廷臣たちの例に洩れず、リシュリュー氏もヴェルサイユとパリに屋敷を一邸ずつ、マルリーとリュシエンヌに家を一軒ずつ持っていた。早い話が住まいなるものは国王の住まいや保養先のそばにあるのだ。
ルイ十四世は住まいを増やすたびに、大入室や小入室の権利を与えられた貴族たちに大金持ちたれという責務を課していた。国王の暮らし向きやとんでもない気まぐれに過不足なくついて来られるようにだ。[*1]
要するにショワズールとプラランが罷免された折りにリシュリューが住んでいたのは、ヴェルサイユにある邸宅だった。前の日にリュシエンヌでデュバリー夫人に甥を引き合わせた帰り、馬車を向かわせたのもそこであった。
リシュリューはマルリーの森で伯爵夫人といるところを目撃されていたし、大臣罷免後にヴェルサイユで目撃されていたし、リュシエンヌで非公式な長い話し合いを持ったことも知れ渡っていた。それに加えてジャン・デュバリーの口の軽さを考えれば、リシュリュー氏に敬意を表しに行かねばならないと宮廷中の人間が考えてもおかしくなかった。
およそ利害関係者というものは、その日の主役に祭り上げられた人間に向かって数々の讃辞や追従や好意を燃え立たせるものだ。だから老リシュリュー元帥とて、自分の番が来ればそうした美辞麗句の香りを吸い込むつもりだった。
とは言えそんなことが起こるとは期待していなかったので、問題のその日の朝に目を覚ました時には、耳に蜜蝋を詰めてセイレーンの歌声を防いだオデュッセウスのように、鼻を塞いで香りを嗅ぐまいと固く決意していた。
翌日になれば結果はわかるはずだったし、確かに国王によって新大臣任命の勅令が公布されたのは翌日のことであった。
だから目を覚ましたリシュリュー元帥がどれほど驚いたかは想像に難くない。目が覚めたというよりは、馬車の轟音で目を覚まされたと言った方が相応しい。従僕によれば、控えの間や応接室どころか中庭にまで人が溢れていると云う。
「おやおや、どうやらわしは時の人のようだな」
「まだ早朝でございます、元帥閣下」従僕が声をかけた。リシュリュー公爵が急いで就寝帽を脱ごうとしたからだ。
「これからはわしに時間などなくなる。覚えておけ」
「かしこまりました」
「訪問客には何と答えておいた?」
「閣下はまだお寝みだと」
「それだけか?」
「それだけです」
「馬鹿者。昨夜は遅かったとつけ加えるべきだ。いや、それより……そうだ、ラフテは何処にいる?」
「ラフテ殿はお寝みです」
「寝ているだと? さっさと起こして来い!」
「どうかお待ちを」かくしゃくとした老人が笑顔で戸口に現れた。「ラフテが参りました。お呼びですか?」
その言葉を聞いてリシュリューの怒りがたちまちしぼんだ。
「お前が眠っていなかったのは、わしにもちゃんとわかっていたぞ」
「眠っていたとしても驚くことではないと存じますが? まだ陽が昇ったばかりでございます」
「ところがラフテよ、わしは眠っていないではないか」
「それはまた別でございます。御前様は大臣なのですから……どうして眠れるというのですか?」
「ほう、わしに意見をする気か」リシュリューは鏡の前で顔をしかめた。「嬉しくはないのか?」
「なぜ私が嬉しがると? 御前様が疲れを溜めてお臥せになっては、私が国を治めることになってしまいます。そんなのはちっとも面白くはございません」
「お前も年を取ったな、ラフテ」
「御前様より四つ若いに過ぎませんから。確かに年を取りました」
リシュリューは焦れるように足を踏み鳴らした。
「控えの間を通って来たな?」
「はい」
「誰がいた?」
「ありとあらゆる皆さまが」
「どんなことを話していた?」
「御前様にお願いしたいことを口々に話しておいででした」
「当然のことだな……そうではなく、わしが任命されたという話題は出ていなかったか?」
「会話の内容は出来れば申し上げたくありません」
「ふむ……早速悪口か?」
「それも御前様に頼み事がある方々の口からでございます。御前様の方から頼み事をしにあがった暁には、いったいどうなりますことやら」
「つまりそ奴らは――」リシュリューは口許だけ笑顔を作った。「お前の口が上手いと話すような連中だな……?」
「それにしても閣下。内閣という名の
「わしはあらゆるものを味わって来たが、内閣だけはまだなのだ」
「恐れ入りました、砒素も味わったことはございますまい。どうして試しにチョコレートと一緒に飲み干してご覧にならないのですか?」
「ラフテよ、お前は楽をしたいだけであろう。これから秘書として仕事が増えると思って、尻込みしておるのだ……そう打ち明けたも同然であるぞ」
リシュリューは念入りに服を着込んだ。
「軍服を出してくれ。それに軍事勲章を頼む」
「では陸軍大臣になるということでしょうか?」ラフテがたずねた。
「その通りだ、どうやら陸軍大臣らしい」
「そうでしたか。ですが国王の辞令をまだ目にしておりません。これは異例のことではございませんか」
「そのうち届くだろう」
「公式の発表は確か今日ではございませんでしたか」
「年を重ねるとともに嫌な奴になって来たな、ラフテ。形式主義者の厳格主義者め。そうとわかっておれば、アカデミーの入会演説など作らせなかったものを。あれですっかり小難しい人間になってしまいおった」
「そうは仰いますが閣下、政府の人間になったのですから規則通りに参りましょう……奇妙でございませんか」
「何のことだ?」
「何が奇妙なのだ?」
「ラ・ヴォードレー伯爵から往来で聞いたばかりの話ですが、内閣の顔ぶれはまだ発表されていないそうです」[*2]
リシュリューは微笑んだ。
「ラ・ヴォードレー殿の言う通りだ。それはそうと、つまりお前はもう外に出たのだな?」
「仕方ありません。四輪馬車の音があまりにうるさくて目が覚めてしまいましたから、服を着て軍事勲章を着けて、町を一回りして参りました」
「馬鹿にしておるのか、ラフテ?」
「閣下、違うのです! つまり……」
「つまり……何だ?」
「そのまま歩いていると、また人に出会ったのです」
「誰だろう?」
「アベ・テレーの秘書でございます」
「ほう?」
「それが、陸軍大臣には自分の主人が任命されたと申しておりました」
「ふん、そうか!」リシュリューは微笑みを絶やずにいた。
「どうお考えになりますか?」
「テレー殿が陸軍大臣だとすると、わしはそうではない。テレー殿でなければ、わしが大臣だ、ということだろう」
ラフテはこれまで自分の感覚を大事にして生きて来た。大胆にして不屈な野心家であり、聡明なること主人に等しく、周到なること主人を凌ぐ人物であった。というのも自分が平民であり雇い人であることを自覚していたので、鎧に空いたその二つの穴を発奮材料にして四十年にわたって奸智も気力も才気も鍛え上げて来たのだ。主人が自信たっぷりなのを見て、もう恐れるものはないと信じた。
「そういうことでしたら閣下、お急ぎ下さい。あまり待たせてはなりません。そういうことがつまずきになるのございます」
「準備は出来ておる。だがその前に改めて聞こう、誰がいる?」
「名簿をご覧下さい」
ラフテは長い名簿を手渡した。リシュリューはそこに第一級の貴族、法律家、財政家の名前があるのを見て、北叟笑んだ。
「これからは引っ張りだこかな? どう思う、ラフテ?」」
「今は奇跡の時代でございますから」
「おや、タヴェルネがいる!」名簿を読み進めていたリシュリューが声をあげた。「ここに何をしに来たのであろう?」
「とんとわかりかねます。それよりどうか顔をお出し下さい」
そう言ってラフテは有無を言わせぬ様子でリシュリューに大応接室に入るよう促した。
リシュリューはさぞや満足だったに違いない。王位継承権者の抱く野心も霞むほどの歓待を受けたのだから。
だがこの時代のこの社会階級では偶然というものは当てにされず、極めて複雑で精妙で狡猾な礼儀作法が蔓延していたため、リシュリューは厄介な霧の中に放り込まれることとなった。
そうした礼儀作法に照らして行儀を尊重した結果として、リシュリューの前で内閣という言葉を口にしようとする者は一人もいなかった。多少なりとも大胆な者たちは祝福の言葉くらいまでなら口にしたものの、それでもさらりと流すに留めなければならないことは承知していたし、リシュリューからも返事らしい返事のないことは承知していた。
誰にとってみても今回の早朝の見舞いは、譬えるならばお祝いの挨拶のようなただのお目通りに過ぎなかった。
言葉では表現し難いこうした匙加減の機微が大衆にまで広がっているのが当時としては当たり前のことであった。
何人かの廷臣たちは、ここぞとばかりに会話を通して願望や欲望や希望を明らかにした。
そのうちの一人は、自分の領地がもっとヴェルサイユに近ければ良いのだが……と申し入れ、リシュリューほど信頼のおける人物とその点について話が出来たことを喜んでいた。
また別の人物が主張するには、ショワズールに騎士団の昇任を三度も飛ばされたという話であった。国王の善意を邪魔立てする存在がいなくなったからには、国王の覚えを新たにしたい、ついてはそのためにリシュリューの覚えを温かく受け取りたいと期待していた。
要するに、貪婪に欲しているにもかかわらず巧みに隠された百も二百もの頼み事が、リシュリューの耳に心地よく飛び込んでいたのである。
徐々に人の群れが遠ざかった。いわばリシュリュー元帥に「重要な仕事」を委ねるつもりだったのだろう。
一人だけ応接室に残っている人物がいた。
他人に近寄りもせず、頼み事も一切せず、名乗りさえしなかった。
人垣が晴れると、その人物が口許に笑みを浮かべてリシュリューに近づいた。
「おお、タヴェルネ殿。息災、息災!」
「お祝いを申したくて待っておりました。正真正銘、心からのお祝いです」
「そうでしたか! して、いったい何のお祝いですかな?」訪問者たちが表立った口の利き方をしないものだから、リシュリュー自身も単刀直入にではなく謎めかさなくてはならなくなっていた。
「何をまた。このたびのご栄達のお祝いに決まっておりましょう」
「どうかお静かに。その話はよしましょう……まだ決まったわけではなく、噂に過ぎません」
「どうですかな。みんなわしの意見に賛成すると思いますぞ。応接室は何処も人で埋まっていたではないですか」
「それが本当に理由がわからぬのです」
「わしは知っておりますぞ」
「ではその理由とは?」
「わしの一言です」
「というと?」
「昨日トリアノンで陛下に拝謁する名誉をいただいた折り、子供たちに対してお言葉を頂戴した後で、こんな一言を賜ったのです。『そなたはリシュリュー殿の知己であったな。祝いの言葉を贈ってやるがよい』」
「陛下がそう仰ったのですな?」リシュリューは有頂天になった。正式な任命状がなかなか届かないのをさっきまでラフテが嘆き、発送されたのかどうかも疑っていたが、リシュリューは今の言葉だけで任命状を受け取ったような気持になっていた。[*3]
「そんなわけで、真実を見抜いたというわけです」タヴェルネが話を続けた。「ヴェルサイユ中が忙しくしているのを見れば、難しいことではありませんからな。そこで陛下のお言葉に従って祝いの言葉を申し上げに、そしてまたわし自身の気持に従ってかつての友情を求めに駆けつけた次第なのです」
リシュリュー公爵はすっかりその気になっていた。人間に生来備わっている欠点からは、如何に優れた者であろうと逃れることは出来ない。リシュリューにはタヴェルネのことが末席に並んだ請願者にしか見えなかった。コネ作りの船に乗り遅れた負け犬であり、庇護する価値さえなく、ましてや交誼を結ぶ価値などない、二十年も経ってから闇から這い出して成功者の太陽で暖を取りに来たと非難されるような人物にしか見えなかったのである。
「その先は聞かずともわかります」リシュリューはにべもなく答えた。「頼み事があるというわけですな」
「その通りだ」
「やはりか」リシュリューが長椅子に坐り込んだ、というよりは沈み込んだ。
「先ほど言うたように、子供が二人おってな――」タヴェルネは融通無碍なうえに抜け目がなかった。旧友が冷淡なことに気づいて、さらに突っ込んでゆく道を選んだ。「とても可愛がっている娘がおるのだが、これが身も心もお手本のように美しい。今は王太子妃殿下の許に仕えております。畏れ多くも妃殿下からお目をかけていただいたのだ。だからアンドレのことなら構わんのです。道は開け、未来も安泰だ。娘と会ったことは? 何処かで紹介したことがありませんでしたかな? 噂を聞いたことも?」
「うん……知らぬ」リシュリューは素っ気なかった。「多分な」
「まあよい。要するに娘はお仕え出来たということだ。わしも暮らしていけるだけの年金を国王から賜ったからな、何も要らん。実のところメゾン=ルージュを再建するための心づけにもちゃんと当てはある。其処で思う存分に隠遁生活を楽しみたいのだ。貴殿と娘の信用度があれば……」
――何だと? リシュリューが独り言ちた。自分のことを考えるのに夢中でそれまでろくすっぽ話など聞いていなかったのだが、タヴェルネ男爵の「娘の信用度」という言葉で我に返った。――お前の娘?……伯爵夫人が嫉妬するような美しい娘ではないか。さながら王太子妃が懐中で温めていた蠍、リュシエンヌ側の人間を刺すつもりか……まあよい、喧嘩はせんでおこう。それに伯爵夫人はわしを大臣にしてくれたのだ、感謝の印を頂戴したい時には向こうから確かめに来てくれるだろう。[*4]
それから声に出して「続きを頼む」と、ぞんざいにタヴェルネ男爵を促した。
「なんの、もうすぐ終わる」タヴェルネ男爵は虚栄心の強いリシュリューを内心では笑ってやろうと考えていた。望みのものが手に入るまでの我慢だ。「そういうわけで、心配なのは伜のフィリップのことだけだ。立派な称号は持っとるのに、それを磨く機会がとんとない。誰かの手が必要なのだ。フィリップは勇敢だし思慮深い。思慮深すぎるきらいはあるが、それも苦しい立場の為せる業。手綱を締め過ぎれば馬は下を向いてしまうものだ」
――知ったことか。リシュリューは目に見えてうんざりした様子になった。
「そうなるとなくてはならないのが――」タヴェルネ男爵は頓着せずに話を続けた。「おぬしのような有力者なのだ。フィリップに中隊を持たせてやるにはおぬしの力が要る……王太子妃殿下からストラスブール入国を記念して中隊長(capitaine)の地位を拝領したのは事実。事実ではあるが、特権階級から成る騎兵聯隊の下で立派な中隊を持とうと思えば、ほかに十万リーヴル必要だ……どうにか都合をつけてもらえまいか」
「ご子息というのは、王太子妃殿下のためにお手柄を立てたとかいう若者でしたか?」
「立てたも立てた、妃殿下の替え馬を取り返したのだ。あのデュバリーに力ずくで奪われるところだったのだぞ」
――これは参った! リシュリューが独り言ちた。――間違いようもない……此奴こそまさに、反=伯爵夫人の急先鋒……タヴェルネめ、とんでもない時に来おったわ。肩書きというなら階位の代わりに公的追放の肩書きでもつかむがいい……。
「お返事はいただけないのですか?」沈黙を守り続けているリシュリューに、タヴェルネ男爵が苛立ちを見せた。[*5]
「まったくもって無理な相談ですな、タヴェルネ殿」リシュリューは立ち上がり、会話の終わりを告げた。
「無理ですと? そんな殺生な、それが古くからの友人の言うことですか?」
「いけませんか?……不当や不正を働かせたりみだりに友情を持ち出したりしようとするのも、仰るように友人同士だから問題ないと? わしが無役の間は二十年も会いに来なかった癖に、大臣になった途端に顔を見せておいて」
「リシュリュー殿、不当なのはあなたの方だ」
「済まないが、控えの間に引きずり出したくはないのです。確かにわしらは友人だ、それは間違いない。だから……」
「せめて理由を。断る理由があるのでは?」
「理由?」リシュリューが声をあげた。もしやタヴェルネ男爵に感づかれたのかと肝を冷やしたのだ「理由ですと?」
「さよう、わしに敵が多いせいでは……」
リシュリューとて胸の内を口に出すことは出来た。だがそれはつまり、デュ・バリー夫人に謝意を感じて気を遣っていると男爵にばらすようなものだったし、夫人のおかげで大臣になったと打ち明けるようなものだった。そしてそれこそリシュリューが絶対に打ち明けたくないことだった。そこで慌てて言い繕った。
「敵がおるのは貴殿ではなく、わしの方です。資格について精査もせず言われるがままにそんな特別扱いをしようものなら、ショワズール二世と囃し立てられても文句も言えません。人のたどった道ではなく、自分なりの足跡を仕事に刻みたいのです。二十年にわたって温めて来た改革と発展のための腹案が、いよいよ孵化するのですよ! 贔屓という腐敗の根をフランスから断ち、才能を取り立てようと考えているのです。哲学者の著作こそ未来を照らす松明であり、その光を見逃したりするつもりはありません。過去という闇が一掃されて、国家の幸せのためには良い機会でした……ですからご子息にその資格があるかどうか、一般市民の場合と同じように吟味させてもらいたい。わしは信念に殉じよう。ひどい出血も伴うだろうが、三十万人のためを思えばたった一人の苦しみでしかない……ご子息のフィリップ・ド・タヴェルネ殿が引き立てるに相応しい御仁なら、いくらでも引き立てよう。父親がわしの友人だからでも家名のおかげでもなく、本人に才能があるかどうか。わしはこんな風に仕事をするつもりです」
「さしずめ哲学講義といったところですな」タヴェルネ男爵は無念のあまり爪を咬んだ。重要な話し合いで顔色を窺いながら
「哲学、結構。よい言葉です」
「哲学とは人を幸せにするものではなかったのですか?」
「頭の下げ方が下手くそですな」リシュリューは冷ややかな笑みを浮かべた。
「わしのような身分の人間は国王以外に頭を下げたりはしませんぞ!」
「あなたのような身分の人間でしたら、秘書のラフテが控えの間で毎日腐るほど相手にしております。聞いたこともない田舎の穴蔵から出て来て、
「メゾン=ルージュ家は十字軍以来の貴族階級ですからな、ヴァイオリン弾きのヴィニュロー家が
頭の回転ならリシュリューの方が上だった。
窓越しに男爵を放り出すことも出来たが、肩をすくめて言い返すに留めた。
「随分と時代遅れなのは、なるほど十字軍の方だからでしたか。ご存じなのは一七二〇年に高等法院が作った中傷文書までで、それに対する公爵と重職貴族の反論文書は読んだことがないのですな。図書館に行けばラフテが読ませてくれますぞ」[*7]
リシュリューがしてやったりとしていたところに、扉を開けて誰かが騒々しく入って来た。
「公爵閣下はおいでですか?」
見れば顔を紅潮させ、満足そうに目を開き、友好的に揉み手をしているこの男は、ほかでもないジャン・デュバリーだった。[*8]
タヴェルネ男爵はこの訪問者を見て驚きと後悔を露わにして後じさった。
ジャンはその動きを捉え、顔を見て誰なのかに気づいて背中を向けた。
「わかっておるつもりです」男爵は努めて落ち着いていた。「わしは失礼いたしましょう。大臣閣下のことは完全無欠なご友人にお任せいたします」
そう言って飽くまでも堂々と立ち去った。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre LXXXIX「Les antichambres de M. le duc de Richelieu」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年9月25日(連載第89回)。
Ver.1 11/02/26
Ver.2 19/04/30
[更新履歴・註釈など]
・19/03/30 ▼「というわけでリシュリュー氏は、ド・ショワズール氏とド・プララン氏が失職した時、ヴェルサイユの邸に滞在していた。デュ・バリー夫人に甥を引き合わせてリュシエンヌから戻った際、夜を過ごしたのもそこであった。」。「habiter」は「住む」であって「滞在する」ではないし、「il s'était fait conduire la veille」も「前日に(馬車を)運転させた」のであって「徹夜をした」ではないので、→ 「要するにショワズールとプラランが罷免された折りにリシュリューが住んでいたのは、ヴェルサイユにある邸宅だった。前の日にリュシエンヌでデュバリー夫人に甥を引き合わせた帰り、馬車を向かわせたのもそこであった。」に訂正。
・19/03/30 ▼「Le résultat pour lui devait arriver le lendemain seulement」どこにも「待ちかねている」という要素はないので、「待ちかねている結果は」→「結果は」に訂正。
・19/03/30 ▼ただの疑問文を、「幸せであることにも生きることにも飽きていらっしゃるものと思っておりましたが?」 → 「幸せであることにも生きることにも飽きておしまいになったのですか?」に訂正。
・19/03/30 ▼「ラフテ、この怠け者めが。わしの秘書として、仕事が増えると覚悟しておくのだぞ。尻込みしているな……確かにお前はそう言った」。「– Rafté, tu n'es qu'un paresseux ; tu devines que toi, mon secrétaire, tu vas avoir beaucoup de besogne, et tu recules… tu l'as dit, d'ailleurs. 」。セミコロンの前後の訳文に繋がりがなく、devines, et recules も対にして訳していなかったので、→ 「ラフテよ、お前は楽をしたいだけであろう。これから秘書として仕事が増えると思って、尻込みしておるのだ……そう打ち明けたも同然であるぞ」に訂正。
・19/03/30 ▼「une tournure militaire」は「軍人風の外観」ですが、単純に「軍服」にしました。
・19/04/30 ▼「et bien plus armé que lui,」が「主人にも増して守りが堅かった」では意味が通じないので、→「周到なること主人を凌ぐ人物であった」に変更。
・19/04/30 ▼「la robe」はここでは「僧服」ではなく「法服」つまり「法律家」のことであろう。
・19/04/30 ▼「un prince du sang」とは辞書を引けば「血統親王」と書かれてあるが、野心という単語と併せて鑑みるに文脈上重要なのは「王位継承権を有する」ということなので、「元帥が受けた歓迎は、野心を持った親王をも満足させるほどのものだった」 → 「王位継承権者の抱く野心も霞むほどの歓待を受けたのだから」に訂正。
・19/04/30 ▼「だがこの時代と社会に特有の極めて複雑で隙のない巧妙な作法の前では、生憎と偶然は当てに出来ない。リシュリューは濃い煙に巻かれるばかりであった。」では直訳過ぎるので、→ 「だがこの時代のこの社会階級では偶然というものは当てにされず、極めて複雑で精妙で狡猾な礼儀作法が蔓延していたため、リシュリューは厄介な霧の中に放り込まれることとなった。」に訂正。
・19/04/30 ▼前後の文章の意味するところは、当時の人々は偶然には頼らずさりとて直接的な懇願もせず、仄めかしや根回しなどで交渉するということなので、「作法と敬意に則り、礼儀として、リシュリューの前では内閣という言葉を口にする者はいなかった。大胆な者たちもお世辞の言葉を口にするところでやめてしまい、それも口の端に滑らせるだけなので、リシュリューはほとんど返事もすることが出来なかった。」 → 「そうした礼儀作法に照らして行儀を尊重した結果として、リシュリューの前で内閣という言葉を口にしようとする者は一人もいなかった。多少なりとも大胆な者たちは祝福の言葉くらいまでなら口にしたものの、それでもさらりと流すに留めなければならないことは承知していたし、リシュリューからも返事らしい返事のないことは承知していた。」に訂正。
・19/04/30 ▼「Il y eut quelques courtisans qui se hasardèrent, dans la conversation, à exprimer un vœu, un désir, une espérance.」。ここでは「quelques」を訳に反映させた方がよいだろう。「廷臣たちは会話の端々で願いや希望や約束などを表現しようと努めていた」 → 「何人かの廷臣たちは、ここぞとばかりに会話を通して願望や欲望や希望を明らかにした」
・19/04/30 ▼「L'un aurait souhaité, disait-il, voir son gouvernement plus rapproché de Versailles.」。間接話法と抽出話法がくっついているような不思議な話法です。「L'un」とは前の文にあった「quelques courtisans のうちの一人」ということでしょう。次の文章が「Un autre」と不定冠詞なのは、「対となっている他方の」ではなく「また別の」だからでしょう。間接話法に一本化するなら「- J'aurais souhaité, disait l'un, voir mon gouvernement plus rapproché de Versailles.」でしょうか。以前の訳では文法が読み解けず、「ヴェルサイユにもっと近づきたいと願っている人がいたとする。リシュリュー氏のような評判の高い人物とその話をすることで喜びを得る。」と、なぜか仮定にして誤魔化していますね。→ 「そのうちの一人は、自分の領地がもっとヴェルサイユに近ければ良いのだが……と申し入れ、リシュリューほど信頼のおける人物とその点について話が出来たことを喜んでいた。」に訂正。
・19/04/30 ▼次の文章も「ショワズール氏が昇進させてくれるのを三度も忘れたと言い張る人がいたとする。リシュリュー氏の記憶に頼り、国王の記憶を醒ましてもらうことで、もはや国王の善意を邪魔するものは何もなくなる。」と仮定形にしたために支離滅裂ですね。「国王の善意を邪魔立てする存在」=「ショワズール」です。→ 「また別の人物が主張するには、ショワズールに騎士団の昇任を三度も飛ばされたという話であった。国王の善意を邪魔立てする存在がいなくなったからには、国王の覚えを新たにしたい、ついてはそのためにリシュリューの覚えを温かく受け取りたいと期待していた。」に訂正。
・19/04/30 ▼「タヴェルネの控えめな態度を見て、」。原文は「que la réserve de ses visiteurs」。複数形なのでタヴェルネ男爵のことではない。→ 「訪問者たちが表立った口の利き方をしないものだから、」に訂正。
・19/04/30 ▼「répliqua celui-ci, très décidé à rire intérieurement du vaniteux maréchal, 」。「rire de ~」で「〜を嘲笑う」なので、「元帥が嘲笑う」のではなく「元帥を嘲笑う」のです。「元帥から内心で笑われてもよしとしていた。」 → 「虚栄心の強いリシュリューを内心では笑ってやろうと考えていた。」に訂正。
・19/04/30 ▼「c'est cela justement… tout ce qu'il y a de plus féroce en ennemis de la comtesse… il tombe bien, ce Taverney ! Il prend pour titres de grade des titres d'exclusion formelle…」。「tout ce qu'il y a de plus ~」が「とびきりの〜」であり、「tombe bien」が反語的な用法だと気づかずにいたため、「(そうか!)リシュリューが独り言ちた。(好都合ではないか……伯爵夫人の敵にはもっと手強い者たちがいることを考えれば……このタヴェルネこそぴったりだ! この男なら軍隊の肩書きのために、はっきりとした除け者の肩書きをつかんでくれるだろう……)」と、まるでタヴェルネ男爵がリシュリューの味方であるかのように訳していたが、ここはフィリップ・ド・タヴェルネがジャン・デュバリーと決闘したことを知り、デュバリー派であるリシュリューとしてはタヴェルネ男爵に協力するわけにはいかないと気づいた場面なので、→ 「――これは参った! リシュリューが独り言ちた。――間違いようもない……此奴こそまさに、反=伯爵夫人の急先鋒……タヴェルネめ、とんでもない時に来おったわ。肩書きというなら階位の代わりに公的追放の肩書きでもつかむがいい……。」に訂正。
・19/04/30 ▼「pour un empire」で「何があろうと(〜嫌だ)」の意であることを知らず、「打ち明けたりすれば権威が失われてしまう」と誤魔化していたので、→ 「絶対に打ち明けたくないことだった」に訂正。
・19/04/30 ▼「on dise que je continue Choiseul.」を、「ショワズールを後追いしていると人から言われる」から、思い切って「ショワズール二世と囃し立てられても」と意訳してみる。「le premier venu」で「一般人」なので、「du premier citoyen venu」で「一般市民」となる。「初めて市民の肩書きが生まれた時」 → 「一般市民の場合」に訂正。
・19/04/30 ▼ただの「〜ということ」の「que ~」を「ne ~ que ...」のように訳し間違えていたので、「わしはメゾン=ルージュのことしか知りませんからな。十字軍以来の貴族です。調子の合わせ方ならヴィニュローのヴァイオリン弾きの方が知っておりましょう!」 → 「メゾン=ルージュ家は十字軍以来の貴族階級ですからな、ヴァイオリン弾きのヴィニュロー家が合わせた音など聞こえませんな」に訂正。
・19/04/30 ▼「A l'aspect du nouveau venu, 」を「新たな局面が訪れたのを見て」 → 「この訪問者を見て」に訂正した。
・註釈
▼*1. [大入室や小入室の権利]。
大入室(grandes entrées)とは、小起床の儀(petit lever)に入室を許された王族や医師長などの権利。小入室(petites entrées)とは、大起床の儀(grand lever)に入室を許された一般の廷臣の権利。[↑]
▼*2. [ラ・ヴォードレー伯爵]。
M. le comte de la Vaudraye 不詳。別綴があるものか、デュマ(マケ)が参照した資料にのみある名前か。傅育官 duc de la Vauguyon と宮内大臣 duc de la Vrillière なら既に登場している。[↑]
▼*3. [そう仰ったのですな?]。
原文ではタヴェルネが昔のよしみで「tu」と親しい口を利いているのに対し、リシュリューは「vous」とかしこまって距離を置こうとしている。[↑]
▼*4. [お前の娘?]。
リシュリューは表向きは「vous」と丁寧に話しかけているが、心のなかでは「ta fille」と本音が出ている。[↑]
▼*5. [お返事はいただけないのですか?]。
ここで初めてタヴェルネがリシュリューに「tu」ではなく「vous」と話しかけている。焦れて不安になっている証拠であろう。[↑]
▼*6. [ヴァイオリン弾きのヴィニュロー家]。
リシュリュー枢機卿の妹フランソワーズとその夫ルネ・ド・ヴィニュロー(René de Vignerot, marquis de Pont-Courlay,?-1625)の曾孫が、リシュリュー公爵(Louis-François-Armand de Vignerot du Plessis, duc de Richelieu)である。ルネ・ド・ヴィニュローの祖先はヴァイオリン弾きであったと伝えられている。[↑]
▼*7. [一七二〇年に]。
不詳。実際に中傷されたことはあったようである。1720年というのがアカデミー・フランセーズ入会の年であることを考えると、出自を理由に拒否しようという動きがあったか? [↑]
▼*8. [友好的に揉み手をしている]。
原文は「Cet homme enluminé, aux yeux dilatés de satisfaction, aux bras arrondis par la bienveillance, était Jean Dubarry, ni plus ni moins.」。「bras arrondis」とは「丸みを帯びた腕」と「腕を丸い形にして」の二つの意味がある。第74章ではアンドレが髪を留めるために腕を掲げている様子が「bras arrondis」と表現されている。その前の「満足で見開かれた目」というのもピンと来ないが、「好意によって丸く曲げられた腕」というのも具体的に腕をどの位置でどのような形にしているのかわかりづらい。「ハグしようと両腕を前に差し出している」「揉み手をしている」「頭上で拍手している」など考えた結果、「揉み手」を採用した。[↑]
▼*9. []。
[↑]
▼*10. []。
[↑]