会話している者は限られていた。ほとんどの口唇は動いていない。言葉を交わしているのはせいぜい三、四組だけだ。
喋らぬ者たちは顔すら隠そうとしている。議長を待つ演壇の落とす影が大きいため、それも難しいことではない。
そういった人目を避けたい者たちの隠れ場所がこの演壇の後ろだった。
だが一方で積極的に動き回って同胞に相応しい人間を見つけようとする者も何人かいた。互いに行き来して言葉を交わし、かと思えば赤い炎で彩られた黒いカーテンの掛かった扉を通って代わる代わる姿を消している。
そのうちに呼び鈴が鳴った。それまでほかのメイソンたちと一緒にいた人物が、座席の端から真っ直ぐ演壇に上った。
手と指を用いた幾つかの合図を参加者に繰り返させると、最後にそれまでよりはっきりした合図をして開会を宣言した。
それはルソーの見たこともない人物だった。見た目こそ裕福な職人然としているが、その下に豊富な機智を隠し持っていた。演説家に求められるような流れるような話し方によるところも大きい
演説は明瞭簡潔だった。曰く、こうして
「いつもの入会審査がおこなえないような部屋に集まってもらったのはほかでもない。支部長たちの目には審査が必要ないものと映ったのだ。是非とも迎え入れなくてはならない兄弟であり、現代哲学を導く光にして、恐れからではなく信念によってその身を捧げてくれる深遠なる魂の持ち主なのだ。
「自然界のあらゆる秘密も人心のあらゆる秘密も探究して来た人物なのだぞ。そんな人物が自分の腕前と意思の力と財産を頼みにするような普通の人間と同じ手段で心揺るがされるわけがなかろう。その卓越した智性と誠実でぶれない人柄から協力を得ようというのだ、本人の口約と承諾があれば充分ではないか」
議長はこうして提案を締めくくり、室内を見回して反応を確かめた。
ルソーは魔法にかけられていた。フリーメイソンの入会秘儀のことは知っていたが、聡明な人間にとっては唾棄すべきものだと考えていたし、支部長が新入会員に期待するような馬鹿げた(何しろ無意味なのだから馬鹿げている)追従をして、恐れるものが何もないとわかっていながら怯えるふりをすることなどは、あまりにも幼稚な行いであり意味のない盲目的行為だと思われた。
それに加えて感情表明や自己表現が苦手だったので、見知らぬ人々の前で見世物にされるのはご免蒙りたい。ましてやまず間違いなく何らかの形で一泡吹かせてやろうとしている連中なのだ。
だから審査を免除されるとわかった時の喜びはひとしおであった。フリーメイソンの信条に照らして平等というものが如何に厳格なものであるかは承知していた。それが特別扱いとは大勝利ではないか。
ルソーが議長の演説に応えようとしたその時、聴衆から声があがった。
「どうやら代表は――」その声は高く震えていた。「我々と同じ人間を王侯のようにもてなす義務があるとお考えのようだし、肉体的苦痛を通して自由を探求することが我々の信条ではないかのように肉体的恐怖を免除なさるようだ。であるからには少なくとも、しきたりに則って質疑をおこない、信仰告白を引き出さない限りは、見も知らぬ人物に貴重な資格を授けるのはやめていただきたい」
大勝利を収めた凱旋将軍の戦車を激しく攻撃しているこの人物の顔を見ようと、ルソーは首をめぐらせた。
ひどく驚いたことに、それはまだ朝のうちにフルール河岸で再会を果たしたあの若い外科医であった。
その発言に真面目さと、どうやら『貴重な資格』に対する侮蔑を感じて、ルソーは答えるのを躊躇った。
「聞こえましたな?」議長がルソーに確認した。
「ええ、はっきりと」自分の声が薄暗い地下室の穹窿に響き渡ったのを聞いて、ルソーは軽く身震いを覚えた。「それどころか、誰に疑義を提起されているのかわかって驚いているところですよ。肉体的苦痛というものと戦い、会員であり普通の人間でもある兄弟たちに救いの手を差し伸べる職業に就いているお人だったとは。しかもその人が肉体的苦痛の有用性を説きにいらしていたとは……随分と変わった方法で人間を幸せにし、病人を治癒しようとするのですね」
「誰それがという話はこの場に相応しくない」若者は語気を荒げた。「私と新入りは見知らぬ他人同士です。頭がどうかしたわけじゃない。特別扱いはおかしいと申し上げているのです。私はこの人を見て――」とルソーを指さし、「あの時の哲学者だとは認めません。同じように、私のことをあの時の外科医だと認めてもらいたくはない。我々はちょっとした目つきや仕種によって繋がりがばれることがないように、それでいながら結社の絆というそんじょそこらの友情よりも固い繋がりによって、一生を通じて共に歩んでゆくべきなのです。だから重ねて申し上げよう。新入りの審査を免除すべきだとお考えなら、せめて質疑はおこなうのが筋ではありませんか」
ルソーからの反論はなかった。その顔の上に、議論などうんざりだという嫌悪感や、集会に参加したことを後悔する気持ちが表れていることに議長は気がついた。
「
「私には疑義を呈する権利があります」若者は先ほどよりも落ち着いて答えた。
「疑義の権利は認めるが、批判の権利は認めぬ。我々がフリーメイソンという場に採り入れようとしているものが無意味でくだらぬ神秘などでないことは、入会予定の兄弟も重々承知している。此処にいる兄弟たちは新入りの名前を知っているし、その名前が何よりの保証となろう。とは言え新入り本人ももちろん平等を愛する者であろうから、ただの形式に過ぎない質問に答えてくれるのではないだろうか。
「『そなたが結社に求めるものは何か?』」
ルソーは二歩下がって会員たちから距離を取り、夢見るような虚ろな眼差しを彼らに走らせた。
「わたしが結社に求めているものは、結社の中には見つからないもの――まやかしではなく、真実です――刺さらない短剣、毒に見せかけた真水、厚布団を敷いた落とし穴、そんなものでわたしを追い詰める必要もないでしょうに。人間の力の限界はわかっていますし、自分の身体の力もわきまえています。わたしを潰すつもりなら、初めから同志に選んだりはしないでしょう。死んでしまえばお役には立てません。だからあなたがたにはわたしを殺すつもりもなければ傷つけるつもりもないはずです。人の足を折るような入会儀式に良い感情を抱けるわけもないではありませんか。
「わたしはあなたがたの誰よりもつらい修練を積んで来ました。肉体を奥深く分け入り、魂にまで触れて来たのです……仲間になるよう勧誘されてそれを受け入れたとすれば――」ルソーはここで言葉を強調した。「それはお役に立てると考えたからです。ですから授けることはあっても受け取るつもりはありません。
「わたしを守るために何が出来るというのですか? あなたがたなりのやり方では、囚われているわたしに自由を与え、飢えている時にはパンを与え、悲嘆に暮れている時には慰めを与えることなど出来やしません。あなたがたが何事かを成し遂げる前に、今日入会を許されたところで――もっとも、この方が許してくれたらの話ですが――」と言ってマラーを見て、「入会を許されたところで、何事かが成し遂げられる前に、土に還ってしまうことになるでしょう。進歩は足を引きずって歩き、啓蒙の光は遅々として進むものです。そうなった時その兄弟が倒れた場所から引き上げてくれることなど誰にも出来やしないでしょう……」
「同志よ、それは違う」柔らかくよく通る声がルソーの耳をそっと捕えた。「この結社には思いも及ばないほどのものが――この世の未来のすべてがあるのです。未来とは希望にして科学。未来とは神。神がこの世に光をもたらすと約束した以上、必ずや光はもたらされます。神は噓などつけないのだから」
この言葉に驚いたルソーが声の主を見ると、今朝の親裁座で再会を約束していたまだ若い男だとわかった。
黒い服を着たその男には何処か洗練されたところがあり、もっと言うなら大変な気品に満ちていた。演壇の横側にもたれて立つその顔は鈍い光に照らされて、その美しさと品格と飾らない表情によって輝いて見えた。
「なるほど科学とは――」ルソーが答えた。「汲めども尽きせぬ深淵にほかなりません。あなたが科学と慰めと未来と約束の話をなさる一方で、肉体と厳しさと暴力の話をなさる方もいますが、どちらを信じればいいのでしょうか? そうなると兄弟たちの会合に混じるのは、地上の飢えた狼たちの中に放り込まれるのと同じ結果になるのでは? さながら狼と羊のようだ。わたしの著作をお読みになった方はいないようですから、今からその思想をお伝えすることにしましょうか」
「あなたのご本ですか」マラーが声をあげた。「あれは確かに立派なものでしたが、絵空事に過ぎませんね。ピタゴラスやソロンや詭弁家キケロのような物の見方でもしない限り有益とは言えない代物です。説いていらした善性にしたって、実体もなく摑めもしないしモノにも出来やしない。あなたのなさっていることはまるで陽射しにきらめく泡をひもじい者たちに食べさせようとしているようなものです」
「ご覧になったことがありますか?」ルソーは眉をひそめて応じた。「何の前触れもなく自然が大変動を起こすのを? 出産という、あの卑俗だが崇高な出来事を? 九か月にわたって母の胎内で肉体も生命も蓄えぬうちに生まれて来る人間を? どうやらあなたは行動によって世界を刷新しろと仰りたいようですが……そういうのは世界を刷新させるというより世界をひっくり返すというのですよ」
「ではあなたは独立も自由も望まないと言うのか!」マラーが反論した。
「まさか。独立こそ我が偶像、自由こそ我が女神ですとも。ただしわたしの望む自由とは、優しく晴れやかな、心を燃やして生きる力を与えてくれる自由なんです。わたしの望むのは、恐怖ではなく友情によって人を結びつけるような平等なんです。わたしの望むのは、社会を構成する一人一人の教育や指導なんです。ちょうど機械工が噛み合わせの調子が合うのを望み、家具師がぴったり組み上がるのを望むように、言い換えるなら部品一つ一つの完全な一致であり絶対的な結合を望んでいるのです。要するにわたしの望むのは著作に書いてある通り、進歩であり、協力であり、献身なのです」[*1]
マラーは口許に嘲りを浮かべた。
「まったくです。乳と蜜の流れる地や、ウェルギリウスの描いたエリュシオンのような詩人の空想を、哲学者は実現したいようですね」
ルソーは答えなかった。自分は穏健派なのだと釈明するのも難しかろう。欧州中で過激な改革者と呼ばれて来たのだ。
ルソーは素朴で弱気な心の安寧を得るため、先ほど擁護してくれた人物に目配せして無言の同意を得ると、沈黙を貫いたまま席に戻った。
議長が立ち上がった。
「話は聞いたな?」
「然り」参加者全員が答える。
「新入りは結社に相応しいだろうか? 結社の本分を理解しただろうか?」
「然り」という返答には、しかしながら何人か欠けている声があった。
「誓いをせよ」議長がルソーに命じた。
「一部の会員に不快な思いをさせるのは本意とするところではありませんが」ルソーは何処か誇らしげに答えた。「わたしとしては先ほどの言葉を繰り返すしかありません。わたしの信条はそこにあります。演説が上手ければその言葉を見事な表現で披露するところでしょうが、生憎と即席で話をしようと思うといつもこの口が心を裏切ってしまうものですから。
「しきたりに拘泥せずせずとも、結社を離れたところで世界のため結社のためにもっと役に立つことが出来ると言いたいのです。ですからわたしの仕事も弱さも孤独も放っておいてもらえませんか。申し上げたように、墓に入るのを待つだけの身ではありますが、悲しみや病や貧しさがあるとさらに追い打ちを掛けられるのです。この自然の偉大な営みを遅らせることは誰にも出来ないのですから、どうか独りにしておいて下さい。わたしは人と共に歩むようなことの出来ない、人を嫌い、人を避けるような人間です。それでも人のために尽くすことは出来るでしょう。わたし自身も人間ですから。わたしが尽くすことで人間というものがより良い存在になってくれることを夢見ているのです。さあ、わたしの考えはすっかりお伝えしました。言い残したことはありません」
「つまり誓いを拒むというのですか?」マラーの声には狼狽えたような響きがあった。
「きっぱりとお断りいたします。結社に属するつもりはありません。入ったとしてもお役に立てないことはあらゆる点で明らかです
「兄弟よ」黒衣の男の取りなすような声が聞こえた。「そう呼ぶのを許していただきたい。人の心がどのように結びつこうともそれとは無関係に、我々は真の兄弟だからだ。兄弟よ、苛立ちももっともだがどうか堪えて欲しい。持って当然の自尊心もちょっと捨てて欲しい。嫌なことであっても我々のためにおこなって欲しいのです。あなたの助言、思想、存在は燈火なのだ! あなたも居なければ拒絶もされるという二重の闇に我々を投げ込まないで欲しい」
「そうは思いません」ルソーが答えた。「あなたがたは何一つ失うことはありませんよ。わたしが結社にもたらすものといったら、これまで誰にでも――あらゆる読者、あらゆる新聞の解釈に対してもたらして来たものと何ら変わらないのですから。もしルソーの名と精髄をお求めでしたら……」
「それを求めているのだ!」礼儀正しく応じる声が幾つかあがった。
「でしたら、わたしの著作をお読み下さい。議長の机上に積み上げて下さい。いつかあなたがたが意見を募り、わたしの話す番が回って来た時には、わたしの本をお読み下さい。そこにわたしの意見、わたしの判断が書かれてあります」
ルソーは足を踏み出し立ち去ろうとした。
「お待ち下さい!」マラーが声をあげた。「人が何を考えようと尊重されるべきであり、それは著名な哲学者であれ誰であれ変わりありません。だがこうして非会員を密議の会場に招き入れるのも異例のこと、暗黙の了解事項にさえ縛られていない以上は、誠実さに疑いがなくとも、秘密を洩らす可能性が皆無とは言えますまい」
ルソーは同情するような笑みを返した。
「沈黙の誓いをお望みなのですか?」
「その通りです」
「ではいつでもどうぞ」
「宣誓文を読み上げていただけますか、代表」マラーが言った。
議長は言われた通りに読み上げた。
『万物の創造主たる永遠の神の存在に懸けて、また先人たちに懸けて、わたしを包み込む敬すべき結社に懸けて、眼前でおこなわれしことを絶えて口外せず、知らせず、文字に残さぬことを誓う。慎みを忘れたる暁には、偉大なる開祖と先人たちの掟によりて、また父祖たちの怒りによりて罰せらるるが故なり』
ルソーが手をほぼ伸ばしかけた時、会員たちに埋もれながらもなお有無を言わせぬような威光を放って耳を傾け議論の行方を追っていた黒衣の人物が、議長に近づき何事かを囁きかけた。
「もっともだ」議長はそれに答えてから、ルソーに話しかけた。
「あなたはただの人間であって兄弟ではないが、考えを同じくする者という立場に限って我々と席を並べ得る名誉ある人間だ。こうなれば我々もこだわりを捨てよう。代わりに此処で起こったことはすべて忘れるという約束の言葉を一つ頂戴したい」
「寝覚めの夢のように忘れることを、名誉にかけて誓います」ルソーは感激して答えた。
そう言って立ち去ると、多くの会員たちも後に続いた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CIII「La loge de la rue Plâtrière」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年10月13日(連載第102回)。
Ver.1 11/05/28
Ver.2 21/03/28
[註釈・メモなど]
・メモ
[更新履歴]
・21/03/28 地下室に凱旋車などあるわけがない。「le char du triomphateur」とは「大勝利(un triomphe)」を収めたルソーを戦車に乗って凱旋する勝利者になぞらえたもの。「ルソーが首を回してこの攻撃的な人物の顔を見ると、凱旋車の上で激しく訴えていた。」 → 「大勝利を収めた凱旋将軍の戦車を激しく攻撃しているこの人物の顔を見ようと、ルソーは首をめぐらせた。」に訂正。
・21/03/28 ルソーは一番後ろの席に坐っていたのだから、会員たちから離れるためには前に出るのではなく後ろに退がるはず。「ルソーは一歩前に出て出席者から離れると、夢見るような憂鬱な目つきを会場に彷徨わせた。」 → 「ルソーは二歩下がって会員たちから距離を取り、夢見るような虚ろな眼差しを彼らに走らせた。」
・21/03/28 「les Champs-Élysées de Virgile, rêves d’un poète」は同格なので、「ウェルギリウスの描いた楽園、哲学者が実現を夢見る詩人の空想ですね」 → 「ウェルギリウスの描いたエリュシオンのような詩人の空想を、哲学者は実現したいようですね」に訂正。
・21/03/28 「でしたら、わたしの著作をお読み下さい。議長の机上に積み上げて下さい。いつかあなたがたが意見を募り、わたしの話す番が回って来た時には、わたしの本をお読み下さい。そこにわたしの意見、わたしの判断が書かれてあります」 → 「でしたら、わたしの著作を一揃い議長の机に置くことをお勧めします。そうして決議を取る時わたしの番が回ってきたら、本を開いて下さい。そこにわたしの意見と判断が書かれてあります」。意味が通るように文脈を意識して訳し直した。
・21/03/28 「frère vénérable」とは「le président」のことだと思われるので、「誓いの文句を読み上げて下さい、同志」 → 「宣誓文を読み上げていただけますか、議長」に変更。
・21/03/28 「du grand Dieu éternel, architecte de l'univers,」は同格なので、「私は永遠の神の存在にかけて、また宇宙と賢者と結社の創造主にかけて誓う」 → 「万物の創造主たる永遠の神の存在に懸けて、また先人たちに懸けて、わたしを包み込む敬すべき結社に懸けて」に訂正。
[註釈]
▼*1. [部品一つ一つの……]。
社会の構成員や結合についての記述は『社会契約論』に見える。第一篇第六章「どうすれば共同の力のすべてをもって、それぞれの成員の人格と財産を守り、保護できる結合の形式をみいだすことができるだろうか。この結合において、各人はすべての人々と結びつきながら、しかも自分にしか服従せず、それ以前と同じように自由でありつづけることができなければならない」等(古典新訳文庫『社会契約論』中山元訳)。献身については『エミール』などか?[↑]
▼*2. []。
[↑]
▼*3. []。
[↑]
▼*4. []。
[↑]
▼*5. []。
[↑]
▼*6. []。
[↑]