この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
著者略年譜・作品リスト

第九十三章 リシュリュー氏がニコルを見初める

 リシュリュー氏はコック=エロン街にあるタヴェルネ氏の小さな住まいに真っ直ぐ向かっていた。

 ありがたいことに「びっこの悪魔」を頼みに出来るという特権のおかげで締め切った家の中に入るのは容易いので、リシュリューが到着せぬうちから室内の様子は見て取れる。タヴェルネ男爵は暖炉の前で大きな薪乗せ台に足を乗せ、暖炉の床では炭の欠片が一つ消えかけていた。男爵がニコルを叱りながら時折り顎を撫でるものだから、ニコルは嫌悪を見せて反抗的に口を尖らせている。[*1]

 叱られさえしなければおとなしく撫でられていたものかどうか、それとも撫でられさえしなければ叱られるのも上等だと考えていたものかどうか、明言するのは避けておこう。

 二人の話は要点に進んでいた。つまりニコルが夜の決まった時間帯には呼び鈴に一切答えず、庭や温室で何やらしてばかりで、それ以外の場所で仕事がおろそかになっているという点だ。

 それに対してニコルはありったけの媚びとしなを作って身体をくねらせながら答えた。

「しょうがないじゃないですか……ここは退屈なんですもん。お嬢様と一緒にトリアノンに行けるって約束して下さったのに!」

 タヴェルネ男爵がニコルの気を逸らすために頬や顎を優しく撫でねばなるまいと考えていたのは、実にこのことが理由であった。

 ニコルの方は話を逸らさず撫でる手を押しのけ、不遇を嘆き出した。

「違いますか? 薄汚いところに閉じ込められて、誰ともおつきあい出来ないし、外の空気も吸えやしない。あたしにだって楽しいこととか将来のこととかの見通しはあったのに」

「いったいどんな?」

「トリアノンですよ! トリアノンに行けば、大きくてきらびやかな世界を見たり、誰かと見つめ合ったり出来たのに」

「いやはや、ニコルよ」

「あたしだって女ですからね。負けてるとは思ってませんし」

 ――ご大層な口を利きおって!と男爵は口の中で呟いた。――これぞ生きる力、これぞ行動力。わしも若くて財産があればのう。

 男爵はニコルから溢れ出る若さと生気と美しさに、感嘆と嫉妬の目を注いで離すことが出来ずにいた。

 ニコルは心ここにあらずといった態で、時折り苛立ちを露わにしていた。

「では旦那さまもお寝みなさいまし。あたしも寝室に退って構いませんか」

「まだ終わっとらん」

 不意に門の呼び鈴が鳴り、タヴェルネ男爵とニコルを飛び上がらせた。

「いったい誰だ、夜の十一時半にもなって。見て来なさい、ニコル」

 ニコルは門を開けに行き、訪問者の名をたずねてからそのまま門を少しだけ開けておいた。

 その門の隙間を通って一つの人影が中庭から外に擦り抜けたが、音もなく――とまではいかず、リシュリュー元帥は(つまり訪問者は)振り返ってその人影を認めていた。

 ニコルが蝋燭を手に晴れやかな顔でリシュリューを案内した。

 ――こいつは拾いものだ、とリシュリューは笑みを洩らしながら応接室について行った。――タヴェルネの奴め、娘御のことしか話さなかったではないか。

 リシュリュー公爵のような人物であれば、ものをしかと見るのには一度だけで充分であった。

 門から抜け出した人影を見てニコルを思い浮かべ――ニコルを見て人影を思い浮かべた。その美しい顔立ちを見ただけで人影が何をしに来たのか見抜いたし、お茶目な瞳と白い歯と細い腰を目にした瞬間に気立ても好みも教わるまでもなく看破してしまったのである。

 ニコルは胸を高鳴らせながら応接室の前で取り次いだ。

「リシュリュー公爵閣下です」

 この名前によってその晩の状況はがらりと変わることになる。タヴェルネ男爵はといえば、椅子から立って戸口に向かいながらも、自分の耳を信じられずにいた。

 だが戸口にたどり着くまでもなく、廊下の薄暗がりに立つリシュリュー氏が見えた。

「公爵……」言葉が出て来なかった。

「もちろん公爵本人だとも……」リシュリューはこれ以上はないほど愛想の良い声を出した。「驚いておるようだな、この間うちに来た時あんなことがあったのだから無理もない。だが掛け値なしの本物だぞ。さあ、握手してくれ」[*2]

「願ってもない」

「鈍ったものよなあ」老リシュリューは杖と帽子をニコルに預けて、ゆったりと椅子に腰掛けた。「殻に閉じこもって、耄碌しおって……友達がどんな人間かも忘れてしまったようだな」[*3]

「そうは言うても――」タヴェルネ男爵は狼狽して答えた。「この間の仕打ちには誤解のしようもありゃせんかったぞ」

「まあ待て。この間のやり取りは生徒と教師のようなものだったのでな、お仕置きに尻を叩くだけで終わってしまっていた。おぬしは話をしたいのだろうが、そんな手間をかけさせるつもりはないぞ。おぬしと来たら馬鹿な口を利きかねんだろうし、そうなったらわしも馬鹿なことを言い返しかねんからな。この間から今日までのことは忘れてしまおう。わしが何をしに今晩ここに来たのかわかるか?」

「わかるわけがなかろう」

「中隊を届けに来てやったのだ。一昨日おぬしが頼みに来た、息子さんが国王から賜った中隊のことだ――この違いがわからんか。一昨日のわしは大臣同然。それが国王に頼み事など職権濫用も甚だしい。今日のわしは大臣職を蹴ってただのリシュリューに戻った人間。頼み事をせん方が馬鹿げてるとは思わんかね。だからわしは頼んで手に入れ、届けに来たというわけだ」

「嘘じゃあるまいな。すると……これは完全な好意から?」

「友人として当然の務めに過ぎぬ……大臣としては拒まざるを得んかったが、リシュリューとして願いを訴え、届けに来たのだ」

「嬉しいことを言うてくれるが、では心からの友だと思ってよいのだな?」

「何を今さら!」

「それにしても国王が、こんなご厚意を示して下さるとは……」

「国王は自分のしたことすらわかっとらんとは思うが、或いはわしが間違っておって、何もかもわかってらっしゃるのかもしれぬ」

「どういうことじゃな?」

「陛下には或る事情があって、今現在デュバリー夫人の機嫌を損ねてらしてな。つまりおぬしが厚意を受けられたのは、わしの力というよりもその事情の方が大きいということだ」

「そう思うとるのか?」

「確信しておるよ、わしも一役買っておるからな。大臣の椅子を蹴ったのはあの女のことがあるからだというのは承知か?」[*4]

「噂では。じゃが……」

「だが信じてはいなかったというわけか。よいよい、遠慮せず言ってしまえ」

「もとより遠慮なく言うつもり……」

「わしなら気が咎めたりもせんと言いたいのだろう?」

「偏見に踊らされるようなことはあるまいとだけは言っておこうかの」

「わしも年を取ったからな、損得以外でご婦人に色目を使うこともなくなった……そのうえほかにも考えていることがあってな……息子さんの話に戻ろう。良い青年ではないか」

「それがデュバリーの坊主と一悶着あったのよ。ほれ、わしが間の悪くお邪魔した時にった坊主じゃよ」[*5]

「わかっておる。そういう事情があればこそ、わしは今こうして大臣ではないのだ」[*6]

「おいおい!」

「本当のことさ」

「大臣の椅子を蹴ったのは伜に肩入れしたからちゅうことか?」

「そう言ったとしてもどうせ信じぬ癖に。事実は異なるがね。大臣の椅子を蹴った理由はな、息子さんを追放すべしと言い始めたのを皮切りに、デュバリーどもがありとあらゆるわがままを言いたい放題したに違いないからだ」

「では其奴らとは反目しとるのじゃな?」

「そうでもあり、そうでもない。向こうはわしの存在を不安視しとるが、わしは歯牙にもかけとらんからな、やられたらやり返すだけのこと」

「勇敢というより無謀じゃな」

「何故だ?」

「伯爵夫人には影響力がある」

「ほう!」リシュリューが吹き出した。

「何じゃその反応は?」

「立場が弱いのは百も承知、わしとしては必要とあらば工兵を適地に就かせて足場もろとも吹き飛ばしても構わんということさ」

「それで読めた。伜に親切にしてくれるのは、デュバリー一族を少し困らせるためじゃな」

「少しどころかたっぷりとな。お察しの通りだ。息子さんには榴弾となってもらい、焼き払おうと……それはそうと娘さんもいたはずだな?」

「如何にも」

「若かったな?」

「十六になる」

「別嬪だな?」

「女神のようにの」

「そしてトリアノンに住み込みだ」

「では娘を知っとるのか?」

「夕食の席で一緒になってな、しかも国王と一時間あの子の話をして来たぞ」

「国王と?」タヴェルネ男爵の頬が昂奮で染まった。

「国王ご本人とだ」

「国王が娘のことを、アンドレ・ド・タヴェルネのことを話題になさったと?」

「さよう、食い入るような目でお話しなさってたぞ」

「信じられん」

「この話を続けても構わぬかな?」

「話を?……もちろんじゃ……国王がわしの娘に目を留めて下さったとは……だが……」

「だが、何だ?」

「つまり国王は……」

「多情な方だと言いたいのか?」

「陛下の陰口とは畏れ多いことを。幾つ情をお重ねになるかはお心次第でよいではないか」

「では何を狼狽えておる? アンドレ嬢の美しさは完璧とはいかぬので国王から色目を使われてはおらぬということにでもするつもりか?」

 タヴェルネ男爵が何も答えずに肩をすくめて物思いに沈んだので、リシュリューは穿鑿するような目を遠慮なく注いだ。

「馬鹿馬鹿しい。胸に仕舞わず声に出していたなら何と言うつもりだったのかくらいはお見通しだぞ」リシュリュー元帥は椅子を男爵のそばまで動かした。「国王が悪い水に染まっていると……ポルシュロン(Porcherons)のような地域でいかがわしい連中と付き合っていると言いたいのであろう。そんな状態であっては、淑やかな所作と清らかな愛情を持つこの素晴らしい娘にも目を向けようとはしないだろうし、ありとあらゆる美しさと魅力の宝庫にも気づかないだろうと……夢中になるのは淫らなことやふしだらな目配せ、お針子のことばかりだと言いたいのだろう?」[*7]

「やはりたいしたもんだのう」

「というと?」

「見事に見通されてしまったわい」タヴェルネ男爵が答えた。

「正直に行こう、男爵」リシュリューは続けた。「頃合いだとは思わぬか。わしらの主人とて、わしら貴族、わしらフランス王の盟友である重職貴族に対して、ああいった遊び女が卑しく広げた手に口づけさせることはもう出来まい。わしらに相応しい状態に戻すべき時ではないか。シャトールーは侯爵夫人だったがそもそも女公爵になるべき素材だった。それが徴税人の娘であり妻であるポンパドゥールにまで格を落としたかと思うと、今度はポンパドゥールからデュバリーだ。人呼んで、文字通りのジャンヌトンふしだら娘よ。その後はどうなる? デュバリーからさらにどこぞの台所女中のマリトルネス醜女やらどこぞの里のゴトン田舎娘にまで格を落とされてはかなわん。兜に貴族冠を戴いておるわしらがそんな小娘どもに頭を下げるのは屈辱以外の何ものでもないぞ」[*8][*9]

「確かに当を得ておるな」タヴェルネ男爵が呻いた。「明らかにそういう最近の風潮のせいで宮廷はスカスカになってしまっとる」

「今では王妃もおらぬから侍女もおらぬ。侍女もおらぬから取り巻きもおらなんだ。国王がお針子を囲うものだから、庶民が玉座に就いておる。パリの肌着屋ジャンヌ・ヴォベルニエを見ての通りだ」

「それはそうだがしかし……」

「焦れったいぞ」リシュリュー元帥が遮った。「今のフランスには人の上に立とうという才女にとって恰好の役回りがあるというのに……」

「否定はせん」タヴェルネ男爵の心臓がどくんと鳴った。「だが生憎とその地位はふさがっとる」

「恰好の役回りがあるのだよ。ああいう娼婦どもの持つ欠点はないが、肝っ玉と頭の回転と視野の広さは持っているようなご婦人にとって。たとい君主制がなくなっても話題に上るほどの高みを目指しているようなご婦人にとって。娘さんは才知に優れているかね、男爵?」

「才知に溢れとるよ。とりわけ良識に優れておる」

「えらい別嬪ではないか」

「そうであろう?」

「あの色っぽく魅力的な体つきの美しさには男どもが夢中になるし、あの清らかで穢れなき純真な美しさには女たちでさえ敬意を抱くであろう……ああした宝は大事にせねばならんぞ」

「たいした熱の入れようじゃな……」

「熱どころか実は惚れ込んでおって、六十四という歳も忘れて明日にも結婚したいくらいだ。それはそうと向こうではちゃんとした暮らしをしているのか? 少なくともあれほどの美しい花に相応しいだけの環境は整えているのだろうな?……今夜、娘さんは一人きりで部屋に退がっておったのだぞ。侍女も伴の者もなく、角灯を持った王太子の従僕が先導しておるだけだった。これでは召使いと変わらんではないか」

「仕方なかろう。知っての通り先立つものがなくての」

「金があろうとなかろうと、せめて小間使いは必要であろう」

 タヴェルネ男爵は嘆息した。

「必要なのはようくわかっとるよ。まあ必要だろうとは思うておる」

「まさか小間使いが一人もおらぬのか?」

 男爵は無言のままだった。

「あの器量好しは違うのか?」リシュリューはなおもたずねた。「さっきそこにおったではないか。いやまったく器量好しの上玉だった」

「うむ、じゃが……」

「だが、何だというのだ」

「だからこそあれをトリアノンには行かせられんのだ」

「何故だ? むしろぴったりだと思ったが。あれは申し分のない侍女になるぞ」

「では顔を見んかったのじゃな?」

「見なかった? むしろそれ以外のことはしとらん」

「見たというのに、驚くほどそっくりなことがわからんかったのか……!」

「誰と?」

「誰も何も……ええ、自分で確かめい……ここに来い、ニコル」

 ニコルが歩いて来た。小間使いは見た、とはよく言ったもので、戸口のところで盗み聞きしていたのである。[*10]

 リシュリュー公爵がニコルの両手をつかみ、そのままニコルの両膝を両手で挟み込むようにしてぶしつけに見つめたが、ニコルには動じた様子も困った様子もない。

「なるほど……なるほど瓜二つだ」

「誰に似とるか納得したかの? せっかく引き立てていただいたのに、そんな偶然の悪戯に運命を晒すわけにはいかんのだ。ニコル嬢とかいう継ぎ接ぎ靴下のチビッ子が、フランス一著名な貴婦人にそっくりでは具合が悪かろう?」

「ちょっと待って下さいよ!」ニコルはタヴェルネ男爵に反論しやすいようにリシュリューの手を振りほどき、食ってかかった。「継ぎ接ぎ靴下のこのチビが、その著名な貴婦人に何から何までそっくりだってのは間違いないんですか?……その貴婦人も撫で肩でくっきりした目とふっくらした足とむっちりした腕をしてるんですか、この継ぎ接ぎ靴下のチビみたいに? どうでもいいけど男爵様」ニコルはとうとう怒り出した。「そんなふうにあたしの価値を認めないのは、ただの標本だとしか思ってないからだと思うんですけど?」

 怒りで朱に染まったニコルはまばゆいほどに美しかった。

 リシュリュー公爵は改めてニコルの美しい両手をつかみ、両膝を挟み込むように押さえて、慈しみと期待の籠った目を向けた。

「男爵よ、宮廷にはニコルのような人材はおらぬ。そう思うのだがな。無論わしらとしてはニコルと似ていると言えなくもないような著名な貴婦人の自尊心は守らねばならん……それにしてもその金髪の色合いは実に見事だな、ニコル嬢よ。それにくっきりとした眉と鼻の形をしておる。よいかなニコル、十五分だけ鏡台の前に坐ってもらえれば、そうした――男爵が欠点と考えておるような点は消えてしまう――ニコル、トリアノンに行きたいかね?」

「やった!」ニコルの貪欲な本性のすべてがこの一言の中を駆け抜けた。

「ではトリアノンに行くがいい。トリアノンに行けば、運命も開けよう。他人の運命を何一つ潰すこともない。男爵、一言だけよいか」

「言うてくれ」

「席を外してくれるかお嬢ちゃん、ちょっとだけわしらに話をさせてくれ」

 ニコルが立ち去ると、リシュリュー公爵はタヴェルネ男爵のそばに寄った。

「娘御のところに小間使いを向かわせるよう仕向けているのには理由がある。そうすれば国王がお喜びになるからだ。陛下は貧乏たらしいのを好まぬし、可愛い子なら安心されよう。まあ要するにそういうことだ」[*11]

「ではニコルをトリアノンにやるがいい。そうすれば国王がお喜びになると考えとるのだろう?」タヴェルネ男爵は半獣神の如きいやらしい笑みを見せた。

「では許しも出たことだし、連れて行くぞ。四輪馬車に同乗させるとしよう」

「だがの、王太子妃殿下と似ているというのが……そこを考えんといかんだろうて」

「とっくに考えてあるわい。似ているところなんぞラフテが十五分で消してみせる。それは請け合おう……そこでだ、娘さんに一筆書いてくれ。小間使いをそばに置くこととその小間使いがニコルであること、それが如何に重要かを伝えるのだ」

「小間使いがニコルじゃっちゅうのが最優先事項だと思うとるのか?」

「思っておるよ」

「ニコルでなくては駄目なのか?」

「ほかの者では務まらん。誓ってもよい」

「そういうことなら直ちに書こう」

 タヴェルネ男爵はすぐに手紙を書き上げ、リシュリューに手渡した。

「して、作法や教養はどうする?」

「教え込む役目は引き受けた。頭の悪い子ではあるまい?」

 男爵は笑みで答えた。

「ではニコルをわしに託すと……思ってよいのだな?」リシュリューがたずねた。

「好きにせい。こっちは頼まれたから差し出すまでのこと。何にでも仕立て上げるがいい」

「お嬢ちゃん、では行こう」リシュリュー公爵が立ち上がっていそいそと声をかけた。

 繰り返すまでもなかった。ニコルは男爵に断りを入れもせず、五分で身の回り品を詰めると、飛ぶように軽やかな足取りで馭者のそばまで突き進んだ。

 リシュリューから別れの言葉を告げられた男爵は、フィリップのために中隊を用意してくれたことに感謝の言葉を繰り返した。

 アンドレには一言も触れなかったが、口に出す以上に雄辯であった。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XCIII「M. de Richelieu apprécie Nicole」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年9月30日および10月1日前半(連載第92回・第93回)。


Ver.1 11/03/19
Vere.2 19/09/16

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[註釈・メモなど]

・メモ
▼「今では王妃もおらぬ」は譬喩ではなく王妃マリー・レクザンスカは実際に1768年に死去している。
「Marton」が不明。英訳では「waiting woman」となっていたので、先の「Maritorne」や「Goton」と同じく、「召使いっぽい名前」の一つと解釈しておく。

[更新履歴]

・19/09/16 「se tourner et retourner」はここでは顔を回しているのではなく身体を回している動きになる。cf. 「se tourner et retourner dans le lit(ベッドで何度も寝返りを打つ)」。「きょろきょろしながら」 → 「身体をくねらせながら」に訂正。

・19/09/16 「entre quatre murs(閉じ籠もって・牢獄で)」なので、「四重の壁に囲まれて」 → 「薄暗いところに閉じ込められて」に訂正。

・19/09/16 「tu ne sais plus ton monde」。「monde」に所有形容詞がつくと普通は「世界・世間」ではなく「仲間」の意になる。「世間のことなど何も知らぬのだろう」 → 「友達がどんな人間かも忘れてしまったようだな」に変更。

・19/09/16 この場面の「ému」は「感動した」のではなく「動揺した」なので、「胸をふくらませた」 → 「狼狽して答えた」に訂正。台詞も敬語からタメ語に変更している。

・19/09/16 「Tu veux parler que je veux t'en épargner la peine」ではなく「Tu veux parler, je veux t'en épargner la peine」なので、「それをわしが使い渋ったと言いたいのであろう」 → 「おぬしは話をしたいのだろうが、そんな手間をかけさせるつもりはないぞ」に訂正。

・19/09/16 「Cela veut dire que tu m'as connu sans scrupules, n'est-ce pas ?」は、「connaître A à B(BにAの性質があることを知っている)」なので、「気兼ねなくわしと付き合っていたと言いたいのか?」 → 「わしなら気が咎めたりもせんと言いたいのだろう?」に訂正。ちなみに原文では次の男爵の返答と対になっている。「Cela veut dire que tu m'as connu sans scrupules, n'est-ce pas ?」「Cela veut dire du moins que je t'ai connu sans préjugés.」

・19/09/16 「Je n'ai fait que cela.」。「cela」は前の台詞全体を指すので、「顔しか見とらんぞ」 → 「それ以外のことはしとらん」に訂正。

・19/09/16 「Le duc la prit par les deux mains, et enferma dans les siens les genoux de la jeune fille,」が、どのような動きをしているのかわかりづらい。ニコルの「les deux mains」をリシュリューは自分の手で「prendre」したのだろうが、そうするとニコルの両膝をどうやって「les siens(彼の両手)」で挟んだのか。ニコルの両手をつかんだまま、顔を引き寄せるようにニコルの両手ごと膝まで引っぱったということか? 「公爵はニコルの両手をつかんで膝で足を挟んだ。(中略)無礼な視線にも」 → 「リシュリュー公爵がニコルの両手をつかみ、そのままニコルの両膝を両手で挟み込むようにしてぶしつけに見つめたが」に変更。

・19/09/16 「nous allons mettre tout amour-propre à couvert」。「自尊心を仕舞っておいてもらうとしよう」 → 「自尊心は守らねばならん」に訂正。

・19/09/16 「Que Nicole aille donc à Trianon」。「Que+接続法」なので命令の意になる。「ではニコルをトリアノンに遣れば」 → 「ではニコルをトリアノンにやるがいい」に訂正。

・19/09/16 「elle profitera du carrosse.」。「profiter」はただ単に「利用する」のではなく「有効利用する」のであり、「ニコルが四輪馬車を有効利用する」とはつまり、リシュリューが乗って来た四輪馬車をニコルにも利用させることを意味する。「四輪馬車が使える」 → 「四輪馬車に同乗させるとしよう」に訂正。

・19/09/16 「Ne remplirait pas si bien la place ;」。「remplir la place (de qn)」で「務めを果たす」の意になる。「空白を埋める」ではない。「それを書き足すくらいたいした手間もかかるまい」 → 「ほかの者では務まらん」に訂正。

・19/09/16 「tu me l'as demandée, je te la donne ;」。後半の目的語が「la」になっていることからわかる通り、前半の「l'」が指すのも「それ」ではなくニコルのことである。「あなたがそうしろと仰るなら、お任せしましょう」 → 「こっちは頼まれたから差し出すまでのこと」

 

[註釈]

*1. [びっこの悪魔]
 アラン=ルネ・ルサージュ『悪魔アスモデ(le Diable boiteux)』に出てくる悪魔。家の屋根上から住人の本性を見せる。[]

*2. [あんなこと]
 第89章で、タヴェルネ男爵はリシュリュー邸を訪れてすげなくされている。6つ先の台詞によれば一昨日のことである。[]

*3. [鈍ったものよなあ]
 「もちろん公爵本人だ…」の文章は vous で始まり te で終わり、タヴェルネの返事は vous を用いていた。そしてこの台詞から二人とも tu で話すようになった。[]

*4. [大臣の椅子を蹴ったのは…]
 第92章によれば、国王はリシュリューから、ジャン・デュバリーと因縁のあるフィリップへの中隊のお願いをされ、「公爵のせいでリュシエンヌとは仲違いだな」と愚痴っている。
 なお第90章によれば、リシュリュー陣営は大臣になれなかった理由を表向きは「陛下から閣下に大臣就任の打診があったのだが、それがデュバリー夫人の口利きによるものだとわかっていたので、お断りになったのだ」ということにしている(第88章によれば実際はデュバリー夫人の頼みをリシュリュー嫌いの国王に拒まれ妥協策としてデギヨンの近衛軽騎兵聯隊就任と三か月後の内閣改造での大臣就任が約束された)。
 なお、第89章のまま情報が止まっていたとすればタヴェルネ男爵は今回の訪問があるまではリシュリューが大臣に就任したと思っていたことになる。[]

*5. [お邪魔した時に居った]
 第89章でリシュリューに大臣就任見込みのお祝いを述べに来たタヴェルネ男爵は、同じくリシュリュー邸に現れたジャン・デュバリーの姿を見て退散した。[]

*6. [そういう事情があればこそ]
 註4に記した通り、リシュリューが大臣でないのは第88章によるならば国王に拒否されたからであるが、男爵に対しては飽くまでフィリップとジャンの諍いがきっかけであると匂わせている。[]

*7. [ポルシュロン]
 Porcherons はいかがわしい店のあったパリの地域。[]

*8. [シャトールーは……]
 シャトールー夫人はルイ十五世の愛妾であり、はじめトゥルネル侯爵夫人、のちにシャトールー女公爵となる。シャトールー夫人の後釜がポンパドゥール夫人、ポンパドゥール夫人の後釜がデュバリー夫人である。
 ポンパドゥール夫人の父親は投資家とも徴税人とも言われており、夫のルノルマン・ディティオールは徴税人だった。[]

*9. [ジャンヌトン、マリトルネス、ゴトン]
 Jeanneton は デュバリー夫人の名である Jeanne の愛称だが、身持ちの悪い女という意味もある。
 Maritorne はドン・キホーテに出て来る宿屋の女中 Maritornes(マリトルネス)から転じて醜く不潔な女のこと。
 Goton は Marguerite の愛称で、田舎娘や女中、放縦な女を意味する。[]

*10. [小間使いは見た]
 原文は「elle avait, en vraie Marton, écouté aux portes.」。マルトン(Marton) とはリゼット(Lisette)などとともに喜劇に出て来る代表的な女中(soubrette)の名。つまり「実にマルトンらしく」で「実に女中らしく」の意になる。日本語には移植しづらいので、思い切って超訳した。
 初出ではこの文章までが1847年9月30日掲載分。続きは翌日10月1日に掲載された。[]

*11. [娘御のところに…]
 この台詞だけ突然 tu から vous になっている。男爵を説得しようとして改まって話そうという公爵の意図か。[]

*12. []
 。[]

*13. []
 。[]

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