王太子妃殿下が失神したことに最初に気づいたのは、申し上げた通り、タヴェルネ男爵であった。王太子妃と魔術師の間で起こりつつある出来事に人一倍不安を覚え、目を離さずにいたからだ。妃殿下の悲鳴を耳にし、バルサモが茂みの外に姿を消すのを目にして、男爵は駆け出していた。
王太子妃は一言目にデカンタを見せるよう頼み、二言目に魔術師をひどい目に遭わせぬよう伝えた。危ないところでこの命令は間に合った。制止の声が聞こえた時には、既にフィリップ・ド・タヴェルネは怒れる獅子のように後を追っていたところだったのだ。
と、侍女がおそばに近づき、ドイツ語で何かたずねた。だが王太子妃は質問には何も答えず、バルサモには無礼なところなどなかったと繰り返すだけであった。――長旅と前夜の嵐で疲れが溜まり、気が高ぶって倒れてしまったのでしょう。
事情がわからぬながら問いただすことも出来ずにやきもきしていたロアン枢機卿に、この言葉が翻訳して伝えられた。
庭にいる者たちは半信半疑であった。王太子妃の答えには皆まるで納得がいかなかったが、揃って納得したような顔をしていた。そこでフィリップが進み出た。
「恐れながら殿下のご命令を果たしに参りました。まことに残念なのですが、滞在予定の半時間が過ぎました。馬の用意も出来ております」
「ありがとう」怖いほどさり気なく、可愛い仕種をして、「けれど当初の予定を変更いたします。今ここを発つことは出来ません……少し睡眠を取れば、気分も良くなると思うのですが」
男爵が青ざめた。アンドレが心配そうに父を見つめる。
「こんなねぐら、妃殿下にはとてもご満足いただけませんぞ」と男爵は口ごもった。
「そんなことは言わずに」王太子妃は絶え入りそうな声を出した。「横になれるだけでよいのです」
アンドレが急いで部屋の用意をしに行った。一番大きな部屋でもなければ、一番豪華な部屋でもない。だがどれだけ貧しかろうと、アンドレのように貴族的な娘の部屋には、どんなご婦人の目も和らがせるような洒落たところがあるものなのだ。
誰もがこぞって王太子妃の許に駆け寄ろうとしたが、王太子妃は物憂げな笑みを見せて、話す力も残っていないのか手振りで合図し、一人きりになりたいのだと伝えた。
そこで人々はまた遠くまで退いた。
マリ=アントワネットは、服の裾がすっかり見えなくなるその瞬間まで目を離さずにいた。だが裳裾がすべて見えなくなると、呆然として真っ青な顔を両手にうずめた。
フランスで出くわしたものは、確かに恐ろしい前兆ではなかったか! ストラスブールで過ごしたあの部屋、王妃になるため足を踏み入れた最初の地、その壁に掛けられたタペストリーには、幼児虐殺が描かれていたではないか。馬車に近い木を折った前夜の嵐もそうだ。それにあの予言。誰にも洩らすつもりのなかったはずの秘密をどうやってか暴露した後で、あの怪人が明らかにした予言がある!
十分ほど経ってアンドレが戻り、部屋の用意が出来たことを伝えに来た。王太子妃がアンドレのことまで拒絶しているとは思われなかったため、アンドレは緑の穹窿の下まで通してもらえた。
アンドレはしばらく王太子妃の前に立ったまま、声をかけようとはしなかった。それほどまでに、妃殿下の物思いは深く見えた。
ようやくマリ=アントワネットが顔を上げ、アンドレに微笑みかけて手を挙げた。
「お部屋のご用意が出来ました。なにとぞ……」
王太子妃が遮った。
「ありがとう、感謝します。すみませんが、ランゲルスハウゼン伯爵夫人を呼んで下さい、それからわたしたちを部屋まで案内してくれませんか」
アンドレが言う通りにすると、老侍女がいそいそと駆けつけた。
「腕を、ブリジット」王太子妃はドイツ語で話しかけた。「歩く力も出せそうにありません」
伯爵夫人はその通りにし、アンドレがそれを手伝った。
「ドイツ語がわかるのですか?」マリ=アントワネットがたずねた。
「はい、殿下」アンドレがドイツ語で答えた。「ほんの少しでございましたら」
「よかった!」王太子妃は喜びの声をあげた。「わたしの計画にぴったりです!」
アンドレは計画とは何かたずねようとはしなかったものの、知りたくてたまらなかった。
王太子妃はランゲルスハウゼン夫人の腕につかまり、少しずつ前に進んだ。膝が震えているように見えた。
茂みから出ると、ロアン枢機卿の声が聞こえた。
「馬鹿な! スタンヴィル殿。命令に背いて妃殿下にお話しに向かうつもりか?」
「致し方ありません」司令官の断固たる声が答えた。「きっとお許しいただけるものと思っております」
「だが私にはいまいち……」
「邪魔立ては無用です、ロアン殿」草木の門のような茂みの出口に、王太子妃は姿を見せた。「こちらへ、スタンヴィル殿」
誰もがマリ=アントワネットの声に一礼し、当時フランスを治めていた筆頭大臣(ministre tout-puissant)の義兄弟に道を開けた。
スタンヴィル氏は周りに目をやり、密談を求めるような目つきをした。マリ=アントワネットもそれに気づいたが、二人きりにするよう指示を出すよりも早く、誰もが席を外していた。
「ヴェルサイユからの速達でございます」スタンヴィルは小声で、それまで軍帽の下に隠していた手紙を差し出した。
王太子妃は手紙を受け取り表書きに目を落とした。
『ストラスブール司令官、ド・スタンヴィル男爵閣下』
「わたし宛てではなくあなた宛てではありませんか。開封して読んで聞かせて下さい。もっとも、わたしの知りたいことが書かれていればですけど」
「宛名こそその通りですが、この角をご覧下さい。我が兄弟ショワズール殿と申し合わせたもので、ただ殿下一人に宛てた手紙だという印にございます」
「おやほんとう! 十字ですね。気づきませんでした。こちらへ」
王太子妃は手紙を開き、次のような文章を読んだ。
『デュ・バリー夫人の認証式(présentation)が決まりました。後は代母を見つけるだけです。我々としては見つからないことを今も諦めてはおりません。しかしながら認証式を防ぐ最良の手段は、王太子妃殿下がお急ぎ下さることにほかなりません。妃殿下がヴェルサイユにお入りしてしまえば、このような大それたことを目論む者など一人もいないでしょう。』
「そういうことですか!」王太子妃は何の感情も見せなかったし、興味を惹かれたようなそぶりも見せなかった。
「殿下はお寝みになるのでしょうか?」おずおずとアンドレがたずねた。
「ごめんなさい。新鮮な空気のおかげで気分は良くなりました。ご覧の通りもうすっかり元気になりました」
王太子妃は伯爵夫人の手を押しのけると、何も起こりなどしていなかったかのように素早く力強く足を進めた。
「馬を! 出発します」
ロアン枢機卿が驚いてスタンヴィル司令官を見つめ、態度が急変したのはいったいどういうことかと目顔で説明を求めた。
「王太子殿下がお待ちかねなのです」司令官は枢機卿の耳にそう囁いた。
極めて巧みに吐き出された嘘に、これはてっきり本音を洩らしたものと思いロアンは満足した。
アンドレは父のおかげでこうした天下人の気まぐれにも騒がぬ術《すべ》を覚えていた。そのためマリ=アントワネットの翻心にも驚きはしなかった。王太子妃が振り返って見た時も、アンドレの顔には優しく穏やかな表情しか見られなかった。
「感謝します。そなたのもてなしは心に響きました」
次に男爵に声をかけた。
「お知らせしておきましょう。ウィーンを発った時に心に決めたことがありました。フランスの地を踏んで最初に出会ったフランス人の方に、未来を与えようと。そのフランス人とは、ご子息でした……。それだけではありません……ご息女のお名前は?」
「アンドレでございます」
「アンドレ嬢のことを忘れるつもりはありません……」
「まあ、殿下!」
「そう、侍女になっていただこうと思っております。証を見せることも出来ますよ。如何です、男爵?」
「おお、殿下!」夢が実現した者の叫びであった。「その点の心配などございません。富よりも名誉を重んじる人間ですゆえ……ですが……素晴らしい未来とは……」
「そなたたち次第です……ご子息は国王陛下を護衛し、ご息女は王太子妃に仕え、お父上は忠誠の言葉を子息に伝え、美徳の言葉を息女に伝える……絵に描いたような理想的な使用人だとは思いませんか?」王太子妃が若者の方を向くと、フィリップはただただひざまずき、口唇からは声にならない吐息を洩らすしか出来なかった。
「ですが……」男爵が真っ先に頭を正気に返らせて呟いた。
「わかりました。何かと用意がいるのでしょう?」
「さように存じます」
「構いません。ですが準備にはそれほど時間が掛からぬはずです」
アンドレとフィリップの口許に悲しげな笑みがよぎり、男爵の口が苦しげに歪んだために、その言い方はよした。タヴェルネ家の自尊心を傷つけてしまったに違いない。
「誤解なさってはいけません。わたしを喜ばせようというそなたたちの心持ちから判断したまでのこと。何なら、そう、四輪馬車を一台残しておきますから、後からいらっしゃい。司令官、手伝ってくれますね」
司令官が前に進み出た。
「タヴェルネ殿に馬車を一台用意して差し上げなさい。アンドレ嬢をパリに連れて行きます。誰かに命じて馬車に同伴させ、身内同然の者たちなのだと伝えなさい」
「只今。ボーシール(Beausire)、前へ」
鋭く智的な目をした二十四、五の若者が、しっかりした足取りで列から離れると、帽子を手にして前に進み出た。
「タヴェルネ男爵の馬車の護衛を命じる。馬車に同乗し給え」
「再びわたしたちと合流するまでお願いいたします。必要があれば替え馬の回数を増やしても構いません」
男爵と子供たちがひたすら感謝の意を表わした。
「急な出立ゆえ、迷惑を掛けたのではありませんか?」王太子妃がたずねた。
「殿下の仰せのままに」
「ではまた!」王太子妃が微笑んだ。「皆さん、車に!……フィリップ殿、馬に!」
フィリップは父の手に口づけし、妹を抱きしめてから鞍に跨った。
十五分後、王太子妃一行は前夜の雲のように慌ただしく、タヴェルネ邸の並木道から姿を消していた。残っていたのは、門敷居の上に坐っていた若者だけだった。青白く悲しげな顔をして、急ぎ足の馬たちが路上に立てる埃の跡が遠ざかってゆくのを、食い入るように見つめていた。
ジルベールだ。
その頃、アンドレと二人きり残されていた男爵は、今なお言葉を失ったままだった。
タヴェルネ邸の応接室で演じられたのは、奇妙な光景であった。
アンドレは両手を合わせ、思いがけない不思議な出来事の数々に思いを馳せていた。静かな日常に突如として舞い込んできた椿事に、夢でも見ているようだった。
男爵は白くなった眉毛の中から、長く曲がって飛び出ているのを何本か引き抜いたり、胸飾りをぐちゃぐちゃにしたりしていた。
ニコルは扉にもたれて主人たちを見つめていた。
ラ・ブリは腕を垂らし口を開けたまま、ニコルを見ていた。
初めに我に返ったのは男爵だった。
「ちんぴらめ!」とラ・ブリに向かって叫んだ。「銅像みたいに突っ立っとるが、あの紳士、
すぐにラ・ブリは戻って来た。
「旦那さま、あちらでございました」
「何をしてらっしゃった?」
「馬に
「邪魔してはならんぞ。して、馬車は?」
「並木道にございます」
「馬は繋がっておるか?」
「四頭とも。それは見事な馬でございました! 花壇の柘榴を食んでおります」
「王家の馬なら好きなものを食べる権利もあろう。ところで、魔術師殿は?」
「魔術師殿は、消えてしまいました」
「あれだけの用意をしておきながら、信じられんわい。また戻って来るか、代わりに誰か寄こしてくれるじゃろう」
「私はそうは思いません。荷馬車(fourgon)で出て行くのを見たとジルベールが申しております」
「ジルベールが?」と男爵は考え込んだ。
「はい、旦那さま」
「あの怠け者めが、すべて見ておったか。荷造りをせい」
「すべて終わっております」
「何じゃと?」
「はい。王太子妃殿下のご命令と同時に、旦那さまのお部屋に向かい、お洋服や下着を荷造りいたしました」
「いったいどうした気まぐれだ、抜け作め?」
「旦那さま! そうお命じになるだろうと予め愚考いたしたまででございます」
「痴れ者めが! ならばアンドレを手伝うがいい」
「大丈夫ですよ。わたくしにはニコルがいますから」
男爵はまたも考えに耽り始めた。
「ぼんくらの浅知恵じゃな。今の話にはあり得んことが一つあるわい」
「何でございましょう?」
「お前には考えもつかんじゃろう。何も考えておらんからだ」
「仰って下さい」
「妃殿下がボーシール殿に何もお命じにならずにお発ちになったり、魔術師殿がジルベールに一言も伝えずにいなくなったりするものか」
この時、庭から小さな口笛の音が聞こえた。
「旦那さま」とラ・ブリが言った。
「何だ!」
「お呼びの合図です」
「誰がじゃ?」
「あの方でございます」
「指揮官代理殿か?」
「はい。それから、ジルベールも何か言いたそうにうろうろしております」
「ではさっさと行くがいい」
ラ・ブリは常の如く素早くその言葉に従った。
「お父様」とアンドレが男爵に近づいた。「お父様が何をお悩みなのかはよくわかります。お父様、わたくしには三十ルイと、お母様がマリー・レクザンスカ王妃から賜ったダイヤつきの懐中時計があります」
「うむ、わかっておる。だが大事に仕舞っておけ。昇殿には立派な衣裳がいる……それまでにわしが金の算段をする。待て、ラ・ブリが来た!」
「旦那さま」入って来るなりラ・ブリが声をあげた。片手に一通の手紙を、もう片方の手に金貨を何枚か持っている。「旦那さま、妃殿下が賜れたのです、十ルイです! 十ルイございます!」
「それでその手紙は何だ、頓馬め?」
「そうでした! この手紙は旦那さま宛てでございます。魔術師殿からです」
「魔術師殿か。して、お前は誰から受け取ったのだ?」
「ジルベールでございます」
「言った通りではないか、惚け茄子めが。ほれ、さっさとよこすがいい!」
男爵はラ・ブリから手紙を引ったくり、大急ぎで開いて声に出さずに読んだ。
『男爵閣下。貴殿の家にある皿に御手を触れたからには、皿は貴殿のものです。出来たら大切に保管して、時には感謝をしていただければ幸いです。
ジョゼフ・バルサモ』
「ラ・ブリ!」考えたのは一瞬だけであった。
「はい?」
「バル=ル=デュックに良い金細工師はおらぬのか?」
「ございますとも! アンドレ様の銀杯を修理した方でございます」
「良かろう。アンドレ、妃殿下がお飲みになったコップを別にして、残りの食器は馬車に運ばせてくれ。それから唐変木めは、酒蔵に急いで、残っているワインを指揮官代理殿に振る舞って差し上げろ」
「一本しかございません」とラ・ブリは辛そうに答えた。
「それで用は足りるじゃろう」
ラ・ブリが立ち去った。
「よし、アンドレ」男爵は娘の両手を取って言った。「心配はせんでいい。宮廷に行こうではないか。あそこには空いている肩書や権利がごまんとある。運営すべき大修道院も山ほどあれば、聯隊長のいない聯隊もうなるほどあるし、眠ったままの年金も腐るほどある。宮廷とは太陽に照らされた美しい場所じゃ。お前も太陽から離れてはならんぞ。人前に出ても恥ずかしくない美しさなのだからな。さあ行け」
アンドレは男爵に顔を見せてから立ち去った。
ニコルがその後を追った。
「おい! 糞ラ・ブリめ」タヴェルネ男爵が最後に部屋を出た。「指揮官殿のお世話を忘れるなよ?」
「もちろんでございます」酒蔵の奥からラ・ブリが答えた。
「わしはな」自室に急ぎながら男爵は続けた。「わしは書類を整理しておく……半刻もせんうちに、こんな家からはおさらばしてるはずじゃ。アンドレ、聞こえるか!――遂にタヴェルネは救われた、しかも最高の手段でだ。あの魔術師殿は素晴らしいお人じゃわい! いや実際の話、奇跡も魔法も信じる気になった――ほら急がんか、ラ・ブリの阿呆め」
「旦那さま、何分にも手探りでございますから。城館の蝋燭が尽きてしまったのでございます」
「潮時だったか。そんな気がするわい」と男爵が言った。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XVI「Le baron de Taverney croit enfin entrevoir un petit coin de l'avenir」全訳です。初出『La Presse』紙、1846/06/19、連載第17回。
Ver.1 08/11/22
Ver.2 16/03/01
[訳者あとがき]
・08/11/22 ▼次回更新予定は08/12/06(土)、第17章「ニコルの二十五ルイ」です。
▼本文中に出てくる手紙の内容が本書中盤の肝になってくるので、あらかじめ説明しておきます。当時のフランスでは、公妾というのは単なる愛人ではなく役職(?)のようなものであって、公妾になるには公式な手続きを踏む必要がありました。正式に認められなければ宮廷には受け入れられません。代母というのはその際に後見人のような役割を果たす人物で、この代母となるにも身分などいろいろな条件がありました。また、公妾は王にもっとも近い場所にいるのですから、勢い政治にも影響を持つことがありました。そのため当時の政治家にとっては、どの愛人の側につくかというのが、重要な政治的駆引きの一部でもありました。この場合だと、現王の公妾(デュ・バリ夫人)か、王太子(次王)の妃(マリ=アントワネット)か。本人たちにとってはもちろん、宮廷の人間にとっても、この二人の動向は一大事だったのです。実は史実ではデュ・バリ夫人の公妾就任は1769年、マリ=アントワネット輿入れは1770年。デュマはこの二つを同じ1770年にすることで、さらに緊張感を高めることに成功しています。
[更新履歴]
・16/03/01 「je vous autorise à doubler, s'il le faut, les relais.」なので、「必要があれば馬を替えても構いません」→「必要があれば替え馬の回数を増やしても構いません」に変更。
・16/03/01 バルサモからタヴェルネ男爵への手紙、「中身を読んだ」→「声に出さずに読んだ」に変更。
・16/03/01 「garder ~ comme une relique」で「〜を(聖遺物のように)大切に保管する」の意味なので、「出来れば聖遺物のように保管して」→「出来たら大切に保管して」に訂正。