ニコルは義理堅い娘であった。リシュリュー氏からお金を、それも先払いで受け取った以上は、その信頼に応えざるを得なかった。
だからニコルは鉄門まで駆け通したものの、着いた時には七時半を過ぎて四十分になっていた。
一方でボーシール氏は軍隊生活によって時間厳守が身についていたので、十分前から待ちぼうけを食らわされていた。
同じく十分ほど前にタヴェルネ男爵が娘の許を去り、タヴェルネ男爵が立ち去った後にはアンドレが一人きりで残されていた。そして一人きりになった後にはカーテンを閉めていた。
ジルベールはいつものように屋根裏部屋からアンドレを覗き見していた。正確に言うなら、目で貪っていた。ただしその眼差しが愛に焦がれていたのか憎しみに燃えていたのかは如何とも言い難い。
カーテンを引かれてしまっては、もう見るべきものは何もない。仕方がないのでジルベールは余所に目を向けた。
余所に目を向けると羽根飾りが目に留まり、指揮官代理ボーシール氏だと気づいた。どうやら待ち合わせまでの手持ちぶさたを紛らそうと、小さく口笛を吹きながら歩き回っている。
十分後、即ち七時四十分に、ニコルが現れた。ニコルと言葉を交わしたボーシール氏は、よくわかったというように首を縦に振り、プチ・トリアノンとの連絡通路である凹型並木道の方に遠ざかって行った。[*1]
ニコルの方は鳥のように軽やかにきびすを返した。
「ふうん!」ジルベールは独り言ちた。「指揮官代理殿と小間使い嬢が人目を避けて何かやり取りしていたな。これは面白いぞ」
ジルベールはもうニコルには興味がなかった。だがニコルには本能的に敵意を覚えていたので、ニコルに攻撃された場合に備えて返り討ちにしてやれるように、身持ちが悪いという証拠を幾つも集めておきたかった。
ジルベールの予想では、戦端は間もなく開かれる。だから兵士として準備怠りなく弾薬を集めておくのだ。
ニコルがトリアノンに来てまで逢い引きしているという事実は、そうした武器の一つになる。ジルベールのように抜け目のない兵士なら放っておくわけがないというのに、ニコルは軽率にも敵兵の足許に武器を落として行った。こうなると、目で見た証拠に加えて耳に残る証拠も集めておきたい。何かやましい言葉でもうまく耳で拾えれば、いざ勝負の時にニコルを圧倒できる。
そこでジルベールは素早く屋根裏から降り、台所の廊下を抜け、礼拝堂の階段を通って庭に出た。庭に出てしまえば何の心配もいらない。草むらの勝手を知ったる狐のように、隠れられる場所なら知り尽くしている。
まずはシナノキの陰に滑り込み、次いで
ニコルは確かにそこにいた。
ジルベールが茂みに潜り込んだ直後、聞き慣れぬ音が耳に飛び込んで来た。それは金貨が石に当たる音であり、実際に聞いてみないことにはそれがどんな音なのかを正しく想像できないような金属の響きだった。
ジルベールは蛇のように音を立てず、リラの植わった段丘状の生垣まで移動した。グラン・トリアノンとプチ・トリアノンを隔ているその凹型並木道には、五月の今はリラの香りが溢れ、通りがかった人に花が揺れて挨拶を送っていた。
その頃になると目も暗闇に慣れていたので、鉄門の内側の石畳に立ったニコルが、ボーシール氏の手の届かない場所を選んで、リシュリュー氏からもらった財布を空にしているのが見えた。
幾つものルイ金貨がこぼれ落ちて石畳の上で煌めきながら跳ねているのを、ボーシール氏は目を輝かせ手を震わせて、どうしてニコルがこんなものを持っているのかわからないままに、ニコルと金貨をじっと見つめていた。
ニコルが口を開いた。
「一緒に逃げようって何度も誘ってくれてたよね、ボーシールさん」
「そして結婚しようって」指揮官代理はのぼせあがっていた。
「それはまた後でね。今は逃げる話をしましょう。二時間後に出かけられる?」
「お望みなら十分後にだって」
「それは駄目。その前にしなきゃならないことがあって、それには二時間かかるから」
「十分後だろうと二時間後だろうと、言う通りにするとも」
「じゃあ五十ルイ取って」ニコルが五十ルイ数えて鉄格子越しに手渡すと、ボーシール氏は数えもせずに上着のポケットに突っ込んだ。「一時間半後に、四輪馬車でここに来て」
「だが……」
「嫌なら別に構わないけど。その代わりあたしたちの間にあったことはなかったことにしましょう。五十ルイ返して頂戴」
「尻込みしてるわけじゃない。ただ、将来が不安だからさ」
「誰の将来?」
「君の」
「あたしの?」
「ああ。五十ルイがなくなれば――いつかなくなってしまったら、君は不満を口にして、トリアノンを懐かしむようになって……」
「心配性なんだから。悲観しないでよ。不幸になりたがるような女とは違うから。くよくよしないで。この五十ルイがなくなったらなくなったで、その時はその時じゃない」
ニコルは財布に残っている五十ルイを鳴らした。
ボーシールの目に閃光が走った。
「君の為なら燃えさかる窯にでも飛び込んで見せるぞ」
「呆れた。そこまで頼んでないったら。とにかく決まりね、一時間半後には四輪馬車で此処に来て、二時間後には逃げましょう」
「決まりだ」ボーシールはニコルの手をつかんで引き寄せ、鉄格子越しに口づけした。
「落ち着いて! 気でも狂ったの?」
「いいや。惚れているだけさ」
「もう!」
「信じないのか?」
「まさか。信じてる。くれぐれもいい馬を連れて来てね」
「ああ、もちろんだ」
二人は別れた。
だが直後にボーシールが慌てて戻って来た。
「ちょっ! ちょっ!」
「どうしたの?」だいぶ遠くまで歩いていたニコルは、大声を出さずに声を通そうとして、手を口の周りに当てた。
「門だよ。乗り越えるつもりなのか?」
「馬鹿ね」ニコルが一人呟いた場所は、ジルベールから十歩と離れていなかった。
それからニコルは、ボーシールに聞こえるように、「鍵を持ってるから」と伝えた。
ボーシールは納得の声をあげると、今度こそ本当に立ち去った。
ニコルは小さく丸まり足音を忍ばせてアンドレのところに戻った。
一人残ったジルベールは、四つの問いを立てていた。
――ニコルが愛してもいないボーシールと逃げるのは何故か?
――ニコルがあれだけの大金を持っているのは何故か?
――ニコルが門の鍵を持っているのは何故か?
――ニコルはすぐにでも逃げられるのに、アンドレのところに戻ったのは何故か?
「ニコルがお金を持っているのは何故か?」という疑問の答えならすぐに見つかった。だがほかの疑問には答えが出ない。
自分の洞察力が役に立たないとわかって、生まれながらの好奇心、或いは経験から学んだ猜疑心と言ってもよいが、それが異常なまでに燃え上がり、夜の戸外がいくら寒かろうとも濡れた木陰で待ち受けて、幕開けを目にしたこの場面の結末を見届けてやろうと心に決めた。
アンドレは父をグラン・トリアノンの門(barrières)まで見送って来たところだった。一人物思いに耽って戻る途中、並木道からニコルが全速力で飛び出して来た。その並木道の先にこそ、最前までニコルとボーシール氏が策を講じていた鉄門(grille)があった。
ニコルはアンドレの姿を見つけて立ち止まると、アンドレの合図に従い後ろに回って部屋までお供した。
これが午後八時半頃のことであった。夜の闇が瞬く間に広がり、いつもより濃くなった。それもそのはず大きな黒雲が南から北まで流れて全天を覆っていた。見れば、広大な森の向こうにまで広がるヴェルサイユのさらに先、見渡せる限り遠くまで、ほんの少し前までは青い穹窿の上で煌めいていた星々を、どんよりとした経帷子が覆い尽くしている。
重たげな風が地面をかすめ、喉の渇きを訴えて恵みの雨や露を天に請うように頭を垂れていた花たちに、激しい息吹を送っていた。
いくら雲行きが危うくなろうとも、アンドレは歩みを早めなかった。それどころか悲しく物思いに沈むように、部屋へと続く階段をしぶしぶといった様子で上っていた。窓があるたびに立ち止まり、悲しみに呼応しているような空を見つめ、なかなか部屋に戻ろうとしなかった。
ニコルはじりじりと気を揉み始めた。もしやアンドレの気まぐれは約束の時間を過ぎても続くのではないだろうか。使用人の都合などお構いなしで思うがままに行動する主人に対し、当然の権利とばかりに呪詛の言葉を口の中で転がしていた。
それでもようやくアンドレは部屋の扉を開け、椅子に坐るというより倒れ込むと、中庭に面した窓を少し開けるよう穏やかにニコルに命じた。
ニコルは言われた通り窓を開け、さも気になるような顔をしてアンドレのそばに戻った。これが効果的なのは心得ていた。
「今夜は少しお加減が悪いんじゃありませんか。目が赤くて腫れてらっしゃるのに、それでいてきらきら輝いていますし。しっかりお休みなさらないといけないと思いますよ」
「そう?」アンドレは上の空で答えた。
そうしてつづれ織りのクッションに足を投げ出した。
ニコルはその姿勢を着替えの指示だと受け止め、髪のリボンや花飾りを外し始めた。髪と飾りとは言うが、熟練の解体業者でも壊すのに十五分はかかる大建築のような代物だ。
アンドレはその間中、一切の口を利かなかった。だからニコルは手を止めたい時に手を止めたし、アンドレが何かにひどく気を取られていたので、ぞんざいに髪ごと引っこ抜いても悲鳴をあげられることもなかった。
寝支度が済むと、アンドレは翌日の指示を出した。フィリップが届けてくれたはずの本を、朝からヴェルサイユに取りに行くこと。それに調律師をトリアノンに呼んでチェンバロを調律してもらうこと。
ニコルは平然として答えた。夜中に起こされなければ、朝早くお嬢様が目を覚ます前に起きて用事をすべて済ませておきます。
「それに明日は手紙を書かなくては」アンドレは聞かせるともなく呟いた。「フィリップに手紙を書けば、少しは気が楽になるわ」
「どうでもいいや」とニコルも内心で呟いた。「その手紙を出すのはあたしじゃないし」
そんなことを考えると、ニコルにはまだ良心が残っていたため、今になって主人の許を離れるのが不意に悲しくなり始めた。ニコルの思考や感情を目覚めさせてくれた素晴らしい主人だった。アンドレの存在は多くの記憶と結びついていたから、その繋ぎ目を断ち切るということは、その時点から稚い日々にまで連なっている鎖全体に衝撃を与えることになる。
身分も性格も違うこの二人の娘が、互いにまったく接点のない事柄をそれぞれ考えている間に、時間は過ぎて、アンドレの柱時計が、いつものようにトリアノンの時計より一足早く、九時の鐘を鳴らした。
ボーシールは約束通りに来るだろうから、落ち合う時間まで三十分しかない。
ニコルは出来る限り急いでアンドレの服を脱がせたが、思わず洩れた溜息を、アンドレは気にする素振りすらなかった。ニコルが夜着を着せても、アンドレは物思いに耽ったまま動きもせずに虚ろな目を天井に向けている。ニコルはリシュリューにもらった小壜を胸から取り出し、砂糖二粒をコップに入れて水を入れて溶かしてから、小壜の液体を二滴注いだ。心はまだ若くとも意思は既に強く、躊躇いはなかった。途端に水は濁り、うっすら白くなってから徐々に透き通って行った。
「お嬢様、お水の用意が出来ました。お洋服もたたんでおきましたし、灯火も入れておきました。明日は早起きしなくちゃなりませんから、もう寝んでも構いませんか?」
「ええ」アンドレが上の空で答えた。
ニコルはお辞儀をして、最後に一つこれまでのような溜息をつくと、控えの間と繋がっているガラス扉を閉めた。だが部屋には戻らずに、廊下に出られる小部屋に入り、控えの間から洩れる明かりの中、そっと抜け出した。その際リシュリューの指図に忘れずに従って、廊下の扉を戸枠に押しつけたままにおいた。
それから隣人たちに気づかれないように階段を降り、足音を忍ばせて玄関の石段を越えて庭園に出ると、鉄門で待つボーシール氏に会いに全力で駆け出した。
ジルベールは覗き場所から動いていなかった。二時間後には戻るとニコルが言っているのを聞いて、待っていたのだ。ところが予定から十分ほど過ぎたため、ニコルは戻って来ないのではと不安になり始めた。
その時だった。何かに追いかけられているように走ってくるニコルが見えた。
ニコルは鉄門に近づき、鉄格子の隙間から鍵を手渡した。ボーシールが門を開けた。ニコルが門の外に飛び出すと、鉄門が重い音を立てて再び閉まった。
次いで段丘の茂み(les herbes du fossé)まで鍵が飛んで来た。落ちた先は偶然にもジルベールが隠れていた場所の下だった。くぐもった落下音が聞こえたので、ジルベールにも落ちた場所がわかった。
その間にもニコルとボーシールは先に進んでいた。二人が立ち去ってゆく物音を聞いて、ジルベールはすぐに気づいた。それはニコルが望んだ四輪馬車のものではなく、馬の足踏みする音だった。ニコルは公爵夫人のように四輪馬車で出かけたかったのだろう、どうやらぶつくさ文句を垂れていたが、すぐに馬は四つの蹄で地面を蹴り、音を立てて舗道を駆けて行った。
ジルベールはふうと息をついた。
これで自由だ。ニコルから、いわば敵から解放されたのだ。アンドレは一人きりだ。恐らくニコルは出て行く時に、扉の鍵をそのままにしていっただろう。だとしたら、ジルベールはアンドレのところに忍び込むことが出来る。
そう思うと、恐れと躊躇いと好奇心と欲望でわけがわからなくなり、昂奮のあまり思わず飛び跳ねていた。
そしてニコルがやって来た道を反対にたどり、使用人棟に向かって駆け出して行った。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXIX「La fuite」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年11月6日(連載第119回)
Ver.1 11/10/01
Ver.2 24/10/13
[註釈・メモなど]
・メモ
[更新履歴]
・24/10/13 「Et elle étendit nonchalamment les pieds sur un carreau de tapisserie.」この場合の「carreau」とは「四角いクッション」のことなので、「そして絨毯の格子柄に無造作に足を伸ばした。」 → 「そうしてつづれ織りのクッションに足を投げ出した。」に訂正。
・24/10/13 et ferma[poussa] derrière elle la porte vitrée donnant sur la petite antichambre. ということはつまり、アンドレの寝室を出て控えの間に入ってその扉を閉めた、ということだと思われる。初出だとfermaではなくpoussaなので控えの間に通じている扉を押したことになり、むしろ初出の方がわかりやすい。
また、「laissant poussée contre le chambranle la porte du corridor」というのが具体的にどういう状態なのかわからなかったのだが、Web版 Larousse によると、laisser une porte, une fenêtre contre の見出しで laisser une porte, une fenêtre poussée contre le chambranle, sans la fermer complètement. の意味だとあった。やはり枠縁とドアの関係がわからないのだが、ドアが閉まっていない状態を指すことだけは間違いない。
また、第95章には、ニコルが「控えの間に隣接する右の脇部屋に小さな寝台を組み立てた。(dressa, séance tenante, un petit lit dans le cabinet de droite, donnant sur l’antichambre,)」とある。
「ニコルはお辞儀をして、最後に一つこれまでのような溜息をつくと、控えの間と繋がっているガラス扉を閉めた。だが部屋には戻らずに、廊下に出られる小部屋に入り、控えの間から洩れる明かりの中、そっと抜け出した。その際リシュリューの指図に忘れずに従って、廊下の扉を戸枠に押しつけたままにおいた。」 → 「ニコルはお辞儀をして、最後に一つまたしても聞こえないような溜息をつくと、控えの間に退ってガラス扉を閉めた。だが自分の部屋には戻らなかった。アンドレの控えの間に照らされた、廊下に隣接する例の小部屋に戻る代わりに、あっさりと脱走した。廊下の扉を半開きのままにして、リシュリューの指示を完璧に遂行することも忘れなかった。」に訂正。
・24/10/13 「Et, suivant en sens inverse le chemin que venait de faire Nicole, il prit sa course vers le pavillon des communs.」。ニコルが使用人棟から凹型並木道まで走って来た道を、逆向きに進んで使用人棟に戻ったのである。「やがてニコルが向かったのとは反対側の道をたどり、使用人棟に向かって駆け出した。」 → 「そしてニコルがやって来た道を反対にたどり、使用人棟に向かって駆け出して行った。」に訂正。
・24/10/13 「」 → 「」
[註釈]
▼*1. [凹型並木道]。allée creuse。chemin creux とは、両側を土手や垣根で盛られた道のこと。定訳はなく、英語では sunken lane(沈んだ小径)と呼ばれる。プチ・トリアノンとグラン・トリアノンとを隔てる道も chemin creux と名づけられ、Google map ではクル通りと表記されている。この allée creuse とはそのクル通りのことであろう。仕方がないので凹型並木道と直訳しておいた。このあとに出てくる、ジルベールが隠れた「リラの植わった段丘状の生垣(mur en terrasse surmonté d'une haie de lilas)」や、鍵が飛んで来た「溝の茂み・段丘の茂み(les herbes du fossé)」というのも、この凹型並木道の土手のことだと考えられる。
前章のリシュリューによれば逢い引き場所である厩舎の門から、凹型並木道に移動したことになる。
使用人棟 凹型並木道
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※凹型並木道の地図は Charles Picquet, Plan de la ville, du château et du parc de Versailles avec les palais et jardins du grand et du petit Trianon(1821)より。 [↑]
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