この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
著者略年譜・作品リスト

第百十六章 父と娘

 アンドレが並木道の端まで来ると、確かに元帥と父親が玄関前まで足を運び、待っているのが見えた。

 二人とも随分と機嫌がよさそうだ。腕を組んでいる二人の姿は、宮廷でもついぞお目に掛かったことがないほどにオレステスとピュラデスそのものであった。[*1]

 アンドレに気づいた老爺二人は見たところさらに喜びを募らせ、怒りと急いた足取りのせいで輝くばかりの美しさに磨きが掛かっていると、互いに指摘し合っていた。

 リシュリュー元帥がアンドレにしたお辞儀は、まるで公妾ポンパドゥール夫人に対するもののようだった。タヴェルネ男爵はその態度の違いを見逃さず、大喜びした。一方アンドレはこの敬意とも何食わぬお世辞とも取れる挨拶に戸惑いを見せた。事実、生き馬の目を抜く宮廷をくぐり抜けて来たリシュリューには、お辞儀一つに委細を詰め込むのはお手のもの。コヴィエルがトルコ語の単語一つにフランス語の文章を詰め込んだ如し。[*2]

 アンドレはリシュリューはもちろん父親にも格式張ったお辞儀を返し、極めて優雅に二人を階上の部屋に招き入れた。

 リシュリューは部屋の清潔さに感嘆した。家具も造りも粗末なその部屋で唯一洗練された点だった。アンドレは幾種類かの花とわずかな白のモスリンで、この侘住まいを宮殿ではなく神殿に作り上げていた。

 リシュリューが椅子に腰掛けた。大きな花模様があしらわれた、緑のインド更紗張りの椅子だった。その上には大きな中国製磁器の花瓶があり、アイリスやベンガル薔薇の混じった、アカシアや楓の束が香り豊かにこぼれている。

 タヴェルネ男爵もそうした椅子に坐った。アンドレは折り畳み椅子に坐り、チェンバロに腕を預けた。そこにも同じように、大きなマイセンの花器に花が生けられている。

「お嬢さん」とリシュリューが切り出した。「わしが来たのはほかでもない、陛下のお言葉を伝えに参ったのです。昨夜のリハーサルでは、素晴らしい歌声と完璧な音楽的才能を発揮して聴く人すべてを魅了したと絶賛なさっていました。あまり大っぴらに褒めて妬みを買ってもいけないので、あなたのおかげで陛下が満足なさったことを伝える役をわしが言いつかったというわけです」

 真っ赤になったアンドレがあまりに可愛らしいので、リシュリューは自分の思いを口にしているような気持ちになっていた。

「あなたほどの智性と容貌に恵まれた方には、宮廷広しといえども会ったことがないと、国王は断言していらっしゃいましたぞ」

「心根にも恵まれておるのを忘れるな」タヴェルネ男爵が嬉しそうに口を挟んだ。「アンドレは世界一の娘じゃわい」

 リシュリューは男爵が泣き出すのではないかと思ったほどだった。父親らしい感情と戦っているその姿を見て、元帥もいたく感動して声をあげていた。

「心根か! 心の奥に優しさが仕舞い込まれているかどうか判断できるのは貴殿しかおるまいからな。わしが二十代なら、この命も財産もお嬢さんの足許に投げ出しておるところなのだが」

 アンドレにはまだ宮廷流のお愛想を軽くいなす伎倆がなかったので、リシュリューは意味のない呟きしか聞くことが出来なかった。

「それでですな、国王は満足の印を送りたいとお考えになり、その役目をお父上の男爵にお言いつけになったのです。陛下には何とお返事すればよいでしょうかな?」

「閣下」アンドレの態度には一貫して、臣民なら誰もが国王に払うべき敬意しか存在しなかった。「陛下には感謝の念をお伝え下さい。お気に留めていただく価値もないわたくしのような者に時間を割いていただいただけでも大変な幸せでございます」

 凜とした声による一切躊躇いのないその答えを聞いて、リシュリューは見るからにのぼせ上がってしまった。

 貪るようにアンドレを見つめながら、手を取って恭しく接吻した。

「王室のような手に、妖精のような足……智性もあり、意思も強く、純真無垢……男爵よ、見事な宝ではないか!……ここにいるのは少女ではなく、王妃にほかならぬ……」

 この言葉を残してリシュリューはいとまを告げた。アンドレのそばに残されたタヴェルネ男爵は、誇りと期待にそっと胸をふくらませていた。

 古くさい理屈に縛られ、何も信じようとはせず、人を人とも思わぬこの老男爵が、呼吸もままならぬぬかるみに塡まり込みながらも愛情という空気をたっぷりと吸い込んでいるのを見れば、タヴェルネ氏の身も心も神によってほかの人間と同じ土からこね上げられたものだと誰もが考えるに違いない。

 この変わりようを説明できるのはタヴェルネ本人を措いてほかにいまい。

 曰く、「変わったのはわしではなく、時代の方だ」。

 男爵はアンドレの隣に坐ったまま、決まり悪そうにしていた。というのもアンドレは怖いほどに落ち着いて、奈落の底の海のように深遠な二つの眼で男爵を射抜いていたからだ。

「陛下がご満足の印をお父様にお預けになったとリシュリュー様は仰っていましたが?」

「うむ、陛下がお目を留めて下さるとは……想像したこともなかったわい。いやはや、結構なことじゃ!」

 前夜リシュリューから受け取った宝石箱をポケットからゆっくりと取り出した。目敏い子供が父親のポケットに入っているものに気づき、手よりも早く目を動かして菓子袋や玩具をさらけ出してなお、父親がポケットからゆっくりと取り出すようなものだ。

「これじゃ」

「まあ! 宝石……」

「気に入ったか?」

 それは高価な真珠飾りのセットだった。十二の大粒のダイヤが真珠の連と連を繫ぎ、留め金にもダイヤが施されていた。イヤリングに、ダイヤの並んだ髪留めもある。贈り物の中身は、少なく見積もっても三万エキュは下るまい。

「お父様!」

「何じゃ?」

「こんな立派なもの……国王はお考え違いをなさってます。これほどのものを身につけても、却って恥ずかしいだけですわ……こんな立派なダイヤに釣り合う衣装をわたくしが持っているとでもいうのですか?」

「好きなだけ嘆くがよい!」タヴェルネ男爵がちくりと刺した。

「お父様にはおわかりいただけないんです……この宝石を身につけられないことがどれだけ残念か……こんなに美しいのに」

「宝石をくださるくらいの方じゃぞ、ドレスくらい用意して下さるじゃろうが……」

「でもお父様……そんなご親切には……」

「わしの働きはそんなご親切に値しないと申すのか?」

「ごめんなさい、でも本心です」アンドレは頭を下げたものの、まだ迷っているように見える。

 アンドレは少し考えてから宝石箱を閉じた。

「このダイヤを身につけるつもりはありません」

「何故じゃ?」タヴェルネ男爵が焦りを見せた。

「だってお父様。お父様やお兄様には入り用のものが山ほどありますのに、二人が苦労なさっていることを考えれば、こんな贅沢なもの目が潰れてしまいますわ」

 男爵は笑顔になって手を握った。

「そんなことはもう気にせんでいい。国王はわしにもよくして下さったのじゃ。わしらを気に入って下さっている。陛下がくださった装身具をつけずに御前に出るようなことは、敬虔な臣民としても誠実な貴婦人としてもあってはならぬ」

「仰る通りにいたします」

「それでよい。だが進んでそうしてもらわなくては……宝石が気に入らぬのか?」

「ダイヤのことなどわかりません」

「真珠だけでも五万リーヴルはするのじゃぞ」

 アンドレが両手を重ねた。

「お父様、陛下がこんな贈り物をくださるなんておかしいわ。よく考えて下さい」

「何が言いたいのかわからぬな」男爵は素っ気なく答えた。

「わたくしがこの宝石をつけていたら、みんな訝しむに違いありません」

「何故じゃ?」男爵がなおも素っ気なく告げ、高圧的な冷たい目で睨むと、アンドレは目を伏せてしまった。

「気の咎めを見抜かれているからです」

「不思議なこともあるものよ。わしが気の咎めを感じていないというのに、お前が感じているとはのう――穢れなき乙女様々じゃの。どれだけ悪が隠されて誰にも気づかれなかろうとも、悪を知り悪を学ぶとは恐れ入った。うぶでおぼこな乙女様々よ。せいぜいわしのような老兵の顔を赤らめさせとくれ」

 アンドレは真珠のように美しい両手で困惑を隠した。

「ああ、お兄様」とアンドレは呟いた。「どうしてそんなに遠くに行ってしまったの?」

 タヴェルネ男爵にはこの呟きが聞こえたであろうか? 持ち前の鋭い洞察力で見抜いたであろうか? それは誰にもわかるまい。しかしながら男爵はすぐに声の調子を変えて、アンドレの手を握った。

「のう、アンドレよ。お前にとって父親は家族ではないのか?」

 翳りに覆われていたアンドレの美しい顔に、穏やかな笑みが広がった。

「わしが此処におるのは、お前を愛しているからだし、助言を授けるためではないのか? 兄の運命やわしの運命が好転したのはお前のおかげじゃ、そのことに誇りを感じてはおらぬのか?」

「嗚呼、そうでした」

 男爵は愛情を一心に込めた眼差しを娘に注いだ。

「よいか、さっきリシュリュー殿が言ったように、お前はタヴェルネ家の王妃になるであろう……国王陛下はお前に目をかけて下さった……王太子妃殿下もな」男爵は語気荒く続けた。「こうした高貴な方々をおそばでお喜ばせして、わしらの未来を築いてくれ……王太子妃にとってかけがえのない存在に……国王にとって、かけがえのない存在になってくれ!……お前の才能や美しさに敵うものなどおらぬ。欲心や野心のない、健やかな心を持っておるお前なら……どんな役でも演じられよう――シャルル六世の最期を慰めたあの娘は知っておるな? フランス全土で褒め称えられたその名を――フランスに王冠の威信を取り戻したアニェス・ソレルのことも知っておろう? フランス中が死後もその名声を崇めておる……アンドレよ、やんごとなき陛下の老後の支えとなるのだ……さすれば実の娘のように可愛がられ、美と勇気と貞節の賜物としてフランスに君臨することとなろう……」[*3]

 アンドレが目を丸くしたが、男爵は考える隙を与えなかった。

「玉座に群がる汚らわしい女どもも、一瞥するだけで追い払える存在となれ。宮廷を刷新するのだ。王国の貴族が美風や礼儀や慎みを取り戻せるかどうかはお前の影響力に懸かっている。お前はこの国を復活させる太陽となり、わが一門を導く栄冠となることが出来る、いや、ならねばならんのじゃ」

「でも、どうすればよいのでしょうか?」アンドレはただただ呆然としていた。

 男爵はしばし考え込んだ。

「アンドレよ、常々語って聞かせたではないか。世の人々に貞淑であることを認めさせるには、貞淑というものの良さを知ってもらわねばならん。貞淑というものが判決文のように不快で陰気で単調であっては、歩み寄ろうと本気で思っている者たちでも逃げ出してしまうわい。貞淑なだけではなく、媚びを駆使して釣ることじゃ。背徳さえも厭うでないぞ。お前のように賢くしっかりした娘なら簡単じゃろう。宮廷がお前の話題で持ちきりになるよう、美しくあれ。お前なしではいられぬよう、国王から気に入られよ。思いは秘めて慎ましくしておれ――ただし国王相手にはその限りではないが――そうしておれば、確実に手に入るはずの権力がすぐにでも手に入ることになろう」

「最後のご忠告がよくわかりません」

「わしに任せておけ。理解せんでもいいから実行することじゃ。お前のように賢く優しい女にはその方がいい。それはそうと、第一の点を実行するには、先立つものがいるじゃろう。この百ルイを使え。国王がわしらに目を掛けて下さったのだからな、その地位に相応しい身なりを整えるのじゃぞ」

 タヴェルネ男爵は娘に百ルイを渡し、その手に口づけしてから立ち去った。

 来た時と同じ並木道を大急ぎで戻ったので、キューピッドの木立の奥でニコルが貴族と囁き交わしているのには気づかなかった。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXVI「Le père et la fille」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年11月2日(連載第116回)


Ver.1 11/09/03
Ver.2 24/09/04

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[註釈・メモなど]

・メモ
※1エキュ=3リーヴルなので、3万エキュ=9万リーヴル。仮に1リーヴル=2000円としても1億8000万円相当の贈り物になる。ちなみに第六章でタヴェルネ男爵が言うには、リシュリュー元帥の年収が20万リーヴルでした。
※1ルイ=24リーヴルなので、100ルイ=2400リーヴル。

※最後の文章に出てくる「bosquet des Amours」は不詳。

[更新履歴]

・24/09/04 「Le maréchal admira cette élégante propreté, seul luxe de l'ameublement et de l'architecture de ce réduit.」。「seul」は「わずか」ではなく「唯一」。「元帥は部屋がすっきりしていることに驚いた。家具も調度も最低限しかない。」 → 「リシュリューは部屋の清潔さに感嘆した。家具も造りも粗末なその部屋で唯一洗練された点だった。」に変更。

・24/09/04 「Il s'assit sur un fauteuil de perse verte à grandes fleurs, au-dessous d'un grand cornet de la Chine, d'où tombaient des grappes parfumées d'acacia et d'érable, mêlées d'iris et de roses du Bengale.」。「pers」には形容詞で「青緑色の」の意味があるが、それだと「verte」が女性形であることの説明がつかなくなる(※「vert」は男性名詞で「緑色」、形容詞で「緑色の」の意)。ここは女性名詞「perse(インド更紗、ペルシア更紗)」の意であろう。「元帥は大きく花柄が象られた青緑色の椅子に腰を下ろした。」 → 「リシュリューが椅子に腰掛けた。大きな花模様があしらわれた、緑のインド更紗張りの椅子だった。」に訂正。

・24/09/04 「Quiconque l'eût vu, ce philosophe des anciennes théories, ce sceptique, ce dédaigneux, aspirer à longs traits l'air de la faveur dans son bourbier le moins respirable, se fût dit que Dieu avait pétri du même limon l'esprit et le cœur de M. de Taverney.」。「Dieu avait pétri du même limon」の「limon(泥)」とは悪い意味ではなく、「Dieu nous a tous pétris du même limon.(神は我らをみな同じ泥でこね上げた)」等の形で、「神は我らをみな等しく創造した」の意。「神はド・タヴェルネ氏の智性と心根も同じ泥でこね上げたのだと納得いただけよう。」 → 「タヴェルネ氏の身も心も神によってほかの人間と同じ土からこね上げられたものだと誰もが考えるに違いない。」に訂正。

・24/09/04 「– Pourquoi ? dit Taverney du même ton, avec un regard impérieux et froid qui fit baisser celui de sa fille.」。視線を下げたのはタヴェルネ男爵ではなくアンドレなので、「「何故じゃ?」タヴェルネはなおも素っ気なく、高圧的な冷たい目つきで娘を見下ろした。」 → 「「何故じゃ?」男爵がなおも素っ気なく告げ、高圧的な冷たい目で睨むと、アンドレは目を伏せてしまった。」に訂正。

・24/09/04 「Le baron rêva quelques instans.」は底本にないため、初出により補った。 → 「男爵はしばし考え込んだ。」

・24/09/04 「」 → 「」

・24/09/04 「」 → 「」

[註釈]

*1. [オレステスとピュラデス]
 ギリシア神話。オレステスはアガメムノンの息子。従兄弟のピュラデスの協力を得て、父の仇を討つ。オレステスが女神の呪いで狂気に陥ったときも見捨てなかったピュラデスの篤い友情は、しばしば同性愛的とも評される。[]
 

*2. [コヴィエル]
 Covielle。モリエール『町人貴族(Le Bourgeois Gentilhomme)』(1670)の登場人物。貴族に憧れる町人ジュルダン氏は、ダンスや哲学を習い豪華な衣装を着ては、笑い物になっていた。若者クレオントが娘のリュシルとの結婚の許しを請うたときも、クレオントが貴族ではないことを理由に拒む。クレオントの従者コヴィエルはジュルダン氏の貴族志向につけこんで、トルコの王子がリュシルとの結婚を望んでいると吹き込み、クレオントをトルコの王子として紹介する。そのときコヴィエルは、トルコ語と称してでたらめな単語を並べ立てた。その際にジュルダン氏に授けた地位「ママムーシ(mamamouchi)」は、それ以後フランス語で高官の蔑称、もしくは単に高官を意味するようになった。[]
 

*3. [シャルル六世の最期を慰めたあの娘/アニェス・ソレル]
 オデット・ド・シャンディベール(Odette de Champdivers,1390頃-1425頃)は、若くして精神疾患を患い狂気王と呼ばれたシャルル六世の世話をするためブルゴーニュ派によって用意された愛妾で、「小さな王妃(la Petite Reine)」と呼ばれた。
 アニェス・ソレル(Agnès Sorel,1422頃-1450)は、シャルル七世の公妾。前王シャルル六世の発狂に端を発した内乱に乗じて、イングランドはフランスに領地を広げていた。ジャンヌ・ダルクの活躍もあって、その後シャルル七世はイングランドを撤退させることに成功した。立場上アニェス・ソレルは国王の決定に影響を与えたとも言われている。[]
 

*4. []
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*5. []
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