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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
著者略年譜・作品リスト

第百十七章 生命の霊薬を完成させるためにアルトタスに必要なもの

 こうしたやり取りがあった日の翌日、午後四時頃、バルサモはサン゠クロード街の仕事部屋で、フリッツから渡された一通の手紙をとっくりと確かめていた。署名はない。ためつすがめつする。

「筆跡に見覚えがあるな。縦長、不揃い、幾らか震えていて、綴りに間違いが幾つもある」

 バルサモは手紙を読み返した。

 

『伯爵殿

 先の内閣が解散するしばらく前にご相談に与り、それよりかなり前にもご相談に伺った者です。本日は新たに助言をいただきたく、お伺いいたしたく存じます。今晩四時から五時の間に三十分だけ、お忙しい合間を縫っていただけないでしょうか?』

 

 これで読み返すのは二度か三度になる。バルサモは改めて考え始めた。

「ロレンツァに相談するほどのことではないな。第一、俺にだってまだ推測くらいは出来るはずだ。文字が長いのは貴族の特徴だ。不揃いで震えているのは、年取っている証拠だ。綴りの間違いが多いのは宮廷の人間だな。そうか、俺も馬鹿だな! リシュリュー公爵じゃないか。もちろんあなたのためなら三十分割きますよ、公爵閣下。一時間でも、一日でも。いくらでも時間をお使い下さい。もしや知らず知らずのうちに、俺の部下か使い魔にでもなったのですか? もしや俺たちは同じ成果を追い求めているのではありませんか? あなたは君主制の魂として、俺は敵として、共に励んで君主制を揺るがしてやいませんか? お待ちしておりますよ、公爵閣下、是非いらして下さい」

 バルサモは懐中時計を取り出し、公爵が来るまで後どのくらいあるのかを確かめた。

 その時、天井の軒蛇腹に呼び鈴が響き渡った。

「いったい何だ?」バルサモはぎょっと驚いた。「ロレンツァが呼んでいる。ロレンツァが! 俺に会いたがっている。問題でも起こったのか? それともこれまで散々困らされて来た、あの気まぐれがぶり返したのか? 昨日は物思いに沈んで、すっかり観念して、おとなしかったんだが。昨日は会いに行くのが楽しみだったんだが。可哀相に! 行くとするか」

 バルサモは刺繍入りのシャツのボタンを留め、レースの胸飾りの上に部屋着を羽織り、鏡を覗き込んで髪が乱れていないか確認すると、ロレンツァに応えて呼び鈴を一つ鳴らしてから階段に向かった。

 だがバルサモはいつものように一つ手前の部屋で立ち止まり、ロレンツァがいると思われる辺りに向かって腕を交わし、何物にも妨げられることのない強い意思の力で、眠れと命じた。

 それから自分のことも信用できないのか念には念を入れるつもりなのか、ほとんど目立たない建材の割れ目を通して室内を見つめた。

 ロレンツァは長椅子で眠っていた。そこでバルサモの意思に襲われたのだろう、何かにつかまろうとした恰好のままだった。これ以上に詩情を掻き立てる姿は画家には思い描けまい。バルサモの放った奔流の重さに押されて息を切らせたロレンツァは、ヴァン・ローの描くアリアドネ像の一つにも似て美しかった。胸を上下させ、上半身を波打たせ、顔は絶望と疲労に染められていた。[*1]

 そこでバルサモはいつもの通路を通って部屋に入り、立ち止まってロレンツァを見つめていたが、すぐに眠りから引き戻した。それほどに危険すぎた。

 ロレンツァは目を開けると瞳から煌めきをほとばしらせた。それからまだまとまらない頭の中を落ち着かさんとするかのように、髪を掌で撫でつけ、愛に満ちた口唇の潤いを抑え、記憶をくまなく探って散らばった断片を掻き集めた。

 バルサモは不安そうにそれを見つめていた。さっきまでは穏やかに慕っていたのに出し抜けに怒り出したり憎しみを爆発させたりすることにも、しばらく前から慣れてしまった。この日の反応は慣れたものとは違い、ロレンツァはいつものような憎しみは見せずに落ち着いてバルサモを迎え入れた。それを見たバルサモは、今回はこれまでのいつにも増して深刻だぞ、と悟った。

 ロレンツァは身体を起こし、一つうなずくととろけるような眼差しをバルサモにじっと向けた。

「どうかここにお坐りになって」

 いつになく甘美なその声に、バルサモはぶるぶると震え出した。

「坐っていいのか? 知っているだろう。俺の望みは、おまえの膝の上でこの生を過ごすことだ」

 ロレンツァは甘美な声のまま続けた。「どうぞお坐りになって。そんなに時間のかかる話じゃないけれど、坐って下さった方が話しやすいですから」

「俺のやることはいつもと変わらん。愛しい女の頼みは聞くまでだ」

 バルサモはロレンツァの横にある椅子に坐った。ロレンツァも長椅子に坐った状態で、天使のような眼差しを送った。

「許していただきたいことがあってお呼びしました」

「ロレンツァ、望みがあるなら何でも言ってくれ!」バルサモはいよいよぞくぞくとし始めた。

「一つだけで結構です。でもなまなかな気持ちで言うのではありません」

「言ってくれ、ロレンツァ。俺の全財産、人生の半分を捧げてもいい」

「時間を一分いただくだけで構いません」

 バルサモはこの会話の落ち着いた成り行きに気をよくして、想像力をふんだんに働かせて、ロレンツァが望んでいそうなことで、そのうえ自身が満足できそうなことをとうに頭の中で組み立てていた。

 ――女中か話し相手でも頼むつもりかな。大きな代償だが――何しろ秘密や同胞を危険にさらすことになるが、それでも頼みを聞いてやらんとな。こんなところで一人寂しいのは可哀相だ。

「話してくれ」バルサモは愛情溢れる笑顔を浮かべ、声に出した。

「寂しさと物憂さで死にそうなんです」

 バルサモは同意の印に溜息混じりにうなずいた。

「若くて楽しい時期がみるみるすり減ってゆくの。昼はすすり泣き、夜は恐怖にうなされて、孤独と不安のうちに年老いていくんです」

「おまえが選んだことだ、ロレンツァ。おまえが悲しい色に染め上げたこの生活が、女王様のお気に召すようなものじゃないのは、俺のせいじゃない」

「そうかもしれない。戻って来たのは私なのだし」

「わかってくれると助かる」

「あなたは敬虔なキリスト教徒だとよく言っていたけれど、実際には……」

「実際には、地獄行きの迷える魂だと言いたいのか? どうせそんなところだろう、ロレンツァ」

「言ってもいないことを邪推しないで」

「では話を続けてくれ」

「怒りと絶望の底に突き落として放っておいたりしないで、頼みを聞いて欲しいんです。私はあなたの役に立てるような人間じゃないの……」

 ロレンツァは言葉を切ってバルサモを見つめた。だがとっくに自信を取り戻していたバルサモの冷たい目と寄せた眉にぶつかっただけだった。

 脅すように睨まれて、ロレンツァは気力を奮い立たせた。

「自由は求めません。神の御心――というよりはあなたの意思によって――全能に等しそうなあなたの意思によって、生涯にわたって囚われを強いられることはわかっているから。お願いだから人と会わせて。あなた以外の人の声を聞かせて。外に出たい、歩き回りたい、生きていることを実感したいの」

「そう望まれているのはわかっていた」バルサモはロレンツァの手を握った。「だからずっと前から、俺自身の望みでもあった」

「だったら……!」

「だが、望みを叶えなかった原因はおまえにある。俺は恋に落ちた男の例に洩れず頭がおかしくなっていたからな、科学上の秘密と政治上の秘密を幾つかおまえに明かしてしまった。おまえは知ってしまったんだ。賢者の石を発見したアルトタスが生命の霊薬を探求していることを。そんな科学上の秘密を。そして俺と同志たちが君主制の顚覆を企んでいることを。そんな政治上の秘密を。一方がばれれば魔術師として火あぶり、もう片方なら大逆人として車責めだ。そんな状況でおまえは俺を脅したんだ、ロレンツァ。自由を取り戻すためなら何でもするし、ひとたび自由を手に入れたら、真っ先にすることは俺をサルチーヌに密告すことだと言ったじゃないか。違うか?」

「じゃあどうすればいいの! 私はかっとなると……私は……おかしくなってしまうんです」

「今は落ち着いているんだな? だったら話が出来ないか、ロレンツァ?」

「是非お願い」

「望み通りに自由を与えたら、従順で献身的な、落ち着いた穏やかな女になってくれるのか? 俺が何よりも望んでいるのはそのことだ」

 ロレンツァは答えなかった。

「端的に言おう。俺を愛するつもりはあるのか?」言い終えてバルサモは息を吐いた。

「守れるかどうかわからない約束は出来ません。愛情も憎しみも私たちがどうこう出来ることじゃない。あなたが善行を積めば、憎しみが薄れ愛情が生まれることもあるかもしれないけれど、すべては主の思し召しのまま」

「悪いがそんな希望的観測じゃそこまでおまえを信用できないな。絶対的で神聖な誓いが俺には必要なんだ。破れば冒瀆になるような、この世だけじゃなくあの世まで縛られて、この世で死んだ後でもあの世で劫罰を受けるような誓いが」

 ロレンツァは押し黙った。

「誓うか?」

 ロレンツァは両手に顔をうずめ、相反する感情に胸を詰まらせた。

「頼む、誓ってくれ、ロレンツァ。俺が言う通りに、厳粛に誓ってくれ。そうすればおまえは自由だ」

「何を誓えばいいの?」

「アルトタスの研究について知ったことを一切口外しないと誓ってくれ」

「わかった。誓います」

「俺が関わっている政治集会について知ったことを一言も他言しないと誓ってくれ」

「それも誓います」

「俺の言う通りのやり方で誓うんだな?」

「ええ。それで全部?」

「まだだ。これが一番大事なことなんだ、ロレンツァ。これまでの誓いは俺の命に関わることに過ぎなかったが、今から言うことは俺の幸福に関わることなんだ――絶対に俺から離れないと誓ってくれ、ロレンツァ。誓ってくれれば、おまえは自由だ」

 ロレンツァはひんやりとした刀で心臓を貫かれたように、ぶるぶると震えた。

「それはどんな風に誓えばいいの?」

「一緒に教会に行こう、ロレンツァ。一緒に聖体を拝領しよう。その聖体のパンに懸けて、アルトタスについて口外しないこと、俺の同志たちについて他言しないことを誓うんだ。絶対に俺から離れないと誓うんだ。二人でパンを割り、一つずつ口に入れて神に願おうじゃないか、おまえは俺を裏切らないことを、俺はおまえを幸せにすることを」

「お断りします。そんな誓いは神への冒瀆です」

「冒瀆的な誓いなどないよ」バルサモは悲しそうに答えた。「守るつもりもないのに誓うのならいざ知らず」

「誓うつもりはありません。魂を穢されたくはないですから」

「馬鹿な。誓ったからといって魂を穢されることはない。あるとすれば誓いを破って秘密を洩らした時だ」

「誓うことは出来ません」

「だったら今のままで辛抱してもらおうか」バルサモに怒りは見えなかったが、深い悲しみが滲んでいた。

 ロレンツァの顔が翳った。空を雲が横切って草原の花に翳りを落とすように。

「つまり、断るの?」

「いいや、ロレンツァ。むしろ断ったのはおまえの方だ」

 ロレンツァが身体を強張らせたのは、それを聞いて感じた苛立ちを抑えるためだろう。

「聞いてくれ、ロレンツァ。これがおまえのために俺が出来ることなんだ、それも精一杯のな。わかってくれ」

「聞かせてもらおうじゃない」ロレンツァは苦々しい笑みを浮かべた。「ご高説の気前の良さとやらは何処まで届くのかしら」

「神でも偶然でも運命でも好きな呼び方をすればいいが、俺たちは決してほどけぬように結ばれているんだ。だからこの世でそれを断ち切ろうなんて思わない方がいい。それが出来るのは死だけだ」

「そんな話はわかってる」ロレンツァは焦れったそうに言った。

「わかったよ、一週間だ。どれだけ費用がかかろうとも、どんな危険を冒すことになろうとも、一週間後には話し相手を連れて来てやる」

「何処に?」

「此処に」

「此処? こんな鉄格子の中、逃げようのない堅牢な扉の内側に? 囚人仲間でも連れて来るつもり? 何を考えてるの。そんなこと望んじゃいないわ」

「だがロレンツァ、俺に出来ることはそれしかないんだ」

 ロレンツァがはっきりと苛立ちを見せた。

「愛しいロレンツァ」バルサモは優しく語りかけた。「よく考えてくれ。二人に増えれば、避けられない苦しみももっと楽に支えられるはずだ」

「冗談じゃないわ。これまでは苦しむなら自分の分だけで、他人の苦しみは背負わずに済んでいたのに。これまで免れていたそんな試練を負わせようって魂胆なんでしょう。同じような犠牲者を連れて来て、同じように苦しみで痩せ細り青ざめ力尽きるのを私に見せるつもりなんでしょう。あなたが何処から出入りするのか知りたくて、同じようにして壁を叩いて、日に何度も扉を探す音を私に聞かせるつもりなんでしょう。その犠牲者が私と同じように、木や石を掘ったり剝がしたり出来ないかと爪を立て、涙で瞼を腫らし、心を殺された死体が二つに増えた時、あなたは得意の優しさを発揮して、『この二人は励まし合い、仲も良く、幸せだな』と仰るつもりなんでしょう。あり得ません、何千回でも繰り返します、あり得ません!」

 ロレンツァは激しく足を踏み鳴らした。

 バルサモが何とかなだめようとした。

「ロレンツァ、落ち着いてくれ。頼むから理性的に話をしよう」

「落ち着けだとか理性的になれだとか、この人は何を言ってるの? 拷問している囚人に向かって穏やかになれだとか、虐げている無辜の人間に向かって落ち着けだとか、それを虐待者が頼んでいるの?」

「そうだ。落ち着いてくれと頼んでいるんだ。おまえが幾ら怒ろうとも、俺たちの運命を変えることは出来ず、さいなむだけなのだからな。だから俺の頼みを聞いてくれ、ロレンツァ。俺がこれから用意する話し相手は喜んで囚われの身になるはずだ、何しろおまえの友情を勝ち得ることが出来るんだからな。おまえが恐れているような悲しみと涙にくれた顔ではなく、微笑みと明るさに満ちた顔を見れば、おまえだって眉間の皺を伸ばしてくれるはずだ。なあロレンツァ、俺の頼みを聞いてくれ。これ以上どう頼めばいいと言うんだ?」

「要は金で雇った人間を置いておこうという魂胆でしょう。あそこには気の違った哀れな女がいて、病気で間もなく死ぬからと伝えておくつもりね。病気をでっちあげて、『あの気違いと一緒に閉じ籠もって、献身的に世話してくれ。気違いが死んだら世話してくれたお礼をしてやる』とでも言うのかしら」

「ロレンツァ!」

「あら違った。間違ってた?」ロレンツァは皮肉たっぷりに続けた。「的外れだったみたいね。でも仕方ないじゃない、無知なんだもの。世間のことも世間並の感情のこともほとんど知らない。だったらこんなのはどう? あなたはその話し相手にこう言うの。『この気違いは危険な奴だから見張っていてくれ。行動の一つ一つ、考えていることの一つ一つを俺に知らせてくれ。起きている時も寝ている時も気を抜くな』って。それから好きなだけ黄金を与えるんでしょう? あなたには只みたいなものですものね、幾らでも作れるんだから」

「ロレンツァ、ヤケにならないでくれ。後生だから俺の気持ちをもっと酌んでくれないか。愛しいおまえに話し相手を用意するだけでも、莫大な財産を危険にさらすことになるんだぞ。憎しみに目が曇っていなけりゃぎょっとするほど莫大な……いいか、おまえに話し相手を用意すれば、俺の安全、自由、生命が危険にさらされるんだ。だがそれでも、おまえを退屈から免れさせるために、俺はそうした危険を冒すつもりだ」

「退屈ですって!」ロレンツァがぞっとするような荒々しい笑い声をあげたので、バルサモは震え上がった。「言うに事欠いて『退屈』ですって!」

「いや、『苦痛から』と言うべきだった。そうだな、おまえの言う通りだ、ロレンツァ。耐え難い苦痛だ。間違いない。だがそれでも耐えてくれれば、いつの日かその苦痛にも終わりが訪れるはずだ。いつの日かおまえは自由になり、幸せになれるはずなんだ」

「だったら修道院に戻らせてくれるの? それなら誓いを立てます」

「修道院だと!」

「祈りを捧げますから。真っ先にあなたのために、それから私のために。閉じ込められることに変わりはないけれど、あそこになら庭が、空気が、広い空間が、墓地がある。墓の間を歩き回って、自分の眠る場所を前もって探しておける。あそこになら、私とは別のそれぞれの苦しみを抱えた哀れな仲間がいます。修道院に帰してくれるなら、望む通りに幾らでも誓いましょう。修道院よ、バルサモ、修道院。この通り手を合わせてお願いします」

「ロレンツァ、ロレンツァ、俺たちは離れられないんだ。俺たちは結ばれている、この世で結ばれているんだ、わからないのか? この家の敷地から出たいという話は一切しないでくれ」

 バルサモの言葉には断固とした響きと共に躊躇うようなところもあったので、ロレンツァは言い返すことも出来なかった。

「つまりここから出してくれるつもりはないのね?」ロレンツァの声には覇気がなかった。

「それは出来ない」

「考えの変わることはないの?」

「変わることはない」

「だったら別のことにするわ」ロレンツァは微笑みを浮かべた。

「ロレンツァ! もう一度そんな風に笑ってくれ。そんな風に微笑まれたら、どんな望みでも叶えてしまいそうだ」

「ええ、どんな望みも聞いてくれるんでしょうね。ただしあなたがお気に召せば、でしょう? まあいいわ、せいぜい理性的になることにします」

「では望みを聞かせてくれ」

「さっき言ったわね、『いつの日か苦しみも失せ、自由になり、幸せになれるはずだ』と」

「確かにそう言ったし、天に誓おう。その日が来るのが待ちきれないのはおまえと一緒だ」

「その日がすぐ来たっておかしくないはずよ、バルサモ」ロレンツァがこれほど甘美な表情をしているのを、バルサモは催眠中にしか見たことがなかった。「うんざりなんです。わかるでしょう? まだ若いのにもう散々苦しんだんです! 愛しく思っているなら――ご自分で仰ったように愛しく思っているのなら――だったらわかってよ、今すぐそんな嬉しい日を迎えさせて」

「わかっているよ」バルサモは言い様もないほど動揺していた。

「これが最後のお願いになります、アシャラ。最初からそうしておけばよかった」

 ロレンツァは身体を震わせた。

「言ってくれ」

「あなたは可哀相な動物を使って実験しては、人類に必要なことだと説明していたけれど、時には毒を垂らしたり血管を開いたりして死を自在に操っていたことには気づいていました。どれもこれも穏やかで迅速な死でした。何の罪もない可哀相な動物たちが、私と同じく囚われていながら、死によって速やかに自由になれたんです。あの子たちにとっては、生まれて初めて受けた慈悲だったはず。だから……」

 ロレンツァは真っ青な顔をして口ごもった。

「だから何だ? ロレンツァ」

「だから、科学のために可哀相な動物たちにおこなっていたことを、人類愛に則って私におこなって下さい。心からあなたを祝福し、無限の感謝を込めてその手に口づけする愛しい私のために、願いを聞いて下さるというのなら、どうか言う通りにして下さい。ねえバルサモ、膝を突いてお願いする私のためにどうか、最期の時にはこれまでに見せたこともないほどたくさんの愛と喜びをお約束しますから、どうか願いを聞いて下さい。この世を離れる瞬間には混じり気なしの明るい笑顔を見せると約束しますから。だからバルサモ、あなたの母の魂と、我らが主の血と、この世とあの世に存在する慈悲と威厳と聖性を持つすべてのものに懸けて、お願いだから私を殺して! 殺して下さい!」

「ロレンツァ!」バルサモはひと声かけると、叫びながら立ち上がっていたロレンツァを抱きしめた。「ロレンツァ、おまえは気が立っているんだよ。おまえを殺すだって? 俺の命そのもののおまえを?」

 ロレンツァはバルサモの腕から必死に逃れてひざまずいた。

「頼みを聞いてくれるまで立ち上がりません。どうか痛みも苦しみもなく安らかに殺して頂戴。愛しているというのなら慈悲を見せて、これまでして来たように、眠らせて頂戴。ただし、もう起こさないで。そんな絶望は与えなくていい」

「ロレンツァ、俺の心が抉られてるのがわからないのか? そこまで苦しんでいるのか? ロレンツァ、頼むから絶望の淵から戻って来てくれ。そこまで俺を憎んでいるのか?」

「私が憎んでいるのは隷属、苦痛、孤独。みんなあなたがもたらしたものでしょう。だからそうね、あなたを憎んでいます」

「おまえを愛しているんだ。死ぬところなど見たくない。おまえが死ぬものか、どんなに難しい治療であろうとも俺が治してみせる。ロレンツァ、生きていることが楽しいと思えるようにしてやるから」

「無理よ。あなたのおかげで死が愛しくなったの」

「ロレンツァ、お願いだ。約束する。すぐに……」

「死か生かどちらかを選んで!」ロレンツァは怒りで我を忘れかけていた。「今日が最期の日。死を――休息を与えて下さらないの?」

「ロレンツァ、生きてくれ」

「だったら自由を」

 バルサモは言葉を失った。

「だったら死を。麻薬の一滴や剣の一突きで、穏やかな死を。眠っている間に殺して頂戴。休息を! 安らぎを!」

「生きて、耐えてくれ、ロレンツァ」

 ロレンツァはけたたましい笑いをあげて飛びすさり、胸許から細身の短刀を取り出した。それが手の中で稲光のようにきらめいた。

 バルサモは声をあげたが、間に合わなかった。飛びかかって腕をつかんだ時には、短刀は役目を果たしてロレンツァの胸に振り下ろされていた。短刀のきらめきと血潮を見て、バルサモは眩暈を覚えた。

 今度はバルサモがけたたましい叫びをあげてロレンツァを羽交い締めにし、短刀が再び振り下ろされようとする軌道を予測して、しっかりと刃を捕えた。

 ロレンツァがしゃにむに短刀を引き上げたので、鋭い刃がバルサモの指の間を走った。

 切れた手から血がほとばしる。

 そこでバルサモは取っ組み合いをやめて血塗れの手を伸ばし、威圧するような声で命じた。

「眠れ、ロレンツァ、眠れ!」

 

「眠れ、ロレンツァ、眠れ!」

 だが今は昂奮しているせいか、いつもほどあっさりと催眠はかからなかった。

「嫌です」ロレンツァはふらつきながらも再び自分を刺そうとした。「嫌です、眠るもんですか!」

「眠れ! 眠るんだ!」バルサモは改めて命じて、足を踏み出した。「眠れ、命令だ」

 今回はバルサモの意思の力が勝った。ロレンツァは何の反応も出来ずに溜息をつき、短刀を落として、ふらふらと長椅子に倒れ込んだ。

 目だけが開いていたが、反抗的な光も徐々に薄れ、やがて瞼が降りた。首筋の強張りも解けた。怪我をした鳥のように首はかしぎ、引き攣るような震えが全身に走った。ロレンツァは眠っていた。

 これでようやくロレンツァの服をはだけて怪我の具合を調べることが出来た。どうやら軽傷のようだ。それでも夥しい血が流れている。

 バルサモが獅子の目を押すと、バネが動き、羽目板が開いた。アルトタスの部屋の落とし戸を降ろす錘を外し、落とし戸に乗って実験室まで上った。

「ああ、そちか、アシャラ?」椅子に坐ったままアルトタスが声を出した。「よいか、儂は後一週間で百歳じゃぞ。それまでに子供の血か生娘の血が必要なのは知っておろうが?」

 だがバルサモはその言葉を聞かずに、錬金術の秘薬を仕舞ってある戸棚に駆け寄り、これまでに何度となく効力を発揮して来た壜の一つを摑んだ。それから落とし戸に戻ると、足で叩いてまた下に降ろした。

 アルトタスは戸口まで椅子を滑らせてバルサモの服を摑もうとした。

「聞かぬか、不孝者め! 一週間しても子供か生娘が手に入らなければ、霊薬を完成できずに、儂は死ぬのじゃぞ」

 バルサモが振り返った。ぴくりともしない老人の顔の真ん中に、燃え上がるような瞳が見えた。まるで目だけが生きているようだった。

「わかっています」バルサモが答えた。「わかっていますから落ち着いて下さい。欲しがっているものはきっと手に入りますから」

 バルサモがバネを外して落とし戸を上に戻すと、それは天井飾りのように溶け込んでしまった。

 すぐにロレンツァの部屋に駆け込んだが、部屋に戻った途端に、フリッツの鳴らした呼び鈴が響き渡った。

「リシュリュー殿か」バルサモは呟いた。「構わん。公爵だろうと重職貴族だろうと、待たせておけばいいさ」


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXVII「Ce qu'il fallait à Althotas pour compléter son élixir de vie」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年11月4日(連載第117回)


Ver.1 11/09/03
Ver.2 24/09/16

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[註釈・メモなど]

・メモ

[更新履歴]

・24/09/16 「Tourmentée et haletante sous le poids du rapide fluide que Balsamo lui avait envoyé, Lorenza ressemblait à une de ces belles Arianes de Vanloo, dont la poitrine est gonflée, le torse plein d'ondulations et de secousses, la tête perdue de désespoir ou de fatigue.」。「顔から絶望と疲労が失われた」わけではなく、「顔は絶望と疲労で途方に暮れた」なので、「胸をふくらませ、身体は躍動感に満ち、顔からは絶望も疲労も拭われていた。」 → 「胸を上下させ、上半身を波打たせ、顔は絶望と疲労に染められていた。」に訂正。

・24/09/16 「– Ne vous arrêtez qu'à ce que je dirai, monsieur, et ne supposez rien, je vous prie.」。「– Ne vous arrêtez qu'à ce que je dirai,」の部分は代名動詞の命令形なので、「私の言うことにだけ注意を払って(=言ってもいないことを気にしないで)」となる。「私の言うことだけを聞いて頂戴。憶測はやめて」 → 「言ってもいないことを邪推しないで」に訂正。

・24/09/16 「Un mouvement nerveux indiqua tout ce que la jeune femme comprimait d'impatience à ses paroles.」。ロレンツァは無言なのだから「言動」はおかしい。「comprimer」は「感情を抑える」。「ぴりぴりとした言動から、ロレンツァがその言葉に苛立っているのがわかった。」 → 「ロレンツァが身体を強張らせたのは、それを聞いて感じた苛立ちを抑えるためだろう。」に訂正。

・24/09/16 「– Ici ! s'écria-t-elle, derrière ces barreaux, derrière ces portes inexorables, derrière ces portes d'airain ? Une compagne de prison ?[!] Oh ! vous n'y pensez pas, monsieur, ce n'est point là ce que je vous demande.」。「inexorable」は「冷厳な」であって「ひんやりとして冷たい」ではないし、「airain」は鉄ではなく青銅で、しかも「d'airain」で「頑丈な・堅固な」である。「ここ? こんな柵の、冷たい門の、鉄格子の内側に? 囚人仲間を? 馬鹿なことを考えるのはおよしなさい。私はそんなこと望んじゃいないわ」 → 「此処? こんな鉄格子の中、逃げようのない堅牢な扉の内側に? 囚人仲間でも連れて来るつもり? 何を考えてるの。そんなこと望んじゃいないわ」に訂正。

・24/09/16 「Mon amie ! mon amie !」のような呼びかけは普通は訳さないものだが、少し先の方でロレンツァがこの表現を捕えて言い返す場面があるので、「よく考えてくれ」 → 「愛しいロレンツァ/よく考えてくれ」に変更。

・24/09/16 「je n'ai jusqu'à présent souffert que de ma propre douleur et non de la douleur d'autrui. Cette épreuve me manque et je comprends que vous vouliez me la faire subir.」。「私のことを恋しくて欲しがる試験」ではない。「私に欠けている試練」とは「他人の苦しみ」であろう。「これまでは自分のことだけで苦しんでいればよかった。他人の苦しみを思いやらずに済んでいたんです。私を手に入れたくてこんな試験をおこなって、私を従わせようとしているのはわかっています。」 → 「これまでは苦しむなら自分の分だけで、他人の苦しみは背負わずに済んでいたのに。これまで免れていたそんな試練を負わせようって魂胆なんでしょう。」に訂正。

・24/09/16 「– Il me demande du calme ! il me demande de la raison ! Le bourreau demande de la douceur au patient qu'il torture, du calme à l'innocent qu'il martyrise.」は三人称なので、原文通りに「落ち着け? 理性的になれ? 死刑執行人のくせして、拷問している囚人に向かって安らかになれと言ったり、虐殺している殉教者に落ち着けと言ったりしてるの?」 → 「落ち着けだとか理性的になれだとか、この人は何を言ってるの? 拷問している囚人に向かって穏やかになれだとか、虐げている無辜の人間に向かって落ち着けだとか、それを虐待者が頼んでいるの?」と三人称に直した。

・24/09/16 「une mercenaire」は「金で雇われた人間」を指し、「傭兵」だけを意味するのではない。「要するに私のそばに傭兵を置いておこうという魂胆でしょう。」 → 「要は金で雇った人間を置いておこうという魂胆でしょう。」に訂正。

・24/09/16 「dans l'intérêt de ~」は「~の興味で」ではなく「~のために」、「obéir aux lois」は「規則に従う」だけではなく文脈によっては単に「従う」の意味がある。「だから、あなたが科学的興味から可哀相な動物たちにおこなっていたことを、人の世の定めに則って私におこなって下さい。」 → 「だから、科学のために可哀相な動物たちにおこなっていたことを、人類愛に則って私におこなって下さい。」に変更。

・24/09/16 「Balsamo poussa l'œil du lion, le ressort joua, la plaque s'ouvrit ; puis, détachant le contrepoids qui faisait descendre la trappe d'Althotas, il se plaça sur cette trappe et monta dans le laboratoire du vieillard.」。第60章には、鉄輪を外して落とし戸を降ろし、エレベーターのように行き来する描写がある。「アルトタスの部屋の揚げ戸の重しにしていた錘をよけ、揚げ戸に乗っかり実験室まで上った。」 → 「アルトタスの部屋の落とし戸を降ろす錘を外し、落とし戸に乗って実験室まで上った。」

・24/09/16 「」 → 「」

・24/09/16 「」 → 「」

[註釈]

*1. [ヴァン・ロー]
 Jacob van Loo(1614-1670)は、オランダ生まれのフランスの画家。Charles-André van Loo または Carle van Loo(1705-1765)は、フランスの画家。アリアドネを描いた『Bacchus et Ariane』等の作品がある。van Loo 一族は代々画家なので、デュマが誰のどの作品を指していたのかは不明。[]
 

*2. []
 。[]
 

*3. []
 。[]
 

*4. []
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*5. []
 。[]
 

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