この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:江井是仁
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パーセル・ペイパーズ(パーセル遺稿)

ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュ

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第二話 ロバート・アーダー卿の運命

 故パーセル神父の書類より抜粋、その二。

「大地にも水と同じく泡があるのなら――やつらがそれだ」

 アイルランド南部、リマリックの郡境に、全長二、三マイルにわたる地帯がある。そこはこの郡でも数少ない事実によって知られる場所であった。すなわち原生林が痕跡を留めているのである。アメリカの森林のような堂々としたところはほとんどないか皆無に等しい。古い木々や巨大な木々には斧が振るわれていたからだ。だが生き延びた狭苦しい森には、荒々しく生き生きとした自然の力が満ちていた。すっかりまばらで見通しがよいその森からは、おとなしい家畜たちが穏やかに草を食んでいるのが見える。さわやかな空き地では、こうべを垂れた羊歯のなかから灰色の岩がのぞいている。年経た樺の銀色の胴。老いたオークの節くれた幹、枝打ち鎌の暴虐から名誉を守られたグロテスクだが美しい枝の数々。そよそよとした緑の草原。色とりどりの光と影。好き勝手にはびこった雑草。地衣類に苔類――すべてがひとしなみに春の緑の瑞々しさや秋の哀しさ虚しさの美しさを備えている。それは心を喜びで満たすような類の美しさであり――自然だけに備わった力が感情に訴えるのだった。この森はふもとからでこぼこの丘の尾根まで這い上っているが、おそらく原始時代には平野を占めている大森林の裾野しか形作られていなかっただろう。

 だが今や! 我々は何処へ流されたのだろう? 文明の波は我々を何処へ運んで来たのだろう? それは無防備な土地を走り抜け――あとには裸の土地だけが残った。我々は森を失ったが、略奪者には手を触れなかった。我々は美しいものを破壊し尽したが、醜悪な野生にはいっさい手をつけなかった。この森林の奥深くからは深い峡谷や渓谷が走り、その場の静寂を破るのは山流のざわめきだけだったが、冬になると増水して恐ろしい奔流となった。

 その谷には極めて深く狭くなっているところが一か所ある。絶壁は深さ数百フィートにまで達し、ほぼ垂直に切り立っている。岩の割れ目や裂け目には荒れ果てた木々が根を張って幾重にも枝を伸ばしもつれているため、遙か下を流れる水流を目にすることは難しい。渦を巻いてほとばしり泡立つ流れは、まるで周囲の静寂と孤独を喜んでいるかのようだった。

 この場所を選んだのは非凡な場所だからというわけではなく、理由があってのことだ。大きな四角い塔か櫓のような建物が、片面を絶壁の続きのようにしてそびえている。もともとは出入りするには一つしか方法がなく、絶壁に張り出したその壁に狭い入口が一つあった。入口の開いている岩棚からは心許ない小道が伸びていたが、これは力強い岩を苦心して切り開いた深い溝をぶっちがいにしたものだ。そのため、戦術に大砲が導入されるまでは当初の状態のこの塔が、難攻不落だったことは大げさではなく自明のことであっただろう。

 だが改善が進み時代とともに危機管理意識が高まると、歴代の所有者たちは、屋敷を飾らないにしても、せめて大きくしようと考えるようになった。そして前世紀の中ごろ、城館に最後の住人を迎えたとき、もともとあった四角い塔は大邸宅のほんの一部に姿を変えた。

 城館とその周辺の広大な土地は、大昔からある一族のものであった。便宜上アーダー家と呼んでおく。厳格な封建権が行使されるのや古き良き時代を特徴づける野生の出迎えをアイルランドは長いあいだ一様に目撃してきたが、そんな場面に必ずといっていいほど顔を出す関係者のおかげで、この建物は突飛で異常な言い伝えの原泉となり現場となっていた。わたしは事件の目撃者と個人的に面識があったため、その事件を発端までたどることができた人間であった。それにもかかわらず、わたしがこれから記録しようとしている事件が、言い伝えに言い伝えを重ねて歪められたように奇怪で信じがたいと映るか、ぞっとするような曖昧な状況に取り囲まれて真実が見えないと映るものか、わたしには何とも言えない。

 言い伝えによれば、前世紀のいつ頃のことだろうか、ロバート・アーダー卿という一族最後の若者が、国を出てその国で軍役に就いた。そこで莫大な名誉と俸給を手に入れたので、アーダー城に居を定めた。これが先ほどご説明しようとしていた建物である。土地の人々に言わせると彼は陰気な男だった。つまりは気難しげで、打ち解けず、怒りっぽいと考えられていたのだ。それに完全に一人きりで生活していたことからもうかがえるように、ほかの家族と親しげに接することもなかった。

 孤独で単調な生活が破られるのは、競馬のシーズンが続いているあいだとその直後だけであった。期間中には競馬場で忙しくしている人々のなかに、器用にてきぱきと金を賭け、常に勝ちを収めている姿を見つけることができた。だがロバート卿にはありあまる名声と高い家名があったため、不正を疑うことはできなかった。そのうえ軍人であり、さらには傲慢なうえに勇猛な人間であった。わざわざ憶測を口にするような物好きなどいなかったので、そういう結論は考えついた人にだけもっともらしく思われていたことだろう。

 だが噂はおしゃべりである。それによると、ロバート卿が競馬場に現れるときには(頻繁に訪れる盛り場はそこくらいなのだが)、必ず風変りな人物をともなっているという話だ。ほかの場所、ほかの状況下では、その人物を見かけることは一度としてなかった。さらにはまた、この男とロバート卿の関係がはっきりされることはなかったが、ロバート卿が用事もないのに話をするのはこの男だけらしいとも言われた。郷士たちとは競馬の取引に必要なことよりほかには言葉を交わさないのに、この人物とは真剣かつ頻繁に話をするとも言われていた。こうした不可解で排他的な選り好みに刺激されて好奇心が高まった結果、言い伝えによればその見知らぬ人物には人柄にしても服装にしても人目を引く不気味なところがあったことは間違いない――だがそれが何なのかというと明らかではないのだが――ロバート卿の引き籠り癖と、驚くほどのツキのよさが結びつけられ――勝ちが続くのは正体不明のヒントや助言が原因なのではないかと憶測を呼び――風の便りに何か「奇妙な」ところがあるのだと言われたり、ロバート卿が恐ろしく危険なゲームをしていているのだとか、要するに奇妙な連れは悪魔にほかならないのだと憶測をたくましくしたり、そういった噂が立つのも当然のことだった。

 しかしながら何事もなく年月は過ぎ去り、アーダー城には何も新しい動きは見られなかった。変わったことといえばロバート卿が奇妙な連れと別れたことくらいで、その男がどこから来たのか誰も知らぬように、どこへ行ったのかも誰にもわからなかった。だがロバート卿の習慣がそれによって変わることはなかった。郷士の集いには交わらず、相変わらず規則正しく競馬場を訪れては、すぐに孤独で単調ないつもの生活に舞い戻った。

 巨額の金を蓄えたと言われている――賭けにはつねに勝ち、しかもつねに大きな賭けだったのだから、事実そうであったに違いない。だが富を手に入れても客のもてなしや家のきりもりを変えようとはしなかった――土地を買うこともないし、城館を拡張することもなかった。ロバート卿のお金の味わい方は、守銭奴そのものだった――そこにあるのは金に触れて数える喜びと、富があると確認する気持だけだった。

 ロバート卿の気性はよくなるどころか、ますます陰気で気難しくなった。邪悪な気分に溺れては狂気すれすれにまで高ぶることもたびたびあった。発作のあいだは飲み食いははおろか眠ることさえしない。そういうときにはまったくの一人きりになりたがり、もっとも信用されている使用人たちさえ立ち入ることはできなかった。よく声が聞こえたが、その声はときには心から頼み込んでいるようにも聞こえ、ときには誰も知らない訪問者と大声で怒鳴り合っているようにも聞こえた。ときには何時間ものあいだ、普段過ごしている長方形のオーク張りの部屋をがさつな様子でせかせかと歩き回ることもあった。それはあたかも恐ろしい報せを不意打ちされて異常なほどの興奮に駆られている人のようであった。

 こうした紛れもない狂気の発作に恐れをなして、発作の最中には古参の忠実な使用人さえロバート卿に近づこうとはしなかった。そのため、苦悶の最中に邪魔されることもなかったし、謎めいた苦しみの原因も永久に隠しおおされそうに思われた。

 あるとき、例の発作がいつもより長引いた。いつもの日にち――およそ二日――が過ぎ去ったため、発作のあとにロバート卿の世話をしていた古参の使用人は、聞き慣れた主人のハンドベルの音を聞こうと耳を澄ましたが、それがいっこうに聞こえないためひどく不安を感じ始めた。主人は疲労のあまり亡くなってしまったのではないか、ひどい欝に陥って自らの存在に終止符を打ってしまったのではないか。不安がどんどん高まってきたため、一緒に来るよう使用人仲間を説き伏せたが同意を得られず、一人で行くことにしよう、そしてロバート卿がどんな災難に見舞われているかその目で確かめようと腹をくくった。

 新館から休館に通じる廊下をいくつか越え、城館の旧ホール、(夜もすっかり更けていた)時間帯の無音のさなかにたどり着いてみると、自分がどんな種類の企てを実行しているのかという考えや、人気のあるところからはすっかり遠くに来てしまったという感覚や、なかんずく、鮮明ではあるが漠然とした恐ろしい予感に重苦しくのしかかられて、前に進むべきかどうかためらった。しかしながら主人の運命が心から気がかりだった。繰り返しているうちに愛らしくもない対象に愛着を感じることはないとはいえないことであり、さらには弱いところを見せて同僚たちに嘲笑されるのを無意識裡に避けたこともあり、そうしたことが渋る気持に打ち勝った。そこで主人の部屋へ続く階段の一段目に足をかけたところで、低くはあるがはっきりとした音がホールのドアを叩いていることに気づいた。これから向かおうとしていた調査を引き延ばす口実をこうして見つけても、それほどがっかりはしなかったはずだ。ホールの石畳にろうそくを置いてドアに近づいたものの、空耳かどうかよくわからなかった。ホールの入口が五十年近くも城館に出入りするために使われていなかったことを考えると、こんなふうにいぶかったのももっともであった。この門の立地にしてからが、先ほど書き記した通り、危険な崖に張り出した狭い岩棚の上に口を開いているのだから、いつもそうではあったがとりわけ夜には危険極まりない出入口なのである。ドアまでの一本道しかないこの岩棚は、既に述べたとおり、大きな裂け目に隔てられ、そこに架けられていた板橋は朽ち果てたかどうかしてとっくになくなっていたため、何者であれ無事にドアまでたどり着くことなどまず不可能だろうし、それもまれに見るほどの闇に包まれたこんな夜では。だから老人は注意深く耳を澄まして、訪いが繰り返されるかどうか確かめた。それほど待たずに、同じように低くはあるが非常にはっきりとしたノックが繰り返された。あまりに低かったので、訪問者は手よりも柔らかい道具か軽い道具でも使っているのかと思われるほどだったが、そのくせ、ドアはたいへん厚いのにもかかわらず音ははっきり聞こえるほどに強かった。

 ノックの音は大きくなることもなく、三たび繰り返された。死ぬまで説明のつかない衝動に突き動かされるままに、ドアに差されていた三つのオーク製の大閂を、一つずつはずし始めた。歳月と湿気のせいで鉄の錠受けはすっかりぼろぼろになっていたため、それほど手こずりはしなかった。外からの力にも助けられ(たと信じて)、老僕はドアを開けることができた。小柄で、がっしりとした人影(これはどうやら大きな黒マントに包まれた男のものらしい)が、ホールに現れた。来訪者を詳しく観察することはできなかった。服は外国風で、幅広のマントの裾が肩にかけられている。どっしりとしたリーフのついた大きなフェルト帽をかぶり、その下からは煤けた長い黒髪らしきもののかたまりが覗いている。両足はどっしりとした乗馬靴に収まっていた。老僕に与えられた時間と明かりのなかでは、こうしたわずかな特徴しか目にすることはできなかった。友人が約束通り用事を済ませにやって来たと、すぐに主人に知らせてほしい。訪問者はそう取り次いだ。老僕はためらったが、来訪者の方が自分でろうそくを持とうとするような動きをみせたため、心を決めた。ろうそくを手に、来客をホールに残して城館の階段を上っていった。

 オーク張りの私室に通じている部屋にたどり着いてみると、驚いたことに部屋のドアがいくぶんか開き、明かりが灯っている。立ち止まってみたが、何の物音もしない。中をのぞくと、ロバート卿が後頭部と背中を見せてテーブルに突っ伏し、テーブルの上ではランプが燃えていた。左右に広げられた腕は、まったく動かない。座っている最中に死ぬか気絶するかしてこのように突っ伏してしまったように見える。呼吸の音も聞こえない。何もかもが静まり返っているなかで、ランプの横に置かれた懐中時計だけがカチカチと音を立てていた。使用人は何回か咳払いをしてみたが何も起こらなかった。どうやら不安が的中してしまったらしいと、主人がなかば倒れているテーブルに近づいて死んでいることを確かめようとしたところ、ロバート卿がゆっくりと頭をもたげて椅子に寄りかかり、死人のような虚ろな視線で使用人をにらんだ。ようやく口を開いたものの、のろのろと苦しげで、まるで返事を聞くのを怖がっているようであった。

「いったい何事だ?」

「失礼ながら、見知らぬお方がお会いになりたいといって下に見えています」

 それを聞くとロバート卿はやにわに立ち上がり、腕を乱暴に突き上げ、ぞっとするような絶望に満ちた恐怖の叫びをあげた。それは人間には耐えられないほどの恐ろしさに満ちていた。声が止んでからしばらく経っても、怯えた老僕の妄想のなかでは、おぞましい哄笑がもの寂しい廊下を転がっているように感じられた。やがてロバート卿が言った。

「追い払うわけにはいかないのか? なぜこんなにも早く? ああ神よ! 一時間だけ放っておいてもらえないか。少しだけだ。今は会えない。どうか帰ってもらってくれ。いいな、今は降りていけない。わたしは強くない。ああ神よ! 一時間後にまた来てもらってくれ。待てぬ時間でもなかろう。何一つ失うわけでもなし。何一つ、何一つだ。そう伝えてくれ。何でもいいから言ってくれ」

 使用人は階下に戻った。本人の言葉を借りるなら、足もとに階段があるような気がしないまま、ホールまでたどり着いたそうだ。待たせておいたときとまったく変わらぬ立ち姿が見えた。主人の伝言をできるだけ筋道立てて伝えたところ、訪問者はお構いなしに答えた。

「ロバート卿が降りて来ないようなら、こちらから会いに行かざるを得ませんな」

 戻ってみると驚いたことに、主人は先ほどよりかなり落ち着いていた。伝言を聞いて、冷たい汗のつぶがぬぐう間もないほど次々と額ににじんだが、先ほど現われていたひどい動揺は見られなくなっていた。力なく立ち上がって、苦悶の表情を向けたのを最後に部屋から廊下へ出ると、使用人に向かってついて来る必要はないと合図した。使用人は階段の先まで移動した。そこからならホールが比較的よく見える。置いてきたろうそくの明かりがホールをぼんやりと照らしていた。

 手すりにしがみついたまま、歩くというよりよろめきながら階段を降りる主人が見えた。ふらふらとして今にも崩れ落ちそうに歩いている。訪問者はそれを出迎えるように進み出て、行きがけに明かりを消した。使用人にはそれ以上のことは見えなかった。だが取っ組み合うような音があいだをおいて何度か聞こえ、音のないあいだも恐ろしい力が漂っていた。だが二人がドアに近づいているのはわかった。兵隊があちこち摺り足して回るように、堅いオークの床を叩く音が何度か聞こえたからだ。音が聞こえなくなったかと思うと、ドアが乱暴に開かれ、浮き彫りがホールの壁にぶつかったような音が聞こえた。もちろん暗闇のこととて、音から推し量ったまでである。ふたたび取っ組み合いが始まった。ひどい息切れからその激しさが伝わってくる。死に物狂いの格闘がもたらしたのは、ドアの一部が破壊されることだった。ドア柱が剥がれたような音がして、それからの取っ組み合いは絶壁に張り出した狭い岩棚の上でおこなわれているのは明らかだった。それが最後の取っ組み合いだった。やがて重い物体が落ちたような激しい音がして、足許付近に張り巡らされた大枝をすり抜けて絶壁の下に落下していった。あとは墓場のように静まりかえり、夜風のうなりが木々に覆われた峡谷を吹き抜けるだけであった。

 老使用人にはホールに引き返すだけの勇気がなかった。暗闇が永遠に続くような気がしていた。だがついに朝は訪れ、夜の出来事が明らかになった。ドアのそばの地面に、取っ組み合いではずれたらしいロバート卿の剣帯が落ちていた。ずしりとしたドア柱が大きな破片となってちぎれているのは、人間業とは思えなかった――できるとすれば自暴自棄になった男の怒りにほかならない――岩の表面には、足を滑らせた跡が残されていた。

 絶壁の底(城館の真下ではなく谷をいくらか流されたところ)で、ロバート卿の遺体が見つかった。手足にも顔にも見分けられるような跡はほとんどなかった。だが右手は損なわれておらず、死によって硬直した指にはごわごわした煤けた髪の束が握りしめられていた――それだけが、第二の人物がいたという間接的な証拠だった。そう伝えられている。

 わたしがお話ししたこの物語が、こうした伝承の担い手たちのあいだに広まっていたものである。だが実際の出来事はほとんど異なる。主役の名前とその生活態度、そしてその死が異常ほど謎めいた状況であったという事実を除けば、二つの物語は完全に相反しているといっていい(言い伝えというものが誇張されることを最大限考慮したとしても)ほどなので、同姓別人の伝説がごちゃまぜに組み合わされていると仮定するほかはない。事実がどうであれ、前述の言い伝えを生んだ出来事の確かな物語を読者にお目にかけようと思う。これに関しては誤りは一つもない。人間に証言できるかぎりにおいて完全に証明されている。これから記すのは、主としてこの奇怪な事件に深く関わっていた女性の証言であり、奇談を聞き取るのはわたしの運命となっていたが、そうした貴重な証言集の一つとしてこの出来事を記するつもりだ。できうるかぎり、当事者たちの証言をひとつの物語にまとめなおそうと考えている。それぞれが関わったものについて証言してくれ、その信頼性にわたしは深い感銘を受けた。

 ロバート・アーダー卿、とこれまで呼んできた人物は、一門の跡継ぎであり総代であった。だが父親の道楽のせいで、財産を受け継いだときにはかなり傾いた状態だった。若さゆえのせわしなさ、というよりはおそらく誇りに駆られてのことだろう、父から受け継いだ家のなかで、これまで一族を一族たらしめてきた流儀や待遇に対して不名誉にも変更を加えなくてはならない、という考えに目を向けることに耐えられず、ロバート卿はアイルランドを発ち国外に足を向けた。国を出ていたあいだ何をしていたのか、どこの国を訪れたのかは決してわからなかった。戻ってきてからもヒントになるようなことは口にしなかったし、滞在について問いかけられるのも巧みに避けていた。アイルランドを発った一七四二年には成人になったばかりだったが、およそ一八年後の一七六〇年になるまで消息がなく、その年になって戻ってきた。容貌は案に違わずひどく変わっていたが、長いあいだ会っていないといってもこれほどまでとは想像できぬほどの変わりようだった。だが時の流れは外見や容貌に不幸な変化をもたらしたものの、それを相殺するように、海外生活によってもたらされたと思しき礼儀作法と趣味のよさを身につけていた。だが本当に驚くべきことがすぐに明らかになった。ロバート卿は大富豪になっていた――異常なほど尋常ではない財産だった。豪奢な暮らしぶりはもちろん、財産の使い方や新たな土地の買い方をみても、これは明らかだった。しかもこうしたあれやこれやにごまかしの入り込む余地はなく、大きな買い物から小さな買い物まで、あらゆるものを即金で支払っていた。

 ロバート卿はきわめて人当たりのよい人物であるうえに、生まれのよさと財産をともに所有していたため、大都会を支配していた上流階級から歓迎されたのも当然のことであった。ダブリンのファッション界でも華々しい存在であった美しい二人のF嬢と知り合ったのは、こういうわけである。F嬢の一族はさまざまなところで貴族と縁組をしており、年の離れた姉のD夫人は、以前さる著名な貴族と結婚して、今では二人の後見人となっていた。この若いご婦人たちがそれほど多くはないにしろ相続人と呼ばれる立場にあるという事実は抜きにしても、当時のアイルランドでも指折りの社交界で高い地位を得ていたのは、こういう事情である。この二人は見た目も性格も著しく違っていた。姉のエミリーの方がきれいと言われることが多かった――その美しさは一目見ただけで必ずや心を打たれるほど目覚ましく、みごとな身体と厳かな立ち居振る舞いのよいところをすべてといっていいほど備えていた。美しい顔立ちが、身体や立ち居振る舞いの美しさに加えて人柄にも現れていた。豊かな漆黒の髪が、真っ白な額と美しい対照をなしており――細く引かれた眉はすぐそばの巻き毛と同じ漆黒で――碧い目は大きく生き生きと輝き、茶色の瞳が持つ力と輝きのすべてを、そしてそれ以上に優しくさまざまな表情を備えていた。とはいっても、ただの悲劇の女王というわけではない。笑うこともしばしばあり、そんなときには頬と顎にえくぼができて、小さく美しい歯が笑って見せた――だがなかでも、深く輝く目がいたずらっぽく弓なりになるのを見ると、もっとも軽やかで柔らかい女性らしさを天が忘れずに与えたのだということがわかる。

 姉妹の場合には少なからず見られるように、妹のメアリはまったく対照的なタイプの美人だった。髪は明るく肌も濃く、同じくらい優雅だが遙かに活発だった。瞳は詩人も褒めたたえるほどの濃い灰色で――表情豊かで生気に満ちていた。早い話が非常に美しく生き生きとした娘だった――その二つの特徴のおかげで姉とはまるで違っているにもかかわらず。二人の違いはこれだけに留まらない――ただの見かけ以上に深かった――性格もまた、外見同様に著しく違った。金髪の美女には優しい人と従順な人が多いことは、人相学者が金髪の特徴として挙げている。感情よりも衝動の方が遙かに強い人間だったので、姉よりも外からの影響に左右されやすかった。対照的にエミリーには固い意志と決断力があった。興奮するたちではなかったが、感情が爆発したときにはかなり激しかったしずいぶんと尾を引いた。陽気さには欠けていたが、妹のように不安定なところもなかった。判断は尊重されたし、人づきあいにはいっそう慎重であったし、感情の動きはいわばゆっくりではあるがしっかりとしていた。このように意志が強固だといっても、男性的だという意味ではないし、立ち居振る舞いの女性的で優美なところが損なわれることはまったくなかった。

 ロバート・アーダー卿は長いあいだ姉妹二人に同じように惹かれているように見えたので、どちらが選ばれるのかと推測や憶測が盛んになされた。だがついにこうした疑問にも答えが出た。ロバート卿は求婚し、それは受諾された。漆黒の美女、エミリー・Fに。

 挙げられた結婚式はその富と縁者に似つかわしいものだった。サー・ロバートとレディ・アーダーはダブリンを発ち、一族の屋敷であるアーダー城でハネムーンを過ごしに行った。城館はつい最近、豪華絢爛と呼べるほどに模様替えされていた。夫人にお願いされたのか、はたまた本人の気紛れであろうか、ロバート卿の暮らしぶりはこのあとすっかり変わった。放蕩とは言わないまでもいたって派手に流行りを追いかけ回していたような生活から抜け出して、穏やかで家庭的な隠居郷士に豹変してしまい、めったに都会を訪れず、訪れたにしてもできるかぎり用事が終わればすぐにでも戻ってきた。

 だがアーダー夫人は、一般社会から隔離されることよりも大きなこうした変化に苦しんだりはしなかった。ロバート卿の富、それに邸宅に設えられたもてなしの数々は、夫人の友人や親戚のような人々に、城を訪れる時間を作らせたり訪れたい気持にさせたりするには充分だった。極めて洗練された暮らしぶりに加えて、またそれが非常に満足のゆくものだったので、ロバート卿と夫人の招待が無視されることはまずなかった。

 何事もなく何年も過ぎたが、サー・ロバートとレディ・アーダーの子どもが欲しいという願いは何度も裏切られた。こうして時が過ぎてゆくなかで、記録するに値する出来事が一つだけ起こった。ロバート卿は外国から従者を一人連れてきていた。あるときはフランス人だと自称し、またあるときはイタリア人であったりドイツ人であったりした。それらの国語を流暢にしゃべることができたが、折々の城館の訪問者が偶然口を利いたり、あるいはもの珍しさに惹かれ母国や出生を詮索したりしたときに、その訪問者の頭を混乱させたり好奇心をくじいたりするのを楽しんでいるようだった。ロバート卿はフランス風に「ジャック(Jacque)」と呼んでいたが、使用人階級には俗に「悪魔のジャック」という名で知られていた。どうもあくどいところがありそうだという推測と、同じ階級だと思われる人々とつきあおうとしない事実からつけられたあだ名である。こうした人づきあいの悪いところが男を取り巻いているあらゆる謎と結びつけられ、使用人仲間たちに疑念と好奇心を抱かせることとなった。使用人連中によれば、この男は絶対的な権限でロバート卿を密かに支配しているのだとか、あたかも表向きの奉公や節制を免れてでもいるように、主人と呼んでいる人物に敬意と忠誠を求め、一般的に考えられている主従関係とはまったく逆であるとかいう噂が囁かれていた。

 その男の外見は、控えめに言ってもひどく異様だった。背は低い。せむしのように背が曲がっているのがそれに拍車をかけた。顔立ちもとげとげしく不健康で、どこから見ても不具である。伸ばした髪は煤のように黒く、手入れされていないもさりとした縮れ毛は肩までかかり、髪粉をつけることはなかった――これは当時としては特異なことである。他人と目を合わせようとしないのも不愉快な点だった。この事実は男が必ずしもまっとうではない証拠としてしばしば引き合いに出されたし、そういう癖があるのもよくあるように気が小さいからではなく、ある能力が目に備わっていて見せてしまえば超常的な生まれが明らかになってしまうことを自覚しているからだと噂された。一度、たった一度だけ、この不吉な習慣が破られたことがある。ロバート卿の希望が最悪の形で終わった折りのことだ。苦しく危険な出産の末、夫人が産んだ子どもは死んでいた。その報せが伝えられた直後のことである。用事があって敷地内の門から外に出ていた使用人が戻ってくると、いつもと違ってジャックが近寄り、「ごたごたありましたが、ご世継のお子さんは死産でした」と言った。こう言いながらくすくすと笑っていたが、知られるかぎりでははしゃいでいると呼べるようなところを見せたのはこのときだけであった。使用人は心底がっかりした。洗礼式が行われていれば、その祝賀のあいだは祭日となってはばかることなく浮かれ騒げると期待していたのだ。そこで忠実な使用人なら悲しみにくれるに違いない報せをどんな顔で告げられたのか、ロバート卿に知らせてやると言って、そのちびの従者を責め立てた。ひとたび口を切ってしまうと堰を切ったように止まらなくなったが、口を閉じたときには軽率の報いを受けていた。顔を上げた小男に、悪魔とも狂人ともつかない恐ろしい形相でにらみつけられたのだ。使用人はその後の数か月間、心を悪夢に囚われてびくびくと震えていたという。

 初めてこの男を見たとき、アーダー夫人は恐怖に似た嫌悪感を覚えた。嫌悪と恐怖のないまぜになった感情があまりに強かったため、解雇して欲しいと何度も何度もロバート卿に訴えた。婚姻契約によってロバート卿が夫人に残しておいてくれた財産のなかからそっくり出すから、そうしないかぎり男と顔を合わすのではないかと常に怯え、不安や苦痛から逃れることはできないから、と訴えた。

 だがロバート卿は耳を貸さなかった。初めこそこうした訴えに動揺し心を痛めているようだった。だがきっぱり拒んだにもかかわらずなおも主張されると、激しい怒りを爆発させた。自分がこれまでにどれだけ大きな犠牲を払ってきたかを鬼のように語り散らし、今後一度でもまたそんなことを頼んだりしたら、お前からも国からも永久に立ち去ってやると脅しつけた。だがこれは例外に過ぎず、普段はレディ・アーダーに対して、愛妻家ではないものの、心のこもった紳士的な振る舞いをしていた。そしてお返しに有り余るほど熱烈な妻の愛情を受け取った。

 サー・ロバートとレディ・アーダーのあいだで交わされたこの珍しいやり取りからしばらくあとのことである。家中の者が寝床にもぐりこんでしまったある夜のこと、しばらくは何もかもが静まり返っていたのだが、ロバート卿の化粧室のベルが不意に荒々しく鳴らされた。ベルは断続的にそれから何度も繰り返され、そのたびに荒々しさを増していった。呼び鈴を引いた人物は恐ろしい危険にさらされて恐慌をきたしているのではないか。そんな鳴らし方だった。ドノヴァンという名の使用人が最初に対応しようとした。急いで服を身につけて、部屋に急いだ。

 ロバート卿は城館の寝室からは離れた部屋を私室に選んでいた。寝室の多くは屋敷の新築部分にあり、私室の入口は二重扉で隔てられている。使用人が最初の扉を開けたとき、ベルがふたたび鳴り、さらに長く大きく響き渡った。内側の扉はなかなか開かなかったが、力を入れてがたがた言わせてみると、完全には施錠されていなかったのか、それともボルト自体に問題があったのか、抵抗がなくなり、使用人は体勢を立て直す間もなくたたらを踏んで部屋に飛び込んでいた。部屋に入るとロバート卿が叫ぶ声が聞こえた――「外で待っていろ。まだ入って来てはならん」。だが止めるのが遅すぎた。気まぐれなロバート卿がときどき眠るのに使うキャスター付きの平べったい寝台があるのだが、その隣の大きなアームチェアに、座るというよりは横になっている従者ジャックの姿があった。腕を組み、不格好な足をことさら見せつけるかのように爪先を床まで伸ばし、頭をそらし、主人に向けられた目には言葉にできぬほどの反抗と嘲笑の色を浮かべていた。そのあいだも、理由のわからぬ横柄な態度や表情を高めようとでもいうのか、頭にはいつものように黒い布製の帽子をかぶっているままだった。

 ロバート卿はその数ヤード前に立ちつくし、絶望、恐怖、そして卑下の苦しみとでも呼べるような様子をまざまざと浮かべていた。使用人を下がらせようとでもしたのか、何度か手を振ったものの、使用人は初めに踏み込んだ場所に立ちつくしたまま釘づけになっていた。やがてロバート卿は内なる苦しみ以外はすべて忘れたかのように、握りしめた両拳を冷たく湿った額に押しつけ、ずしりと冷たい大粒の汗をぬぐった。

 ジャックが沈黙を破った。

「ドノヴァン、あの大酒飲みのカールトンを叩き起こせ。三十分以内にドアの前に車を回せと主人が仰せだ」

 使用人は動かなかった。実行すべきかどうか自信がないように見える。だがロバート卿の急かすような声で後ろめたさも。「行け、行くんだ。こいつの言うことなら何でも言うとおりにしろ。こいつの命令は私の命令だ。カールトンにも同じことを伝えろ」

 使用人はあわてて言われた通りにし、およそ三十分後には玄関前に馬車があった。ジャックはB××nまで走らせるように御者に命じた。そこは二十マイルほど先にある小さな町だが、駅馬を手に入れるには一番近い場所だった――ジャックは車に乗り込み、こうして直ちに城館を後にした。

 晴れ渡った月夜ではあったが、馬車はひどくゆっくりと進んだ。二時間ののち、城館から八マイルほどの地点までやって来ていた。そこから道は荒涼としたヒースの平原のなかへとぶち当たり、両脇をもの寂しいうねうねとした坂に挟まれた浅い溝のようになっていた。その単調な曲線を見ると、まるで暗く澱んだ海のうねりが超自然的な力によってそのまま捕えられたかのようだった。陰気でさびれた場所だ。辺りに木も家もない。ところどころで灰色の岩がヒースから顔をのぞかせているのを除けば、どこまで行っても同じような景色で、両脇の坂に沿って月がぼんやりとふくらんだ影を落としているせいで、ますますもの寂しく奇怪な印象がもたらされていた。

 こうした場所を真ん中まで進んだあたりで、人がちょっと先の道路脇に立っているのを見て御者のカールトンは息を呑んだ。それも近づくにつれて、その人物は今この瞬間に馬車に乗っているはずのジャックその人であることに気づいた。御者が車を停めて頭を下げると、ちびの従者が声をあげた。

「カールトン、驚いただろうな。道がよくないから、あとは自分でどうにかしよう。おまえはうまく戻るといい、俺はこのまままっすぐ行く」

 そう言うと、御者の膝に財布を放って道を横に曲がり、遠くに寝そべる暗い尾根に向かってすたすたと歩き始めた。

 ジャックがぼんやりとした夜のもやのなかに姿を消すまで、使用人はじっと見つめていた。その使用人も城館の住人もジャックをふたたび見ることはなかった。予想された通り、失踪したからといって城館の使用人や住人には何の感慨も起こらなかった。アーダー夫人は喜びを隠そうともしなかった。だがロバート卿に関しては事情が違った。失踪から数日のあいだは部屋に閉じこもり、それまで通りの生活に戻ってからも、陰気で無関心で、興味があってやっているというよりは惰性でやっているように見えた。それ以来、理由はわからぬが目に見えて変わったのがわかった。その後の人生は何の利益も楽しみも見出さないようなものだった。しかしながらきまぐれで気難しくなる性格からはほど遠く、陰気ではあるが――不自然なほど――穏やかで冷静なものとなった。だが元気はすっかり萎え、おとなしくぼんやりしているようになった。

 案の定、こうした気鬱は明るい城館の家政にも影を落とした。暗く鬱いだ主人の心が使用人に伝わり、さらには屋敷の壁にまで伝わったかのようだった。

 このようにして数年が過ぎ去り、歓待や歓談のざわめきは城館には長いこと縁のないものとなっていた。そんなとき、驚いたことにロバート卿が夫人に向かって、友人を二、三十人ほど呼んで間近に迫ったクリスマスを城館で過ごそうと提案した。レディ・アーダーは喜んで承諾し、まだ独身のままだった妹のメアリや、D夫人も招待したのは言うまでもない。できるだけ早く用意してほしい、そうすればほかの招待客が来る前に交流を温められるから、というのがアーダー夫人の願いだった。この希望に応えて、二人は招待状を受け取るやいなやダブリンを発った。全員が集まるはずの宴の開始日には一週間ほど早かった。

 長い旅行になるので、替え馬の準備がされた。D夫人の馬丁が馬を数頭つれてくることになっており、夫人自身は女中と従僕を一人ずつ従えていた。町を出たのは一日もかなり進んだころであったため、当然ながら初日は三駅しか進まなかった。二日目には、夜の八時ごろにアーダー城から十五マイルほど離れたK××kの町に到着した。長いあいだ健康に不安のあったF嬢がひどくぐったりとしていたので、ここで夜を過ごすことにした。そこで宿屋にある一番いい部屋を取り、D夫人は部屋に残っててきぱきと指示を出し、その日の疲れが癒えるまで回復を待つことにした。応接室にはソファのような贅沢品はなかったので、妹はしばらく休むため寝室に退がった。

 先に述べたようにF嬢はこのとき健康に不安があった。こうした状況に併せて、大変な疲れやひどい荒天も気分を落ち込ませるのに一役買っていた。D夫人が一人になってからそれほど経たずに、廊下に通じるドアが突然開き、妹のメアリがひどくうろたえて入ってきた。真っ青になって震えながら椅子に腰を下ろし、どうどうと涙を流したことでようやく心を落ち着けて、なぜ気持ちを高ぶらせて苦しんでいるのか話せるようになった。それはこういうことだった。ベッドに横になってすぐ、熱くうなされるような眠りに落ちた。奇怪な形やどぎつい色の映像が、万華鏡のようにめまぐるしく変化しながら、眠りについている精神の前を飛び交った。ようやくはっきり見極めようとしたところ、夢の眼前を絶えずたわむれるように動き回っていた光景と視界のあいだに霧が立ち現れたようになり、その雲のような影から、こちらに背中を向けているらしい人の姿が現れてきた。それは女性の姿で、一言もしゃべらず、手をひねったり頭を振ったりして身振りでできるだけのことを表現しようとしていた。深酒が過ぎたり、悲しみで病み疲れたりした人のような動きだった。悲惨の極致。しばらくのあいだ目の前で生きて動いているようなその亡霊の顔を一目でも見ようとしたが、うまくいかなかった。だがついに人影は、まるで目下の者に命令をしようとでもするように、もったいぶった動きを見せ、そうすることで振り向いて顔を見せた。見間違えようもなく、それはアーダー夫人の顔だった。死人のように青ざめ、黒い髪は乱れ、目は涙に濡れて暗くくぼんでいる。正体を見て気持を一変させたF嬢は――その時点まではどこか深刻というよりはむしろ好奇心と興味に導かれてその姿をじっと見つめていたのだが――恐ろしさのあまり衝撃ですっかり目を覚ました。ベッドに起き上がり、不安に駆られて部屋を見渡したが、ろうそく一本がほのかに燃えているだけの薄暗さのなかで、恐ろしい幻覚が実体を伴って部屋の片隅に潜んでいるに違いないと思いかけていた。だが思っていたような形ではないものの、恐れは的中した。それでも充分に恐ろしく――息をする暇も考えをまとめる暇もないままに、姉であるアーダー夫人の声が聞こえた、あるいは聞こえたような気がしたのだ。ときに激しくむせび泣き、ときには恐ろしさのせいか何かで金切り声をあげ、メアリやD夫人の名を呼びながら、お願いだから早く来て、と打ちひしがれて切実に訴えていた。何もかもが恐ろしくはっきりとしていて、F嬢の寝ている場所から数ヤードしか離れていないところに立っているように感じられた。F嬢がベッドから跳ね起きて、ろうそくも取らずに暗闇のなか廊下を進むと、声はそれでもつきまとい、居間のドアまでたどり着いたところでようやく小さなすすり泣きとなって消え去ったようだ。

 F嬢はようやく落ち着きを取り戻すとすぐに、一刻も無駄にせずただちにアーダー城に向かうべきだと決意を述べた。簡単なことではなかったが、D夫人はどうにか妹を説き伏せて、朝が来るまではここに滞在すべきこと、たとえ眠れないにしても一晩ずっと安静にしていれば具合もよくなるだろうことを納得させた。妹が神経質で興奮した症状を見せていることから、すでに充分に進んだことだし、その日はそれ以上の旅を続ける必要はないと、D夫人は決意を新たにした。時間をかけて説得して部屋に戻らせ、床に入ってある程度落ち着くまでそばから離れなかった。やがてD夫人は居間に戻ったが、眠ろうにも眠れずに、しばらく炉辺に座っていた。一人きりでいたのはふたたび妹が入ってくるまでだった。先ほど以上に取り乱せるものならば、あれ以上に取り乱しているように見える。F嬢の言うには、D夫人が部屋を出てしばらくすると、さっきと同じ悲嘆や懇願が繰り返されて目が覚めたが、今度の嘆願は狂えるほど差し迫っていて、一秒たりとも無駄にせずにアーダー城に来てほしがっているうえに、その声が先ほどと同じくすぐそばで聞こえていた。今回その声は居間のドアを閉じるまで追ってきて、戸口でその叫びやむせびを吐き出しているようだった。

 今度こそF嬢は、どんな邪魔があろうとただちに城館に行くと断言し、D夫人が一緒に来ないつもりなら一人で行くとも言った。怖がる気持というものはいつの時代であっても多かれ少なかれ伝染しやすいものであり、前世紀ともなればそうした気持がむくむくと育つ土壌は現代よりも遙かに大きかった。そのころにはD夫人も、怖がっている妹に影響されて、不安くらいは感じ始めていた。ただちに先に進むという妹の決意が揺るぎないものだとわかると、D夫人もすぐについて行くと請け合った。多少手間取りはしたが元気な馬も手に入れて、二人の貴婦人と従者たちはふたたび旅を始めると、できるだけ速いペースで急がせるよう御者に命じ、そうしてくれたら褒美を出すと約束した。

 その当時、南部の道路はどこもかしこも今より遙かに状態が悪かった。十五マイル進むのには現在の郵便であれば一時間半もかからないであろうが、全速力で二倍の時間をかけてもまだ到着できなかった。F嬢はそのあいだじゅういらいらとして落ち着きがなかった。頭を絶えず馬車の窓から出していた。本館から一マイルほど離れている城門が近づいてくると、F嬢の不安はひとりでに姉にも伝わり始めた。御者はとうに車から降りて、門を開けようとしていた――これは当時であればやむを得ない手間である。というのも前世紀の半ばには、アイルランド南部では門番小屋は一般的なものではなかったし、錠前や鍵というものもほとんど知られていなかった。重いオークの門を引きずって馬車を入れることに成功したそのとき、馬に乗った使用人が大急ぎで並木道を駆けてくるので馬車を止めると、使用人が御者に誰何した。返事を聞いた使用人は窓に回り込んでD夫人にメモを手渡した。車灯を頼りにどうにか読むことができた。かなり動揺した筆跡でこう走り書きされていた。


「愛しい――愛しいお姉妹さま方――お願いだから一刻も早く、怖くて絶望してます。来てくれないとすべては説明できません。とても怖くてまともな文章が書けないのです。でも私にはわかります――急いで――たった一秒でも無駄にしないで。間に合ってくれることを願ってます。 E・A」

 使用人に話すことができたのは、城館がひどく混乱しており、アーダー夫人が一晩中しきりに泣き叫んでいたことだけだった。ロバート卿は何事もなく無事だという。アーダー夫人の嘆いている理由がまったくわからないまま、密生した木々に囲まれた急勾配の曲がりくねった並木道を急いだ。野性的で奇怪な枝も今は冬風に吹かれて裸に剥かれ、重苦しく道に張り出している。玄関前の空間で馬車が止まると、婦人たちの不安はほとんど苦痛へと変わっていた。使用人の助けを待たずに地面に飛び降りて、すぐに城館の戸口に立った。城内からは哀しみに暮れた泣き声や、嘆いている人間をなだめようとしているらしき押し殺した鼻声がはっきりと聞こえていた。ドアは速やかに開いた。なかに入って最初に目に飛び込んできたものは、姉妹であるアーダー夫人がホールの長椅子に腰を下ろし苦悩のあまり涙を流して身をよじる姿だった。かたわらにはしなびた老婆が二人立ち、何が原因で悲しんでいるのか知ろうとも気にしようともしないまま、自分たちなりのやり方で慰めようとしていた。

 アーダー夫人は姉妹たちを目にするやはじかれたように立ち上がって首にかじりつき、無言のまま何度も何度もキスをすると、まだひどく泣いてはいたが、手をつかんでホールに隣接する小部屋に二人を連れ込み、二人のあいだに座り込んだ。そこには明かりが燃えていたし、ドアが閉まっていたからだ。急いで来てくれたことに感謝したあとで事情を話し始めたが、動揺のあまり言葉に一貫性がなかった。ロバート卿がこっそりと大真面目な顔で話したところによると、今夜自分は死ぬだろうから、晩のあいだは葬儀の手筈を指示するのに忙しかったのだそうだ。ここでD夫人が、熱に浮かされて幻覚を口走っているのではないかと諭した。だがアーダー夫人は即答した。

「違うの! そう思えたらどんなによかったか。でも違う! 見ればわかるわ。話や行動はとても落ち着いているし、命令はどれも明確だし、精神状態も申し分なく穏やかだし、そんなことはあり得ない。絶対にあり得ないの」そうしてアーダー夫人はいっそうひどく泣き出した。

 そのときいくつか指示を出す声が聞こえて、ロバート卿が一階に現れた。アーダー夫人が慌てて声をあげた。

「その目で確かめて来て。ホールにいるから」

 そこでD夫人がホールに出ると、そこにロバート卿がいた。ロバート卿は丁寧な挨拶をしてから、一呼吸置いて口を開いた。

「気の詰まるお仕事ごくろうさまです――この家はひどく混乱していて、なかにはひどい悲しみに暮れている者もおります」D夫人の手を取り顔をじっと見つめながら、こう続けた。「わたしは明日の日の出には死んでいるでしょう」

「きっとご気分が優れないんですわ。でも明日にはよくなるでしょうし、その翌日にはさらによくなると思いますよ」

「どこか悪いわけではない。こめかみをさわってみなさい、冷たいだろう。脈を取ってみなさい、かすかなうえにゆっくりしているだろう。無病息災などということはこれまでにもなかったが、それでもあと三時間も経たないうちに、もういけなるなることはわかっている」

 非常に驚きはしたものの、ロバート卿のどっしりと落ち着いた態度に思わず感じた感銘を隠そうとしながら口を開いた。「からかうのはおやめになって。たとえ軽口にしたって、こんな話はするべきではありませんわ。神聖なるものを軽んじてますもの――妻の愛情で戯れておいでで――――」

「もう結構。この時計が三時を打ったら、わたしはただの無力な土くれになってしまう。非難するならそれからにしてくれないか。もう妹のところに戻りなさい。レディ・アーダーには実に気の毒だとは思うが、過ぎたことはどうにもできない。いろいろ処理したり破棄したりする書類があるのだ。死ぬ前にはあなた方にもレディ・アーダーにも会うつもりだ。妻をなだめてくれ――あれが苦しむとわたしもつらい。だが過ぎたことは元には戻せないのだ」

 ロバート卿がこう言いおいて階上に姿を消すと、D夫人は妹たちの待っている部屋に戻った。

「どうだった?」姉が戻るやアーダー夫人がかみついた。「違った?――まだ疑ってるの?――望みがありそうだった?」

 D夫人は何も言わなかった。

「そんなわけない。わかってる。あなただって理解できたでしょう」そう言ってひどい苦しみに身をよじらせた。

「今回のことにおかしなところがあるのは間違いない。それでもロバート卿の落ち着きの裏には見せかけがあると思いたいの。潜伏していた熱病が心を蝕んだのかもしれないし、鬱状態に沈み込んでしまったせいで些細なことから不安定な想像力を刺激されてもうすぐ死ぬという予感を抱いてしまったのかもしれないと、信じなくてはならないの」

 思いついた当人たちでさえ満足できなかったし、言葉をかけられている方はなおのことだったが、このように慰めているうちに、二時間以上が過ぎた。運命の時は悲劇的な局面を迎えずに済んだのかもしれないとD夫人が期待を抱き始めたのは、ロバート卿が部屋に入ってきたときだった。なかに入ると、静かにしろと合図するように指を口に当てた。そして義理の姉妹の手に順ぐりに口づけしてから、気を失いかけている妻に悲しそうに身体を傾け、冷たく青ざめた額に二度口づけをしてから静かに部屋を出て行った。

 D夫人が飛び上がってドアまで追いかけると、ロバート卿がホールでろうそくを取ってゆっくりと階段を上っていくのが見えた。恐ろしい好奇心に駆られて、距離を置いてあとをつけていった。ロバート卿が私室にはいるのが見え、ドアを閉めて鍵をかけるのが聞こえた。能うかぎりはあとを追おうとして、できるだけ音をたてずに部屋の戸口に居座っていると、しばらくしてからアーダー夫人とF嬢姉妹もやって来た。息を殺して室内で起こることに耳をすませた。ロバート卿がしばらく部屋を歩き回るのがはっきりと聞こえた。それからすぐに、誰かがベッドにどさりと倒れ込んだような音がした。途端にD夫人は、ドアが内側から施錠されているのも忘れて、取っ手を回してなかに入ろうとした。その時ドア近くで誰かが「しっ! 静かに!」と口にした。いっそう不安を感じてドアを激しくノックしたが、答えはなかった。さらに激しくノックしたが、同じことだった。そのうちアーダー夫人が鋭い悲鳴を上げ、気を失って床に倒れた。物音を不審に思い慌てて階上にやって来た三、四人の使用人が、気絶しているアーダー夫人を部屋まで運んだ。それからしばらくドンドンとノックを繰り返したが答えがないので、力を合わせてドアを押し破ろうとした。何度か体当たりを繰り返すと、ついにドアが開いて使用人たちはひとかたまりになって部屋になだれ込んだ。部屋の向こう端のテーブルにろうそくが一本、燃えている。ベッドの上にはロバート・アーダー卿が横たわっていた。ロバート卿は死体になっていた――目は開いていた――顔には引きつったところはなく、手足をゆがませたりもしていない――地上に留まろうともがくこともせずに魂が身体から抜け出してしまったかのようだった。死体に触れてみると、それは粘土のように冷たかった――生命の火の名残りは跡形もなく去っていた。生気のない目を閉じさせ、舞台上で恐ろしい死の見世物を眺めることは自分たちのような年齢や性別の者の特権だと考えているらしき人々に遺体の世話を任せて、今や未亡人となったアーダー夫人のところに戻った。客たちも城館に集まっていたが、空気全体が死に染められていた。誰の顔にも浮かんでいるのは、悲嘆というよりは畏怖とパニックだった。客たちはささやきを交わし、使用人たちは大きな足音を立てるのを恐れるように忍び歩きをした。

 葬儀は盛大に執り行われた。遺体はロバート卿の最後の指示に従ってダブリンに搬送され、由緒ある聖オードゥアン教会の敷地に葬られた――わたしはそこで、旅立った塵の年齢と肩書の書かれた墓碑銘を目にした。描かれた紋章も大理石の石板も、死者の物語を忘却から救い出す助けにはならなかった。刻まれた死者の名も遠からず風化してしまうだろう。

          「斯クテ其ノ者共ラ其ノ運命ヲ各々ノ墓ニ」[1]

※[1]その後この予言は現実のものとなっていた。ロバート卿の遺体が眠りに就いている側廊は完全に破滅の一途をたどっていた。埋葬されている墓所の墓石も、ほかのおかしな墓碑も、今や見分けがつかずいっしょくたになっていた。

 私がこれまで記してきた出来事は想像の産物ではない。事実だ。疑いようのない情報提供者が一人生きており、私の書き留めた文章のどこを取っても間違いないと、しかも目撃通りに詳細に、証明してくれるだろう。[2]

※[2]この文書は一八〇三年に書かれたと思しき覚え書きのなかにあった。曖昧に言及されている女性はメアリ・F嬢だと思われる。彼女は結婚しなかった。姉たちは二人とも、たいへん高齢になるまで長生きした。


Ver.1 03/01/27
Ver.2 03/07/05
Ver.3 10/09/05

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[更新履歴]

Thanks for:「李」さん、「火曜日」さん

・10/07/06 改訳開始。

・10/07/17 訪問者登場まで。▼「as if the applicant had employed no harder or heavier instrument than his hand, 」の部分を、「まるで訪問者が少しも熱心でないか、不器用なやり方でやっているみたいだった。」から →「訪問者は手よりも柔らかい道具か軽い道具でも使っているのかと思われるほどだったが、」に訂正。▼「but a slight motion on the part of his visitor, as if to possess himself of the candle, 」の部分を、「ろうそくを持てというような来訪者の身振りを見ると」から →「来訪者の方が自分でろうそくを持とうとするような動きをみせたため、」に訂正。

・10/07/31 アーダー夫人のお産まで。▼「Sir Robert's and Lady Ardagh's hopes of issue were several times disappointed.」の部分、「issue」がわからなくて「ロバート卿と夫人が送った招待が叶えられなかったのは数回だけだった。」と適当にごまかしていました。辞書によるとここでの「issue」とは「子孫・子供」の意。なので「サー・ロバートとレディ・アーダーの子どもが欲しいという願いは何度も裏切られた。」に変更。

・10/09/05 〜最後まで。▼「城館には久しぶりに客たちの歓喜と宴のざわめきが満ちることになった」「歓待や歓談のざわめきは城館には長いこと縁のないものとなっていた」に訂正。▼「Roads were then in much worse condition throughout the south, even than they now are; and the fifteen miles which modern posting would have passed in little more than an hour and a half, were not completed even with every possible exertion in twice the time. 」の部分が無茶苦茶だったので、「道は南に行くに従って、今よりいっそうひどい状態になったが、わずか一時間半あまりで続く十五マイルを通り過ぎた。二倍のペースで全速力でだってそんなタイムは出ないだろう。」「その当時、南部の道路はどこもかしこも今より遙かに状態が悪かった。十五マイル進むのには現在の郵便であれば一時間半もかからないであろうが、全速力で二倍の時間をかけてもまだ到着できなかった。」に訂正。▼「when a mounted servant rode rapidly down the avenue, and drawing up at the carriage, asked of the postillion who the party were;」の部分も滅茶苦茶だったので、「館の使用人が道の上を急いでやってくると馬車を止めたので、一行は彼に尋ねた。」「馬に乗った使用人が大急ぎで並木道を駆けてくるので馬車を止めると、使用人が御者に誰何した。」に訂正。この「who」は関係代名詞ではなく、「誰」でした。▼ラテン語「Et sunt sua fata sepulchris.」は、英訳すると「And (they) are their fates in graves.」のような感じか。

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