ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百四十一章 兄と妹

 フィリップが訪れた時には、アンドレは既にお話しした通り長椅子に横たわっていた。

 控えの間に入ったフィリップは、アンドレがあれほど大切にしていた花をすっかり遠ざけていることに気づいた。具合が悪くなってからは花の香りが不快で仕方なく、二週間前から続いていた身体の不調はそうした脳繊維の刺戟だと考えていたのだ。

 アンドレは魂が抜けたように見えた。美しい顔にはどんよりとした雲が翳り、瞳は苦しげな眼窩の中を彷徨っていた。両手をだらりと下げているせいでむくんでいるはずなのに、どちらも蠟人形のように白いままだった。

 そうして動かないものだから、まるで生きているとは思われない。息をする音が聞こえなければ、死んでいるのかと思ったところだ。

 フィリップは妹が病気だと聞いて駆け通しで来たので、階段の下に着いた時には息を切らしていた。だがそこで一息ついて頭を冷やし、落ち着いた足取りで階段を上って行ったので、敷居を跨いだ時には妖精のように音もなく滑るように足を置いていた。

 フィリップは可愛い妹に負担を掛けまいと、自分なりに症状を見てどんな病なのかを判断しようと考えた。優しく思いやりのあるアンドレのことだ、兄が来たことに気づけば、心配させまいとして振る舞うだろう。

 そこでフィリップはアンドレに聞こえないようにガラス窓の嵌った扉をそっと押した。だから部屋の真ん中に行くまでアンドレにはまったく気づかれなかった。

 そういうわけだから、フィリップにはアンドレを観察するだけの時間があった。血の気がなく、身動きもせず、生気もない。虚ろな目の底には異様な光をたたえている。思っていた以上に深刻らしい。どうやら苦しみの大半は精神的なものが占めているのだと直感した。

 あまりの様子に心を揺らがされ、思わずびくりとしてしまった。

 アンドレが目を上げ、声をあげると、死人が蘇ったかのように立ち上がった。先ほどまでのフィリップと同じく息をあえがせて、兄の首にかじりついた。

「フィリップ! あなたなのね!」

 だが、力が抜けて、それだけ言うのがやっとだった。

 もっとも、ほかに考えることなどないのだから、それ以外に言うことなどあろうか?

「ああ、ぼくだよ」フィリップは笑顔でアンドレを抱きしめると、アンドレが腕に身体を預けるのを感じた。「戻って来たら病気だったなんて! いったいどうしたんだ?」

 アンドレが神経質な笑いをあげた。安心させるつもりだったのだろうが、とても安心など出来なかった。

「どうしたですって? わたくしが病気に見えるの?」

「もちろんだ。真っ青になって震えているじゃないか」

「何処からそんなことを思いついたの? 気分の悪いところさえないのに。誰からそんなことを吹き込まれたのかしら? そんな馬鹿なことを聞かせてお兄様を不安にさせて。お兄様のお話には何の根拠もありません。凄く体調はいいんですもの。軽い眩暈こそ感じるものの、すぐに消えてしまいますし」

「でも真っ青じゃないか……」

「普段から顔色がよかったかしら?」

「そんなことはない。だが生気はあった。それと比べて今日は……」

「何でもないわ」

「手だってさっきまで温かかったのに、今は氷みたいに冷たいじゃないか」

「それはだって、お兄様が入って来たのを見て……」

「うん……?」

「あまりに嬉しかったものですから、血が心臓に集まってしまっただけなんです」

「でもよろけてるじゃないか。こうしてぼくにしがみついているわけだし」

「抱きしめているからこうなっているだけ。それとも抱きしめるのはお嫌でした、フィリップ?」

「そんなわけないだろう」

 フィリップはアンドレを胸にかき抱いた。

 途端にまたもや力が抜けてゆくのをアンドレは感じた。必死で兄の首にしがみつこうとしたが、手は死者のように強張って滑り落ち、身体ごと長椅子に倒れ込んだ。美しい顔の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた白いモスリンのカーテンよりも蒼白だった。

「誤魔化すんじゃない! 苦しくてつらそうじゃないか」

「小壜を!」アンドレは必死で笑みを浮かべようとした。たとい死の床でさえ微笑みは絶やすまいとするようだった。

 瞳を曇らせ、震える手を持ち上げ、窓際の洋箪笥に置かれた小壜を指さした。

 フィリップは小壜に駆け寄るために仕方なくアンドレから離れたが、その間も目は離さずにいた。

 それから窓を開けてアンドレのところに戻ると、鼻の下で小壜を嗅がせた。

「ほら」アンドレはゆっくりと時間をかけて空気を吸い込み、気力を取り戻した。「すっかりよくなったでしょう。これでもまだ病気だなんて仰いますの?」

 だがフィリップは答えようともせずにアンドレを見つめていた。

 アンドレはだんだんと快復して来ると長椅子から立ち上がり、汗ばんだ両手でフィリップの震える手を包み込んだ。目つきも柔らかくなり、頬にも血の気が戻り、かつてないほどに美しく見えた。

「ほら見て、フィリップ。もう治まったでしょう。お兄様が良かれと思って驚かせたりしなければ、痙攣がぶり返すこともなかったし、もうすっかり治っていたんですから。ところが目の前に最愛のお兄様がいらっしゃったものですから……わたくしの人生にとって何より大事なお兄様ですもの。たとい万全の状態だったとしても、驚きのあまり死にかけていたと思いますの」

「ああ、治ったのなら何よりだ。それはともかく、病気の原因は何だったんだい?」

「何だったのかしら? 春が来て花の季節ですし、わたくし、感じやすいところがあるでしょう。昨日からもう、花壇のペルシアライラックの香りにやられてしまって。あの花房が春一番に乗って揺れて、麻痺させるような香りを撒き散らすものですから。ですから昨日……ああ、ねえフィリップ、もうそのことは考えたくないわ。でないとまた具合が悪くなってしまいそう」

「それもそうだな。きっとそうなんだろう。確かに花には一歩間違えると危険なところがある。子供の頃のことを覚えているかい? ぼくの思いつきで、タヴェルネの垣根から摘んだリラの花を寝台の周りに飾ったことがあっただろう? 祭壇みたいに立派だなんて二人で言っていたっけ。ところが次の日、ぼくは目を覚まさなかった。死んでしまったものと誰もが思ったのに、おまえだけは違った。自分にさよならも言わずに何処かに行くわけがないと言って信じようとしなかったんだ。おまえだけは、アンドレ――あの時ほんの六歳だったけれど――口づけと涙でぼくを目覚めさせてくれたんだ」

「それに空気。そういう時に大切なのは新鮮な空気。ずっと息苦しいような気がするの」

「アンドレ、忘れてないか、部屋に花を入れていたんじゃないか?」

「いいえ、フィリップ、二週間以上前から、雛菊ひとつ入れてないわ。不思議ね、あれほど花が好きだったのに憎らしく思うようになるなんて。でも花の話はもうやめましょう。とにかく、頭が痛かったの。タヴェルネ嬢は頭が痛くて、ねえフィリップ、このタヴェルネ嬢ったら、なんて幸せなんでしょう!……頭痛のせいで気を失ってしまったけれど、そのおかげで宮廷と都の生活が人生に関わることになったんですもの」

「何だって?」

「そうなんです。ご親切にも王太子妃殿下がお見舞いに来て下さったんです……何て素晴らしい方なのかしら。妃殿下ほどお優しい方はいらっしゃいませんわ。わたくしのことを気遣い、哀れに思って主治医を連れて来て下さったんです。誤診などするはずもないご高名なお医者様が、脈を取り、目と舌を視診して下さった結果、わたくしがどんな幸せを授かったと思います?」

「わからないな」

「病気でも何でもないそうです。一滴の水薬も一粒の錠剤も処方する必要はないって。ルイ先生は毎日ぞっとするほど手足を切断して来たそうよ。そんな経験豊富な先生がそう仰ったの。だからフィリップ、わたくしは何でもないの。いったい誰がそんな怖がらすような話をしたの?」

「あのジルベールの奴だよ!」

「ジルベールですって?」アンドレが目に見えて苛立ちを表した。

「ああ、おまえが重病だとジルベールから聞いたんだ」

「あんな愚かな怠け者のことをお信じにならなくても。ろくでもないことをしたり言ったりするしか能がないんですから」

「アンドレ!」

「何でしょうか?」

「また顔色が悪くなっているじゃないか」

「だとしたらジルベールのせいよ。通り道を塞ぐだけでは飽きたらず、いなくなっても話題に出て来るなんて」

「大丈夫か、また気絶しそうじゃないか」

「ええ……でもそれに……」

 アンドレの口唇が青ざめ、声が途切れた。

「何てことだ!」フィリップが口ごもる。

 アンドレは気力を振り絞った。

「何でもないんです。ちょっと感情が高ぶったからって気になさらないで。こうしてちゃんと立っているでしょう。噓だと思うなら、一緒に外に出かけませんか。十分後には元通りになっていますから」

「自分の身体のことがわかってないようにしか見えないよ、アンドレ」

「そんなことはありません。お兄様が戻って来てくださったんですもの。たとい死にかけていたってそれが何よりの特効薬。出かけましょう、フィリップ?」

「いずれね」フィリップはさり気なくアンドレを押しとどめた。「まだ完全に治ってはいないだろう。まずは元通りにならなくては」

「そういうことなら」

 アンドレはそのまま長椅子に倒れ込み、フィリップを引き寄せた。

「どうして事前に報せもなくいらっしゃいましたの?」

「それよりも、手紙をくれなくなった理由を聞かせてくれないか」

「でもそれは、ほんの二、三日じゃありませんか」

「もう二週間近くだぞ」

 アンドレが顔を伏せた。

「億劫だったのかい」フィリップは優しい声で責めた。

「違います。苦しかったんです。ええ、フィリップ、お兄様の言う通り。具合が悪くなったのは、お兄様のところに手紙が届かなくなった日から。その日を境に、大好きだったものが苦痛になり、遠ざけたくなったんです」

「それならさっきの言葉にもうなずける」

「さっきの言葉?」

「幸せだと言っただろう。此処で愛されて大事にされているというのならよかった。ぼくの方は生憎だがね」

「お兄様が?」

「ああ、ぼくは向こうで完全にほったらかしさ。何せ妹からもほったらかしにされた男だ」

「フィリップ!」

「信じられるかい? あれだけ急かされてタヴェルネを発ったというのに、言われていた聯隊については何の報せもなしさ。用意してくれると、リシュリューさんと父上が国王に約束して下さったのに」[*1]

「予想はしていました」

「予想していたって?」

「ええ。お兄様はご存じないでしょうけれど、リシュリューさんとお父様が慌てふためいていて、魂の入っていない肉体みたいになっているの。ああいう人たちの生き方はまるで理解できません。朝のことですけれど、お父様は旧友と呼んでいる方のところに押しかけて、ヴェルサイユの国王のお部屋まで行くよう迫ったんです。戻って来ると、此処で待っている間に、わたくしには理解できない質問を幾つかなさいました。一日が過ぎましたが何の報せもありません。するとお父様は大変お怒りになって、公爵が上手くやって、裏切ったと仰るんです。どなたを裏切ったというのですか?、とわたくしはたずねました。というのも何のことだかわからなかったからです。正直に言えばそれほど知りたいとは思いませんでしたけれど。それからというもの、お父様は煉獄の罪人のように苦しみながら、来ることのない便りを、来ることのない誰かを待っていらっしゃるんです」

「だけど陛下は?」

「陛下ですか?」

「ああ。陛下はぼくらに良くして下さった」

 アンドレは躊躇いがちに辺りを窺った。

「何だい?」

「声を落として! 陛下は気まぐれな方ですから。お兄様やお父様や我が家に興味をお示しになったように、最初こそわたくしに興味を示されましたが、唐突に興味を失くされておしまいになったんです。理由も事情もわかりません。ですけどもうわたくしに目を向けては下さらず、背を向けておしまいになったことは事実です。それに昨日また花壇で気を失ってしまった時に……」

「何だって! ジルベールの言う通りだったんだな。気絶したのか、アンドレ?」

「お兄様以外にも誰彼構わず触れて歩いて回りたい人なんですわ、可哀相に! わたくしが気絶したかどうかなんてジルベールには無関係じゃありませんか?」ここでアンドレは笑みを浮かべ、「王家の敷地内で気を失うのが好ましくないことだというのはわかっています。ですけど好きこのんで気を失うわけではありませんし、わざとやったわけでもありませんもの」

「誰かに非難されたのか?」

「ええ、国王に」

「国王に?」

「そうなんです。陛下が果樹園を通ってグラン・トリアノンからいらっしゃったのが、ちょうど気を失った時でした。わたくしが朦朧として腰掛けに横たわり、ジュシューさんに介抱されているのを、陛下はご覧になったんです。気絶している最中には周りで起こっていることなどわからないものでしょう? ですのに、陛下に見られている間中、身体こそ自由が利きませんでしたが、陛下が眉をひそめて怒ったような目つきで口唇の隙間から不満をお洩らしになることには気づいたような気がしたんです。そのうち陛下は立ち去ってしまいました。よりにもよって陛下のお庭で身体を悪くしたことに立腹なさったのだと思います。でもお兄様、わたくしは断じて悪いことなどしておりません」

「大変だったね」フィリップは妹の手を優しく握った。「おまえが悪くないのはよくわかってるよ。それからどうなったんだい?」

「それでお終い。後はジルベールが噂を触れ回らないでいてくれたらよかったのに」

「おまえはまたジルベールに辛く当たって」

「せいぜい肩を持って差し上げればいいんです!」

「アンドレ、お願いだから優しくしてやってくれ。そんなに意地悪をするものじゃない。そんなことばかりしているのを見て来たが……おい、アンドレ、またか?」

 アンドレは声も出さずにクッションに倒れ込んだ。今回は小壜の気付け薬も効かなかったので、眩暈が治まり再び血が通い始めるのを待つよりほかなかった。

「これで決まりだ」フィリップが呟いた。「そんなに苦しそうなんだ。ぼくの何倍も勇敢な人だって、その苦しがり方を見たらぎょっとするに違いない。おまえは都合のいいことばかり言って、何でもなさそうにしているが、もっとしっかりした手当てを受けるべきだ」

「でもお医者様が仰ったのよ……」

「医者が何を言ったって納得できないし、納得するつもりもない。この耳で直に話を聞いたわけじゃないからね。何処に行けばお医者さんに会えるんだい?」

「いつもトリアノンにいらっしゃるわ」

「いつも何時に? 朝かい?」

「朝と晩に、お仕事で」

「この時間は仕事中かい?」

「ええ。時間に正確な方なので、午後の七時きっかりに、王太子妃殿下のお住まいに続く石段をお上りになると思うわ」

「じゃあここで待つとしよう」フィリップはようやく落ち着きを見せた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXLI「Le frère et la sœur」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年12月14日(連載第139回)。


Ver.1 12/03/24
Ver.2 26/01/04

[註釈・メモなど]

・メモ

[更新履歴]

・26/01/04 「」 → 「」

・26/01/04 「」 → 「」

 

[註釈]

*1. [あれだけ急かされて……]
 第114章でランスの聯隊(régiment)に合流せよという急な命令でフィリップは出立、第118章で国王がフィリップに中隊ではなく聯隊を任せると断言していたことをリシュリューが男爵に伝える。[]
 

*2. []
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*3. []
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*4. []
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*5. []
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*6. []
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