この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第九十七章 大臣の道のりは薔薇色ではないとわかった次第

 リシュリュー氏の馬は委員会の馬車より速かった。その証拠にデギヨン邸の中庭には一番乗りだった。

 デギヨン公爵はもう伯父を当てにはせず、敵が正体を現したことをデュバリー夫人に伝えるため、リュシエンヌに戻る準備をしていたところだった。だが取次からリシュリューの来訪を告げられて、やる気も起きずにどん底に沈んでいたくじけた心が甦った。

 デギヨン公爵は慌てて伯父の前に出て手を握り、形だけでも愛情を込めて、胸の内の恐れを糊塗しようとした。

 リシュリュー元帥も同じように自分を殺した。感動を誘う場面だった。ところがデギヨンはすぐにでも話し合いに臨みたかったというのに、リシュリューは出来る限り引き延ばそうとして、絵なり銅像なりタペストリーなりを見つめたり、死ぬほど疲れていると愚痴をこぼしたりする始末である。

 デギヨン公爵は伯父の退路を断ち、マルシエンヌでオイゲン公を追い詰めたヴィラール氏のように肘掛椅子に伯父を追い詰め、攻撃を目論んだ。[*1]

「フランス一の才人である伯父上ともあろう人が、まさか私のことを誤解なさってはいないでしょうね? 恩恵を独り占めするような人間だと思われているのですか?」

 もはや遠慮は要らない。リシュリューは腹をくくった。

「どういうことだ? 誤解かどうか、何を根拠に判断したのだ?」

「腹を立ててらっしゃるではありませんか」

「わしが? いったい何に?」

「逃げるのはなしですよ、元帥閣下。面会を希望しているのに避けられているという事実だけで充分ではありませんか」

「本当に何のことかわからんのだよ」

「では説明いたしましょう。国王から大臣就任の打診がなかったこともあり、私が近衛騎兵隊を拝受したとお聞きになって、私から見捨てられ裏切られたとお感じになったのではありませんか。伯父上に好感を抱いているあの伯爵夫人からも……」

 ここでリシュリューは耳をそばだてたが、甥の言葉にばかり反応したわけではない。

「伯爵夫人がわしに好感を抱いていると申すのか?」

「証明できます」

「いや、異を唱えるつもりはない……わしを後押ししてもらうつもりで行ってもらったのだ。若くて強いお前が結果をつかみ、わしの手からこぼれるのは世の習いではないか。どうして気後れしておるのか、とんとわからぬな。わしのために働いていたのなら、何倍もの見返りを期待しておけ。わしを裏切っておったなら、その強欲の代償を払わせてやる……何処に釈明の必要があるかね?」

「それはそうですが……」

「まだまだひよっこだな。身分は申し分ない。フランス重職貴族、公爵、近衛騎兵隊の指揮官、六週間後には大臣になるのだ、度量が狭くてはいかんぞ。成功という結果がすべてだ。考えてみよ……わしは譬え話が好きでな……わしらが寓話の二頭の騾馬だとして……あれは何の音だ?」[*2]

「何も聞こえませんよ。続きをお聞かせ下さい」

「いや、中庭で馬車の音がしたぞ」

「やめないで下さい。せっかくの面白いお話を。私も譬え話は嫌いじゃないんです」

「うむ、言いたいのはつまり、栄耀を誇っている間は、面と向かって非難されることもないし、妬みそねみを恐れる必要もないということだ。だがへまをしたりつまずいたりしようものなら……その途端に狼に襲われる覚悟をしておけ。それはそうと、やはり控えの間で音がするぞ。いよいよ大臣の地位が届けられたのではないか……伯爵夫人から閨房で可愛がってもらうといい」

 取次が入室した。

「高等法院委員会の方々がお見えになりました」取次の声には不安が滲んでいる。

「ほほう!」リシュリューが声を洩らした。

「高等法院の委員会がここに?……何の用だろう?」伯父の笑顔が却って不安だった。

「国王の御名のもと参りました!」控えの間の端からよく響く声が届いた。

「おやおや!」リシュリューが声をあげた。

 デギヨン氏は真っ青になって立ち上がり、自ら戸口まで行って二人の委員を招き入れた。その後ろには動じた様子のない取次二人と、さらに向こうには怯え切った従僕が集まっているのが見える。

「何の用ですか?」とたずねたデギヨン公爵の声は震えていた。

「デギヨン公爵閣下ですか?」委員がたずねた。

「如何にもデギヨン公爵です」

 するとその委員は深々とお辞儀をし、ベルトから所定の文書を抜き取って声高らかに読み上げた。

 委曲を尽くしたその判決によると、デギヨン公爵は不名誉な嫌疑さらには事実によって厳正に告訴され、王国重職貴族の職権を停止されていた。

 デギヨン公爵はそれを聞いて雷鳴に射すくめられたようになった。銅像のように身動きせず、差し出された判決の写しに手を伸ばすことさえしなかった。

 判決文を手に取ったのはリシュリュー元帥であった。デギヨン同様立ち上がってはいたものの機敏に動いて目を通すと、委員たちに挨拶を返した。

 委員たちの姿が遠ざかってもデギヨン公爵はまだ呆然としたままだった。

「大きい一撃を喰らったのう! もうフランス重職貴族ではないとは、とんだ屈辱だな」

 デギヨンが顔を向けた。ようやくのことで生気と意識を取り戻したかのように。

「予想もしておらなんだようだな?」リシュリューの声に変化はない。

「では伯父上は?」

「無茶を言うな。国王と愛妾が目を掛けている寵臣に高等法院がこんな強襲を掛けるとは思うまい……あの連中も身を捨てるつもりなのだろう」

 デギヨン公爵は腰を下ろし、焼けるような頬に手を当てた。

「しかしあれだな」老元帥はなおも傷口深く刃を突き立てた。「近衛騎兵隊の指揮官に任命されたために高等法院によって重職貴族の地位を剥奪されたのだとしたら、大臣に任命されよう日には身柄を拘束されて火あぶりに処されてしまうぞ。あの連中からは憎まれておるのだから用心せいよ、デギヨン」

 デギヨンはこの挑発にも神話の主人公のように耐えた。災難によって成長し、魂から不純物が取り除かれていたからだ。

 リシュリューの受け取り方は違った。反応がないのは何も感じてないからであり、もしかすると理解してないのではないかと考え、あまり深い傷にはならなかったのだと判断した。

「重職貴族でなくなったのであれば法律屋どもの憎しみもやわらぐだろうさ……数年の間は無官のままくすぶっておけ。そもそも無官という救世主の方から頼まれもしないのに迎えに来てくれるのだ。重職貴族の職務を解かれたからには内閣入りも難しかろうから、さすれば窮地から抜け出せもしよう。それでも抗いたいというのなら、お前にはデュバリー夫人がいて、気に入られておる。それは大きな支えだぞ」

 デギヨンが立ち上がった。リシュリューから手ひどい仕打ちを受けたばかりだというのに、怒りの眼差しを向けることさえしなかった。

「仰る通りです、伯父上」と応えた声は落ち着いていた。「今の助言はさすがのご慧眼だ。デュバリー伯爵夫人にご紹介くださったうえに、リュシエンヌの人間なら誰もが知っているように好意と熱意を込めて私を売り込んで下さったわけですから、デュバリー夫人なら私を守って下さることでしょう。幸運なことに私に愛情をかけて下さり、勇敢で、国王陛下のお心に働きかけられる女性です。ありがたい忠告に従って、避難港にでも行くようにデュバリー夫人のところに駆け込むことにいたします。馬の用意を、ブルギニョン、リュシエンヌにやってくれ」

 リシュリューは笑おうとした表情のまま固まっていた。

 デギヨンが深々とお辞儀をして応接室を離れてしまったので、残されたリシュリューは何が起こったのかわからず、気高く瑞々しい肉体に執念く咬みついていたことにただただ恥じ入った。

 せめてもの慰めは、夜になってパリっ子が一万部の判決文を町中で奪い合いその内容に歓喜していたことだった。だがラフテからその夜のことをたずねられた時には溜息を洩らさずにはいられなかった。

 それでもラフテは口を閉ざさずその話を続けた。

「では一撃はかわされたのですか?」

「そうとも言えるしそうでないとも言えるが、命取りになるほどの傷ではなかったようだ。トリアノンに行けばぐっといいこともあろうさ、もっと力を注いでおけばよかったと反省する必要はない。わしらは二羽の兎を追っていた……馬鹿げたことよ……」

「いいことが訪れるのなら、なぜ?」

「覚えておけ、いいことなんぞ訪れた試しはない。ないものの代わりに別のもの、つまり持っているものを差し出すことになるのが世の習いなのだ」

 ラフテは肩をすくめたが、リシュリューの理屈は通っていた。

「デギヨン様は切り抜けられるとお考えですか?」

「国王は切り抜けると思うか?」

「それは国王なら何処にでも抜け穴を作れましょうが、問題は国王ではないと愚考いたします」

「国王の行くところデュバリー夫人も遅れずついて行くし……デュバリー夫人が通った後をデギヨンもたどるだろう……デギヨンは……本当にお前は政治のことを何にもわかっておらぬな、ラフテ」

「閣下、フラジョ先生は別の考えをお持ちでございます」

「そのフラジョ先生は何と言った? そもそも何者だ?」

「代訴人でございます、閣下」

「それで?」

「はい、フラジョ殿によりますと国王その人と雖も切り抜けられなかろうということです」

「ほう、獅子を止める者などいるのか?」

「もちろん鼠にございましょう!……」

「それでフラジョ先生は?」

「同意見です」

「信用しとるのか?」

「悪巧みしそうな代訴人のことは信用することにしております」

「ではラフテ、フラジョ先生のお手並み拝見といこうか」

「同じことを考えておりました」

「では寝る前に夜食を摂ろう……甥っ子の奴がフランス重職貴族ではなくなり、大臣にもなれそうにないと思うと、やりきれんわい。伯父であろうとなかろうとな」

 リシュリューは溜息をつくと笑い出した。

「それに引き替え御前様は大臣にとって必要なものをちゃんと備えてらっしゃいます」ラフテはすかさず意見を述べた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XCVII「Où il est démontré que le chemin du ministère n'est pas semé de roses」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年10月6日(連載第97回)


Ver.1 11/04/16
Ver.2 19/12/31

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[註釈・メモなど]

 ・メモ
▼「大貴族(pair)」とは、貴族のうちでも重要な役職につく者、または法服貴族や聖職者とは別に高等法院を構成する権利を持つ貴族をいう。

[更新履歴]

・19/12/31 「– Comment veux-tu qu'on aille se douter que le parlement frappera si vertement sur le favori du roi et de la favorite ?… Ces gens-là se feront pulvériser.」なので、「le favori」は「du roi」と「de la favorite」の二つから掛かっている。「高等法院が国王の寵臣や寵姫に激しい攻撃を仕掛けるつもりなのを予想しろなどと、無茶を言うな……寵臣たちも木っ端微塵だな」 → 「無茶を言うな。国王と愛妾が目を掛けている寵臣に高等法院がこんな強襲を掛けるとは思うまい……あの連中も身を捨てるつもりなのだろう」に訂正。

 

[註釈]

*1. [マルシエンヌで……]
 スペイン継承戦争の一つであるドゥナンの戦い(1712年)。ヴィラール(Claude-Louis-Hector de Villars, 1653‐1734)率いるフランス軍が、オイゲン(Eugen Franz von Savoyen-Carignan/Eugène de Savoie-Carignan, 1663-1736。通称プリンツ・オイゲン)率いるオーストリア軍に勝利した。[]

*2. [寓話の二頭の騾馬]
 ラ・フォンテーヌ『寓話』巻1の4「二匹のラバ」。塩税の徴収金運搬という役目に得意になっていたラバは強盗に襲われ死んでしまい、粉屋の麦を運んでいたラバは襲われずに済む。
 第88章の時点では、大臣就任は「三か月後(12週間後)」と話していたので、「六週間後には大臣になる」のであれば第88章から6週間経っているか? []

*3. []
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*4. []
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*5. []
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