『フェアフィールド新聞』より抜粋
不安を抱えて情報を求めて来られた読者諸氏にこれまでお伝えしてきた流行病は、この二か月のあいだに、エルヴェルトンに隣接する漁村の住民の大半に伝染するという事態を迎えた。わずか三か月前には百二十人を越えていた人口のうち、現在の生存者は二十三人を数えるのみ。去る水曜日、地方委員会の権限のもとで移送され、つつがなく州病院に収容された。現地は今や文字通りの『死の都』であり、静寂を破る人の声一つない。
救助隊に参加したのは六人の勇者――近隣の漁師たちである。そのためにやってきた病院の当直医が、六人を率いて救急車の先頭に立った。その六人は――暴力を伴わないこの『決死的行動』には多数の人々が志願したため――体力と健康をもとに選ばれた。現在は病気の趨勢が弱まったとはいえ、遠征に際して生ずる危険は無視できないと判断されたためである。
感染の危険に対し、科学の及ぶかぎりのあらゆる予防策が採られた。患者たちは細心の注意を払って担架で一人ずつ、急な坂の上で待機していた救急車まで運ばれた。救急車にはもれなく病院の看護婦が乗り込んでいた。十五マイルある病院までの道のりは、徒歩と変わらぬほどのスピードだった。患者のなかには衰弱がはなはだしいため振動に耐えられない状態の者もいたからだ。そのため移動には午後いっぱいかかった。
二十三人の患者の内訳は、男性九人、女性六人、子供八人である。すべての生存者の身元を知ることは不可能だった。子供のなかには――家族に先立たれて残された――赤ん坊もいたからだ。男性二人と女性一人はまだ筋の通った受け答えのできる状態ではなく、完全に心身を喪失している。もう少し裕福な人々であれば、衣服に名前の縫い取りがあるものだが、そうしたものはここでは期待できない。
貧しい漁師や家族たちのほかには、身元が判明した者は五人しかいない。その五人全員が亡くなっていることは間違いのない事実である。紛れもない殉教者の名をここに記すことは痛ましいが――ほかの誰にも増して、イギリスの英雄という栄光の歴史にその名を刻まれるに相応しい人々であることは疑いない! 殉教者は以下の通り。
ジェームズ・バージェス司祭、文学修士、及び妻エマ。港町の牧師補、三十歳に満たず、二年前に結婚したばかりだった。滞在先に残された覚書から死亡日が判明した。
続いて、アーサー・フォレスター博士。地元の医者が亡くなった際、患者たちを極限状況のもとに放っておくことを潔しとしないで、差し迫った死の危険に果敢にも立ち向かった。名前、及び死亡時期の記録は見つからなかった。だが遺体の身元はすぐに判明した。ありふれた漁師服を着ていたものの(漁師服は現地に向かう際に借用したことがわかっている)、妻から贈られた新約聖書が見つかったのである。胸に押し当て両手で包み込んでいる状態で見つかった。よそに埋葬するため遺体を動かすのは賢明とは思われなかったので、滞在先で見つかったほかの四人の方々と同じく、謹んで哀悼の意を表明するとともに速やかに埋葬した。妻は旧姓ミュリエル・オーム嬢、同氏が身を呈して使命に赴いた当日の朝、結婚したばかりだった。
続いてウォルター・ソーンダーズ司祭、メソジスト会牧師。亡くなったのは二、三週間前だと思われる。滞在していた部屋の壁に「十月五日死す」と書かれてあるのが見つかった――家は閉ざされ、長いあいだ出入りした形跡はない。
最後になるが――といっても、ほかの四人と比べてその無私と献身に後れを取っているわけでは一切ない――フランシス神父、イエズス会司祭、まだ若く、数か月前に現地に赴任したばかりであった。救助隊が遺体を見つけたときには、亡くなってからそれほど時間は経っていなかった。服装と十字架から、身元はほぼ間違いない。若い医師が聖書を抱いていたように、十字架を胸でしっかりと握っていた。
病院に搬送後、男性二人と子供一人が亡くなった。残りの患者には期待が持てる。ただしうち何人かは体力の消耗がかなり激しく、完全な快復を望むには『万に一つを期待する』しかない。
Lewis Carroll "Sylvie and Bluno Concluded" -- Chapter XVIII 'A Newspaper-Cutting' の全訳です。
Ver.1 03/08/30
Ver.2 11/05/24
[註釈]
▼*註1 []。[↑]