その年――ぼくにとって驚くほど波乱に満ちていた年――も暮れに近づき、冬の陽は短くてさほど明るくないせいで、幸せな記憶と結びついている懐かしい景色もはっきりとは見えなかった。そんななか列車は最終カーブを曲がって駅に滑り込み、「エルヴェストン! エルヴェストン!」というしゃがれ声が構内に響き渡った。
この場所に戻るのはつらい。あの出迎えのはじけた笑顔を見ることは二度とないのだ。数か月前にはここでぼくを待っていたというのに。「それでも、もしここで彼を見かけたとしても」とぼくはぽつねんとつぶやき、手押し車に荷物を載せて運ぶ赤帽のあとについて行った。「もしも彼が『私の手を握り、故郷のことを幾つもたずねたとしても』、不思議には――もちろんだ、『不思議には思わないだろう!』」[*1]
いつもの下宿まで手荷物を届けるように指示を出してから、ぼくは一人きりで歩いて旧友を訪ねることにした。下宿に腰を落ち着けるのはそのあとでいい――初めて会ったのがつい半年前のことなのに、旧友だという気持はまぎれもなかった――伯爵と、寡婦となった令嬢の二人。
忘れもしない、境内を通り抜けるのが一番の近道だ。木戸を押し開き、物言わぬ死者たちの碑のあいだにゆっくりと歩を進めながら、過去数年にわたって地上から姿を消して「あちらに旅立った」多くの人たちのことを考えていた。それほど歩かぬうちに目指すものが見つかった。ミュリエル嬢が濃い喪服をまとい、顔を長いヴェールで覆い、小さな大理石の十字架の前にしゃがみ込んで、その周りに花輪を飾っているところだった。
十字架の立っている芝生はきれいなままで、でこぼことした盛り土はなかったから、簡潔な墓碑銘を読まなくても、それがただの碑の十字架であり、遺体はどこかほかの場所に眠っているのだとわかった。
ぼくが近づくのに気づいてヴェールを上げ、こちらにやってきた顔には、穏やかな微笑が浮かんでいたし、思っていたよりだいぶ落ち着いていた。
「またお会いできるなんて、昔に戻ったみたいですね!」と言う声には、混じり気なしの喜びが感じられた。「父にはもう会いましたか?」
「今からうかがうところです。ここを通り抜けて近道するつもりだったんですよ。伯爵もあなたも元気でしたか?」
「ええ、二人とも大丈夫です。あなたは? もう良くなりました?」
「あまり良くはなっていませんね。でもありがたいことに悪くもなっていません」
「しばらくここに座って、静かにお話でもしませんか」その落ち着きぶりに――冷淡といってよいほどだったので――ぼくは驚いた。どれほど強い気持で自制を保っているのか想像もつかない。
「ここだと落ち着けますから。欠かさず来てるんです――毎日欠かさず」
「とても穏やかですね」とぼくは言った。
「手紙は届きました?」
「ええ、だけどなかなか返事が書けなくて。言葉にするのがつらいんですよ――紙の上だと」
「わかります。ありがとうございました。あのときその場にいてくれて、最後にあの人――」一瞬だけ言葉を詰まらせ、堰を切ったように話し続けた。「何回か港まで行きましたけれど、お墓がいくつもあって、どれがあの人のものなのか誰も知らないんです。それでも、あの人の死んだ家は見せてもらえたので、多少は慰めになりました。部屋のなかに立っていると――あの人が――」話を続けようとしたものの限界だった。ついに堰が切れ、悲しみが見たこともないほどの奔流となってあふれた。最後にはぼくがいることなどお構いなしに、芝生に身を投げ草に顔をうずめ、石の十字架にしがみついて泣きじゃくった。「ああ、かわいそう、かわいそう! あなたの生涯を美しくとの神さまの御心だったのに!」[*2]
ぼくはそれを聞いてはっとなった。ミュリエル嬢の口から繰り返されたのは、妖精の子が死んだ兎に泣きすがったときと同じ言葉だった。何か神秘的な力が働いて、あの子がフェアリーランドに戻る前に、妖精の心から、深く愛していた人間の心に感染したのだろうか? そんな考えはとてもじゃないが信じられない。それでもやはり、『この天地の間には、哲学も及ばぬ事がある』のではないだろうか?[*3]
「神さまは美しくとの御心だったし、」とぼくはささやいた。「間違いなく美しかったでしょう? 神のご意思の過つことはないのですから!」ぼくはそれ以上は何も言わずに立ち上がり、その場を離れた。伯爵邸の正面で門にもたれて夕陽を眺めて待ちながら、たくさんの思い出――楽しいこと、悲しいこと――に思いをめぐらせた。そうしているうちミュリエル嬢もやってきた。
もうすっかり落ち着きを取り戻していた。「どうぞお入りになって。父も喜びますよ!」
老伯爵は破顔して椅子から立ち上がり歓迎してくれた。だが娘のようには心を抑えることができないようで、ぼくの手を両手で包み込んだときには涙が顔を伝った。
ぼくは胸がいっぱいで何も言えなかったので、三人ともしばらくは無言のまま座っていた。やがてミュリエル嬢がベルを鳴らしてお茶を頼んだ。「五時のお茶を召し上がりますよね!」忘れもしない、明るくふざけた口調だった。「たとえ重力の法則にちょっかいを出せなくて、ティーカップを無限の空間に向かってお茶より先に落下させてしまうとしても!」[*4]
この言葉で会話の方向性が決まった。あの悲劇のあとでこうして集まるのは初めてのことだ。暗黙の了解のもと、そのあいだはせいぜい頭から離れないつらい話題を避けて、不安を知らぬのんきな子どものように話をした。
「考えてみたことはありますか?」何の脈絡もなくミュリエル嬢が口にした。「犬でいるよりも人間でいる方が一番都合のいいことは何だろうって?」
「考えたこともなかったな」ぼくは言った。「でもどうやら犬側に都合がよさそうですね」
「疑いの余地はありません」ミュリエル嬢にはこういう真面目ぶったところがあるから、気丈に見えるのだ。「だけど人間側にとって一番の好都合は、ポケットがあることだと思うんです! 確信しましたよ、私――私たち、ですね。というのも父と私が散歩から戻るときだったんです――つい昨日のことでした。犬が骨を運んでたんです。何でそんなものがほしいのか見当もつきません。だって肉はついてないんですから――」
ぼくは奇妙な感覚に襲われた。こんな話を、あるいは似たような話を以前にすっかり聞いたことがあった。次には「きっと冬の外套にするつもりだったのね?」[*5]という言葉が出てくるものとなかば期待していた。だが実際に口にされたのは、「父は『ほんの骨折りだ』なんてしょうもない冗談で説明しようとしてました。すると、犬が骨を置いたんです――駄洒落に嫌気がさしたのではありませんよ、それなら味のある犬だったんですけれど、そうではなく顎を休めるためだったんです、かわいそうに! ほんとに気の毒でした! 『犬にポケットをあげよう慈善協会』の会員になりませんか? 口でステッキを持たなくてはならなかったとしたら、どうなさいますか?」
人に両手がない場合のステッキの
やがて雨傘を置いて日傘を先にくわえた。もちろん顎はそれほど大きく開かないのだが雨傘をしっかりくわえるには充分だった。犬は勝ち誇って走り去った。その犬が筋の通った論理的思考をおこなっていたのは疑えまい。
「私もそう思います」ミュリエル嬢が言った。「でもまっとうな物書きでしたら、そうした考え方に顔をしかめるんじゃありませんか? 人間と下等生物を同等に扱っているようなものですもの。そういう人たちは理性と本能のあいだにはっきりとした境界線を引いてるんじゃないでしょうか?」
「確かにそれがまっとうな考えだった、一昔前は」伯爵が言った。「宗教上の真理を説くにも、人間だけが理性的な動物であるという主張によりかかることが多かったようだね。だがそれも終わりだ。これからも人間がある分野では独占していると言うこともできる――例えば言語だ。言語を使用して『分業』することによって、いろいろな作業を効率的におこなえるからね。だが理性を独占しているという信仰は、とっくに一掃されているよ。それでも破滅は訪れなかった。昔の詩人が言っていたとおり、『神は変わらずおわす』のだ」
「たいていの信者も今ではバトラー主教[*6]の考え方にしたがうでしょうし」ぼくは言った。「主張を拒んだりはしないでしょう。たとえ動物にも魂のようなものがあって、肉体が死んだあとも滅びないいう結論が導かれたとしてもね」
「ほんとにそうなんだとわかればいいのに!」ミュリエル嬢が声をあげた。「せめて馬のためにだけでも。ときどき思うんです、無謬の神を信じられなくなることがあるとすれば、馬が苦しんでいるのを見るときだろうって――苦しむような罪もないし、何の報いもないのに!」
「大いなる謎の一面だな」伯爵が言った。「なぜ罪のないものがいつも苦しむのか。信仰上の大きなひずみだ――だが信仰を断ち切ってしまうようなひずみではないだろう」
「馬が苦しむのは」ぼくは言った。「たいていは人間の残虐さが原因です。ですからそれは、罪が罪人本人よりも他人を苦しめてしまうような、よくあるケースの一例に過ぎません。ですが動物が動物を苦しめる場合はもっと難しいのではないでしょうか? 例えば、鼠をもてあそぶ猫。猫に道徳的責任がないと仮定すると、人間が馬を酷使する場合よりもさらに大きな謎になりませんか?」
「確かにそうね」ミュリエル嬢が父を無言でうながした。
「その仮定が正しいという根拠はあるかね?」伯爵がたずねた。「宗教的難題のほとんどは、根拠のない仮定に基づいて推論を進めるからに過ぎない。何よりも賢明な答えとは、『あゝ 人間は何も知らない』ということだと思うね」[*7]
「さっき『分業』と仰いましたよね。それを驚くほど完璧に実行しているのが蜜蜂の群れではありませんか?」
「あれほど驚くべきで――文字通りあれほど人間離れしていて――」伯爵が言った。「しかもそれ以外の行動に見られる知性と比較すると、あれほど完全に矛盾してもいることを考えれば――純然たる本能なのは疑いない。ある意味では、高度な理性の働きではないよ。開いた窓から外に出ようとしているときの、蜂の愚かなことといったらどうだ! 言葉のいかなる意味でも、理性的に出ようとしているとは言えまい。ただブンブン飛び回っているだけなのだからな! そういう行動は仔犬の痴性と呼ぶべきだよ。それなのに蜜蜂の知的レベルがサー・アイザック・ニュートンよりも上だと信じろと言われるのだ!」
「では純然たる本能にはひとかけらの理性もないとお考えですか?」
「それどころか、蜜蜂の群れの行動には、最高度に秩序だてられた理性があるよ。だがその行動のどれ一つとして、蜜蜂によるものではない。神が理性を司り、あとは理論的な帰結を蜜蜂の心に植えつけているだけなのだ」
「ですがどうやって心を一つにして行動するんでしょう?」ぼくはたずねた。
「蜜蜂に心があるという仮定が正しいという根拠はあるかね?」
「ご都合主義じゃない!」ミュリエル嬢が親不孝にも勝鬨をあげた。「さっき『蜜蜂の心』と自分で言ったばかりでしょう!」
「だが『蜜蜂一匹一匹の心』とは言ってない」伯爵は落ち着いて答えた。「これが『蜜蜂』の謎を解く一番妥当な考え方だと思うのだが、つまり蜜蜂の群れは、群れごとにたった一つの心しか持っていないんだ。一つに集まったときには、いくつもの手足で構成された複雑な集合体を一つの心が動かしているのがわかるだろう。物理的なつながりが必要だとは言えまい? ただ隣り合っているだけで充分ではないかね? だとすれば、蜜蜂の群れとは、完全には密着していない多くの手足を持つ一匹の動物に過ぎないのだ!」
「目の回るような考えですね。一晩たっぷり休まないとちゃんと理解できそうにありません。理性と本能からそろって、うちに帰っておやすみなさいと耳打ちされましたよ。そういうわけですから、ここらで失礼します!」
「道の途中まで『お連れ』します」ミュリエル嬢が言った。「今日はちっとも歩いていないのでちょうどよかったし、まだお話ししたいことがありますから。森を抜けていきませんか? 野原を通るより気分がいいと思うんです、ちょっと暗くなってきてるとはいっても」
ぼくらは絡み合った枝でできた木陰に足を向けた。そこは完璧に調和のとれた建築物となって、素晴らしい穹窿を形作っていた。あるいは眼の届くかぎり遠くまで、果てしない回廊、内陣、本堂に入り込んでみると、この世ならざる大聖堂のような、狂気に駆られた詩人の夢が現実のものとなっていた。
「この森に来るたびに」やがてミュリエル嬢が沈黙を破った(こうした暗く寂れた場所では沈黙しているのが自然なことに思われたのだ)。「妖精のことを考えてしまうんです! お聞きしたいことがあるんですけれど」と、ためらいがちにたずねた。「妖精を信じますか?」
まさにこの森で経験したことを話したい衝動に思わず駆られたが、口から飛び出しかけた言葉を何とか押し戻した。「『信じる』というのが『存在する可能性を信じる』という意味なら、『イエス』です。『現実に存在している』かどうかについては、やはり証拠がいりますよ」
「このあいだ仰っていたじゃありませんか。
「ええ、そう思います」またもやもっと言いたい気持ちを抑えるのに苦労したが、話を聞いてもそれに同意してくれるかどうかまだ自信がなかった。
「では妖精は創造物のなかでどんな地位を占めているのか、何かお考えはありますか? そのことについて聞かせてください! 例えば妖精には(そんなものが存在していると仮定したらですけど)、妖精には道徳的責任はあるでしょうか? つまり」(と、ここで明るくふざけた口調からいきなり不可解で深刻そうな口調に変わった)「妖精には罪に対する責任能力はあるのでしょうか?」
「理性的判断はできます――おそらく人間の男女よりは低いレベルですし――子供の知能より上に成長することはないと思いますが。道徳的な判断はできると思って間違いありません。そのような存在に自由意思がないのは馬鹿げていませんか。ですから妖精には罪に対する責任能力があるという結論に達せ…ざるを得ませんね」
「妖精を信じているんですね?」ミュリエル嬢は大喜びで声をあげて、今にも両手を叩き出すのかと思うほどだった。「教えてください、なぜそう思われるんですか?」
それでもなお、ぼくははっきりと感じ取っていた事実を隠し通そうとした。「信じていますよ、どこにでも生命は存在するのだと――物質的な存在ではないだけ、ぼくらに感じることができるような状態ではないだけで――非物質的な目に見えない存在として。自分自身の非物質的な要素なら――『魂』や『精神』などと呼んで信じているじゃありませんか。ほかにも似たような要素がまわりに存在していて、目に見える物質的な肉体とかかわりを持っていてもおかしくないではありませんか? 神さまが昆虫の群れをお作りになったのは、一時間のあいだ幸せを感じながら太陽光線を浴びてダンスをするためであって、ぼくらに想像できるような目的があるのではなく、むしろぼくらにわかるような幸せを何倍にしたよりも幸せなのではありませんか? わざわざどこかで線を引いて、『それもこれも神さまが作っただけなんだ』と言うべきでしょうか?」
「その通りです!」ミュリエル嬢は目を輝かせてぼくを見つめた。「でもこれは否定しないための根拠に過ぎませんよね。これより確かな根拠をお持ちなんでしょう?」
「実はそうです」今こそ安心してすべて打ちあけられるような気がした。「口にするのに都合のいい機会や場所がなかったものですから。ぼくは妖精と会ったことがあるんです――この森のなかで!」
ミュリエル嬢はもう何もたずねなかった。無言でぼくの横を歩きながら、首を垂れ両手をきつく握りしめていた。ぼくの話を聞きながら、喜びにあえぐ子どものように、ときどき短く息を呑むだけだった。ほかの誰にも話していなかったことをぼくは話した。ぼくの二つの人生のこと、それだけではなく(何しろぼくのは単なる白昼夢に過ぎないかもしれないので)、二人の子どもたちの二つの人生のこと。
ブルーノのやんちゃぶりを話すと、楽しそうに笑った。シルヴィーのかわいさや他人への優しさ、偽りのない愛情のことを話すと、たっぷりと息を吐いた。長いあいだ心から待ち望んでいた大事な便りをついに耳にした人のように息を吐くと、やがて嬉し涙が先を争うように頬に流れ落ちた。
「ずっと天使に会いたいと思っていたんです」ささやく声は小さくて聞き取るのに精一杯だった。「シルヴィーに会えて本当に嬉しいんです! 初めて会った瞬間、心が惹かれました――聴いて下さい!」と、急に言葉を止めた。「シルヴィーが歌ってる! 間違いありません! シルヴィーの声ですよね?」
「ブルーノが歌うのなら何度も聴いたことがあるけれど、シルヴィーが歌うのは聴いたことがないんだ」
「一度だけ聴いたことがあるんです。あなたが不思議な花を持ってきた日のことです。子どもたちは庭に飛び出して行きました。エリックがやってくるのが見えたから、わたしは窓のところまで会いに行ったんです。そしたら木の下でシルヴィーが歌ってました。聴いたことのない歌を。『愛だと思う、愛だと感じる』というような歌詞でした。夢で聞くように声は遠くから聞こえるんですけれど、言葉では言えないような美しさがあって――赤ちゃんが初めて笑ったみたいな、それとも苦労を重ねて故国に戻ってきた人が最初に目にしたドーヴァーの白い崖の輝きみたいな、甘酸っぱさなんです――安らぎと天上の思いが、身体中に満ちているような声――聴いて!」ミュリエル嬢はまたもや話をやめて、興奮して叫んだ。「シルヴィーの声よ、あの歌だわ!」
言葉は聞き分けられなかったが、夢でも見ているような音楽の調べが空中に漂い、こちらに近づいてでもいるのか、だんだんと大きくなっているように思われた。何も言わずに立ち尽くしていると、やがて二人の子どもが姿を現し、森のなかに開いているアーチをくぐって、ぼくらの方へ真っ直ぐやって来た。互いに腕をまわし、夕陽が金色の後光を頭のまわりに顕しているのには、まるで聖人の絵でも見ているようだった。二人はぼくらの方を見ていたが、どうやらぼくらを見ているわけではなかった。すぐにわかった。今回はミュリエル嬢にもぼくにはおなじみの状態が訪れていたこと、ぼくら二人とも〈あやかし〉に陥っていたこと、ぼくらには子どもたちがはっきりと見えるが、子どもたちにはぼくらがまったく見えないことが。
歌がやんだころに子どもたちがすっかり姿を見せた。だが嬉しいことに、ブルーノがすぐに言った。「もっかい歌おう、シルヴィー! すごく良かったった!」 するとシルヴィーが答えた。「いいわよ。あなたからでしょ」
そこでブルーノは、ぼくにはすっかりおなじみのボーイズソプラノで歌い出した。
「ねえ、ヒナがチイチイさえずると、
親鳥が巣に戻りたくなるのは何ておまじない?
それに赤ちゃんがぐずっていると、
ぐったりしているお母さんが目を覚ましてあやし始めるのは?
腕に抱いた赤ちゃんを、
鳩のようにクゥクゥ喜ばせるのは何て魔法?」
ぼくはその年の出来事をこうして書き記しているが、素晴らしい年だと感じる原因となっている不思議な体験のなかでも極めつけの体験をした――シルヴィーの歌を初めて聴くという体験だ。とても短かく――ほんの二言三言で――おそるおそる、聞き逃してしまいそうなほど小声だったとはいえ、言葉で表すことなど不可能な甘く美しい歌声だった。わずかなりとも似たような音楽は聴いたことがなかった。
「それは秘密。だからそっと耳打ちしてあげる
秘密の名前は『愛』っていうの!」
ぼくが最初にその歌声からもたらされたのは、不意に心臓を貫かれるような鋭い痛みだった。(これまでの人生で一度だけこんな痛みを感じたことがある。そのときは一つの完全な美の概念が具現化されたところを目にしたのがきっかけだった――ロンドンの展覧会場で人混みをかき分けていると、この世のものとは思われない美しさを持つ子どもと不意に顔を合わせたのだ。)続いて、目から熱い涙がほとばしった。人というのは純粋な喜びによって心の底から泣くことができるのだろうか。そして最後に、恐怖に近い畏怖の念に襲われた――モーセが『あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である』[*9]という言葉を聞いたときに感じたのは同じような感覚だったに違いない。子どもたちの姿はチカチカとした流星のようにぼんやりかすれてきたが、それでもなお歌声は素晴らしいハーモニーを響かせていた。
「だって『愛』だと思うから
だって『愛』って気がするから
だって『愛』以外には考えられないから!」
このころにはまた二人の姿がはっきりと見えるようになった。ふたたびブルーノが独唱している。
「ねえ、怒りが爆発したときに、
暴れ狂う嵐を抑えなさいと命じる声はどこから聞こえるの?
平和に仲直りの握手をしなさいと
痛みと――望みに苦しむ心を諭す声は?
身体中を満たし――ぼくらの周りや
下からや上から震わせる音楽はどこから聞こえるの?」
今度はシルヴィーも大胆に歌っていた。歌の内容に夢中になって我を忘れているようだった。
「それは秘密。どこから来てどこに行くのか、誰も知らない
でも秘密の名前は『愛』っていうの!」
強く清らかに合唱が響き渡る。
「だって『愛』だと思うから
だって『愛』だと感じるから
だって『愛』以外には考えられないから!」
ふたたび聞こえるのはブルーノのかすかな声だけになった。
「ねえ、谷や丘に上手に色を塗って、
絵のようなきれいな景色にしているのは誰?
仔羊が大喜びで飛び跳ねられるように、
日向と日陰が織りなす牧場の筆をとるのは誰?」
またもや何とも言えない天使のような甘く澄んだ声が聞こえる。
「それは秘密。冷たい心には教えられない。
だけど天上で天使が歌ってるから、
清らかな耳にはその調べがはっきりと聞こえる――
秘密の名前は『愛』っていうの!」
ここでふたたびブルーノが加わった。
「だって『愛』だと思うから
だって『愛』って気がするから
だって『愛』以外には考えられないから!」
「いかったね!」ブルーノが大きな声を出して、ぼくらのそばを通り過ぎるとき――かなり接近したのでぼくらは少し後ろにさがって道を空けた。手を伸ばすだけで二人に触れられそうだったが、やってみようとはしなかった。
「止めようとしても無駄でしょうからね!」子どもたちが木陰に去ると、ぼくは言った。「ぼくらのことが目に映ってもいないんだから!」
「無駄なんですよね」ミュリエル嬢がため息をついて繰り返した。「実態のある二人にもう一度会いたいと思うのが普通なんでしょうけれど。でも絶対に無理なんだって気がするんです。二人とも私たちの人生から消え去ってしまったんだわ!」ふたたびため息をつくと、下宿のそばの本通りに出るまで、何も言わなかった。
「それじゃあ、ここでお別れします」ミュリエル嬢が言った。「暗くならないうちに戻りたいので。平屋の友だちのところに寄らなきゃいけませんし。おやすみなさい! また近いうちに――何度もお会いしましょうね!」それから、胸に染みる優しく暖かい言葉をつけ加えた。「『だって大事なことはそれくらいしかない』んですもの!」[*10]
「おやすみなさい!」ぼくは答えた。「テニスンが言っていたのは、ぼくなんかより遙かに価値のある友人からの訪問のことですよ」
「テニスンは自分が何を言っているのかわかっていなかったのね!」ミュリエル嬢は元気よく答えた。いつものように、ちょっと子どもっぽいくらいの明るさだった。それからぼくらは別れた。
Lewis Carroll "Sylvie and Bluno Concluded" -- Chapter XIX 'A Fairy-Duet' の全訳です。
Ver.1 03/09/03
[註釈]
▼*註1 [私の手を握り……]。テニスン『イン・メモリアム』第14節より。
船は今日かへつて來たよと/人に聞かされ、/私が波止場にでかけてみると、/ほんとに 船がかへつてゐても、//悲しみにとざされながら立つてゐる時、/ぞろぞろと船客たちは/甲板板《プランク》を下りる足並も輕く、/身寄の人人に手を振つても。//船客たちの人ごみから、/尊敬するおまへがあらはれて、/不意に 私の手を握り、/故郷の話を あれこれ聞いても。//つらかつたよ、この頃は弱つてゐたよと、/殘らず話してきかせてやると、/それは氣の毒だ、君の頭は/どうかしてゐやしないかと、たづねてくれても。//おまへの姿に變りはなく、/手にも足にも死の影はなく、/もとの姿のおまへを見ても、/私は、すこしもおかしいなどとは思はないだろう。(岩波文庫、入江直祐訳)[↑]
▼*註2 [ああ、かわいそう……]。正編二十一章288ページ。[↑]
▼*註3 [この天地の間には……]。『ハムレット』第一幕第五場。「この天地の間にはな、所謂哲學の思も及ばぬ大事があるわい。」
以前に「物語倶楽部」で公開されていた、坪内逍遙訳『ハムレット』テキストファイルは→こちらから。[↑]
▼*註4 [五時のお茶を……]。『シルヴィーとブルーノ(正編)』第8章107〜109ページにかけてのやり取りが元になっています。
「ちょうどこの家が、このままの状態で、ある惑星から数兆マイル離れた空間に置かれたと仮定します。そしてそのまわりには障害物が何ひとつないとします。当然、この家はその惑星にむかって落下しますね」(中略)「その家が下から太紐でしっかりゆわえつけられていて、惑星にいる誰かが下へ引っぱっているとします。するとむろん、家だけが自然の落下速度より早く落ちることになる。ところが家具は――われわれのからだといっしょに――もとの速度で落下する、したがって置き去りにされるでしょうね」(中略)「ひとつ難点がございましてよ」ミュリエル嬢がほがらかに口をはさんだ。「カップは手にもって落ちていけますけど、でも、中身のお茶はいったいどうなりますの」[↑]
▼*註5 [きっと冬の外套に……]。正編第14章191ページ。毛虫が蛾の羽根を運んでいるのを見てブルーノが言ったセリフです。[↑]
▼*註6 [バトラー主教]。Joseph Butler、1692-1752。イギリス、英国国教会の主教、哲学者。「倫理学者としては、道徳生活は人間本性にかなった生き方であるとして、ホッブズ以来の利己主義的な功利主義を批判」(平凡社『世界大百科事典』より)。[↑]
▼*註7 [あゝ 人間は何も知らない]。テニスン『イン・メモリアム』第54節より。↓岩波文庫(入江直祐訳)より。
しかし私達は信じてゐる、/身體の苦惱や曲つた心や 懷疑や遺傳は 汚れとはいへ、/あらゆる罪惡もゆきつく最後は/なにかの善に歸着するのだ。
あてなく歩く足はあるまい。/人の命は滅びることなく、/神が宇宙の殿堂を 築き建てたまふその時に、/無駄なものだと 虚空に捨てられはしないのだ。
蟲が眞二つに切られても 無駄になつたと誰が言へる。/ただ燃えつくす炎に燒けても、/他の生物の餌食になつても、/一匹の蛾が 無駄に新だと誰が言へよう。
あゝ 人間は何も知らない。/只 私は信じてゐる、世の一切のものには みな/ついには――いつか――ついには惠みがふるであらうと。/冬の後には めぐり來る春のあるごとく。
こんな夢想を心に描く この私は何だらう。/闇夜に泣いてゐる赤子なのか、/灯りを求めて泣きながら、/ただ泣きながら 言葉もしらぬ赤子であらうか。[↑]
▼*註8 [不思議な花を……]。正編第20章参照。[↑]
▼*註9 [あなたの足から……]。「ヨシュア記」第五章第十五節、ただし旧約本文によればモーセではなくヨシュア。[↑]
▼*註10 [だって大事なことは……]。テニスン「F・D・モーリス師に」より。
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