その頃、部屋に戻ったアンドレは、旅立ちの準備を急いでいた。ニコルもそれを懸命に手伝っていた。ひたむきに取り組んでいれば、今朝のやり取りのせいで二人の間に立ち込めていた暗雲もたちまち何処かに吹き飛んでしまった。
それをアンドレはちらと見て、許す許さぬもないとわかって
「悪い子じゃないもの」と呟いた。「献身的で、義理堅くて。この世の人間に欠点はつきもの。忘れましょう!」
一方ニコルも、主人の顔色を見逃すような娘ではない。麗しく
――あたし馬鹿だった。ジルベールなんかのことで、お嬢様と仲違いするところだった。夢の都パリに連れて行ってくれるってのに。
急な傾斜をあっちこっちと転げ回る二つの愛情が、出会うはもちろん、出会ったうえにぶつからぬ方がどうかしている。
初めに口を開いたのはアンドレだった。
「レースを紙箱(carton)に入れてもらえる?」
「どの箱でございますか?」
「そう? なかったかしら?」
「ああ、お嬢様がくだすったんです。あたしの部屋に置いてあります」
そう言ってニコルは箱を見つけに駆け出した。その心遣いを見て、アンドレもこれまでのことはすっかり忘れてしまおうと心を決めた。
「でもその箱はあなたのだわ」戻って来たニコルを見てアンドレは言った。「あなたにだって必要でしょう」
「あたしなんかよりお嬢様の方が必要なんじゃありませんか。それに何だかんだ言ってもお嬢様のもので……」
「これから新しい家庭を築こうという時には、家具が足りないものよ。だからそれはあなたのもの。今のあなたにはわたくしよりも必要なんですから」
ニコルの顔が赤らんだ。
「婚礼衣装を仕舞う箱が要るでしょう」
「お嬢様!」ニコルはさも可笑しそうに首を横に振った。「あたしの婚礼衣装なんていくらでも仕舞えるし、そんなに場所も取りません」
「あらどうして? 結婚するのなら、幸せになりたいでしょう。それに裕福に」
「裕福にですか?」
「ええ。それなりに、ということだけれど」
「徴税人でも見つけてくれるおつもりですか?」
「まさか。そうではなく、持参金をつけてあげようと思うの」
「本当ですか?」
「お財布の中身は知っているでしょう?」
「はい、二十五ルイございます」
「そう! それはあなたのものよ、ニコル」
「二十五ルイがですか! でもそんな大金を!」ニコルが歓喜の声をあげた。
「心からそう言ってくれるのなら嬉しいわ」
「あたしに二十五ルイくださるのですか?」
「ええそうよ」
ニコルは息を呑み、遂に感極まって涙を流し、アンドレの手に口づけを注いだ。
「旦那さんも喜んでくれるわよね?」とタヴェルネ嬢が言った。
「ええ、きっと喜んでくれます。あたしはそう思ってます」
そう言ってニコルは考え始めた。ジルベールに拒絶されたのは、貧しさへの不安があったからに違いない。金持ちになった今は、野心に燃える若者には理想的な相手に見えるのではないだろうか。このお金を今すぐにでもジルベールに分けてあげよう。出来ることならお礼代わりにそばにいてもらいたいし、落ちぶれるようなことにはなってもらいたくもない。ニコルの思いつきには随分と気前のいいところがあった。だが意地の悪い解釈をするならば、この気前よさの裏側には高慢の小さな種、侮辱した者に仕返ししたいという無意識の願望があったのである。
だがこんな悲観的な考え方に対して、これだけは言っておかねばなるまい。断言してもいいが、今のニコルには、悪意よりも善意の方が遙かに勝っていた。
アンドレはそんなニコルを見つめて溜息をついた。
「無邪気な子! もっと幸せになれるでしょうに」
ニコルはこの言葉を耳にして身震いした。浅はかにも、絹とダイヤとレースと愛のエルドラドをぼんやりと思い描いたのだ。アンドレのように静かな生活こそ幸福だと考えている人間には、考えたことさえないものばかりだった。
それでもニコルは未来をよぎっていた金色と真紅の雲から目を逸らした。
躊躇っている。
「やっぱりお嬢様、あたしきっと幸せになります。ささやかな幸せですけど!」
「よく考えて」
「ええ、よく考えます」
「慌てないでね。あなたなりに幸せになるのはいいけれど、馬鹿な真似はしないことよ」
「わかってます、お嬢様。この際だから申しますけど、あたし馬鹿で屑同然のことしてしまって。でもお許し下さい、恋してる時って……」
「じゃあジルベールのこと、本当に愛しているのね?」
「はい、お嬢様。あたし……あたし、愛してました」
<「本当なのね!」とアンドレは微笑みを浮かべた。「どんなところを好きになったのかしら? 今度会った時には、心震わすジルベールをよく見ておかなくては駄目ね」
ニコルは疑念を拭い切れぬままアンドレを見つめた。こんな風に話しているけれど、完全な見せかけなのではないだろうか、それとも何処までも無邪気な人なのだろうか?
――たぶんアンドレはジルベールを意識したことはないのだろう。ニコルはそう独り言ちた。でも、と再び考え直す。ジルベールがアンドレを意識していたのは確かだ。
思いつきを実行に移す前にあらゆる点をきちんと確かめておきたかった。
「ジルベールは一緒にパリには行かないんですか?」
「何のために?」
「でも……」
「ジルベールは召使いじゃないわ。パリの家を切り盛りすることも出来そうにないし。タヴェルネにいる遊民はね、庭木の枝や並木道の生垣でさえずる鳥のようなものよ。どんなに貧しくとも大地が養ってくれるわ。でもパリではお金がかかりすぎる。遊民一人を好きにさせておく余裕なんてないの」
「でもあたしと結婚したら……」ニコルは口ごもった。
「ああ! 結婚した暁には、二人してタヴェルネで暮らすといいわ」アンドレの言葉は揺るぎなかった。「母があんなに愛していた家ですもの、しっかり番をしておいて頂戴」
これにはニコルも仰天した。アンドレの言葉には些かなりとも含むところはなかった。ジルベールに対して底意も未練もないのだ。昨日の夜に選び取っていたものを別の人間に売り渡している。わけがわからない。
――たぶん貴族のお嬢さん方はみんなこうなんだ。アノンシアードの修道院にはつらい時でも深く悲しんでいる人なんてほとんどいなかったのはそのせいだったのか!
アンドレにも、どうやらニコルが躊躇っているのはわかった。華やかなパリに憧れる気持と静かで平穏なタヴェルネで慎ましく暮らしたい気持に板挟みされて、どうやら心が宙ぶらりんになっていることも見抜いた。現にアンドレは優しいがしっかりした声で言った。
「ニコル、あなたがこれから決めることは、一生を決めることになるんですから、よく考えて。まだ考える時間はあるのよ。一時間では足りないかもしれないけれど、結論は出してくれるものと信じてます。使用人か夫か、わたくしかジルベールか。既婚者に世話を頼むつもりはありません。家庭の秘密など聞きたくはありませんから」
「一時間ですか、お嬢様! たった一時間!」
「一時間です」
「わかりました。そうですね、それで充分です」
「じゃあ服をまとめて頂戴。お母様の服も忘れないで。大切にしているものなんですから。その後で決意を聞かせて頂戴。どちらの答えを選んだとしても、二十五ルイはあなたのものです。結婚を選ぶのなら持参金。わたくしを選ぶのなら、給金二年分」
ニコルはアンドレの手から財布を受け取り、口づけした。
与えられた時間を一秒たりとも無駄にする気はなかったのだろう。ニコルは部屋を飛び出すと、大急ぎで階段を駆け降り、中庭を横切って並木道に姿を消した。
アンドレはそれを見送りぽつりと呟いた。
「可哀相な子、幸せになれたらいいけど! 人を好きになるのはそんなに心地よいものなのかしら?」
五分後、なおも時間を惜しんで、ニコルはジルベールの住んでいる一階の窓を叩いた。もったいなくもアンドレからは遊民の称号を、男爵からは怠け者の称号を賜った男である。
ジルベールは並木道に面したこの窓に背を向け、部屋の奥で何やらせわしなくしていた。
窓ガラスを叩くニコルの訪いを耳にして、現場を押さえられた盗っ人の如くびくりとして作業を止めると、ばね仕掛けも斯くやとばかりの勢いで振り向いた。
「ああ、何だ、ニコルかい?」
「ええ、またあたし」ニコルは窓越しに、思い詰めたような微笑みを浮かべていた。
「うん、入って」そう言ってジルベールは窓を開けた。
出だしはまずまずだと感じながら、ニコルは手を伸ばした。ジルベールがそれを取った。
――ここまではいい感じ。さよなら、パリ!
なかなかたいしたことに、ニコルはこう考えた時も溜息一つをついただけであった。
「ねえジルベール」と娘は桟に肘を突いて切り出した。「みんなタヴェルネからいなくなっちゃうの、知ってるでしょ」
「うん、知ってるよ」
「行き先は?」
「パリだろう」
「あたしが行くことも知ってた?」
「いや、初めて知ったよ」
「それで?」
「それで? おめでとう。よかったじゃないか」
「何て言ったの?」
「よかったじゃないか、って。難しいことを言ったつもりはなかったよ」
「よかったけど……場合によるの」
「君の方は何が言いたいんだい?」
「いいかどうかはあなた次第ってこと」
「わからないな」ジルベールが桟に腰掛け、ニコルの腕に膝が当たるくらいの恰好になった。頭上には昼顔と金蓮花の蔓が絡み合っているので、これで人からあまり見られずに話を続けられる。
ニコルが愛おしげにジルベールを見つめた。
ところがジルベールは首と肩をすくめ、話どころかその目つきもよくわからないねと言いたげな素振りを見せた。
「あのね……大事な話があるの。聞いてくれる?」ニコルが再び口を開いた。
「聞いてるよ」とジルベールは素っ気ない。
「お嬢様からパリにお供するよう言われたの」
「よかったね」
「もし……」
「もし?……」
「もし、結婚してここで暮らすんじゃなければ」
「君はまだ結婚するつもりでいるのか?」ジルベールはことともしない。
「ええそうよ、何しろお金があるんだから」
「お金があるって?」ニコルの期待を裏切るような落ち着きようだった。
「ええとっても」
「嘘じゃないね?」
「ええ」
「どんな奇跡が起こったんだい?」
「お嬢様からいただいたの」
「すごいじゃないか。おめでとう、ニコル」
「ほら」ニコルは掌に二十五ルイを滑らせた。
そうしておいて、ジルベールの目に歓喜の色やせめて貪婪な光がないかと見つめていた。
ジルベールは眉一つ動かさない。
「凄いや! 大金じゃないか」
「まだあるんだから。男爵様もお金持ちになるの。メゾン=ルージュも再建され、タヴェルネも修復してもらえる」
「きっとそうだろうね」
「そうなったら城館の管理がいるでしょう」
「そうだろうね」
「そうなの! お嬢様はそれをあたしに……」
「おめでたいニコルの旦那さまを管理人にしようって腹か」今回は耳ざといニコルにはわかるほど皮肉を露わにした。
それでもニコルは我慢した。
「おめでたいニコルの旦那さま、ね。誰のことだかわかってるでしょ?」
「何が言いたい?」
「あら、頭が悪くなったの? それともあたしのフランス語のせい?」いい加減お芝居には嫌気が差して、ニコルは声を荒げた。
「ちゃんとわかってるさ。僕に夫になれというんだろう、ルゲさん?」
「ええそう、ジルベールさん」
「お金が出来たからなんだね」とジルベールは急いでつけ加えた。「いまだにそんなこと思ってるのは。そりゃあ、ありがたいとは思ってるよ」
「ほんとう?」
「まあね」
「だったらほらどうぞ」躊躇いはなかった。
「僕に?」
「貰ってくれるでしょ?」
「断る」
ニコルは飛び上がった。
「もうわかった。心の冷たい人だよね、違った、心じゃなく頭だったっけ。いいこと、そんなことしても不幸になるだけだよ。あたしがまだあんたのこと好きで、誇らしさや誠実さとは別の気持で今みたいなことしたんだと思ってみてよ。傷つくじゃない。でもよかった! お金が出来た途端にニコルはジルベールを見下したとか、ひどいこと言って苦しめたとか、言われたくはなかったもの。ジルベール、あたしたちもう何もかも終わったの」
ジルベールの反応は冷やかだった。
「あなたのことどう思ってるか、わかってるでしょ。あたし決めてたんだよ。わかってるでしょ、あなたと同じくらい自由でわがままなあたしが、ここに骨を埋めようと決意してたんだから。パリが待ってるのに! 晴れの舞台が待ってるのに! わかる? 一日中、一年中、一生の間、穏やかな顔を変えもせずに、嫌な気持は仕舞っておこうと決めていたんだから! 尽くしてたの。わかんなかったでしょ、駄目な男。後で悔やんで欲しいなんて言わない。今日のこの日あんたに拒まれたあたしがこれからどうなるか、気を揉みながら見届けて自責に駆られればいい。また貞淑な女にも戻れたのに。崖っぷちで止めてくれる救いの手なんてなかった。よろめいて、足を滑らせて、後は転がり落ちるだけ。大声で叫んでたのに。『助けて! 誰か止めて!』って。あんたはそれを突き放した。ジルベール、あたし転がり落ちてる、どん底に落ちてる、落ちるところまで落ちてる。あんたにも罪があることは神様ならご存じだわ。さよなら、ジルベール。さよなら」
良く出来た人のように、心の奥底に仕舞い込んでいた余裕をようやく引っぱり出すと、怒りも苛立ちも見せず、傲然としてきびすを返した。
ジルベールは静かに窓を閉めておんぼろ部屋に戻ると、ニコルが来るまで携わっていた何かの作業に舞い戻った。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XVII「Les vingt-cinq louis de Nicole」全訳です。初出『La Presse』紙、1846/06/20、連載第18回。
Ver.1 08/12/06
Ver.2 16/03/01
[訳者あとがき]
・08/12/06 ▼次回は12/20(土)頃更新予定。次は第十八章「タヴェルネよさらば」です。タイトルからもわかるとおり、もうすぐタヴェルネともお別れ。道中を挟んでいよいよ舞台はパリに移ります。
[更新履歴]
・16/03/01 「horizon」には「地平線」のほかに「将来の見通し」の意味があるので、「地平線にたなびく赤銅色の雲から目をそらした」→「未来をよぎっていた金色と真紅の雲から目を逸らした」に訂正。
[註釈]
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