フィリップが訪れた時には、アンドレは既にお話しした通り長椅子に横たわっていた。
控えの間に入ったフィリップは、アンドレがあれほど大切にしていた花をすっかり遠ざけていることに気づいた。具合が悪くなってからは花の香りが不快で仕方なく、それが苛立ちとなって、二週間前から続いていた身体の不調がいや増していたのだ。
アンドレはぼんやりとしていた。美しい顔には重い雲が翳り、眼球は痛々しい眼窩の中に収まっていた。両手をだらりと下げているせいでむくんでいるはずなのに、どちらも蝋人形のように白いままだった。
そうして動かないものだから、まるで生きているとは思われない。息を吸う音が聞こえなければ、死んでいるのかと思ったところだ。
フィリップは妹が病気だと聞いて駆け通しで来たので、階段の下に着いた時には息を切らしていた。だがそこで一息ついて頭を冷やし、ゆっくりと階段を上って行ったので、妖精のように足音を立てずに敷居を跨いでいた。
気の利く人間らしい気遣いから、相手にあれこれ聞かずに、病状からどんな病気なのかを判断しようとした。愛情深いアンドレであれば、兄が来たことに気づけば心配させまいと振る舞うだろう。
そこでフィリップはアンドレに聞こえないようにガラス扉をそっと押した。だから部屋の真ん中に行くまでアンドレはまったく気づかなかった。
そういうわけだから、フィリップにはアンドレを観察するだけの時間があった。真っ青になってぴくりともしていない。虚ろな目に浮かぶ異様な光を見てぎょっとした。思っていた以上に深刻らしい。どうやら苦しみの大半は精神的なものが占めているのだと直感した。
妹の様子に心を揺さぶられ、思わずびくりとしてしまった。
アンドレが目を上げ、声をあげると、死から甦ったように立ち上がった。先ほどまでのフィリップと同じく息をあえがせて、兄の首にかじりついた。
「フィリップ! あなたなのね!」
それだけ言うと力が抜けてしまった。
そもそもほかのことなど考えていなかったのだから、ほかに言うことなどあろうか?
「ああ、ぼくだよ」フィリップが笑顔でアンドレを抱きしめると、アンドレが腕に身体を預けるのを感じた。「戻って来たら病気だったなんて! いったいどうしたんだ?」
アンドレが神経質な笑いをあげた。安心させるつもりだったのだろうが、とても安心など出来なかった。
「どうしたですって? わたくしが病気に見えるの?」
「もちろんだ。真っ青になって震えているじゃないか」
「何処を見てらっしゃるの、お兄様? 気分が悪いことさえないのに。誰がそんな嘘を仰ったの? そんな馬鹿なことを聞かせてお兄様を不安にさせて。第一、仰っていることがわかりません。凄く体調はいいんですもの。軽い眩暈を感じるけれどすぐに消えてしまいますし」
「でも真っ青じゃないか……」
「いつも顔色がよかったかしら?」
「そんなことはないが、今日と比べれば……」
「何でもないわ」
「温かった手だって氷みたいに冷たいじゃないか」
「それはだって、お兄様が入って来たのを見て……」
「うん……?」
「あまりに嬉しかったものですから、血が心臓に集まってしまっただけなんです」
「でもよろけてるじゃないか。こうしてぼくにしがみついているわけだし」
「抱きしめているからこうなっているだけ。それとも抱きしめるのはお嫌でした、フィリップ?」
「まさか」
フィリップはアンドレを胸にかき抱いた。
途端にまたもや力が抜けてゆくのをアンドレは感じた。必死で兄の首にしがみつこうとしたが、手は死者のように強張って滑り落ち、身体ごと長椅子に倒れ込んだ。美しい顔を引き立てていたモスリンのカーテンよりも蒼白だった。
「誤魔化すんじゃない! 随分と具合が悪そうじゃないか」
「小壜を!」アンドレは必死で笑みを浮かべようとした。たとい死の瞬間でさえも微笑みを浮かべようとするに違いない。
瞳を曇らせ、震える手を持ち上げ、窓際の洋箪笥に置かれた小壜を指さした。
フィリップは小壜に駆け寄るために仕方なくアンドレから離れたが、その間も目を離さずにいた。
「ほら」アンドレはゆっくりと時間をかけて空気を吸い込み、気力を取り戻した。「すっかりよくなったでしょう。これでもまだ病気だなんて仰いますの?」
だがフィリップは答えようともせずにアンドレを見つめていた。
やがて落ち着いたアンドレは長椅子から立ち上がり、湿った両手でフィリップの震える手を包み込んだ。目には落ち着きが戻り、頬の血色も良くなり、これまで以上に美しく見えた。
「ほら、よくなったでしょう、フィリップ。何でもなかったの。たとい親切にして下さらなかったとしても痙攣は治まったでしょうし、もうすっかりよくなっていたんです。ですけど目の前に最愛のお兄様がいらっしゃったものですから……わたくしの人生にとってお兄様がどれだけ大事な存在なのかはご存じでしょう。具合が良くなっていたところに、そうしたショックで死にかけてしまいましたの」
「わかったよ、それなら何の問題もない。それはそうと、何が原因で病気になったんだい?」
「何だったのかしら? 春になって花の季節ですから。わたくしが過敏な体質なのはご存じでしょう。昨日から、花壇の青リラの香りにやられてしまって。春一番に乗って揺れるあの花の放つ香りに酔ってしまったのね。ですから昨日……ああ、ねえフィリップ、もうそのことは考えたくないわ。でないとまた具合が悪くなってしまいそう」
「それもそうだな。きっとそうなんだろう。確かにリラの花には毒がある。子供の頃タヴェルネで、垣根で摘んだリラをぼくの寝台の周りに飾ったことがあっただろう? 祭壇みたいに立派だなんて二人で言ってたっけ。ところが次の日、ぼくは目を覚まさなかった。死んでしまったものと誰もが思ったのに、おまえだけは違って、自分にさよならも言わずに何処かに行くわけがないと言って信じようとしなかったんだ。おまえだけだった――あの時ほんの六歳だったけれど――口づけと涙でぼくを目覚めさせたのはおまえだけだったんだ」
「それに空気よ。ああいう時には空気が必要なんです。わたくしに足りないのも空気なのだと思います」
「アンドレ、あのことを忘れてしまったのかい。部屋に花を運ばせるつもりだったんだろう」
「そうではないの。雛菊を置かなくなったのも二週間以上も前のことですもの。不思議ね! あれほど花を好きだったのに憎らしく思うなんて。でも花のことは放っておきましょう。頭が痛かったの。ド・タヴェルネ嬢は頭が痛かったんです。ド・タヴェルネ嬢ほど幸せな人間はいないという時に!……頭が痛いせいで気を失ってしまったけれど、そのおかげで運命が宮廷と都に向いて来たんです」
「何だって?」
「そうなんです。ご親切にも王太子妃殿下がお見舞いに来て下さったんです……何て素晴らしい方なのかしら。妃殿下ほどお優しい方はいらっしゃいませんわ。わたくしのことを気遣い、哀れに思って主治医を連れて来て下さったんです。誤診などなさらないご高名なお医者様が、わたくしの脈を取り、目と舌を診察して下さいました。結果はご存じ?」
「わからないな」
「病気でも何でもないそうです。ルイ先生は一滴も一粒もお薬を処方なさらなかったわ。毎日毎日震える腕や足を治して来たそうよ。そういうわけだからフィリップ、わたくしは何でもないの。いったい誰からそんな脅かすような話を聞いたの?」
「あのジルベールの奴だよ!」
「ジルベールですって?」アンドレが目に見えて苛立ちを表した。
「ああ、おまえが重病だとジルベールから聞いたんだ」
「そんなたわごとをお信じにならなくても。あの怠け者は馬鹿なことをするか言うかしか能がないんですから」
「アンドレ!」
「何でしょうか?」
「また顔色が悪くなっているじゃないか」
「だとしたらジルベールのせいよ。歩く邪魔をするだけでは飽きたらず、いなくなってもジルベールの話を聞かされなきゃならないなんて」
「大丈夫か、また気絶しそうじゃないか」
「ええ……でもこれほど……」
アンドレの口唇が青ざめ、声が途切れた。
「何てことだ!」フィリップが呟いた。
アンドレは賢明に。
「何でもないんです。発作を起こしたり苛立ったりしても気になさらないで下さい。こうしてちゃんと立っているでしょう。嘘だと思うなら、一緒に外に出かけませんか。十分後には元通りになっていますから」
「自分の身体のことがわかってないようにしか見えないよ、アンドレ」
「そんなことはありません。死ぬほどの苦しみにはお兄様が戻って来てくれるのが何よりの薬ですもの。外に出かけない、フィリップ?」
「いずれね」フィリップはさり気なく押しとどめた。「まだ完全に治ってはいないだろう。まずは元通りにならなくては」
「そういうことなら」
アンドレはそのまま長椅子に倒れ込み、手をつかんでいたフィリップも引っ張られた。
「どうして事前に報せもなくいらっしゃいましたの?」
「それよりも、手紙をくれなくなった理由を聞かせてくれないか」
「でもそれは、ほんの二、三日じゃありませんか」
「もう二週間近くだぞ」
アンドレが顔を伏せた。
「億劫だったのかい」フィリップは優しい声で責めた。
「違います。苦しかったんです。ええ、フィリップ、お兄様の言う通り。具合が悪くなったのは、お兄様に手紙を送るのを怠るようになった日のことです。その日を境に、大好きだったものが苦痛になり、遠ざけたくなったんです」
「それならさっきの言葉にもうなずける」
「さっきの言葉?」
「幸せだと言っただろう。こうやって人に愛され大事にされているというのならよかった。ぼくの方は生憎だがね」
「お兄様が?」
「ああ、ぼくは向こうで完全にほったらかしさ。とうとう妹からもほったかされたよ」
「フィリップ!」
「信じられるかい? 出発間際に言われたんだが、幻の聯隊について何の報せもなかったんだ。ぼくのものになると報せが来るはずだったんだ。リシュリュー氏と、それに父上のおかげで、国王が約束して下さったのに」
「予想はついていました」
「予想がついていたって?」
「ええ。事情があるの。リシュリューさんとお父様が大騒ぎなさったんです。魂の籠っていない二つの肉体みたい。ああいう人たちの生き方はまったく理解できません。朝のことですけれど、お父様が旧友だと思っていたリシュリューさんのところに押しかけたんです。それでヴェルサイユの国王のところにリシュリューさんを行かせましたの。ここで待っている間に、わたくしにはよくわからない質問を幾つかなさいました。半日が過ぎましたが、新しい報せはありません。するとお父様は大変お怒りになって、公爵が上手くやって、裏切ったと仰るんです。どなたを裏切ったというのですか?、とわたくしはたずねました。というのも何のことだかわからなかったからです。正直に言えばそれほど知りたいとは思いませんでしたけれど。それからもお父様は、煉獄の罪人のように苦しみながら、来ることのない便りを、来ることのない誰かを待っていらっしゃいました」
「だけど陛下は?」
「陛下ですか?」
「ああ。陛下はぼくらに良くして下さった」
アンドレは躊躇いがちに辺りを窺った。
「何だい?」
「声を落として! 陛下は気まぐれな方ですから。お兄様やお父様や我が家に興味をお示しになったように、最初こそわたくしに興味を示されましたが、唐突に興味を失くされておしまいになったんです。理由も事情もわたくしにはわかりません。ですけどもうわたくしに目を向けては下さらず、背を向けておしまいになったことは事実です。それに昨日また花壇で気を失ってしまった時に……」
「何だって! ジルベールの言う通りだったんだな。気絶したのか、アンドレ?」
「お兄様以外にも誰彼構わず触れて歩いて回りたい人なんですわ、可哀相に! わたくしが気絶したかどうかなんてジルベールには無関係じゃありませんか?」アンドレは笑い出した。「王家の敷地内で気を失うのが好ましくないことだというのはわかっています。ですけど好きこのんで気を失うわけではありませんし、わざとやったわけでもありませんもの」
「誰かに非難されたのか?」
「ええ、国王に」
「国王に?」
「そうなんです。陛下が果樹園を通ってグラン・トリアノンからいらっしゃったのが、ちょうど気を失った時でした。わたくしが馬鹿みたいに腰掛けに横たわり、ド・ジュシューさんに介抱されているのを、陛下はご覧になったんです。気絶している最中には周りで起こっていることなどわからないものでしょう? ですのに、陛下に見られている間中、身体こそ自由が利きませんでしたが、陛下が眉をひそめて怒ったような目つきで歯の隙間から不満をお洩らしになることに気づいていたんです。そのうち陛下は我慢できずに立ち去ってしまい、わたくしはその場に取り残されてしまいました。でもお兄様、わたくしは断じて悪いことなどしておりません」
「大変だったね」フィリップは妹の手を優しく握った。「おまえが悪くないのはよくわかってるよ。それからどうなったんだい?」
「それでお終い。後はジルベールが噂を触れ回ったことを謝ればいいんです」
「おまえはまたジルベールに辛く当たって」
「せいぜい肩を持って差し上げればいいんです!」
「アンドレ、お願いだから優しくしてやってくれ。そんなに意地悪をするものじゃない。そんなことばかりしているのを見て来たが……おい、アンドレ、またか?」
アンドレは声を出さずにクッションの上にひっくり返った。今度は気付け薬も効かず、眩暈が治まり再び血が通い始めるまで待たなくてはならなかった。
「これで決まりだ」フィリップが呟いた。「おまえは病気だよ。そんなに苦しそうにしていると、ぼくより勇敢な人たちでもぎょっとするに違いない。おまえは言いたいことを言い何でもなさそうにしているが、もっとしっかりした手当を受けるべきだ」
「でもお医者様が仰ったのよ……」
「医者が何を言ったって納得できないし、納得するつもりもない。この耳で直接話を聞いたわけじゃないからね。何処に行けばお医者さんに会えるんだい?」
「いつもトリアノンにいらっしゃるわ」
「いつも何時に? 朝?」
「朝と晩に、お仕事で」
「この時間は仕事中かい?」
「ええ。時間に正確な方なので、午後の七時きっかりに、王太子妃殿下のお住まいに続く石段をお上りになると思うわ」
「じゃあここで待つとしよう」フィリップはようやく落ち着きを見せた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXLI「Le frère et la sœur」の全訳です。
Ver.1 12/03/24
[註釈・メモなど]
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