ニコルは歓喜に酔いしれていた。パリに行くためタヴェルネを離れたことも、トリアノンに行くためパリを離れることと比べればちっぽけな勝利に過ぎなかった。
ニコルがリシュリュー氏の馭者に盛んに愛嬌を振りまいた結果、翌日にはヴェルサイユ及びパリの貴族の邸であれば何処の馬車庫にも控えの間にも新しい小間使いの評判が立っていた。
アノーヴル館に着いて、リシュリューがニコルの手を引いて自ら二階まで案内すると、そこにはラフテが待ち構えていた。主人に代わって夥しい書類を書いているところだった。
リシュリュー元帥が担っている広大な職分の中でも戦争は特に大きな役割を占めていたため、ラフテは少なくとも理論のうえでは戦争の名人となっていた。もしもポリュビオスやフォラール勲三等騎士が生きていて、ラフテが毎週書いているような築城や軍事演習に関するささやかな記録を受け取ったなら、たいそう喜んだに違いない。[*1]
要するにラフテ氏が地中海に於ける対イギリス戦の草案を記しているところにリシュリューがやって来て声をかけたのである。
「すまんがラフテ、この子を見てくれ」
ラフテがニコルを見つめた。
「愛らしいお嬢さんでございますね」そうしてさらに意味ありげに口唇を動かした。
「うむ、だが誰かに似ておらぬか?……ラフテよ、それが知りたい」
「本当だ! いや、まさか!」
「気づいたな?」
「驚きました。それにしてもこれはお嬢さんにとって凶と出ますか吉と出ますか」
「いずれ凶であっても、転じればよい。見ての通りの金髪だが、それもたいしたことではあるまい?」
「黒くすればよいだけのことでございます」ラフテはリシュリューの考えの余白を埋めることに慣れていたし、時には本人の代わりに一から考えることさえあった。
「では鏡台のところに来なさい」リシュリューがニコルに声をかけた。「この男は名人だからな、フランス一美しく見違えるほどの女中に変えて差し上げよう」
斯くして十分後、ラフテはリシュリューが使っている混ぜ物を用いて、ニコルの灰色がかった金髪を漆黒に染め上げた。リシュリューは毎週その混ぜ物で鬘の下の白髪を黒く染め、今でもよく馴染みの閨房の中でお洒落なところを見せつけようとしていたのである。髪が終わると次にラフテは豊かな金の眉を、蝋燭の火で黒く煤けさせたピンでなぞった。そうして朗らかな顔つきに移り気な輝きを入れ筆し、鮮やかに澄んだ目には燃え立つ中にも翳りのある火を注いだ。魔術師に使役されている妖精が、召喚魔術によって魔具から飛び出て来たのかと紛うほどの変わりようだった。
「どうだね、お嬢ちゃん」リシュリューはぽかんとしているニコルに鏡を見せた。「たいそうな別嬪さんだ。しかもさっきまでのニコルらしさはほとんどない。これで凶の目を恐れることなく、吉をつかめるぞ」
「ほんとですか!」ニコルが声をあげた。
「うむ、それには互いをよく知るだけでよい」
ニコルは顔を赤らめ目を伏せていた。目敏いニコルはリシュリュー氏なら言い慣れているような口説き文句を予想していたのだ。
リシュリュー公爵はそれに気づいてすっかり誤解を解こうとした。
「その椅子に坐るといい。ラフテの隣だ。耳を立ててようく聞くのだぞ……ああ、ラフテは邪魔にはならんよ、心配いらん。むしろ助言をしてくれるだろう。よいかな?」
「はい、閣下」ニコルは口ごもり、自惚れて勘違いしたことを恥じ入った。
リシュリュー公爵とラフテとニコルの話し合いはたっぷり一時間は続いた。話し合いが終わるとニコルは屋敷の小間使いたちの寝床に案内された。
ラフテは軍事記録に戻り、リシュリューはデギヨン氏とデュバリー党に対する地方高等法院の陰謀を知らせる手紙に目を通してから床に入った。
明くる朝、紋章の描かれていないリシュリュー家の馬車がニコルをトリアノンまで運び、柵のそばで降ろしてから見えなくなった。
ニコルは顔を上げ、心を解き放ち、期待に目を輝かせていた。使用人棟の場所を確認すると、歩いて行って扉を叩いた。
朝の十時。アンドレはとうに目を覚まして着替えを済ませ、父親に前夜の吉報を伝えるべく手紙を書いているところだった。もっとも、リシュリュー自ら伝令となっていたのはご存じの通りである。
読者諸兄もご記憶の通り、石段を通ってプチ・トリアノンの庭園から礼拝堂まで行くと、その礼拝堂の踊り場には二階(とはつまり)女中部屋に直結している階段があり、庭園に面して日の当たる長い廊下が並木道のように女中部屋に沿っている。[*2]
アンドレの部屋はこの廊下の左側一番目にある。まずまずの広さがあり、厩舎の中庭から充分な陽射しが入り、手前には左右に
輝かしい宮廷会食者たちの普段の暮らし向きと比べてしまえば充分とは言えないこの部屋も、ざわめきに満ちた宮殿から戻ってみると、隠宅のように住みやすく心地よい素敵な小室となっていた。此処になら野心家も、その日一日の侮辱や失望を耐え忍ぶために逃げ込むことが出来た。此処でなら控えめで内省的な人間も静寂と寂寥に、つまり大いなる孤独に包まれて休むことが出来た。
ひとたびこの石段を越えて礼拝堂の階段を上ってしまえば、もはや上下関係も礼儀も見栄もないのは事実だ。閑静なること修道院の如く、自由になる時間は囚人生活の如し。宮殿の奴隷も使用人棟の自室では主人に戻れた。
アンドレのように優しく誇り高い人間は、そうやって考えることで安らぎを見出していた。野心を挫かれ満たされない空想に疲れて羽を休めるためにこの部屋に戻って来るのではない。トリアノンの豪華な応接室にいるよりもこのちっぽけな四角い部屋にいる方が何倍も落ち着いていられたのだ。トリアノンの敷石を足下に踏みしめている間は、恐怖にも似た気後ればかりが先に立った。
まるで我が家のような落ち着きを感じるこの陋居から、昼間に目を眩ませていた宝物たちを眺めることにしていた。周りには花が飾られ、チェンバロが置かれ、心で本を読む者には優しい友であるドイツ語の本に囲まれて、アンドレは運命に挑もうとしていた。悲しみがもたらされるのか喜びを奪われるものか、それはまだわからない。
「ここには――」アンドレは毎晩の務めが終わるとこの部屋に戻り、大きな襞のついた部屋着に着替えて肺いっぱいならぬ魂いっぱいに息を吸い込み呟いていた。「ここには死ぬまでに手に入れるつもりのものがほとんどある。もしかするといつかはもっと豊かになれるかもしれないけれど、今より貧しくなるつもりはないし、孤独を慰めるための花も音楽も美しい一葉も手放すつもりなんてない」
アンドレは望む時には部屋で朝食を摂ってもよいという許しを得ていた。このうえない計らいと言っていい。王太子妃から朗読や朝の散歩に呼ばれない限り、こうして昼まで部屋で過ごすことが出来るのだから。そうして空いた時間を、天気のいい日には本を持って朝から出かけ、トリアノンからヴェルサイユまで続く大きな森を一人で歩くことにしていた。二時間あまりを散歩や考え事や空想に費やしてから朝食に戻るまでの間、貴族も侍従も職人も従僕も目にしないことは珍しくない。
厚い葉陰の下まで暖かさが押し寄せ始めて来たので、アンドレは窓と廊下の扉から小部屋に涼しい空気をたんと入れることにした。インド更紗で布張りされた小さな長椅子一台と椅子四脚、同じくインド更紗製カーテンが吊られた丸い天蓋付きの清潔な寝台、暖炉上の磁器の花瓶二個、銅の脚のついた四角い卓子一脚。以上がこの小さな世界のすべてであり、アンドレの期待と望みが閉じ込められた世界であった。
先ほど申し上げたようにアンドレがこの部屋に坐って父に手紙を書いていると、廊下の扉が控えめに叩かれた。
アンドレは顔を上げて開いた扉に目をやり、驚いて小さな声をあげた。喜びにあふれたニコルの顔が控えの間から覗いていた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XCIV「Métamorphoses」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年10月1日(連載第93回)。
Ver.1 11/04/02
Ver.2 19/09/28
[メモ]
▼タヴェルネ男爵の仮住まいのあるコック=エロン街から、リシュリュー邸別館アノーヴル館のあるイタリアン大通り(boulevard des Italiens)までは、歩いて15分ほど。
▼ニコルのことは「femme de chambre」と表記されていたが、リシュリュー家の小間使いは「filles de chambre」と表記されている。英訳では「femme-de-chambre」と「the other waiting-women」。
[更新履歴]
・19/09/28 「Elle fut tellement gracieuse avec le cocher de M. de Richelieu, 」。この「avec」は「〜と一緒に」の意味ではなく「〜に対して」の意味になる。「ド・リシュリュー氏の御者の隣に坐ったニコルが非常に魅力的だったため」 → 「ニコルがリシュリュー氏の馭者に盛んに愛嬌を振りまいた結果」に訂正。
・19/09/28 「pour le compte de」は「勘定」の意味ではなく「〜のために。〜の代理で」の意味なので、「要塞や演習についての見積もりを受け取る」 → 「築城や軍事演習に関するささやかな記録を受け取ったなら」に訂正。
・19/09/28 「Il ne s'agit que de les lui faire noirs,」「黒くするのは簡単なことでございます」 → 「黒くすればよいだけのことでございます」に訂正。
・19/09/28 「M. de Richelieu, comme nous l'avons dit, s'était fait le messager.」。「自分を使者にしていた」のである。「リシュリュー氏が使者を向かわせたのはご存じの通りである」 → 「リシュリュー自ら伝令となっていたのはご存じの通りである」に訂正。
・19/09/28 「Cette chambre, insuffisante si l'on considère le train ordinaire des commensaux d'une cour brillante, devenait une charmante cellule,」。「le train」とは何か。「train ordinaire de vie」で「普通の暮らし向き」、「train de maison」で「召使い一同/暮らし向き・家計費」であるため、「le train ordinaire des commensaux d'une cour brillante」で「宮廷の会食者たちの普通の暮らし向き」となるか。「輝かしい宮廷の列席者が使っている一般的な一間と比べれば」 → 「輝かしい宮廷会食者たちの普段の暮らし向きと比べてしまえば」に訂正。
・19/09/28 「Là pouvait se réfugier une âme ambitieuse pour dévorer les affronts ou les mécomptes de la journée ; là aussi pouvait se reposer, dans le silence et la solitude c'est-à-dire dans l'isolement des grandeurs, une âme humble et mélancolique.」。「une âme ambitieuse」を「dévorer」するのではなく、「une âme ambitieuse」が「dévorer」するのである。また、この「âme」は「魂」というよりも「人」の意味であろう。「ここにいれば侮辱や失望を喰らい尽くす日中の貪欲な魂から逃れることが出来た。ここにいれば静寂や孤独の中で、孤高の中で、慎ましく侘びしい魂を休ませることも出来た」 → 「此処になら野心家も、その日一日の侮辱や失望を耐え忍ぶために逃げ込むことが出来た。此処でなら控えめで内省的な人間も静寂と寂寥に、つまり大いなる孤独に包まれて休むことが出来た」に訂正。
・19/09/28 「liberté matérielle」を「肉体的な自由」と訳してしまうと、「囚人生活」と矛盾してしまうため、「肉体的に自由なことは囚人生活の如き」 → 「自由になる時間は囚人生活の如し」に変更した。なお、最後の一文「宮殿の奴隷も使用人棟の自室では主人に戻れた」を訳し洩れていたので補った。
・19/09/28 「Une âme douce et fière comme celle d'Andrée trouvait son compte en tous ces petits calculs,」の「compte」は「計算」の意味ではなく、「trouver son compte」で「恩恵を得る」の意。「そうしたあれこれから自分なりに値打ちを引き出していた」 → 「そうやって考えることで安らぎを見出していた」に変更。
[註釈]
▼*1. [ポリュビオス/フォラール勲三等騎士]。
ポリュビオス。Polybe(BC200-BC118)、古代ギリシアの歴史家。フォラール勲三等騎士。Jean-Charles de Folard(1669-1752)、フランスの軍人・ポリュビオスについての著作がある軍略家。サン=ルイ勲章シュヴァリエを授与されたためchevalier de Folardと呼ばれる。[↑]
▼*2. [読者諸兄もご記憶の通り]。
。使用人棟については第80章(→)参照。二階建て。一階が厨房などの仕事部屋で、使用人部屋は屋根裏(=二階)にあった。[↑]
▼*3. []。
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▼*4. []。
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▼*5. []。
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