リシュリュー公爵は四時半にサン゠クロード街の家を出た。
バルサモのところに何をしに来たのかは、これからお読みになる文章の中で追々ご説明差し上げるつもりだ。
タヴェルネ男爵は娘の部屋で夕食を摂っていた。アンドレが父をもてなすことが出来るようにと、王太子妃がその日は丸一日休みをくれたのだ。
デザートを食べている最中にリシュリュー元帥が入って来た。いつものように吉報を携えて、フィリップには中隊ではなく聯隊を任せるとその日の朝に国王が断言していたのを、友人に報せに来たのである。
タヴェルネ男爵は荒々しく喜びを爆発させ、アンドレはリシュリューに延々と感謝を述べた。
そうして始まった会話は、このようなやり取りの後にあって然るべき会話だった。リシュリューは国王のことだけを、アンドレは兄のことだけを、タヴェルネはアンドレのことだけを話した。
アンドレは会話の中でマリー゠アントワネット王太子妃について話した。曰く、妃殿下が休暇を下すったこと。曰く、妃殿下の許にドイツから親戚の大公二人がいらしていること。曰く、妃殿下はウィーンの宮廷を偲ばせるような自由になる時間が欲しくて、身の回りの世話だけではなく侍女の世話まで望まなかったこと。これにはノアイユ夫人も震え上がり、国王の許へ嘆願しに行くほどだったこと。
タヴェルネ男爵は口に出して、アンドレの休暇を喜んでいた。曰く、自分たちに転がり込んで来た幸運や名声について様々なことを話し合うのに丁度いいと。これを聞いたリシュリューは、いとまを告げて父娘を水入らずにさせようと考えた。だがタヴェルネ嬢がうんとは言わなかったので、リシュリューもそのまま留まり続けた。
リシュリューは昔気質な人間だった。フランス貴族が陥っている窮状を、極めて雄弁に描き尽くした。曰く、かつての寵姫たちは恋人である国王に勝るとも劣らず気高く、その美しさや愛情によって君主を支配し、その生まれや機智や誠実で純粋な愛国心によって家臣たちを支配していたものだったが、貴族たちも今ではそうした女性たちを褒め称えることもなく、ぽっと出の寵姫たちや他国から潜り込んだ王妃たちの尻に敷かれる日々を堪え忍んでいるのだという。
アンドレはリシュリューの言葉を聞いて驚きを禁じ得なかった。数日前から聞かされていたタヴェルネ男爵の言葉と似通ったところが多々あったからだ。
続けてリシュリューが貞淑についての持論に取りかかると、それがあまりに精神論的で異教的でフランス的なものだったから、アンドレ嬢は次のように認めざるを得なかった。リシュリューの持論に従えば自分などちっとも貞淑ではないし、真の貞淑とはリシュリューの解釈のようにシャトールー夫人やラヴァリエール嬢やフォシューズ嬢が有していたような貞淑のことなのだと。
リシュリューは次々と推論や証拠を重ね、もはやアンドレにはさっぱり理解できないほどに冴え渡っていた。
会話はこんな調子で夜の七時頃まで続いた。
七時になるとリシュリュー元帥が立ち上がった。曰く、ヴェルサイユに国王のご機嫌を伺いに行かねばならぬので。
帽子を取りに部屋を行き来していると、ニコルに出くわした。ニコルにはリシュリューが何処にいようと何でもする準備があった。
「嬢ちゃんや」リシュリューはニコルの肩を叩き、「見送ってくれんか。ノアイユ夫人が花壇から摘み取らせた花束を運んで欲しい。デグモン伯爵夫人への届け物だそうだ」
ニコルはルソーのオペラに登場する村娘のようにお辞儀をした。
そこでリシュリュー元帥はタヴェルネ父娘にいとまを告げ、男爵と意味ありげな視線を交わすと、アンドレに向かって若者のようにきびきびとしたお辞儀をして部屋を出た。
ここで読者諸氏にお許しいただき、男爵とアンドレにはフィリップが賜ったばかりの厚遇についてしゃべらせておいて、我々は元帥の後を追うことにしよう。そうすれば、元帥がサン゠クロード街に何をしに行ったのか、また先述した恐ろしい瞬間に足を踏み入れることになった経緯も判明するはずである。
ついでに言えばタヴェルネ男爵はリシュリュー元帥以上に昔気質であったから、アンドレほど純粋でないとはいえ事態を理解した場合にはその耳を驚かせたに違いない。
リシュリューはニコルの肩に手を置いたまま階段を降りて、花壇に向かった。
「さて、嬢ちゃんや」リシュリューは立ち止まってニコルを真っ正面から見つめた。「嬢ちゃんには恋人がおるな?」
「あたしにですか、元帥閣下?」ニコルは真っ赤になって後じさった。
「おいおい、お前はニコル・ルゲではないのか?」
「間違いありませんけど……」
「では、ニコル・ルゲには恋人がいるじゃろう」
「そんな!」
「もちろんおるさ、なかなか感じの良い若造ではないか。コック゠エロン街で逢い引きしたうえに、ヴェルサイユの近くまで追っかけて来たであろう」
「閣下、お願いですから……」
「何とかという指揮官代理だ……さて嬢ちゃん、ニコル・ルゲ嬢の恋人は何という名前であったかの?」
名前までは知らないのでは、という期待を込めてニコルは答えた。
「言いかけたんなら仰って下さい」
「ボーシール殿といったな。そんな名前でないとは言わせぬぞ」
ニコルはおぼこぶって手を合わせたが、老元帥には何の効き目もなかった。
「どうやらトリアノンでも逢い引きしているようではないか。何と、王宮でなあ! 一大事だ。ちょっとした過ちでも追放されてしまうし、サルチーヌ殿は追放した宮殿の女子をサルペトリエール(Salpêtrière)に放り込んでいるそうじゃぞ」[*1]
ニコルは不安になり始めた。
「閣下、聞いて下さい、恋人だってのはボーシールさんが言い張っているだけなんです。あの自惚れ屋の悪党が。ですからあたしには後ろめたいことなんてありません」
「違うとは言わんがな、逢ったのが事実なのかどうかを教えてくれぬか」
「公爵閣下、逢ったことなんて証拠になりません」
「逢ったのが事実かどうか教えてくれ。答えなさい」
「閣下……」
「事実であれば、それはそれでよいではないか。責めているわけではない。そもそもわしは美しさを振りまく
「それって、見られてたってことですか?」
「わしが知っている以上はそうなのであろうな」
「でも閣下」ニコルはきっぱりと答えた。「そんなわけありません」
「わしは何にも知らんが、噂になっておるぞ。タヴェルネ嬢もさぞかし不愉快な印象を受けることじゃろうな。当然ながらわしはルゲ家よりもタヴェルネ家と親しくしておるゆえ、事態を男爵に一言伝えるのが義務だと考えておる」
ニコルは話の成り行きに怯え出した。「そんな非道いことやめて下さい。無実なのに、怪しいからってだけで追い出されてしまいます」
「確かに追い出されるじゃろうな。今頃は悪意のある何処ぞの人間が逢い引きにけちをつけて、無実であろうとなかろうと、ノアイユ夫人にご注進に及んでいることじゃろう」
「ノアイユ夫人にですか!」
「その通り。ことは重大だ」
ニコルは絶望から、片手をもう一方の手に叩きつけた。
「残念ではあるが、どうしようもあるまい?」
「さっき庇護者だって仰ったじゃないですか。それを証明して下さらないんですか? もうあたしを守ってはいただけないんですか?」ニコルは三十路女のようにしなを作った。
「馬鹿もん! 幾らでも守ってやることは出来る」
「でしたら閣下……?」
「うむ、だが守ってやりとうない」
「公爵閣下!」
「確かにお前は可愛い子だ。その美しい目がありとあらゆることを訴えかけて来おる。だがわしの目も衰えた。もうその目の意味を読み取ることが出来ぬのだ。かつてのわしならアノーヴルの一室に匿ってやったであろうが、今そんなことをしてもどうにもなるまい? もう噂にもなるまいしのう」
「でもこの間はアノーヴル館に連れて行ってくれたじゃないですか」ニコルは口惜しそうに食い下がった。
「お前の為を思ってそうしたからといって、それを責められる謂われはないぞ。そもそもラフテ殿がいなければ、髪を茶色く染めることも出来ず、トリアノンに入れなかったのだからな。もっとも、入っていなければ追い出されることにもならずに済んだであろうが。そもそもどうしてボーシール殿と逢い引きなどしおったのだ? それも厩舎の門のところで!」
「そんなことまでご存じなんですか?」ニコルは作戦を変えるべきだと悟って、リシュリューの言い分にすべてを合わせることにした。
「当たり前じゃ! わしもノアイユ夫人もすっかり知っておる。そのうえ今夜も逢い引きの約束をしておるのだろう……」
「仰る通りです。でもニコルの名に誓って、行くつもりはありません」
「忠告されたのだから当然じゃ。だがボーシール殿は忠告を受けていないのだから、出かけて行って捕らえられるぞ。そうるすと当然、泥棒だと思われて吊るされたり密偵だと思われて棒で打たれたりはされたくないじゃろうから、正直に打ち明ける方を選ぶであろう。ましてや『放して下さい、僕はニコル嬢の恋人なんです』と打ち明けるのはさぞ誇らしかろうからな」
「公爵閣下、あたし知らせに行って来ます」
「無理じゃな。誰にことづけるつもりかね? 密告者に頼むのか?」
「そっか!……そうですね」ニコルはがっかりしたふりをした。
「何とも見事な嘆きっぷりだわい!」リシュリューは感心した声を出した。
ニコルは両手で顔を覆いながらも、指の間に充分な間隔を取って、リシュリューの一挙手一投足を見逃すまいとしていた。
「たいしたもんだわい」リシュリューはそんな女らしい手管もすっかりお見通しだった。「わしがあと五十歳若かったらのう! だが、まあよい、ニコルよ、きっとそこから救い出してやる」
「公爵閣下、仰る通りにして下さったなら、この感謝は……」
「いらん、いらん。見返り無しで力を貸してやる」
「やっぱりいい人なんですね、閣下。心から感謝します」
「まだ感謝は早い。話を聞いてもおらんではないか。感謝は事情を知るまで取っておけ」
「アンドレお嬢様に追い出されないんなら、何だって構いません」
「参ったのう。そこまでしてトリアノンに残りたいのか?」
「一番の希望です」
「そういうことならニコル、その一番の望みをいっさい忘れてくれ」
「だけどもしばれなかったとしたら?」
「ばれようとばれまいと、どっちみち此処から出て行くことになる」
「どうしてですか?」
「今から説明する。理由その一、もしノアイユ夫人にばれれば、どんな影響力も及ばぬ。国王であってもお前を助けられん」
「ああ、国王にお会い出来ればいいのに!」
「それが出来れば苦労せんわい。理由その二、ばれなかった場合には、このわしが出て行かせる」
「閣下が?」
「すぐにでもな」
「どういうことなのか全然わかりません」
「説明した通りだ」
「つまり守って下さるということですか?」
「嫌なら構わぬぞ、まだ時間はある。一言言ってくれればよい」
「まさか! お願いします、公爵閣下」
「いいだろう」
「それで、どういうことですか?」
「説明するから聞いておれ」
「お願いします、閣下」
「お前を追い出させたり投獄させたりはさせぬ。それどころか裕福にして自由にしてやるつもりだ」
「裕福で自由にですか?」
「うむ」
「何をすればいいんですか? 早く教えて下さい、元帥閣下」
「ほとんど何もせんでよい」
「どういうことですか……?」
「やるべきことは今から指示する」
「難しいことですか?」
「ままごとみたいなもんじゃ」
「何か要りますか?」
「いやはや……世の理は知っておろう、ニコル。無からは無しか生まれぬぞ」
「でもそれをするのって、あたしの為ですか? 閣下の為ですか?」
リシュリューはニコルを見つめた。
「ふむ! 抜け目のない女子だわい!」
「ちゃんと説明して下さい」
「お前の為だ」リシュリューははっきりと答えた。
「へえ、そうですか」自分が必要とされていることはとっくにわかっていたので、もうびくびくしたりはしなかった。真実を見つけ出そうと脳みそを働かせ、例の如くに持って回った話しぶりで核心を探らせまいとするリシュリューの言葉に分け入った。「あたしの為にあたしは何をすればいいんですか?」
「そうだな。ボーシール殿が来るのは七時半だな?」
「ええ、大抵そうです」
「今は七時十分だ」
「そうですね」
「わしがそうしようと思えば、彼奴は捕まる」
「ええ、でもそうなさるつもりはないんですよね」
「うむ。お前が会って伝えてくれ」
「あたしが……?」
「それはそうと、そもそもその御仁を愛しておるのか、ニコル?」
「逢い引きの約束をしているんですから……」
「理由にはならんな。結婚を狙っておるのかもしれんしの。女というものは気まぐれだからのう!」
ニコルがけたたましい笑いをあげた。
「あたしがあの人と結婚するですって? ああ可笑しい!」
リシュリューは開いた口がふさがらなかった。宮廷でさえこれほど強気なご婦人には滅多にお目にかからない。
「そうすると、結婚する気はないが、愛しておると。却って好都合じゃわい」
「それでいいです。ボーシールさんを愛してるってことにするので、続きを聞かせて下さい」
「こいつはとんだあばずれだな!」
「そうかもしれません。それよりあたしが気になっているのは……」
「何じゃ?」
「ほかに何をすればいいのか知りたいんです」
「彼奴を愛しているというのなら、一緒に逃げればよい」
「そうしろって仰るんなら、そうするしかありませんけど」
「いやいや、そうではない。慌てるでない」
どうやら先走り過ぎたことにニコルは気づいた。それにまだ老獪なリシュリューからは秘密もお金も手に入れていないではないか。
そこでニコルは譲歩した。後でまた前に踏み出せばよい。
「閣下、指示をいただけますか」
「ではボーシール殿に会いに行って、伝えなさい。『二人のことがばれた。でも助けてくれる人がいるから、あなたはサン゠ラザールに入らずに済むし、あたしはサルペトリエールに入らずとも済む。逃げましょう』と」
ニコルはリシュリューを見つめた。
「逃げましょう、ですか」
リシュリューはこの訴えるような鋭い視線の意味を理解した。
「心配いらん。旅の費用は出してやる」
ニコルはもうあれこれ事情をたずねなかった。お金を受け取る以上は、すべて承知しなくてはならない。
ニコルがこの段階に進んだのを見て、リシュリューの方でも言うべきことをさっさと口にした。賭けに負けたらさっさと支払うのと同じだ。面倒ごとをいつまでも背負い込みたくはない。
「今は何を考えておる? 自分でわかっておるのか?」
「自分でもわからないんです。でも閣下はいろんなことをご存じですから、きっと見抜いてらっしゃるんじゃないかと思います」
「ニコルよ、お前が考えておるのはな、逃げ出したはいいが、たまたま用があったタヴェルネ嬢から夜中に呼ばれ、姿が見えないからといって急を知らされる可能性だ。つまりまた捕まることを懸念しておるのだ」
「まさか。そんなこと考えてません。何度も考え直してみたけど、やっぱりここに残りたいんです」
「だがボーシール殿が捕まったとしたら?」
「捕まらせておけばいいんです」
「だが口を割ったら?」
「割らせておけばいいんです」
「何だと!」リシュリューは不安になり始めた。「そうなったらお前は終わりだぞ」
「そんなことありません。アンドレお嬢様は優しい方ですし、あたしのことを心から可愛がって下さってますから、国王に口添えして下さるはずです。ですからボーシールさんに何かあっても、あたしには手を出せません」
リシュリュー元帥は口唇を咬んだ。
「ニコルよ、やはりお前は馬鹿者じゃ。アンドレ嬢と国王はそこまでの間柄ではない。それに、わしの言うことを聞かぬというのなら、すぐにでも連れ出すまでだ。わかったか?」
「あるべきところに耳がないわけでも角が生えてるわけでもありませんから、聞くだけ聞きますけど、結論を出すのは全部聞いた後にします」
「よかろう。では今からはボーシール殿と逃げるという線で考えてくれ」
「でもどうして逃げるだなんて危険な真似をさせたがるんですか? お嬢様が目を覚ますかもしれないだとか、あたしに用があるかもしれないだとか、あたしを呼ぶかもしれないだとか、そういった危険があるってご自分で仰ってたじゃないですか。あたしはそんなこと全然考えてもいませんでしたけど、経験豊富な閣下なら初めからわかっていたことですよね?」
リシュリューは再び口唇を咬んだ。それもさっきよりも強く。
「そこまで考えた時点で、防ぐことも考えておったわい」
「だったらお嬢様があたしを呼ばないようにするにはどうしたらいいんですか?」
「目を覚まさぬようにすればよい」
「夜中に何度も目を覚ます人なんですよ。無理です」
「つまりわしと同じ症状なのじゃな?」リシュリューは平然としていた。
「閣下と?」ニコルが笑いながら繰り返した。
「違うかな。わしも何度も目が覚めてしまうのでな。だがわしには不眠症の薬がある。アンドレ嬢も試してみてはどうじゃ。仮に本人が飲まんでも、お前が飲ませればよい」
「そんなことどうやって?」
「お前のご主人は毎晩寝る前に何を摂っておる?」
「摂ってるものですか?」
「うむ。そうやって喉が渇かぬようにしておくのが昨今の流行りじゃろう。
「お嬢様は夜寝る前には水一杯しかいただきません。感じやすくなっていらっしゃる時には砂糖を加えたり甘橙の花で香りをつけたりなさいますけど」
「そいつはいい! わしと同じだ。わしの薬で完璧に効きそうじゃのう」
「そうなんですか?」
「そうとも。わしはある液体を飲み物の中に何滴か垂らして、夜中にぐっすり眠っておるぞ」
ニコルはリシュリューの策略が何処に向かっているのか探ろうとして頭を悩ませた。
「返事がないな」
「お嬢様はその液体を持ってないんじゃないかと思ったんです」
「わしがお前にやる」
――そういうことか! ニコルは合点した。ようやく闇に光が射した。
「タヴェルネ嬢のコップに二滴垂らせばよい。二滴じゃぞ、いいな? それ以上でも以下でもない。そうすれば眠ってしまう。だからお前が呼ばれることもないし、それ故に逃げる時間も出来るじゃろう」
「それだけでいいんなら簡単ですね」
「では二滴垂らすのだな?」
「絶対そうします」
「約束だな?」
「だってそうした方があたしに都合よさそうですし。何なら鍵を掛けてお嬢様をしっかり閉じ込めて……」
「いかんいかん」リシュリューが慌てて遮った。「そんなことをしてはならん。むしろ寝室の扉は開けておけ」
「ああ!」ニコルは心がはじけたような声を出した。
それでニコルが理解したことをリシュリューも承知した。
「それでお終いですか?」
「お終いじゃ。もう行ってよいぞ。指揮官代理殿に荷造りするよう伝えるがいい」
「悲しい話ですけどね閣下、財布の準備なんて伝える必要もないんですよ」
「それはわしが何とかすると言ったはずだ」
「そうでした、閣下がご親切なことを忘れてました……」
「それで幾ら必要じゃな、ニコル?」
「何をするのにですか?」
「その液体を二滴垂らすのにだ」
「それでしたら閣下が仰ったように、あたしの為にやることなんですから、その為にお支払いいただくわけにはいきません。でも部屋の扉を開けておくにはかなり戴かなくてはなりません」
「よかろう、金額を申してみよ」
「二万フラン戴きます、閣下」
リシュリューは息を呑み、次いで嘆息した。
「ニコルよ、お前はきっと大物になるぞ」
「それくらいは戴かないと。あたしもだんだん、追っ手を掛けられるんじゃないかって気がして来ましたから。でも二万フランあれば遠くに行けます」
「ボーシール殿に知らせに行きなさい。その後で金を払ってやろう」
「閣下、ボーシールさんは疑り深いので、証拠がないとあたしの言うことを信じようとしないと思います」
リシュリューはポケットから銀行手形を一つかみ取り出した。[*2]
「前金だ。それからこの財布の中に百
「ボーシールさんに話して来たら、残りも計算して、ちゃんと戴けるんですよね?」
「いやいや! すぐにでも払ってやるぞ。しっかりした娘だの。そういうところはきっとお前の為になるぞ」
リシュリューは銀行手形にルイ貨と半ルイ貨も寄せ集め、約束通りの金額を支払った。
「さあ、これでよいな?」
「たぶん。だけど閣下、大事なものをお忘れです」
「液体か?」
「はい。閣下は小壜をお持ちですよね?」
「わしの分を自分で持ち歩いておるからの」
ニコルが微笑んだ。
「それから、トリアノンはいつも夜になると閉鎖されてしまいますけど、あたしは鍵を持ってません」
「わしが持っておる。第一侍従の肩書きでな」
「そうなんですか?」
「ほれ」
「何もかも出来すぎですね。まるで奇跡が続いたみたい。それじゃお別れです、公爵閣下」
「お別れじゃと?」
「だってそうでしょう、もう閣下とは会わないんですから。お嬢様が眠っている間にあたしは出て行くんですから」
「そうであったな、お別れだ、ニコル」
ニコルは北叟笑みながら深まりゆく闇の中へと姿を消した。
「今度も上手く行きそうじゃのう」リシュリューは独り言ちた。「だがどうやら、運命の奴もわしが年老いていることに気づき出し、協力を渋り始めたようだな。あの小娘にはまんまとしてやられたわい。だがまあいい、この借りはきっと返してやる!」
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXVIII「Les deux gouttes d'eau de M. de Richelieu」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年11月5日(連載第118回)
Ver.1 11/09/17
Ver.2 24/09/30
[註釈・メモなど]
・メモ
◆シャトールー夫人、ラ・ヴァリエール嬢、フォシューズ嬢(ベル・フォシューズ)……それぞれルイ15世、ルイ14世、アンリ4世の愛妾。
◆「sans l'eau de M. Rafté」という表現がわからない。英訳版では「without M. Rafte's assistance」となっている。ググってみると「水なくしては生存できない」みたいな言い回しばかり引っかかるので、「~がなくては…できない」というような意味か? 髪を染めた液体のこと? 「car, enfin, avoue que, sans l'eau de M. Rafté, qui a fait de toi une charmante brune, tu n'entrais pas à Trianon.」
◆1 double louis=48 livres、1 livre=1 franc、100 double louis=4,800 livres=4,800 francs
[更新履歴]
・24/09/29 「Taverney était, disait-il, charmé de cette liberté d'Andrée pour causer avec elle de tant de choses intéressant leur fortune et leur renommée.」。「disait-il」を「disait-on」と読み間違えていたが、タヴェルネ男爵が言っているのである。「先にもお伝えしたように、タヴェルネは喜んでいた。」 → 「タヴェルネ男爵は口に出して、アンドレの休暇を喜んでいた。」に訂正。
・24/09/29 「– Ah çà, petite, dit-il en s'arrêtant et en la regardant en face, nous avons donc un amant ?」。この「nous」は「君、お前」の意味であろう。「わしらには恋人がおるな?」 → 「嬢ちゃんには恋人がおるな?」に訂正。
・24/09/29 「que n'ai-je cinquante ans de moins !」。「数詞+名詞+de moins」で「〜だけ少なく」なので、「わしがまだ五十前であったらのう!」 → 「わしがあと五十歳若かったらのう!」に訂正。
・24/09/29 「– Eh bien, Nicole, ma jolie fille, raye ce premier point de dessus tes tablettes.」。「rayer ~ de ses tablettes」で「〜をなかったことにする・当てにしない・忘れてしまう」なので、「よかろう、お前の手帳の一番上に書いてあるその件を抹消してくれ」 → 「そういうことならニコル、その一番の望みをいっさい忘れてくれ」に変更。
・24/09/30 「– Oh ! oh ! monseigneur, je n'ai la tête ni plate ni cornue ; j'écoute, mais je fais mes réserves.」。「je n'ai la tête ni plate ni cornue ;」はイディオムかと思って調べたが辞書には載っていない。どうやら文字通り「『耳のないつるぺたな頭でもないし、耳の代わりに角が生えているわけでもない(→耳はあるので)』だからちゃんと聞く」という意味のようだ。「あたし頓馬でも薄のろありませんから。聞きますけど、条件があります」 → 「あるべきところに耳がないわけでも角が生えてるわけでもありませんから、聞くだけ聞きますけど、結論を出すのは全部聞いた後にします」に訂正。
・24/09/30 「Voici un acompte, dit-il, et dans cette bourse il y a cent doubles louis.」。「double louis」とは2ルイ相当の大型金貨のことだが、金貨百枚を財布に入れて持ち歩いていたということだろうか? 「『et』 dans cette bourse」とあるので、前金とは別にさらに財布の中に――と読めるのは確かだが……。「前金だ。この財布の中に百大型ルイある」 → 「前金だ。それからこの財布の中に百大型ルイある」に変更。
・24/09/30 「Et Nicole, en riant sous cape, disparut dans l'obscurité qui commençait à s'épaissir.」。「rire sous cape」で「ほくそ笑む・ひそかに笑う」。「ニコルはケープ越しに笑うと、深まりゆく闇の中へと姿を消した。」 → 「ニコルは北叟笑みながら深まりゆく闇の中へと姿を消した。」に訂正。
・24/09/30 「」 → 「」
・24/09/30 「」 → 「」
[註釈]
▼*1. [サルペトリエール]。
サルペトリエール(Salpêtrière)はもともと避難所として運用されていたが、やがて慣習法違反者や売春婦を収容する刑務所も併設され、のちに病院として運営される。[↑]
▼*2. [銀行手形]。
bilettes de caisse。フランスでは18世紀初頭から現金手形、銀行券など、現在の紙幣のルーツとなる紙幣や証券類が何度か発行されている。そのうち billets de caisse とは教義には Caisse d'escompte が1777年に発行した手形を指す。ただしそれでは時代が合わないので、広義に銀行手形・紙幣の意味だと解釈した。[↑]
▼*3. []。
。[↑]
▼*4. []。
。[↑]
▼*5. []。
。[↑]