思いをさせるってどういう意味?」カトリーヌもたずねた。

「つまりですね、おばさん家みたいな農家の経営は不安と苦労が絶えない職業形態で、取り引きもありますし……」

「そうかい」

「支払いとか……」

「それから?」

「耕したりとか……」

「ほかには?」

「収穫したりとか……」

「否定はしないよ」

「仰る通りです。でも取り引きするには旅に出なくては」

「馬があるさ」

「支払いの時には駆け引きが必要です」

「口は立つよ」

「耕す時は」

「監督したことがなかったとでも?」

「でも収穫はまた別の話です。農夫に料理を作らなくてはならないし、馬方に手を貸さなくては……」

「尻込みなんてしないよ、うちの人のためなんだ」

「でもおばさん……やっぱり」

「やっぱり何?」

「仕事が多くて……それに……お歳が……」

「そうかい」ビヨ夫人はピトゥを疑わしげな目で見つめた。

「助けて下さい、カトリーヌさん」ピトゥはがんじがらめになって事態が悪化していることに気づいた。

「そう言われても、どうしたらいいの」

「こういうことです。ビヨさんはおばさんには苦労させまいと決意していました」

「じゃあ誰に?」カトリーヌは良くも悪くも心を高ぶらせて身体を震わせた。

「ビヨさんが選んだのはもっと強い人間、ビヨさん本人とほかならぬあなたです。ビヨさんはカトリーヌさんに決めたんです」

「カトリーヌが家を切り盛りするのかい?」ビヨ夫人が不審と何らかの嫉妬から声をあげた。

「わたしはママの言う通りにする」カトリーヌが慌てて口を挟んだ。

「駄目です、いけません」飛び込んだからには最後まで突き進んだ。「ちゃんと言伝は伝えますからね。ビヨさんはカトリーヌさんに家業と家事すべてを代理として委譲し認可したんです」

 真実に裏打ちされた言葉の一つ一つが、ビヨ夫人の心に突き刺さった。生来の人の良さゆえに、嫉妬や怒りに燃えるどころか夫が間違うはずがないと確信して、立場を明け渡すこともすんなりと受け入れていた。

 ビヨを裏切ることが出来ようか? ビヨに逆らうことなどあり得ようか?

 ビヨ夫人の行動原理はその二つだけだった。

 だから反論するのはやめた。

 娘の目を見つめてみたが、そこにあったのは謙虚さと信頼感とやる気と優しさと変わらぬ敬意だけであった。ビヨ夫人は完全に身を引くことにした。

「あの人が正しいんだ。カトリーヌは若いし、頭も良くて、芯がある」

「もちろんです」ピトゥは確信した。鋭い評価を投げつけられた瞬間にカトリーヌの自尊心がくすぐられたことを。

「カトリーヌならね」ビヨ夫人が話を続けた。「あたしよりずっと簡単に旅が出来るだろうし、一日通してずっと上手く農夫たちを見ていられるだろうさ。商売だってずっと上手くやれるよ。上手に人を使える子だろうからね」

 カトリーヌが微笑んだ。

「まったくねえ」ビヨ夫人が呟いた。溜息を押し殺すまでもなかった。「このカトリーヌが畑を見て回ったり、財布の紐を締めたりすることになるとは思わなかったよ。この子が一日じゅう外に出て、男の子みたいになるなんて……」

 ピトゥがさも偉そうに口を挟んだ。

「カトリーヌさんのことなら心配いりません。ボクがいますから。ボクは何処までもついて行きますから」

 この気障な申し出にピトゥも何らかの効果を期待していたであろうが、カトリーヌから送られて来たのが奇妙な眼差しだったものだからピトゥも面食らってしまった。

 カトリーヌの顔は赤く染まっていたが、それは歓喜に染まったご婦人の顔ではなかった。その赤い色合いは相反するしるしの表れであり、カトリーヌにとって第一の規範である魂の働き、即ち怒りと苛立ち、口を開きたい気持と閉ざさざるを得ない状況という、相反する働きの表れであった。

 野暮なピトゥにはこの顔色の違いには気づかなかった。

 それでもカトリーヌが赤面したのはピトゥの伝言を完全に受け入れたわけではないからだということはわかった。

「どうしたんです?」ピトゥはとっておきの笑顔になり、ぶ厚い口唇を開けて立派な歯を見せた。「どうして黙ってるんですか?」

「馬鹿なことを言ったってのがわからないの?」

「馬鹿なことですって?」

「そりゃそうだよ」ビヨ夫人も同意した。「カトリーヌに護衛を付けるつもりかね!」

「でも森の中は……」ピトゥはどうやら心の底から真面目に話しているようだった。笑い事ではなさそうだ。

「それもうちの人の指示かい?」ビヨ夫人が皮肉の才を見せつけた。

「そんなぬくぬくした仕事、パパがピトゥさんに勧めるわけないし、ピトゥさんだって承知しないでしょう?」カトリーヌも言った。

 ピトゥはカトリーヌからビヨ夫人に怯えた目を彷徨わせた。今や足場ががらがらと崩れてしまっていた。

 カトリーヌは女の鋭さでピトゥが落胆していることを見抜いた。

「パリの女の子たちは男の子を連れて歩くようなふしだらな真似をしてたの?」

「でもあなたは女の子じゃありません。一家のあるじなんですから」

「もういいだろ?」ビヨ夫人が割って入った。「一家の主にはやらなきゃならないことがあるからね。おいで、カトリーヌ。お父さんの指示通り、あんたに家を任せようじゃないか」

 そうして身動きも出来ずに唖然としているピトゥの目の前で、質素とはいえ厳かで趣のある儀式が始まった。

 ビヨ夫人が鍵束から鍵を一つずつカトリーヌに手渡し、衣類と酒と備品と食料の帳簿を預けた。それから一七三八か四〇製の寄木細工の抽斗付き机の前まで連れて行った。その鍵の掛かった抽斗の中に、ビヨ氏が仕舞っていた書類や金貨や財産や家族の記録があった。

 カトリーヌはにこりともせず家の実権と秘密を譲り受けた。如才なく質問をおこない、返答についてじっくりと考えた。受け取った情報を、戦いに備えて武器を仕舞い込んでおくように、記憶と理性の奥深くに仕舞い込んでいるように見えた。

 ビヨ夫人は身のまわり品の確認を終えると、次にしっかりと数の管理されている家畜に移った。

 羊は健康かどうか。それに子羊、山羊、雌鶏、鳩、馬、牡牛、乳牛。

 だがそれも型通りのものに過ぎなかった。

 カトリーヌは家畜の世話ならもう何年もおこなって来た。いっぱしの専門家だった。

 カトリーヌほどビヨ家の動物と親しい者はいまい。鶏は餌を求めて鳴き、子羊はひと月も経てば懐き、仲良くなった鳩が周りを取り囲んで円を描いて飛んだり、夢うつつの熊のように行き来して足許に挨拶してから肩にとまったりすることもよくあった。

 馬はカトリーヌが近づくといなないた。悍馬をなだめられる?のはカトリーヌだけだった。子馬の頃からビヨ家の農場で育てられ、今や手のつけられない種馬になった一頭などは、カトリーヌの手やポケットの中に固くなったパンくずが入っているのを承知しているものだから、パンくずを探そうとして厩舎の中でよく暴れ回っていた。

 カトリーヌほど美しい者はいなかったし、金色の髪、青い瞳、白い首筋、ぽってりとした腕、ふくよかな手をしたカトリーヌが、種や殻だらけの前掛けをして、水たまりのそばの綺麗な場所から、硝石を吹いて踏み固められた地面に撒き散らされた殻粒を踏み鳴らして近づいて来れば、喜びを見せぬものなどなかった。

 そんなわけだから、放し飼いにされたひよこや鳩や子羊が水たまりのそばから殺到すると、餌をつつく嘴で地面が彩られ、燕麦や蕎麦を舐める山羊の赤い舌がかりかりと音を立てた。餌が撒かれて黒くなっていた場所は、瞬く間に白い空間に変わっていた。刈入れ人夫が食事を終えた後の陶器の皿のようだった。

 世の中には相手を魅了したり射すくめたりするような目を持った人間がいる。幻惑と恐怖というこの二つの感覚に囚われた動物は、抵抗など考えることも出来なくなる。

 危険もわからず微笑みかける子供のことを暗い目つきでしばらく見つめている牡牛を見たことがないだろうか? あれは憐れんでいるのだ。

 同じ牡牛が逞しい農夫に暗く怯えた視線を注いでいるのを見たことがないだろうか? 農夫からじっと見つめられ、動くなという無言の圧力をかけられているのを。牡牛は頭を低くして、戦いに備えているようにも見えるが、四肢は地面から微動だにしない。あれはおののいて眩暈を起こし、恐懼しているのだ。

 カトリーヌが周りにいる動物たちに及ぼしていたのも、この二つの力のうち一つだった。カトリーヌは静粛にしてなお毅然としたところもあり、心も広く意思も強く、迷いも恐れも皆無と言ってよかったので、目の前にいる動物も邪な考えを抱こうという気を起こさなかった。

 ましてやこの力が理性のある生き物に与える影響は言わずもがなである。この乙女の魔力には逆らいがたく、カトリーヌと話をしていて微笑まぬ人間はこの国にはいなかったし、下心を持つような青年はいなかった。恋心を持つ者は妻に欲しいと願い、恋心を持たぬ者でも妹に欲しいと願ったことだろう。

 ピトゥはうなだれて両手を垂らして放心したまま、確認を続ける母娘に機械的について行った。

 言葉をかける者はいなかった。悲劇の舞台の衛兵のように佇んでいるだけのピトゥは、兜のせいで紛れもなく異様な風体を晒していた。

 備品や動物の確認を終えると、今度は農夫や女中たちの番だった。

 ビヨ夫人は自分の前に扇形になるように並ばせた。

「いいかいあんたたち。うちの人はまだパリから帰って来てないけど、代わりに家長(maître)を選んでくれた。

「ここにいる娘のカトリーヌだ。若くてしっかりしてる。あたしは歳を取っているし頭も良くない。うちの人は有能だったからね。この家の今の主人(patronne)はカトリーヌだ。お金の受け渡しはカトリーヌがおこなう。指示があればあたしが真っ先に聞いて実行する。文句があるようならカトリーヌが相手をするよ」

 カトリーヌは一言も発さず、愛おしげに母親に口づけした。

 この口づけはどんな言葉よりも大きな結果をもたらした。ビヨ夫人は落涙し、ピトゥは心を揺さぶられた。

 使用人たちも新しい家長(domination)に喝采を送った。

 カトリーヌは直ちに仕事に取りかかり、使用人に務めを割り振った。指示を受けた使用人は、新体制の始まりに相応しくいそいそと退出した。

 一人だけ残されたピトゥも、やっとのことでカトリーヌに近寄って声をかけた。

「ボクは?」

「ん? 指示するようなことなんてないよ」

「じゃあ何もせずにここにいろというんですか?」

「何をするっていうのよ?」

「それはもちろん出発前にすべきことをです」

「出発前にママのもてなしを受けてもらうでしょうね」

「家長はあなたなんですから指示を下さい」

「あなたに出す指示なんてありません」

「どうして」

「物識りなパリの人間だもの。こんな田舎の仕事は似合わない」

「何ですって?」

 カトリーヌは「違う?」というような仕種をした。

「ボクが物識り?」

「そうでしょ」

「この腕を見て下さいよ」

「だから何?」

「物識りだからといって飢え死にさせるつもりですか?」ピトゥが絶望の声をあげた。「哲学者のエピクトテス(Épictète)が食べるために働いていたことや、寓話作家のイソップが額に汗してパンを得ていたことを知らないんですか? それなのにその二人はボクなんかよりずっとずっと物識りでした」

「そうなのかもしれない。だけどそれが何だっていうの!」

「ビヨさんは家族同然に迎え入れてくれていました。また同じように過ごせるようにと、パリから送り出してくれたんです」

「そうね。パパはさせるべき仕事をしっかりとさせていたけれど、わたしには無理強い出来そうにない」

「無理強いする必要はありません」

「ええ、でも何もせずに過ごすのなら受け入れられない。パパは家長(maître)として、代理のわたしには踏み込めないところにも手を伸ばすことが出来た。パパの財産を管理するわたしは、財産をもたらさなきゃならないの」

「でも働くのはボクですから、もたらすのもボクです。カトリーヌさんは循環論法に陥ってますよ」

「何ですって?」カトリーヌがピトゥのもったいぶった言い回しを聞きとがめた。「循環論法?」

「循環論法というのは間違った理屈のことです。お願いです、家に置いて仕事をさせて下さい。そうすれば物識りの怠け者かどうか確かめることが出来ますよ。帳簿を管理したり台帳を整理したりしなくてはならないでしょう? そういった計算は得意分野ですから」

「男の人には物足りない仕事なんじゃないかしら」

「何にも出来ない人間だと思ってるんですか?」

「ずっとここで過ごせばいいよ」カトリーヌが優しい声を出した。「考えておく。結論はそのうち出るだろうから」

「考える時間が必要なのは、世話すべきかどうか自信がないからですよね。ボクがあなたにしたことを忘れてしまったんですか? 前はそんな人じゃなかったのに」

 カトリーヌは僅かに肩をすくめた。

 ピトゥの言葉を認めたわけではないが、しつこさに嫌気が差していたのもまた事実であった。

 だから会話を打ち切った。

「もういいよ。これからラ・フェルテ=ミロン(la Ferté-Milon)に行くから」

「じゃあ鞍をつけますね」

「やめて。ここにいて頂戴」

「一緒に行っちゃいけませんか?」

「ここにいて」カトリーヌがつっけんどんな言葉をぶつけた。

 ピトゥはその場から動けずにうつむいたまま、涙を飲み込んだ。煮えたぎる油から湧き出たような、瞼を焼くほどに痛い涙だった。

 カトリーヌはピトゥをその場に残して立ち去ると、馬に鞍をつけるよう農夫に伝えた。

 ピトゥは呟いた。――カトリーヌさんはボクが変わったと言うけれど、変わったのはあなたです。ボクとはまた違う変わり方だけれど。


Alexandre Dumas『Ange Pitou』「Chapitre LX Madame Billot abdique」の全訳です。


Ver.1 18/03/03

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[訳者あとがき]

 初出『La Presse』紙、1851年5月23日。
 

[更新履歴]


 

[註釈]

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