「ウィリー」はパブの入口に向かったが、子どもたちがさえぎった。シルヴィーが片腕にしがみつき、ブルーノはブルーノで反対側から力一杯押さえつけ、御者から拝借した「ハイ! ドウ! ほい!」という怪しげなかけ声をかけていた。
ウィリーは二人のことには少しも気づかないものの、何かに邪魔されていることだけは感じていた。どういうことなのかさっぱりわからないので、自分の意思で行動していると考えたようだ。
「おれは行きたくねえんだな。今日はやめとくか」
「一杯ぐらいじゃ死なねえぞ!」飲み仲間たちががなり立てた。「二杯飲んでも死なねえぞ! 山ほど飲んでも知ったことか!」
「あいや」ウィリーが言った。「うちに
「なんで飲まねえんだ、ウィリーちゃんよ?」仲間たちが怒鳴った。だが「ウィリーちゃん」は何も言い返さずに、頑としてきびすを返した。子どもたちは両脇から離れずに、ウィリーが突然の決意を変えないように見張っていた。
ポケットに手を入れてしっかりと歩きながら、どたどたとした足取りに合わせてそっと口笛を吹いていた。すっかりくつろいでいるところを見れば、結果はほぼ上々だった。だが注意深く眺めてみたならば、途中からメロディを覚えていなかったために曲が途切れたときに、同じところをすぐに繰り返したことに気づいたはずだ。気が高ぶってほかのことは考えられず、そわそわして静寂に耐えられなかったのだ。
今、ウィリーの心にのしかかっていたのは、昔の恐怖ではなかった――思い出してみると毎週土曜の晩、よろめきながら家に帰って門や垣根にもたれていたときや、興奮した妻に小言を言われてもぼうっとした頭にはぐゎんぐゎん鳴り響くこだまやどうしようもない後悔の嘆きでしかなかったときなど、恐怖が孤独な連れであった。今ではまったく新たな恐怖に囚われていた。人生そのものが新しい彩りに染め上げられ、目も眩むような新たな輝きに照らし出されたものの、家庭生活や妻や子どもが新しい事態にどのように馴染むものかどうかがまだわからなかったのだ。愚かなウィリーの心には、こうした目新しさの何もかもが頭を抱えるような難問であり震え上がるほどの恐怖であった。
とうとう震える唇から不意に曲が途絶えたのは、角を曲がって我が家が見えたときだった。妻が腕を組んでくぐり戸にもたれ、蒼い顔をして路上に目を凝らしている。その顔には希望の光は微塵もなく――あるのは底知れず冷たい絶望の影だけだった。
「ごくろうさま、早かったね!」という言葉が出迎えの言葉だったとしてもおかしくはなかったが、残念ながらその言い方には辛辣なところがあった。「あの飲めや歌えやのお友だちからどうやって抜け出してきたんだい? ポケットは空じゃないでしょうね? それとも我が子が死ぬのを見に来たのかい? 赤ちゃんはお腹を空かせているっていうのに、何にも食べさせてやってないんだからね。なのにあんたは何にかまけてるのかしらね?」妻はドアを乱暴に開けた。目には怒りをたぎらせていた。
男は何も言わなかった。男が目を伏せてゆっくりと家のなかまで歩くのを見て、どうして無言なのかとびくびくしながら、妻の方もそれ以上は何も言わずに後ろから家に入った。ウィリーが椅子に深々と座り込み、テーブルの上で腕を組んで頭を垂れるときになってようやく、妻はふたたび口を利くことができた。
ぼくらが夫婦と一緒に家に入るのも、ごく当たり前のことに思えた。別の機会であれば、一言断ってから家に入っていたはずだが、なぜかしらぼくらの姿はいかなるすべを用いたのか目に見えず、肉体を離れた魂のように自由に行き来できるのだと実感していた。
ゆりかごの赤ん坊が目を覚まし、気にせ…ざるを得ないような泣き声をあげたので、すぐに子どもたちがそばに向かった。ブルーノがゆりかごを揺らし、シルヴィーはずれた枕をそっと直した。だが母親は泣き声には気づかず、シルヴィーにあやしつけられた赤ん坊が満足げに「くーくー」するのにも気づかなかった。妻は立ったまま夫を見つめるだけで、(どうやら夫の頭がおかしくなったと思ったらしく)真っ青になった唇を震わせて、耳にたこができるほどいつも繰り返してきた小言をキーキーわめこうとするものの、うまくいかなかった。
「それに給料をぜんぶ使っちまったんだ――絶対そうだよ――大酒に飲まれてさ――また昔みたいなごろつきになっちまうんだろう――あんたはいつもそうなんだから――」
「そんなこたしちゃいねえよ!」かろうじてささやきより大きいくらいの声でつぶやいて、ゆっくりとポケットの中身をテーブルに空けた。「給料だ、全部ある」
妻は息を呑み、驚きのあまり発作でも起こしたように手で胸を押さえた。「じゃあどうやって飲んだんだい?」
「飲んじゃいねえよ」陰気というより悲しそうな声だった。「こんないい日に飲むもんか。飲んでたまるか!」ウィリーは大声をあげてテーブルに握り拳を叩きつけ、目を輝かせて妻を見上げた。「酒なんかもう二度と飲まねえ――死ぬまでだ――神様のご加護ってもんさ!」不意に訪れたしゃがれた叫びは、同じくらい不意に元の小声に戻った。そしてまたもや頭を垂れて両腕で顔を覆った。
夫が話をしているあいだに、妻はゆりかごのそばに膝をついていた。夫のことを見てもいなければ、話も聞こえていないように見える。頭上で手を組んで、がたがたと揺れていた。「ああ神様! ああ神様!」とだけ何度も繰り返している。
シルヴィーとブルーノは丁寧に奥さんの手をほどいて下に降ろした――妻は自分の腕が二人の体に回されても、そのことに気づかずに、ひざまずいて天を見上げ、無言で感謝を表すように唇を動かしていた。夫は顔をうずめたまま、一言も口を利かない。だが全身が震えているところから、むせび泣いているのがわかる。
しばらくしてから夫は顔を上げた――顔は涙で濡れていた。「馬鹿だな!」と小さくささやいてから、大きく声を出した。「ポールっち!」
妻が立ち上がり、夢中遊行のようなぼうっとした目つきをして夫に近寄った。「あたしのことポールっちって呼ぶのは誰?」とたずねる声には、ほのかにはしゃいだような響きがあった。目は輝き、青白い頬に青春の薔薇色の光が注いでいた。くたびれた四十歳の女ではなく、まるで幸福な十七歳の乙女のように見えた。「あんたなの、ウィリー? 戸口であたしを待ってるのは?」
夫の顔もすっかり変わり、妻と同じ魔法の光に染められて内気な少年のようになっていた。二人はまるで少年と少女だった。少年は少女に腕を回してそばに引き寄せると、まるで触れたくもないものでも扱うように、空いている方の手でお金の山を突き放した。「もらっとくれ。まるごと持ってってくれ! なんか食べるもんでも買うといい。まあまずは、赤ん坊にミルクだな」
「あたしのかわいい赤ちゃん!」妻は硬貨を拾いながらつぶやいた。「あたしの赤ちゃん!」それからドアに向かったが、部屋を出ようとしたところでふと思いついたらしく立ち止まった。あわただしく戻ってくると――まずは屈み込んで、眠っている我が子にキスをして、それから夫の腕のなかに飛び込んでどぎまぎさせた。次の瞬間にはまだドアに向かい、出しなに釘に掛けてある水差しをつかんだ。ぼくらはそのすぐ後ろからついていった。
ほどなくして「酪農場」と書かれた看板が揺れているのが見えた。奥さんがそこに入ると、もこもこの白い犬が出迎えた。〈あやかし〉状態ではなかったので、犬は子どもたちを見つけてはしゃいでいた。ぼくがなかに入ると、酪農夫がお金を受け取っているところだった。「あんたが飲むんかい、奥さん、それとも赤ん坊かい?」水差しにミルクを詰めると、それを手にしたまま酪農夫がたずねた。
「赤ちゃんよ!」なじるような答えが返ってきた。「あの子をお腹いっぱいにしなきゃならないっていうのに、あたしが一口いただくとでも思うの?」
「了解、奥さん」と答えて、水差しを持ったまま後ろを向いた。「合ってるかどうかちょいとはかってきやしょう」酪農夫はミルク棚に戻って奥さんには背を向けたまま、乳脂《クリーム》を水差しに空けながら独り言ちた。「きっと元気が出るぞ、お嬢ちゃん!」
ウィリーの妻は心遣いには気づかず、水差しを受け取ると「おやすみなさい」とだけ言って立ち去った。だが子どもたちはもう少し目ざとかった。奥さんの後ろからついていきながら、ブルーノはこう言った。「とってもに親切だったね。ぼくあのおじさん大好き。ぼくがとってもにお金持ちだったら百ポンドあげるのに――あとロールパンも。あのうるさい犬はぢぶんの仕事がわかってないね!」ブルーノが言っているのは酪農夫の犬のことで、ぼくらが到着したときには暖かくもてなしてくれたこともすっかり忘れて、今は一定の距離を保ったまま、誰かに足を踏んづけられたようなあら〜ぬ声で盛んに吠えかかり、彼なりに「お帰りはあちら」を実践していた。
「犬の仕事って何?」シルヴィーが笑った。「店番もできないしおつりも渡せないわよ!」
「おねえちゃんの仕事はおとうとのことを笑ったりしないことさ」ブルーノは大まじめに言い返した。「そいで犬の仕事はほえることだけど――あんなほえかたはだめ。ちゃんとひとつほえ終わってからまたほえなきゃ。そいから――あっ、シルヴィー、アンポッポだ!」
たちまち子どもたちは大喜びで草むらのなかに飛び込んでゆき、われさきにタンポポのあるところまで急いだ。
そのまま二人を見ていると、不思議な夢のような感覚に襲われた。鉄道の構内が緑の草むらと入れ替わり、軽やかに跳ね回るシルヴィーの代わりに、飛ぶように走っているミュリエル嬢の姿を目にしているような気がした。だがブルーノが同じように変化して、ミュリエル嬢が追いかけていた老人になったのかどうかは、判断しかねた。感覚の訪れと消失はあまりに一瞬の出来事だったからだ。
ぼくがふたたび居間に戻っても、アーサーは背中を向けて窓の外を見ているままだったので、ぼくが戻ったことに気づいていないようだった。飲み終えたばかりらしきティーカップがテーブルの脇に押しやられ、その反対側には書きかけの手紙が置かれ、その上にペンが乗っかっていた。ソファの上には本が開いたままで、安楽椅子にはロンドン紙が広げられていた。そばの小卓には火のついていないタバコと蓋の開いたマッチ箱があるのに気づいた。こうしたことを見れば明らかだった。いつもは几帳面で自己管理のしっかりした
「君らしくないな、先生!」と言いかけたが、驚いて言葉を飲み込んだ。ぼくの声に振り返ったアーサーの表情がすっかり変わっていたのだ。これほどまでに幸せに輝いている顔や、これほどまでに尋常ならざる光にきらめいている目など見たことはなかった! 「何だかんだ言ったところで」とぼくは考えた。「先触れの天使はちゃんと見ていたのだ。そして夜ごと群れの番をする羊飼いのもとに、『地上では御心にかなう人に平和を』[*註1]というメッセージを届けたのだ!」
「やあ、あなたですか!」アーサーはぼくの顔色を読んでその疑問に答えでもするように、「本当なんです! 本当なんですよ!」と言った。
何が本当なのかたずねる必要はない。「二人ともお幸せに!」うれし涙がぼくの目から溢れかけた。「二人ともお似合いだよ!」
「ええ」答えはそれだけだった。「そうだと信じてます。人生ってこんなに変わるものなんですね! これが同じ世界とは思えません! あれも昨日見た空とは違います! あの雲――あんな雲を見たのは人生で初めてです! 天使の大軍が浮かんでるみたいだ!」
ぼくには普段と変わらぬ雲に見えたのだが、ぼくは「甘露を食し、楽園の乳を」飲んだわけではない。[*註2]
「あなたに会いたがってましたよ――すぐにでも」アーサーが突然地上に戻ってきた。「そうしないと幸せの杯にまだ一滴欠けたままなんだそうです!」
「すぐ行くよ」ぼくは部屋を出ようと体を動かした。「一緒に来るかい?」
「いいえ、結構です!」
「わかった」ぼくはさえぎった。「聞いたことはあるよ。残念ながらぼくが三人目だってこともわかってるさ! だけどまた三人で会うのはいつになるんだい?」
「どさくさ騒ぎが終わったらですよ!」[*註4]アーサーは笑いながら答えた。こんなに嬉しそうなアーサーの笑い声を聞いたのは、何年ぶりのことだっただろう。
Lewis Carroll "Sylvie and Bruno Concluded" CHAPTER VI 'Willie's Wife' の全訳です。
Ver.1 03/05/07
Ver.2 03/10/08
Ver.3 11/01/15
[註釈]
▼*註1 [地上では御心に]。ルカ福音書第2章第8節〜第14節の辺り。
(8)さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。/(9)すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。 /(10)御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。 /(11)きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。 /(12)あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。 /(13)するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、 /(14)「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。(口語訳より) [↑]
▼*註2 [甘露を食し、楽園の乳を]。サミュエル・テイラー・コールリッジ「クブラ・カーン あるいは夢で見た幻影:断片」(Samuel Taylor Coleridge (1772-1834) 'Kubla Khan or, a Vision In a Dream: A Fragment'(1816))より。
▼*註3 [二人なら仲良し]。Two is company, three is a crowd.(二人なら仲間、三人なら仲間割れ「恋人二人のあいだにもう一人加わるのは余計」の意のことわざ)。[↑]
▼*註4 [どさくさ騒ぎが終わったら]。『マクベス』第一幕第一場より。三人の魔女が、マクベスを待ち伏せするのはいつにしようと、良からぬ企みを話し合っているシーン。戦のどさくさが終わったあとにしよう、と決定する。[↑]