ニコルは主人のところに戻る前に、階段の上で立ち止まり、身体の中で渦巻いている怒りの声をどうにか抑え込んだ。
そこに男爵が現れて、じっと動かず手に顎を乗せ眉を寄せて考え込んでいるニコルを目にするや、忙しいさなかにもかかわらず、これは可愛いと頭から思し召し、三十歳のみぎりにリシュリュー殿が賜ったような口づけを授け給うた。
男爵のお戯れにすっかり目の覚めたニコルが部屋に飛んで帰ると、アンドレはいましも小箱を閉め終えたところだった。
「あら」タヴェルネ嬢が言った。「さっきのことは……?」
「よく考えました」ニコルはきっぱりと答えた。
「結婚するつもり?」
「いえ、しないことにしました」
「そう。大好きだったのではないの?」
「お嬢様のご親切よりほかに大事なものなんてありません。あたしはお嬢様にお仕えしてますし、これからもずっとお嬢様にお仕えしたいんです。
この打ち明け話にはアンドレも心を打たれた。よもやあのニコルがとは思いも寄らなかった。言うまでもなく、当のニコルにとってお嬢様は二の次だったことなど知るよしもない。
ここまでいい娘だったことに感激して、アンドレは微笑んだ。
「そんなに思ってくれていたのね。忘れないわ。あなたの面倒はわたくしが見ます。幸運が訪れた時には二人で分かちましょう。約束よ」
「もう迷いません。あたしお嬢様について行きます」
「悔いはない?」
「盲従します」
「そんな答えは聞きたくないわ。盲従させられたと言って責められる日が来て欲しくはないですから」
「自分のほかは誰も責めたりなんかしません」
「旦那さんは納得してくれたの?」
ニコルは赤面した。
「え?」
「ええ、そうよ。二人で話して来たんでしょう?」
ニコルは口唇を咬んだ。ニコルの部屋はアンドレの部屋と同じ側に面していたから、この部屋の窓からジルベールの部屋の窓が見えることもよくわかっていた。
「仰る通りです」とニコルは答えた。
「それで、伝えたの?」
「伝えました」ニコルはアンドレが何の話をしているのか気づいたつもりになり、恋敵のこの失策のせいで先ほどまでの疑いがまたもや頭をもたげて来たために、出来る限り返答には反感を込めてやろうとした。「伝えました。もうあんたなんか知らないって」
わかり切ったことだった。一人はダイヤのように純粋で、一人は根っからの性悪。この二人の娘がわかり合えるはずもない。
棘のあるニコルの言葉もアンドレには以前として美辞麗句も同然だった。
その間に男爵は荷物をまとめ終えていた。フォントノワを共にした古びた剣、陛下の馬車に乗る権利を証明する羊皮紙、『ガゼット』紙の束、そして書類の山が一番の荷物であった。ビアスのように一切合切を抱え込んで運んでいた。[*1]
ラ・ブリが汗だくになって、中身がすかすかの大型トランク(une malle)に押しつぶされそうにして歩いて来た。
並木道の指揮官代理はと見れば、支度を待つ間に、壜の中身を最後の一滴に至るまで空けていた。
このドン・ファン殿はニコルの柳腰や脚線美に目を奪われた挙句、泉水と
ボーシール氏はそもそも任務に就いていたのであり、馬車を請う男爵の声にはっと我に返った。飛び上がってタヴェルネ男爵に挨拶すると、大声で馭者に命じて並木道に馬車を入れた。
四輪馬車が入って来た。ラ・ブリは言いしれぬほどの喜びと誇りを綯い交ぜにして、大型トランクを馬車バネの上に置いた。
「まさか国王の馬車の中にお邪魔できるとは」ラ・ブリは感激に我を忘れ、てっきり一人きりのつもりで呟いていた。
「中じゃなくて後ろだがね」ボーシールがしたり顔で笑みを見せて混ぜっ返した。
「あら、ラ・ブリも連れて行くのですか」アンドレが男爵にたずねた。「いったい誰がタヴェルネの世話を?」
「ふん! 怠け者の哲学者がおろうが!」
「ジルベールが?」
「まあな。銃を持っていなかったか?」
「でもどうやって食べて行くのです?」
「銃があるじゃろう! それに料理は出来るから心配いらん。
アンドレはニコルを見つめた。ニコルは笑い出していた。
「それが同情の仕方なの? 何て子かしら!」
「とんでもないです! お嬢様、ジルベールはとっても上手いんですから。飢え死にしたりはしませんから安心して下さい」
「ジルベールに一ルイか二ルイやらなくては」
「甘やかすためか。ふん! もう充分に堕落しておるというのに」
「生きるためにです」
「喚けば食べさせてもらえるじゃろう」
「気にしないで下さい、お嬢様。ジルベールは喚いたりしませんから」
「とにかく、三、四ピストール渡しておいて」
「きっと受け取りませんよ」
「受け取らないですって? 随分と気位が高いのね、あなたのジルベールは」
「お嬢様、もうあたしとは何の関係もないんです!」
「わかった、わかった」どうでもいい話に辟易して、男爵が割って入った。「もうよい、ジルベールなど! 馬車が待っておるから乗りなさい」
アンドレは口答えせず、城館に一目別れを告げてから、どっしりとした馬車に乗り込んだ。
タヴェルネ男爵が隣に腰を下ろした。ラ・ブリはいつものお仕着せ姿で、ニコルはジルベールになど会ったことがないとばかりに、腰掛(siège)に着いた。馭者が馬に跨った。
「そうすると司令官殿はどうなさるおつもりです?」タヴェルネ男爵が大きな声でたずねた。
「本官は馬で参ります、男爵殿」ボーシールはそう答えてニコルを盗み見た。礼儀知らずの百姓に代わって早くも粋な騎士が現れたことに感激して、ニコルは顔を赤らめた。
やがて馬車は四頭の逞しい馬に牽かれて動き始めた。並木道の――アンドレが親しんでいた並木道の木々が、住人たちに最後の別れを告げようとでもするように、東風に吹かれて悲しげに傾ぎながら、馬車の両側を滑るように一つまた一つと視界から消えて行った。正門に差し掛かった。
そこにはジルベールが身動きもせずに立っていた。帽子を手に、目は虚ろだがそれでもアンドレのことを見ていた。
アンドレは反対側の扉に身体を押しつけ、慣れ親しんだ家を少しでも長く目に焼きつけておこうとしていた。
「ちょっと止めてくれ」タヴェルネ男爵が馭者に向かって声をあげた。
馭者が馬を止める。
「これは怠け者殿。元気でやってくれたまえ。これで正真正銘の哲学者に相応しく、一人きりじゃな。何をするでもなし、小言を喰らうでもなし。せいぜい眠っている間に火を出さんように気をつけてくれ。それとマオンの世話も忘れずにの」
ジルベールは無言のまま頭を垂れた。ニコルの目つきが耐え難いほどに重くのしかかって感じられた。怖くて見ることが出来なかった。勝ち誇って当てこするようにしている少女を見るのが、焼きごての痛みを恐れるのと同じくらい怖かった。
「出してくれ!」タヴェルネ男爵が怒鳴った。
ジルベールが怯えているのを見ても、ニコルは笑わなかった。それどころか、パンも未来も慰めもないまま見捨てられた青年をあからさまに憐れんだりしないようにと、ひとかたならぬ力を振り絞らねばならなかった。馬の向きを変えたボーシールの整った顔を見つめていなければならなかった。
詰まるところニコルがボーシールを見つめていた以上、ジルベールがアンドレを凝視しているのをニコルが目にすることはなかった。
アンドレが涙を浮かべ見つめていたのは、自分が生まれ母が死んだ家だけだった。
とうとう馬車はタヴェルネを出た。先刻からとうに相手にされていなかったジルベールは、もはや存在しないも同然だった。
タヴェルネ男爵、アンドレ、ニコル、ラ・ブリは、邸の門を越えて新しい世界に足を踏み出したところであった。
一人一人が胸に思いを抱いていた。
男爵は、バル=ル=デュックでならバルサモのくれた金器は軽く五、六千リーヴルになるだろうと値踏みしていた。
アンドレは、傲慢や野心に絡み取られぬように、母から教わった祈りを小さく唱えていた。
ニコルはショールをかき合わせた。ボーシール殿からすれば風がもうちょっと吹いて欲しかったくらいだったのだが。
ラ・ブリはポケットの奥で王太子妃の十ルイとバルサモの二ルイを数えていた。
ボーシールは馬を
ジルベールがタヴェルネの大門を閉めると、油を差していない門扉はいつものようにぎいぎいと呻きをあげた。
次にジルベールは小さな自室に駆け込み、
包みを開いて中身が化けてやしないか確かめるかのようにじっくり見つめてから、紙にくるんだままでキュロットのポケットに突っ込んだ。
マオンがわうわうと吠えながら、鎖をぴんと張って暴れていた。家族に次々と見捨てられ、今度はジルベールにも見捨てられることを、本能的に悟って訴えているのだ。
吠え声はますます大きくなった。
「黙るんだ、マオン!」
途端にその好対照に気づいて苦笑した。
――僕は犬みたいに捨てられたんじゃなかったっけ? だったらお前も人間みたいに捨てられたっておかしくないだろう?
もう一度よく考えてみた。
――少なくとも自由にはしてくれた。望み通りの暮らしを見つける自由をもらったんだ。そうか! だったらマオン、お前にもおんなじことをしてやらなくちゃな。
ジルベールは犬小屋に駆け寄り、マオンの鎖をはずした。
「これでお前も自由だぞ。望み通りの暮らしを見つけに行け」
マオンは邸めがけて突進したが、扉が閉まっているのを知ると、今度は城跡に向かって駆け出し、茂みの中へ見えなくなった。
「さあ、犬と人間、どちらの本能が優れているかな」
こう言ってジルベールは副門(la petite porte)を出て、鍵をしっかりと掛けると、城壁越しに泉水まで放り投げた。石を投げるのなら百姓にはお手のものだ。
けれども、心に生じた時こそ起伏に乏しかった感情にも、胸に届く頃には変化が訪れ、タヴェルネを離れるに従ってジルベールもアンドレと同じような気持になっていた。ただし、アンドレの場合それは過去への郷愁だったが、ジルベールの場合それは明るい未来への希望だった。
「お別れだ!」そう言ってもう一度だけ城館を振り返った。
こうしてジルベールは、あまり詩的とは言えぬが充分に意味は伝わる呪詛を吐いた後で、今もまだ遠くに響く馬車の音を追って飛び出したのである。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XVIII「Adieux à Taverney」の全訳です。初出『La Presse』紙、1846/06/21、連載第19回。
Ver.1 08/12/20
Ver.2 12/09/20
Ver.3 16/03/16
[訳者あとがき]
・08/12/20 ▼次回は01/03(土)か01/10(土)ごろ更新予定。第十九章「ジルベールのエキュ金貨」です。もうすぐヴェルサイユ。
▼男爵が荷物を運ぶ場面、「ビアスのように」とある。Biasとはギリシア七賢人の一人ビアスのことだと思われるが、典拠は今のところ不明。手ぶらで逃げて、「(財産は)私と共にある」と説明したやつだろうか? あるいは「sous la bras」とは文字どおり「腕の下」というより、「身一つで」くらいの意味か?
[更新履歴]
・12/09/20 「connaîtrais-je aussi bien le maître que je me donnerais ?」条件法なので、反語的用法。「ご主人様のこともちゃんとわかることが出来るもんなんでしょうか?」→「主人のこともちゃんとわかるようになれるとは思えないんです」
・16/03/16 「Elle avait une fenêtre parallèle à celle d'Andrée, 」。なぜか「窓は向かい合っていた」と訳していたので、「同じ側に面していた」と訂正。
・16/03/16 ラ・ブリが「dans les carrosses du roi 国王の馬車(の中)に」と呟いたのに対し、ボーシールが「Derrière (中ではなく)後ろだ」と返している。「ほら、後ろにさがって」→「中じゃなくて後ろだがね」に変更。
[註釈]
▼*1. [ビアス]。ギリシア七賢人の一人。占領された祖国から手ぶらで逃げ、「Omnia mecum porto mea. (すべてのものは自分とともに運んでいる)」=「わたしの財産は知恵である」と答えた。[↑]