「科学は――さよう、たいていのことは――始まりから始めるのがよろしいものです。もちろんなかには、反対側から始めた方がよろしいものもある。たとえば、犬を緑色に塗りたい場合には、しっぽから始めるべきですな、なにしろそっち側は咬まないのですから。そして――」
「てつだっていい?」ブルーノがたずねた。
「何を手伝うと言うんじゃ?」教授は戸惑いながらも目を上げたが、手帳に指を挟んでおいて、読んでいた場所がわからなくならないようにしていた。
「イヌをみどりにぬるてつだい! きょーじゅはくちからはじめて、ぼくは――」
「いかん、いかん! まだ実験に取りかかっておらんからな。それでは」と手帳に目を戻し、「科学の公理をご紹介しましょう。次に標本をお見せします。それから過程をいくつか説明いたします。そして仕上げに実験じゃ。公理とはつまり、矛盾なく受け入れることができるものですな。例えば、わしが『ご来場のみなさん』と言ったとすると、何の矛盾もなく受け入れられるじゃろうから、話を始めるに相応しい一言と言えましょう。すなわち公理であると言えますな。あるいはまた『ご退場のみなさん!』と言ったとすると、それは――」
「――デタラメ!」ブルーノが声をあげた。
「まあブルーノ!」シルヴィーが小声で注意した。「もちろん公理でしょう!」
「――相手が文明的な方々であれば受け入れられるじゃろうから、また別の公理であると言えましょう」
「コオリだとしてもさ」ブルーノが言った。「しんじつではないよね!」
「公理を知らぬと」講義はなおも続いていた。「生きていくうえで著しい損害をこうむります。公理を繰り返し唱えねばならないとしたら、たいへんな時間の浪費ですからな。例といたしまして、『それ自体より大きいものなど存在しない』、言い換えるなら『それ自体を閉じ込めておけるものなど存在しない』という公理を取り上げてみましょう。『あいつは興奮しやすくて、自分自身の感情を閉じ込めておけないのだ』という表現を耳にされることもよくあるでしょうな。さよう、もちろん閉じ込めておけるわけがありません。興奮にはそんなことができる手立てがないのですから!」
「よいかの!」皇帝が落ち着かなくなって口を挟んだ。「公理はあとどのくらいあるんじゃ? この調子では、来週になるまで実験が出来ぬではないか!」
「おお、そんなにはかかりませぬ!」教授はびくっとして目を上げた。「あとはたったの――」(改めて手帳を確認して、)「あとたった二つです、これは絶対に欠かせぬものでして」
「さっさと読み上げて、標本に取り掛かれ」皇帝がぶうぶう言った。
「第一の公理は」教授は大急ぎで読み上げた。「『そうであればすべてそうである』という言葉から為っております。第二の公理は、『そうでないものはすべてそうではない』ですな。では続いて標本に取り掛かりましょう。第一のトレイには水晶およびその他いろいろなものが入っております」教授はトレイを引き寄せて、ふたたび手帳に目を通した。「ラベルの何枚かが――きちんと貼られていなかったせいで――」ここで教授はまたもや言葉を切って、単眼鏡を使って慎重にページを確かめた。「残りの文章が読めませんな」それがようやく口にした言葉だった。「つまりどういうことかと言いますとラベルが剥がれてきたために、その他いろいろなものがごちゃ混ぜになり――」
「ぼくにくっつけなおさして!」ブルーノがせがんで切手のようにラベルを舐めると、水晶その他いろいろなものに押し当て始めた。だが教授が急いでトレイを手の届かないところに移動させた。「間違った標本に貼りつけたらどうするつもりじゃ!」
「まちがったぴんぽんをトレイにのっけちゃだめだよ!」ブルーノは悪びれず答えた。「ねえ、シルヴィー?」
だがシルヴィーは首を横に振っただけだった。
教授は知らんぷりした。壜を一つ手に取って、単眼鏡を使ってじっくりとラベルを読んだ。「第一の標本は――」その他いろいろなものの前に壜を置いた。「それは――それの、名前は――」ここで壜を取り上げてふたたびラベルを確認する。ついさっき確認してからラベルが変わってしまったわけでもないだろうに。「アクア・ピュラと呼ばれておりまして――つまり普通の水でして――この液体の特徴は力づけられる――」
「フレ! フレ! フレ!」料理長が掛け声をかけ始めた。
「――ことと、酔いはしないことです!」教授は急いで先を続けたので、「ほいときた!」が始まっていたのをかろうじて止めることができた。[*1]
「第二の標本」教授は小さな水差しを慎重に開こうとした。「は――」蓋を開けた途端に大きなかぶと虫が飛び出し、ぶんぶんうなって大ホールからさっさと逃げ出してしまった。「――標本は――と言いますか、」悲しげに空っぽの水差しを見つめ、「標本のはずだったものは――珍しい青いかぶと虫でした。どなたか気づかれましたかな――よぎったときにでも――羽根に青い斑点が三つずつついていたのですが?」
気づいた者はいなかった。
「ああ、おほん!」教授は溜息まじりに話を続けた。「残念なことです。たった今気づかなかったのであれば、いつなんどきでも見逃してしまいますぞ! それはともかくとして、次の標本は飛んで行くことはないでしょう! 手短に言えば、いやもとい、鼻長に言えば――象であります。ご覧いただきましょう――」ここで庭師に教壇の上にやってくるよう手招きすると、二人で協力して、両側から短い管が出ている大きな犬小屋のようなものを壇上に乗せようとした。
「しかし目の前に象など見えんぞ」皇帝が唸った。
「さよう、顕巨鏡越しでなくては!」教授がいそいそと答えた。「蚤を見るには、拡大鏡――顕微鏡というもの――がなくてはなりません。さて、同じように、象を見るには――縮小鏡がなくてはならぬのです。この管に一つずつ付いておりますな。そしてこれが、顕巨鏡です! 今から庭師が次の標本を持って参ります。カーテンを両方とも開けてくだされ、端に寄って、象のための道を空けてくだされ!」
居合わせた人々はあわてて大ホールの両端に移動し、空いた道の先に目を向け、庭師が戻ってくるのを見ようした。庭師は歌いながら立ち去っていた。「『やつの見たのは一頭の巨象 そやつは横笛吹いていた』」しばらくは何も聞こえなかった。やがてふたたびかすれ声が遠くから聞こえてきた。「『もいちど見れば』――そら来いよ! 『思ったものの、もいちど見れば』――ひーこら! 『なんとそやつは手紙』――道を空けとくれ! ただいま到着!」[*2]
行進してきたと言うべきかよろめいてきたと言うべきか――どちらが正しいとも言いかねるが――後脚で立った象が、前脚に持った大きな横笛を吹きながらやって来た。
教授は急いで顕巨鏡の後ろにある大きなドアを開けた。庭師の合図で巨大動物は横笛を降ろして機械のなかに素直にどたどたと入り込んだ。教授によってふたたびドアが閉められた。「標本を観察する準備が出来ました! 普通の鼠――ムス・コミュニス――とまったく同じ大きさですぞ!」
人々はいっせいに管に駆け寄り、小さな生き物を見て喜んでいた。教授が指を伸ばすと、象は嬉しそうに鼻を巻きつけ、ついには教授の掌に乗っかった。教授はゆっくりと持ち上げ、皇室一家に見せるために運んでいった。
「かーいーね?」ブルーノが叫んだ。「なでていいでしょ? とってもにやさしくさわるから!」
皇后は単眼鏡を使って熱心に観察していた。「とても小さいわ」と低い声で言った。「普通の象より小さいじゃんじゃないかしら?」
教授は嬉しさのあまりびっくりしていた。「さよう、その通りだ!」とつぶやくと、今度は人に聞こえるような大きな声を出した。「皇后陛下が完全に分別あるご意見を仰いましたぞ!」会衆から大きな歓声が上がった。
「次の標本は――」小さな象を慎重に水晶とその他いろいろなもののあいだにあるトレイに戻すと、教授は声を張り上げた。「蚤であります。観察するために大きくいたしましょう」トレイから小さな薬箱を取り上げると、顕巨鏡に歩み寄って管をさかさまにした。「標本の準備が出来ました!」管の一つに目を当てながら、脇にある小さな穴から慎重に薬箱の中身を空けた。「これで普通の馬――エクィズ・コミュニス――の大きさです!」
またもや人々が管を覗きに押し寄せ、大ホールに大歓声が響き渡った。それにかき消されて教授の不安そうな声はほとんど聞こえなかった。「顕微鏡のドアを閉めたままにしてくだされ! こんな大きさで逃げ出してしまうと――」だが災難は起きていた。ドアが開けられた途端に怪物が飛び出し、恐れおののく見物人のあいだを飛びはねていた。
だが教授は冷静さを失ってはいなかった。「カーテンを開けるんじゃ!」教授の指示が実行された。怪物は脚をたたみ、ひと跳びで空の彼方に姿を消した。
「どこにいるのじゃ?」皇帝が目をこすってたずねた。
「隣の州でしょうかな」教授が答えた。「あの跳躍でしたら少なくとも五マイルは跳んだでしょうから! 次は過程をいくつか説明しようと思います。ですが実演するにはちょっと場所がありませんな――小さな動物がちょうど邪魔なところにおりまして――」
「だれのこと?」ブルーノがシルヴィーにささやいた。
「あなたのことよ!」シルヴィーがささやき返した。「黙って!」
「どうかこの隅まで――ぎこちなく――移動してくれんか」教授がブルーノに声をかけた。
ブルーノは言われた通りに慌てて椅子を動かした。「ぼく、いかりなくいどうしてた?」ブルーノがたずねたが、教授はふたたび講義にかかりきりになって、手帳を読んでいるところだった。
「では過程を説明いたしましょう――こう申すのは何ですが、名前が汚される過程ですぞ。それを例示するにはいくつもの――その――」しばらくページをめくっていたが、ついに教授は「『実験』か『標本』のどちらかのようですな」と言った。
「実験にしろ」皇帝が言った。「標本はたっぷり見た」
「さよう、さよう!」教授も同意した。「実験をいたしましょう」
「ぼくやっていい?」ブルーノがせがんだ。
「ああだめじゃ!」教授が目に見えてうろたえた。「おぬしがやったりしようものなら、本当に何が起こるかわからんからの!」
「きょーじゅがやったとしたって、なにがおこるかはみんなだれもしらないじゃないさ!」ブルーノも言い返した。
「最初の実験には機械を使用いたします。取っ手が二つついておって――たった二つじゃぞ――よければ数えてみるがよい」
料理長が前に進み出て取っ手の数を数え、納得して後ろにさがった。
「さて諸君はこの二つの取っ手を同時に押すとお思いかもしらんが――だがそんなことではない。あるいはこの機械をひっくり返すとお思いかもしらんが――そんなふうでは駄目じゃ!」
「どんなふうにするの?」耳をそばだたせていたブルーノがたずねた。
教授はにっこりと笑った。「はは、さよう!」そして小見出しでも読みあげるような声を出した。「『如何にして実行するか』! ちょいと失礼!」と言いざまにブルーノをテーブルに立たせた。「問題を三つに分けたいと思う――」
「降りようかな!」ブルーノがシルヴィーにささやいた。「分けられるのはよさそうじゃないし!」
「誰もナイフなんか持ってないでしょ、おばかさん!」シルヴィーもささやき返した。「黙って立ってなさい! 壜を割っちゃうわよ!」
「一つ目は取っ手を握ること」取っ手をブルーノの手に押しつけた。「二つ目は――」そこでハンドルを回すと、「わあっ!」と声をあげて、ブルーノが取っ手を放し、肘をさすり出した。
教授が嬉しそうにくすくす笑ってたずねた。「目に見えた結果だったじゃろう。そう思わんか?」
「ぜんぜん目に見えてないよ!」ブルーノは腹を立てていた。「ほんとにむかつく。ひじがびりびりして、せなかがばちばちなって、かみの毛がくしゃくしゃになって、ほねのなかまでぶんぶん言ってたんだから!」
「そんなことないでしょう!」シルヴィーが言った。「またでたらめ言って」
「なんもしらないくせに!」ブルーノが答えた。「見ることないでしょ。ほねのなかに行けるひといないんだから。言いっこなしだよ!」
「二つ目の実験はですな」と教授が語りかけた。ブルーノはまだ神妙な面持ちで肘をさすっていたが、元の場所に戻っていた。「見るも稀なる驚き桃の木現象、黒い光を作り出してご覧に入れましょう! 白い光、赤い光、緑の光などはご覧になったことがあるでしょう。だが今日のこの素晴らしい日にいたるまで、わしを除けば黒い光を目にした方はおりませんでした! この箱には――」教授は箱を慎重にテーブルに乗せると、それを毛布ですっかり覆ってしまった。「この箱のなかには黒い光が満ちております。作り方はですな――暗い戸棚の中に灯のついた蝋燭を入れ、扉を閉めるのです。当然ながら戸棚のなかには黄色い光が満ちておりました。そこで黒インクの壜を手に取り、蝋燭に振りかけたわけです。すると嬉しいことに、黄色い光の原子がすべて黒く変わったのです! 間違いなくこれまで生きてきたなかでもっとも誇らしい瞬間でありました! それからわしは黒い光を箱に詰めました。さてそれでは――どなたか毛布の下にもぐって、黒い光を見たい方はいらっしゃいますかな?」
その提案のあとには死んだような沈黙が待っていた。だがついにブルーノが口を開いた。「ぼく、もぐりたいな。ひじがびりびりしないんなら」
この点を確かめると、ブルーノは毛布の下にもぐりこみ、しばらくすると這い出してきた。埃まみれでのぼせていて、髪はぐちゃぐちゃだった。
「箱のなかで何を見たの?」シルヴィーが慌ててたずねた。
「なんも見えなかった!」ブルーノは悲しそうに答えた。「すっごくまっくらだった!」
「極めて正確に状況を説明してくれましたぞ!」教授が興奮して声をあげた。「黒い光と何も見えないのとは、一見すると極めて似ておるから、見分け損ねても不思議はないからのう! では三つ目の実験に取りかかるとしましょう」
教授は壇から降りて、しっかりと床に埋まっている柱のところまで歩いていった。柱の片側には先端に鉄の錘のついた鎖が留められており、反対側には先端に鈴のついた鯨のひげがぶらさがっている。「これがもっとも面白い実験であります! 時間がかかってしまうのですが、それもたいした問題ではありません。さてお立ち会い。この錘をはずして手を放したとすると、床に落ちてしまうでしょうな。それは否定しませんな?」
否定する者はいない。
「では同じように、この鯨のひげを柱に巻き付けて――このように――そしてこの留め金を鈴に引っかけます――このように――巻き付いて曲がったままですな。ですが、留め金をはずしたならば、また自然とまっすぐ伸びてしまいます。これも否定いたしませんな?」
今度も否定する者はなかった。
「さて、では、こうしたまま長いあいだ放っておくといたします。鯨のひげからは力がなくなってしまうでしょうから、留め金をはずしても曲がったままでおるものと考えられますな。では、なぜ同じことが錘にも起こらないのでしょうか? 鯨のひげは曲がりぐせがついてしまえばもはや自然にまっすぐ伸びることはありません。錘に支えぐせがついてしまい、もはや落ちることがなくなる事態が、起こらないと言えましょうか? わしはそれが知りたいのです!」
「我々もそれが知りたいぞ!」人々も繰り返す。
「どのくらい待てばよいんじゃ?」皇帝が唸った。
教授は振り返って答えた。「さよう、手始めに数千年ほどでしょうかな。それから錘を慎重に外すことにいたします。そのときにまだわずかに落ちるようでしたら(その可能性が高いでしょうが)、ふたたび鎖につなぎ、さらに数千年ほったらかしておくことになりましょう」
そのとき驚いたことに、皇后に常識のひらめきが舞い降りた。「そのあいだに別の実験をする時間があります」
「まさしくその通りです!」教授は大喜びで声をあげた。「では壇上に戻りまして、四つ目の実験に移りましょう!」
「最後の実験はですな、アルカリ性の物質を、いや酸性の――どちらだったか忘れてしもうたが、とにかくですな、何が起こるかご覧いただきましょう、これに――」教授は壜を取り上げ、不安げに見つめた。「――これに混ぜ合わせるわけですな――あるものを――」
ここで皇帝がたずねた。「何という物質じゃ?」
「名前は思い出せませんで」教授は答えた。「ラベルも剥がれてしもうて」教授が壜の中身をもう一つの壜に空けると、大きな音を立てて壜は二つとも粉々に吹き飛び、ものというものをひっくり返して大ホールに真っ黒な煙をぶちまけた。ぼくは怖くなって飛び上がり、そして――そして気づくと相変わらず一人で暖炉の前にいたのだった。眠りこけて手から火かき棒が落ちてしまい、火箸とシャベルにぶつかり、やかんがひっくり返って蒸気がもんもんと立ち込めていたのだ。ぼくはがっくりしてため息をつくと、ベッドに向かった。
Lewis Carroll "Sylvie and Bluno Concluded" -- Chapter XXI 'The Professor's Lecture' の全訳です。
Ver.1 03/09/13
Ver.2 03/12/27
Ver.3 11/06/25
[註釈]
▼*註1 [酔いはしない]。「the fluid that cheers (中略) but not inebriates!」(紅茶などの、元気は出るが酔わない飲み物を指す、英語の言い回し)。料理長は「元気を出す(cheers)」という教授の言葉に合わせて、「フレ! フレ! フレ!(Hip! Hip! Hip!)」と元気づけています。[↑]
▼*註2 [やつの見たのは……]。正編第五章76ページの庭師の歌。
やつの見たのは一頭の巨象/そやつは横笛吹いていた、/思ったものの、も一度見れば/なんとそやつは女房の手紙/「やれやれわかった」やつがいう、/「これぞ人生のつらさかな」[↑]