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翻訳:東 照
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プロジェクト杉田玄白 正式参加テキスト

シルヴィーとブルーノ完結編

ルイス・キャロル


第三章
夜明けの光

 翌日は暖かく晴れたのがわかったので、ぼくたちは朝早く出発した。そうすればアーサーがぼくを置き去りにして戻らなくてはならない時間まで、目一杯おしゃべりに興じることができる。

「この辺りは必要以上にずいぶんと貧しいんだね」立ち並ぶあばら屋の前を通り過ぎるとき、ぼくはそう口に出した。荒廃がひどく、とても「小屋」とは呼べなかった。

「だけど一握りの裕福な人たちは」とアーサーが答えた。「必要以上に慈善の手を差し伸べています。ですからバランスは保たれているんですよ」

伯爵はかなりの手を差し伸べているんだろうね?」

「気前よく施しをしています。でも伯爵の健康状態や体力ではそれ以上のことはできません。ぼくには明かそうとしませんが、ミュリエル嬢が学校で教えたり小屋を訪問したりして頑張っているんです」

「では少なくとも、ミュリエル嬢は『有閑人』ではないんだね。上流階級にはよくそういう人がいるだろう。よく思うんだが、存在理由レゾン・デートルを教えてくださいと不意に頼まれたり、これからも生きていくべき理由を示してくださいと唐突に頼まれたりしたら、ああいう人たちは困るだろうね」

「あらゆる角度から考えてみても」とアーサーが言った。「いわゆる『有閑人』たちの問題(というのはつまり、生産的労働という形でしかるべき貢献もしないくせに、共同体から物質的財産を――食物や衣服という形で――吸い上げている人たちのことですが)、これは間違いなく複雑な問題なんです。ぼくは解決しようとつねづね考えてきました。取りあえずもっとも単純な考え方として、お金が存在せ…ず、物々交換だけで売買を行っている共同体というものを仮定してみました。何年も傷まずに長持ちする食糧などがあれば、ことはいっそう単純になります」

「面白い考えだね。それでこの問題をどのように解決するんだい?」

「典型的な『有閑人』は、」とアーサーが言った。「両親から子どもに残された財産なくしてはあり得ません。だからぼくが考えてみたのは――非常に賢いか、驚くほどたくましく粘り強いか――そんな人が、共同体の需要に匹敵するだけの働きをして、それが自分の必要とする衣料などの(たとえば)五倍に等しいと仮定します。その人には、望めば過剰な富を手に入れる絶対的な権利があることは否定できません。ではその人が四人の子ども(たとえば息子二人に娘二人)を残したとして、その子たちが一生を暮らすには不足ないだけのものを遺したとします。その子どもたちが『食い、飲み、楽しむ』[*註1]だけで一生を過ごすことを選んだとしても、共同体がいかなる形の不正を受けているとも思えません。共同体がその四人のことを『働かざる者、食うべからず』と言うのが適正でないのはまず間違いありません。返事は非の打ちどころがないでしょうね。『労働はすでに終わっていて、その対価が我々の食べている食料であって、これは適正なものだ。それにあなあがたはその労働の恩恵をすでに受けたではないか。食料一つにつき労働二つを求めるとは、いったいどんな公正原理に基づいているのだ?』」

「それでもやはり」とぼくは言った。「どこか間違っていないかい、その四人には有益な仕事がちゃんとできて、しかもその仕事が実際に共同体に必要なものだとしても、四人は遊びほうけてるなんて?」

「間違っていると思いますよ」アーサーが答えた。「でもそれは――何人なんびともその力の及ぶ限りで他人を救うべきである――という神の律法や、公正に得た食糧の対価として共同体側が労働を求める権利とは別の問題だと思うんです」

「この問題の二つ目の考え方は、『有閑人』がではなくお金を所有している場合だろうね?」

「その通りです。一番わかりやすいのが紙幣の場合でしょうね。きんにはそれ自体に物としての価値があります。だけど銀行券というものは、いつでもそうしたいときにそれだけの価値のある物を引き渡すという約束に過ぎません。四人の『有閑人』の父親が、共同体にとって有益な(仮に)五千ポンド分に値する仕事を行いました。その代償として、いつでも好きなときに五千ポンドの食糧などを手に入れられる約定書に当たるものを、共同体から受け取りました。それで自分では一千ポンド相当しか使わずに、紙幣の残りを子どもたちに残す場合には、子どもたちにはその約定書を提出する完全な権利があることや、『すでに労働は終わっているのだから、その対価に等しい食糧を引き渡してくれ』と主張する権利があることも確かです。こうした考え方については、はっきりと公にすべきだと思うんです。無知な貧乏人に向かって『自分たちでは働きもせ…ずに、我々に汗水たらして働かせて毎日を暮らしているあのぶくぶくの貴族どもを見ろ!』という考えを吹き込んでいるあの社会主義者たちの頭に、このことをしっかり叩き込みたいんですけどね。その『貴族ども』が使っているお金は共同体のためにそれだけ働いたというしるしであり、それに等しいだけの対価を物的財産として共同体が支払うべきだということを、わからせてやりたいんです」

「社会主義者たちはこう答えないだろうか。『そのお金の大半が適切な労働のしるしであるとは必ずしも言えない。お金の所有者を次々とさかのぼってたどってけば、しばらくは贈与や遺言による遺贈や「対価の受領」といった合法的なところから始まるだろうが、すぐに詐欺のような犯罪で手に入れただけの不当な権利しか持たない所有者にたどり着くぞ。当然のことだがその相続人にも所有する権利がないのは同じことだ』」

「確かに確かに」とアーサーが答えた。「だけどそれには『拡大解釈』の論理的誤謬がありませんか? お金だけでなく物質的財産にも完全に当てはまるんですから。ある物的資産の現在の所有者がそれを適切な手段で手にいれたという事実からさかのぼって、何代も前の所有者が不適切な手段で手に入れたのかどうかをいったん問い始めたなら、安全な物的資産などあるでしょうか?」

 ぼくはしばらく考えてみたが、それが真実だと認めざるを得なかった。

「まとめると」とアーサーが続けた。「人対人、人間の権利というささやかな観点からはこんな結論になりました――裕福な『有閑人』の場合を考えてみると、いくらその富に集約される労働が本人の行為ではなかったにしても、合法的にお金を手に入れたのであれば、自分のほしいもののためにそれを使って、共同体から衣食を購入しながらその共同体に何ら働いて貢献しないことを選んだとしても、共同体にはそれに干渉する権利はありません。けれど神の戒律について考えてみると、まったく別問題なんです。そのしきたりに照らすなら、必要としている人たちのために、神から授かった力や技術を使えないのであれば、その人が間違っていることには疑いがありません。その力や技術は共同体に属するものでも、債務として人々に与えられるのでもありません。それは人間自身に属するものではなく、人間自身の楽しみのために使われるべきものでもありません。それは神に属するものであり神の御心に沿って使われるべきものなんです。それがどのような御心なのかは疑う余地がないでしょう。『善をなし、何をも求めずして貸せ』」[*註2]

「いずれにしても」ぼくは言った。「『有閑人』はよく慈善活動で莫大な寄付をしてくれる」

いわゆる『慈善活動』で、ですよ」アーサーが訂正した。「無慈悲なことを言うようですみません。どんなにもその言葉が当てはまるとは思えないんです。概して思いつきを実行して満足するような人間が――何一つ我慢もせ…ずに――有り余る富の一部にしろすべてにしろ、貧乏人に与えるだけの行為を、慈善と呼ぶのであれば、それは勘違いに過ぎないと思うんです」

「だが余った富を寄付したんだとしても、守銭奴なりの貯め込む喜びを我慢しているのかもしれないだろう?」

「喜んで認めましょう。病的に貪欲な人間であれば、それをこらえることで善行をなしている、と」

「だが自分のために使っていたとしても」ぼくはたたみかけた。「ぼくらが問題にしているような金持ちならつねづね善をなしているんじゃないかな、人を雇って失業者を出すことを防いでいるのだから。それにお金をただで与えて貧乏状態にしておくよりもずっとましな場合が多いだろう」

「素晴らしい意見だと思います!」アーサーが言った。「そのご意見には二つの誤謬ががあることを見逃さずに話を終えるわけにはいきません――あまりにも長いあいだ反論されずに来たので、世間では今や金言で通っているようなことですよ!」

「何のことだろう? 一つもわからないな」

「一つめの誤謬は単なる曖昧性です――『善をなす』(つまり誰かの役に立つ)ことが、すなわち善いこと(つまり正しいこと)だという考え方。もう一つはですね、甲が取ったある行動が乙よりも善いことだった場合、それすなわち善い行動である、という考え方です。比較の誤謬と呼ぶことにしましょうか――比較的善いことがすなわち絶対的に善いことだと考えてしまうことですね」

「では君は何を以て善行の基準とするんだい?」

「それは最善ということになるでしょう」アーサーは自信たっぷりに答えた。「たとえ『私たちは取るに足りないしもべ』であるときでも[*註3]。取りあえず二つの誤謬を説明させてください。極端なたとえほどうまく誤謬を説明できるものはありませんし、それなら極めて公正です。池で溺れている子どもを二人見つけたとします。慌てて駆けつけ、子供を一人助けてから、そのまま立ち去り、もう一人の子どもは溺れたまま放っておきました。果たしてぼくは子どもの命を救うことで『善行をなした』と断言できますか? それとも――また別のたとえですが、不愉快な人間に出会ったので、ぶん殴って立ち去ったとします。それが踏みつけて飛び跳ねたりあばらを折ったりするのと比べれば『まだ善い方だ』と断言できますか? それとも――」

「そんな『それとも』には答えようがないよ」ぼくは言った。「現実生活のたとえが聞きたいな」

「では現代社会の醜態の一つ、チャリティ・バザーにしましょう。興味深い問題です。考えてみてください――目的に達するお金のどれだけが本当の慈善なのか、それに、それですら最善のやり方で使われているのかどうか。だけどこの問題をちゃんと理解してもらうためには、適切な分類と分析の必要があります」

「分析してくれたなら助かるよ。ぼくはそういうのは苦手でね」

「わかりました、退屈でなければいいのですが。病院の資金を補助するために開催された慈善バザーを考えてみましょう。AさんとBさんとCさんが商品を準備して、販売するという奉仕を提供するとします。その一方でXさんとYさんとZさんは商品を買い、そうやって支払われたお金が病院に入るわけです。

「このようなバザーには二種類あります。一つは、請求金額が販売品の市場価格と同じ、つまり店に払わなくてはならないのとまったく同じ場合です。二つ目は、上乗せ価格を請求される場合です。この二つは分けて考えなければいけません。

「まずは『市場価格』の場合です。A、B、Cの立場は普通のお店と変わりません。違うところは病院に売り上げを寄付することぐらいです。実際のところは、病院の利益のために技術力を提供しているわけです。これが本当の慈善だと思いますね。これ以上の役立て方はなかなかないでしょう。ですがX、Y、Zの立場は普通の買い物客と変わりません。この人たちの商行為を『慈善』と呼ぶのはナンセンスです。ところがそう呼ばれることが実に多いんです。

「次は『上乗せ価格』の場合です。『市場価格』と『それを超えた分』の二つに分けるのが一番わかりやすいでしょうね。『市場価格』の方は先ほどの場合と同じ立場に基づいています。超過分の方はよく考えてみる必要があるでしょう。さて、A、B、Cはそれで儲けてはいませんから、問題にしなくてもいいと思います。これはX、Y、Zから病院への贈り物です。提供するにしても、ぼくにはこれは最善のやり方だとは思えません。買うと贈る、二つを別々の行為だと考えて、買いたいものを買い、贈りたいものを贈る方がずっといい。そうすれば贈り物をしようと思ったのが純粋な慈善心から出たという可能性がいくらか出てきます。慈善半分、自己満足半分の混ざった気持からではなく。『蛇の這う跡がその上を覆い尽くした』。だからこそぼくはそうした偽の『慈善行為』に抑えようのない嫌悪感を抱いているんです!」 アーサーは柄にもなく熱い言葉で話を結ぶと、道ばたのアザミの頭をステッキで乱暴になぎ払った。ところがその後ろにシルヴィーとブルーノが立っているのを見つけて、ぼくはぎょっとした。アーサーの手をつかんだが間に合わなかった。ステッキがシルヴィーたちに当たったかどうかは定かではない。いずれにしても二人は気にもとめずににっこり笑うと、ぼくに向ってうなずいた。途端に、二人の姿がぼくにしか見えないことに気づいた。〈あやかし〉状態はアーサーには影響を及ぼさないのだ。

「なぜかばおうとするんです?」アーサーがたずねた。「あれが慈善バザーの二枚舌の役員というわけでもあるまいし! そうだったらよかったのに!」と恐ろしいことを言う。

「ねえ、ステッキがあたまからすぐとおてたよ」ブルーノが言った。(このときには二人はぼくを取り囲んで、片手をつないでいた。)「ぴったりあごの下だもん! アザミでなくてよかった!」

「まあとにかくこの問題は語りつくしましたね!」ふたたびアーサーが口を利いた。「ちょっとしゃべりすぎちゃったかな、あなたの忍耐もぼくの体力もこのあたりでしょう。ぼくはすぐに戻らなくてはなりません。ここまでがぎりぎりです」


取れ、船頭よ、三人分の料金だ
取れ、快く与えよう
いや、君には見えぬが
二つの精霊がわたしと共に渡ったのだ[*註4]


 ぼくは思わず引用していた。

「頓珍漢な引用ですねえ」アーサーが笑った。「おまえは『何よりも偉大で、誰よりも優れている』[*註5]」そうしてぼくらは歩き続けた。

 海岸に通じている小径の先を越えたあたりで、一つの人影がゆっくりと海の方に動いているのに気づいた。かなり遠くだったし、こちらに背中を向けてはいたが、ミュリエル嬢なのは紛れもない。アーサーがミュリエル嬢に気づかず反対側に群がる雨雲を見ていたことを知って、ぼくは口にこそ出さなかったものの、アーサーを海に戻らせるもっともらしい口実を考えていた。

 チャンスはすぐに飛び込んできた。「疲れてきたので、もうこれ以上歩くのはやめた方がいいようです。ぼくはここで戻るとします」とアーサーが言った。

 ぼくらは向きを変えてしばらく進み、ふたたび小径のてっぺんに差しかかったところでぼくはできるだけ無造作にこう言った。「道を通って戻るのはよさないか。暑いし埃っぽいし。この径を降りて海岸沿いに戻ってもたいして変わらないよ。海でそよ風に当たろうじゃないか」

「そうですね、そうしましょう」アーサーは歩き始めたが、ミュリエル嬢の姿が見えた瞬間、足を止めた。「いや、やっぱり遠回りですよ。でも確かに涼しいでしょうね――」アーサーは立ち尽くしたまま、向こうを向いたかと思えばあちらを向いて、ためらっていた――優柔不断を絵にかいたような落ち込みぶりだった!

 ぼくがそばで声をかけるだけであったならば、この痛ましい光景がどれだけのあいだ続いたことだろう。お答えすることはできない。というのもこの瞬間、シルヴィーがナポレオンにも匹敵する迅速な決断をくだし、みずから事に当たったのだ。「あなたはあのひとをこっちに向かわせて」とシルヴィーがブルーノに言った。「わたしはこの人を連れてくから!」そうしてアーサーの持っているステッキにしがみつき、少しずつ小径まで引っ張っていた。

 自分のものとは別の意思がステッキを動かしていることに、アーサーはまったく気づいていなかったし、ステッキが横になったのも、自分で先端を向けたからだと思っているらしい。「あそこの茂みにがありませんか? これで決まりだ。歩きながら摘んでいくことにします」

 そのころブルーノはミュリエル嬢を追いかけ、ぐるぐる跳ね回ったり(シルヴィーとぼくにしか聞こえない声で)叫んだりして、羊を追い込んでいるような動きをしながら、ぼくらの方に向きを変えて歩かせようと、真面目くさって足許を見つめていた。

 勝ったのはぼくらだった! こんなふうに二人そろって急き立てられた恋人たちがやがて出会うのは明らかだったので、シルヴィーとブルーノもぼくに倣ってくれればいいと思いながら、ぼくはきびすを返して歩き続けた。だってアーサーとその天使にとってみれば、見物人は少ないに越したことはないはずだ。

「どんな出会いだったんだろうな?」そんなことを思いながら、ぼくは夢見心地で歩き続けた。


Lewis Carroll "Sylvie and Bruno Concluded" -- Chapter III 'STREAKS OF DAWN'の全訳です。

Ver.1 03/04/02
Ver.3 10/12/01


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[註釈]
*註1 [食い、飲み、楽しむ]。旧約聖書『伝道の書』第8章第5節より。
 「そこで、わたしは歓楽をたたえる。それは日の下では、人にとって、食い、飲み、楽しむよりほかに良い事はないからである。これこそは日の下で、神が賜わった命の日の間、その勤労によってその身に伴うものである。」(口語訳)。

 次の「働かざる者、食うべからず」も聖書の言葉。新約聖書『テサロニケ人への第二の手紙』第3章第10節より。
 「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」(口語訳)。[

 

*註2 [善をなせ、…]。新約聖書『ルカ福音書』第6章第35節より。
 「汝らは仇を愛し、善をなし、何をも求めずして貸せ、さらば、その報は大ならん。かつ至高者の子たるべし。至高者は、恩を知らぬもの惡しき者にも、仁慈あるなり。」(文語訳)。[

*註3 [私たちは取るに足りないしもべ]。新約聖書『ルカ福音書』第17章第10節より。
 「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(新共同訳)
 「同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」(口語訳)。[

*註4 [取れ、船頭よ…]。ドイツの詩人ヨハン・ルートヴィヒ・ウーラント「渡し場」(Johann Ludwig Uhland「Die Überfahrt(英訳The Passage)」)より。

この川を
渡ったのも今は昔。
夜の輝きが
変わることなく城に迫る。

囲まれたこのはしけから
二人の友を乗せたのだ。
ああ! 友人よ、変わらぬ父よ、
希望に燃えた、若者よ。

一人は静かに動くのをやめ、
静かに別れを告げた。
一人は猛り狂って、
戦いと嵐のなかに身を任せた。

去りし日々に
思いを馳せれば、
友を偲ばぬ時はない
死から救えなかった輝かしい友を。

だが心と心が一つなら
何が友情を結びつけるのだろう、
心のなかではあの頃の日々が
今もまだ亡霊と共にある。

取れ、船頭よ、渡し賃だ、
三人分を払おう。
一緒にいる二人は、
目に見えぬものたちなのだ。[
 

*註5 [何よりも偉大で]。ディケンズ『ドンビー父子』第四十八章より。おまえが時間をうまいこといじってくれたならなあ、と時計に話しかけるシーン。[

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