この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百二十章 天眼通

 一人になったアンドレは、ぼんやりとした状態から徐々に快復して、ニコルがド・ボージール氏の後ろに乗って逃げている頃には、ひざまずいてフィリップのためにひたむきに祈りを捧げていた。アンドレが掛け値のない深い愛情を注いでいるのはこの世にフィリップただ一人なのだ。

 ひたすら神を信じて祈っていた。

 アンドレの祈りは一つ一つの言葉がばらばらで意味を成さなかった。まるで魂が神の御許まで昇って神と一つに混じり合ったかのような、神々しい法悦を帯びていた。

 物質界から解き放たれた精神がひたすらに捧げる祈りには、利己的なところは微塵も含まれていなかった。ある意味では自己を捨てていた。絶望に駆られた遭難者が、自分のためではなく、遺されることになる妻や子供たちのために祈るのに似ていた。

 心に秘めたこのような痛みは、兄が発ってから生じていたものだが、そこに痛み以外のものが混入していなかったわけではない。アンドレの祈りは二つの異なる要素で出来ており、その一つは本人にもよくわからないものだった。

 それはいわば予感のようなもので、次なる災難が近づいているような兆しだった。古傷を襲う激痛のような感覚であった。持続していた痛みは消えたが、その名残はいつまでも尾を引き、傷が治っていなかった頃と同じように痛みを訴えていた。

 アンドレは自分が感じているものが何なのかを考えようとしなかった。フィリップのことだけを思い浮かべ、何かに心を揺さぶられてもまたいつしか兄のことを考えていた。

 ようやく立ち上がると質素な本棚から本を一冊抜き取り、手許に蝋燭を置いて本を読み始めた。

 選んだというよりも偶然手に取ったその本は、植物事典だった。これでは夢中になれないどころか、うつらうつらさせる効果しかない。薄かった雲がどんどん濃くなり、視界を覆った。アンドレは眠気と戦い、何度か意識を取り戻したが、すぐにまた睡魔に襲われた。そこで蝋燭を吹き消そうと顔を前に出したところ、ニコルが用意したコップに気づいた。アンドレは腕を伸ばしてコップをつかみ、溶けかけた砂糖をスプーンでかきまぜた。もうかなりの眠気に囚われながら、コップを口に近づけた。

 口をつけようとした途端、異様な衝動に手が震え、湿った塊が脳を直撃した。身体中にほとばしった衝撃に、アンドレは恐怖を覚えた。これまでに何度もアンドレの力を奪い、理性を破壊して来た、あの不思議な感覚が襲って来たのだ。

 コップを置くのがやっとだった。半開きの口から洩れた溜息よりほかには、呻き声一つあげることもなく、声も出せず目も見えず頭の働きも途絶えると、恐ろしい睡魔に襲われて、雷に打たれたように寝台に倒れ込んだ。

 死んだようにしばらく目を閉じていたが、不意に起き上がって目を見開いたまま、寝台から降りた。それはあたかも石像が墓石から降り立ったかのようであった。

 もはや疑う余地はない。アンドレはこれまで何度も魂を奪われて来たあの眠りに陥っていた。

 部屋を横切り、ガラス扉を開けて廊下に出た。石像が動いているようなぎくしゃくとしたぎこちない動きだ。

 階段の前まで来ると、躊躇うことも慌てることもせずに、一段一段降りて行った。やがて玄関の石段にたどり着いた。

 アンドレが一番上の段に足をかけたのと、ジルベールが一番下の段に足をかけたのは同時だった。

 白く厳かなアンドレの姿を見て、自分を迎えに来たのではないかと思わず錯覚しそうになった。

 ジルベールは後じさり、後じさったまま並木道の木陰に飛び込んだ。

 似たような状態のアンドレの姿を、タヴェルネの城館で見た時のことを思い出していた。

 アンドレがジルベールの前を通り過ぎた。触れられるほどの距離にいるのに、ジルベールを見もしなかった。

 ジルベールは混乱して口もきけずに、膝を突いた。恐怖を感じていた。

 どうしてこんな風にアンドレが外に出たのか理由はわからないながらも、目を離そうとはしなかった。だが理性は掻き乱され、血がこめかみで脈打ち、狂ったようになって、とても冷静には観察していられなかった。

 そこでジルベールは茂みにしゃがみ込んだまま、ただただ見守っていた。運命の恋に心を奪われて以来、ずっとそうして来たのだ。

 不意に外出の謎が解けた。アンドレは気が狂っているのでも錯乱しているのでもない。冷たく沈んだ足取りで、逢い引きに出かけるのだ。

 稲光が天を真っ二つに切り裂いた。

 青白い稲妻に照らされて、一人の男が菩提樹の陰に佇んでいるのが見えた。閃光がきらめいたのは一瞬だったが、黒い闇を背景にして、青白い顔と乱れた服装は確認できた。

 招くようにして腕を伸ばしている男の許に、アンドレは足を進めた。

 焼きごてに胸を刺されたような痛みを感じて、ジルベールはもっとよく見ようとして立ち上がった。

 その瞬間、再び稲光が夜空に走った。

 バルサモだ。汗と埃にまみれたバルサモが、どういう手段を用いてか、トリアノンに侵入していたのだ。蛇に睨まれた蛙のように、アンドレは運命に引き寄せられるように無抵抗のままバルサモに近づいて行った。

 すぐ手前でアンドレが立ち止まった。

 手をつかまれたアンドレが身体を震わせた。

「見えるか?」

「はい。でもこんな風にお呼び立てされては、死んでしまいます」

「それは悪かった。だが俺も焦っていてな。冷静ではなくなっていたのだ。気が狂いそうで、死んでしまいそうなんだ」

「苦しんでらっしゃるのですね」触れられた手を通して、バルサモの苦しみが伝わって来た。

「そうだ。苦しんでいる。救いを求めて会いに来た。俺を助けられるのはお前だけなんだ」

「おたずね下さい」

「もう一度確認するが、見えるんだな?」

「何もかも」

「俺について来られるか?」

「意思の力で導いて下されば」

「こっちだ」

「ああ、パリにいます。大通りをたどって、街灯が一つしかない路地に入りました」

「そこだ。進んでくれ」

「控えの間にいます。右側に階段があります。ですが壁の方に連れて行かれました。壁が開きました。そこに階段が……」

「上れ! そこが俺たちの部屋だ」

「ここは寝室です。獅子の皮と武器があります。あっ、暖炉の羽目板が開きました」

「進め。今、何処にいる?」

「変わったお部屋です。出口もなく、窓には鉄格子が。それにしても、随分と散らかってます」

「そんなことより、部屋は空っぽじゃないか?」

「空っぽです」

「暮らしていた人間のことはわかるか?」

「はい。その人が触れたものか、その人の持ち物かその人の一部を下されば」

「わかった。ここに髪がある」

 アンドレは髪を取って身体に近づけた。

「あっ、この人には会ったことがあります。パリの方に逃げているところです」

「そうだ。いったい二時間前に何があったのか、どうやって逃げ出したのかわかるか?」

「待って下さい。その人は長椅子に横たわっていました。はだけた胸に傷が見えます」

「いいぞ。目を離すなよ」

「眠っています。目を覚ましました。周りを見回して、手巾を取り出し、椅子に上りました。手巾を窓の鉄格子に結んでいます。ああ、神様!」

「死のうとしたのか?」

「そうです。心を決めていました。ですがいざ死のうと思うと怖くなり、鉄格子に手巾を結んだまま、椅子から降りました。ああ、何てことを!」

「何だ?」

「涙を流して苦しみに身をよじり、壁の角を探して頭をぶつけようとしています」

「畜生! 何てこった!」

「あっ! 暖炉に駆け寄りました。大理石製の獅子が両脇に象られています。獅子の頭で額を割ろうとしました」

「それで?……どうなった?……アンドレ、見るんだ!」

「立ち止まりました」

 バルサモはほっと息をついた。

「見つめています」

「何を見つめているんだ?」

「獅子の目に血がついているのに気づきました」

「何だと!」

「ええ血です。ですが頭をぶつけてはいません。どういうことかしら? これはこの人の血ではなく、あなたの血です」

「俺の血だと!」バルサモは混乱で目が回りそうになった。

「そうです、あなたの血です。短刀か短剣のようなもので指を切ってしまい、血塗れの手で獅子の目を押したのが見えます」

「そうだ。その通りだ……だがどうやって逃げたのだ?」

「待って下さい、血を観察して、考えているのが見えます。あなたが指を押し当てたところに、自分の指を押し当てました。あっ! 獅子の目が引っ込んで、バネが動きました。暖炉の羽目板が開きました」

「しくじった! 何て馬鹿なんだ俺は! 自分で自分を裏切ってしまったのか……それで出て行ったんだな? 逃げたんだな?」

「どうか許してあげて下さい。ひどく不幸せだったのです」

「今は何処にいる? 何処に行ったんだ? 追うんだ、アンドレ!」

「待って下さい、武器と毛皮のある部屋で足を止めました。戸棚が開いています。普段は戸棚にしまってある小箱が卓子に置かれています。小箱に気づいて手に取りました」

「小箱の中身は?」

「あなたの書類だと思います」

「どんな箱だ?」

「青い天鵞絨が張られていて、鋲と留め金と錠は銀で出来ています」

「畜生!」バルサモは怒りのあまり足を踏み鳴らした。「すると小箱を持って行ったのはあいつだというんだな?」

「そうです、間違いありません。階段を通って控えの間に降り、扉を開け、鎖を引いて門を開け、出て行きました」

「遅い時間か?」

「遅いと思います。もう夜ですから」

「ありがたい! 出て行ったのが俺の戻って来るちょっと前であるのなら、すぐに追いつける。追いかけろ、追うんだ、アンドレ」

「家から出ると、気違いのように走り出しました。狂ったように大通りに出て……走って……走って、止まらずに走ってゆきました」

「どっちに行った?」

「バスチーユの方へ」[*1]

「まだ見えるか?」

「はい。まるで狂人のようです。何度も通行人にぶつかりました。ようやく足を止めて、現在地を知ろうとして……道をたずねています」

「何と言っている? 耳を澄ませろ、聞くんだ、アンドレ。お願いだから一言も聞き洩らすんじゃない。道をたずねていると言ったな?」

「はい、黒い服を着た男に」

「何をたずねたんだ?」

「警察の場所です」

「糞ッ! するとただの脅しではなかったのか。返事は返って来たのか?」

「はい」

「それからどうした?」

「少し戻って、斜めに通った道を進んで、大広場を横切っています」

「道順から言って、ロワイヤル広場だな。狙いがわかるか?」

「急いで下さい! 密告しようとしています。あなたより先にド・サルチーヌ氏に会われたら、あなたは終わりです!」

 バルサモはぞっとするような叫びをあげて、藪に駆け込み、亡霊のように開閉された小門をくぐって、外で地面を蹴っていたジェリドに飛び乗った。

 声と拍車を掛けられて、ジェリドは矢のように一直線にパリを目指した。後には舗道を叩く微かな音しか聞こえなかった。

 アンドレはぴくりともせず無言のまま、青ざめて立ち尽くしていた。だがまるでバルサモが魂も一緒に持って行ってしまったかように、やがてぐらりと揺れて崩れ落ちた。

 バルサモはロレンツァを追いかけるのに夢中のあまり、アンドレの目を覚ますのを忘れていたのだ。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXX「La double vue」の全訳です。


Ver.1 11/10/01

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[註釈・メモなど]

 ・メモ

 ・註釈

*1. [バスチーユの方へ]。ロレンツァの逃走経路については、第五十五章のサン=クロード街地図を参照。→地図へ。右図真ん中あたりにある「Place Royale」と書かれてある四角が「ロワイヤル広場」です。[]
 

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