一人になったアンドレは、不意に囚われていた精神的な虚脱状態からだんだんと抜け出し、ニコルがボーシール氏の馬の後ろに跨って逃げている頃には、ひざまずいてフィリップのためにひたむきに祈りを捧げていた。アンドレが掛け値のない深い愛情を注いでいるのはこの世にフィリップただ一人なのだ。
ひたすら神を信じて祈っていた。
アンドレの祈りは一つ一つの言葉が連なったものではなく、まるで魂が神の御許まで昇って神と混じり合ったかのような、神々しい法悦を帯びていた。
物質界から解き放たれた精神がひたすらに捧げる祈りには、利己的なところは微塵も含まれていなかった。希望をなくした遭難者が自分のことは諦めて、遺される妻や子供たちのために祈るのに似て、言うなればアンドレは自分自身のことは捨て置いていた。
胸の奥のこうした痛みは、兄が発ってから生じていたものだが、そこに痛み以外のものが混入していなかったわけではない。アンドレの祈りは二つの異なる要素で出来ており、その一つは本人にもよくわからないものだった。
それはいわば予感のようなもので、間近に災難が迫っているような兆しだった。古傷を襲う激痛のような感覚であった。持続していた痛みは消えたが、その名残はいつまでも尾を引き、傷が治っていなかった頃と同じように痛みを訴えていた。
アンドレは自分が感じているものが何なのかを考えようとしなかった。フィリップのことだけを思い浮かべ、何かに心を揺さぶられてもまたいつしか兄のことを考えていた。
ようやくのことで立ち上がると、ささやかな書棚から本を一冊抜き取り、手許に蠟燭を置いて本を読み始めた。
選んだというよりも偶然手に取ったその本は、植物事典だった。この種の本は集中力を高めるには向いていないどころか、むしろ鈍らせる効果しかない。薄かった雲がどんどん濃くなり、視界を覆った。アンドレは眠気と戦い、何度か意識を取り戻したものの、すぐにまた睡魔に襲われた。そこで蠟燭を吹き消そうと腰を屈めたところ、ニコルが用意していたコップに気づいた。アンドレは腕を伸ばしてコップをつかみ、溶けかけた砂糖をスプーンでかき混ぜると、半醒半睡に近い状態でコップを口に近づけた。
口をつけようとした途端、異様な衝動に手が震え、じっとりとした重みが脳にのしかかり、霊気の奔流が神経を駆け巡るのを感じて、アンドレは恐怖を覚えた。これまでに何度もアンドレの力を押さえ込み、理性を破壊して来た、あの得体の知れない不可思議な感覚が襲って来たのだ。
コップを皿に置くのがやっとだった。半開きの口から洩れた溜息よりほかには、呻き声一つあげることもなく、声も視力も頭の働きも奪われて身体の自由も利かないまま、雷に打たれたように寝台に倒れ込んだ。
だがこの仮死状態は別の存在へと至る一時的な通過点に過ぎなかった。
永遠に閉ざされたかに思えた目をした死体が、不意に起き上がると、見開いた目を微動だにさせずに、墓碑から降り立つ大理石像のように寝台から降り立った。
もはや疑う余地はない。アンドレはこれまで何度も魂を奪われて来たあの眠りに陥っていた。
アンドレは部屋を横切り、ガラス窓のついた扉を開けて廊下に出た。石像が動いているようなぎくしゃくとしたぎこちない動きだ。
階段の前まで来ると、躊躇うことも慌てることもせずに、一段一段降りて行き、やがて玄関の石段にたどり着いた。
アンドレが一番上の段に足をかけたのと、ジルベールが一番下の段に足をかけたのは同時だった。
白く厳かなアンドレの姿を見て、自分を迎えに来たのではないかと思わず錯覚しそうになった。
ジルベールは後じさり、後じさったままクマシデの生垣に飛び込んだ。
似たような状態のアンドレの姿を、タヴェルネの城館で見た時のことを思い出していた。
アンドレがジルベールの前を通り過ぎた。触れられるほどの距離にいるのに、ジルベールを見もしなかった。
ジルベールは打ちのめされて心が折れたように膝を突いた。恐怖を感じていた。
何故こんな時間に出かけるのだろう。それが知りたくてアンドレを目で追った。だが理性は掻き乱され、血潮はこめかみで激しく脈打ち、観察には冷静な判断力が必要であるべきなのにすっかり逆上せてしまった。
だからジルベールは茂みにしゃがみ込んだまま、ただただ見守っていた。運命の恋に心を奪われて以来、ずっとそうして来たように。
不意に外出の謎が解けた。アンドレは気が狂っているのでも錯乱しているのでもない。冷たく沈んだ足取りで、逢い引きに向かっていたのだ。
稲光が天を切り裂いた時のことだ。
青白い稲妻に照らされて、一人の男がシナノキ並木の暗がりに佇んでいるのが見えた。閃光がきらめいたのは一瞬だったが、黒い闇を背景にして、青白い顔と乱れた服装は確認できた。
招くように腕を伸ばしている男の許に、アンドレが足を進めた。
ジルベールは焼きごてに胸を貫かれたような痛みを感じながら、もっとよく見ようとして立ち上がった。
その瞬間、再び稲光が夜空に走った。
バルサモだ。汗と埃にまみれたバルサモが、どういう手段を用いたものか、トリアノンに侵入していたのだ。そして今、バルサモがアンドレを招き寄せている。蛇に魅入られた小鳥のように為すすべもなく、アンドレはバルサモに魅入られていた。
バルサモのすぐそばでアンドレが立ち止まった。
手をつかまれたアンドレが身体を震わせた。
「見えるか?」
「はい。でもこんな風にお呼び立てされては、死んでしまいます」
「それは悪かった。だが俺も焦っていてな。自分でもどうにもならんのだ。頭がおかしくなって、死んでしまいそうなんだ」
「苦しんでらっしゃるのですね」触れられた手を通して、バルサモの苦しみが伝わって来たのだ。
「そうだ。苦しんでいる。救いを求めて会いに来た。俺を助けられるのはお前だけなんだ」
「おたずね下さい」
「もう一度確認するが、見えるんだな?」
「何もかも」
「俺について来られるか?」
「意思の力で導いて下されば」
「こっちだ」
「ああ、パリにいます。大通りをたどって、街灯が一つしかない路地に入りました」
「そこだ。進んでくれ」
「控えの間にいます。右側に階段があります。ですが壁の方に連れて行かれました。壁が開きました。そこに階段が……」
「上れ! そっちで間違いない」
「ここは寝室です。獅子の皮と武器があります。あっ、暖炉の背板が開きました」
「進め。今、何処にいる?」
「変わったお部屋です。出口もなく、窓には鉄格子が。それにしても、随分と散らかってます」
「そんなことより、部屋は空っぽじゃないか?」
「空っぽです」
「暮らしていた人間のことはわかるか?」
「はい。その人が触れたものか、その人の持ち物かその人の一部を下されば」
「わかった。ここに髪がある」
アンドレは髪を手に取り身体に近づけた。
「あっ、この人には見覚えがあります。あの時はパリに向かって逃げていたところでした」
「その通りだ。いったい二時間前に何があったのか、どうやって逃げ出したのかわかるか?」
「待って下さい。わかりました、その人は長椅子に横たわっていました。はだけた胸に傷が見えます」
「いいぞ。目を離すなよ」
「眠っています。目を覚ましました。周りを見回して、ハンカチを取り出し、椅子に上りました。ハンカチを窓の鉄格子に結んでいます。ああ、神様!」
「まさか死のうとしたのか?」
「そうです。心を決めていました。ですが、いざ死のうと思うと怖くなり、鉄格子にハンカチを結んだまま、椅子から降りました。ああ、何てことを!」
「何だ?」
「涙を流して苦しみに身をよじり、壁の角を探して頭をぶつけようとしています」
「畜生! 何てこった!」
「あっ! 暖炉に駆け寄りました。大理石製の獅子が両脇に象られています。獅子の頭で額を割ろうとしました」
「それで?……どうなった?……アンドレ、見るんだ!」
「立ち止まりました」
バルサモはほっと息をついた。
「見つめています」
「何を見つめているんだ?」
「獅子の目に血がついているのに気づきました」
「何だと!」
「ええ、血です。ですが頭をぶつけてはいません。どういうことかしら? これはこの人の血ではなく、あなたの血です」
「俺の血だと!」バルサモは混乱で目が回りそうになった。
「そうです、あなたの血です。ナイフか短剣のようなもので指を切ってしまい、血塗れの手で獅子の目を押したのが見えます」
「そうだ。その通りだ……だがどうやって逃げたのだ?」
「待って下さい、血を観察して、考えているのが見えます。あなたが指を押し当てたところに、自分の指を押し当てました。あっ! 獅子の目が引っ込んで、バネが動きました。暖炉の背板が開きました」
「しくじった! 何て馬鹿なんだ俺は! 自分で自分を裏切ってしまったのか……」
アンドレは無言だった。
「それで、出て行ったんだな? 逃げたんだな?」
「どうか許してあげて下さい。ひどく不幸せだったのです」
「今は何処にいる? 何処に行ったんだ? 追うんだ、アンドレ!」
「待って下さい、武器と毛皮のある部屋で足を止めました。戸棚が開いています。普段は戸棚にしまってある小箱が机に置かれています。小箱に気づいて手に取りました」
「小箱の中身は?」
「あなたの書類だと思います」
「どんな箱だ?」
「青い天鵞絨が張られていて、鋲と留め金と錠は銀で出来ています」
「畜生!」バルサモは怒りのあまり足を踏み鳴らした。「あいつか。あいつが小箱を持って行ったんだな?」
「そうです、間違いありません。階段を通って控えの間に降り、扉を開け、鎖を引いて門を開け、外に出ました」
「遅い時間か?」
「遅く見えます、暗いですから」
「ありがたい! それならいざ逃げられてからさほど経たぬうちに戻れるだろうから、追いつくのも時間の問題だ。追いかけろ、追うんだ、アンドレ」
「家から出ると、狂ったように走り出しました。狂ったように大通りに出て……走って……走って、止まらずに走ってゆきました」
「どっちに行った?」
「バスチーユの方へ」[*1]
「まだ見えるか?」
「はい。まるで狂人のようです。何度も通行人にぶつかりました。ようやく足を止めて、今いる場所を知ろうとして……道をたずねています」
「何と言っている? 耳を澄ませろ、聞くんだ、アンドレ。お願いだから一言も聞き洩らすんじゃない。道をたずねていると言ったな?」
「はい、黒い服を着た男に」
「何をたずねたんだ?」
「警察の場所です」
「糞ッ! するとただの脅しではなかったのか。返事は返って来たのか?」
「はい」
「それからどうした?」
「引き返して、斜めに走る道を進んで、大きな広場を横切っています」
「道順から言って、ロワイヤル広場だな。狙いがわかるか?」
「急いで下さい! 密告しようとしています。追いつく前にサルチーヌ氏に面会されたら、あなたは終わりです!」
バルサモはぞっとするような叫びをあげて藪に駆け込むと、影のようなものが開閉させた小門を通り抜け、門の外で地面を蹴っていたジェリドに飛び乗った。
声と拍車を掛けられたジェリドは、矢のようにパリを目指した。舗石を駆る微かな音だけが耳に届いた。
アンドレはぴくりともせず無言のまま青ざめて立ちつくしていた。だが、バルサモに魂を持ち去られたかのように、やがてぐらりと揺れて崩れ落ちた。
バルサモはロレンツァを追いかけるのに夢中のあまり、アンドレの目を覚ますのを忘れていたのだ。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXX「La double vue」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年11月9日(連載第120回)
Ver.1 11/10/01
Ver.2 24/10/27
[註釈・メモなど]
・メモ
[更新履歴]
・24/10/27 Mais cette espèce d'anéantissement ne fut que le passage momentané d'une existence à une autre. 訳し洩れがあったので追加。 → 「だがこの仮死状態は別の存在へと至る一時的な通過点に過ぎなかった。」
・24/10/27 「– Montez ! montez ! s'écria Balsamo, c'est notre chemin.」の chemin を chambre と読み間違えていた。「上れ! そこが俺たちの部屋だ」 → 「上れ! そっちで間違いない」に訂正。
・24/10/27 Oh ! je la reconnais, dit-elle, j'ai déjà vu cette femme ; elle fuyait vers Paris. 第九章でアンドレはバルサモの催眠術によって、ロレンツァがパリに向かって逃げているところを透視している。ただし直接会ったことはない。「あっ、この人には会ったことがあります。パリの方に逃げているところです」 → 「あっ、この人には見覚えがあります。あの時はパリに向かって逃げていたところでした」に訂正。
・24/10/27 バルサモが自分のミスを責めたとき、初出には Andrée se tut. とあるので補った。「自分で自分を裏切ってしまったのか……それで出て行ったんだな?」 → 「自分で自分を裏切ってしまったのか……」\nアンドレは無言だった。\n「それで、出て行ったんだな?に変更。
・24/10/27 「」 → 「」
・24/10/27 「」 → 「」
[註釈]
▼*1. [バスチーユの方へ]。
ロレンツァの逃走経路については、第五十五章のサン=クロード街地図を参照。→地図へ。右図真ん中あたりにある「Place Royale」と書かれてある四角が「ロワイヤル広場」です。[↑]
▼*2. []。
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▼*3. []。
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▼*4. []。
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▼*5. []。
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