読者諸兄にお伝えして来た道義的にも政治的にも恐ろしい騒乱の後には、ヴェルサイユに些かばかりの静穏が訪れた。
国王は安堵の息をついていた。パリ行きによって忍耐を強いられたブルボン家の誇りのことを考えるにつけても、人気が取り戻せたのは良しとせねばなるまい。
この間、ネッケルは作りあげた人気を徐々に落としていた。
貴族たちは逃げ出す準備か抵抗する準備を始めていた。
庶民たちは目を光らせて待ち受けていた。
この間、王妃は殻に閉じこもり、憎悪を一身に受けていることを自覚して、小さくなって身を潜めていた。それでもまだ、自分が憎しみの的であると同時に希望の光でもあることをよくわかっていた。
国王のパリ行き以来、ジルベールを見かけることはほとんどなかった。
それでも一度だけ、国王の部屋に通ずる控えの間に姿を見せたことがある。
深々とお辞儀をしたジルベールに向かって初めに口を利いたのは王妃の方だった。
「こんにちは、国王のところにいらっしゃるの?」
王妃は皮肉を効かせた笑みを浮かべてさらにたずねた。
「顧問として? それとも医師として?」
「医師として、です。本日はお約束がございました」
王妃がジルベールについて来るよううながした。
二人は国王の寝室の手前にある応接室に入った。
「嘘を仰いましたのね。先日は、パリに行っても国王には何の危険もないと仰っていましたのに」
「私が嘘を?」ジルベールが驚いた声を出した。
「そうでしょう? 陛下は狙撃されたんではなくて?」
「誰がそんなことを?」
「みんなが言ってます。とりわけ可哀相なご婦人が陛下の馬車の下に倒れるのを目撃した人たちが。誰が言ったですって? ボーヴォー氏、デスタン氏が、あなたの破れた服と穴の空いた胸飾りを見ているんです」
「陛下!」
「あなたをかすめた弾丸が陛下に死をもたらしていたかもしれないんです。その可哀相なご婦人に死をもたらしたように。結局のところ、暗殺者が殺したがっていたのは、あなたでもそのご婦人でもなかったんですから」
「犯罪行為があったとは思っておりません」ジルベールが躊躇いがちに答えた。
「結構。でもわたしはあったものと思っております」王妃はジルベールに厳しい目つきを送った。
「ともかく仮に犯罪行為があったとしても、国民(peuple)のせいではありません」
王妃がさらに厳しい目をジルベールに向けた。
「では誰のせいだと? 仰いなさい」
「王妃」とジルベールはかぶりを振った。「しばらく前から私は、国民を観察して来ました。国民が革命で誰かを殺すとしたら、その手で殺すことでしょう。国民とは、怒りに燃えた虎であり、尻尾を踏まれた獅子なのです。虎も獅子も、力をふるって獲物を屠るのに、何かの手を借りたりはしません。殺すために殺し、血を流すために流すのです。その血で牙をそめ、血に爪を浸すのが喜びなのです」
「その証拠がフーロンとベルチエですか? でもフレッセルは拳銃で撃たれたのではありませんか? 少なくともわたしはそう聞いています。でもきっと――」王妃は皮肉な笑みを見せた。「事実ではなかったのでしょうね。わたしたち王族の周りにいるのはごますりばかりですから」
今度は厳しい目を向けたのはジルベールの方だった。
「フレッセル(celui-là)を殺したのが国民だと信じてらっしゃらないのは陛下の方ではありませんか。フレッセルの死に利害のある人たちがいたはずです」
王妃は一考して答えた。
「そうですね、ありそうなことです」
「そうですか」ジルベールは一礼して、ほかにもまだ聞きたいことがあるかと王妃にたずねるような態度を見せた。
「わかりました」王妃は親しげにさえ見える素振りで、やんわりとジルベールの動きを遮った。「そうだとしても、三日前に胸のボタンで国王を救ったほど確実には、医学の力で国王を救うことはないのでしょうね」
ジルベールは再び頭を下げた。
だが王妃が動かないのを見て、ジルベールもそのままでいた。
「またお目に掛からなくてはなりませんね」王妃はすぐに動きを再開させた。
「もう私に出来ることなどありません」
「謙虚な方ですね」
「そうなりたくはないのですが」
「どうして?」
「謙虚でなければ大胆になれるからです。そうすれ私の仲間を援助し敵を害することも容易いでしょうから」
「『私の仲間』と言って『私の敵』と言わなかったのはどうして?]
「私には敵がいないからです。正確に言えば敵がいると認めたくないからです」
王妃が目を瞠った。
「つまり向こうだけが私のことを憎んでいて、私の方では誰も憎んではいないのです」
「なぜ?」
「もう誰も愛してはいないからです」
「野心家なんですね?」
「そうなりたいと思ったこともありました」
「だけど……」
「今となってはそうした情熱も一切合切、心の中で溶けて消えてしまいました」
「一つ残っていませんか」王妃が意地の悪い口調でたずねた。
「情熱がですか? いったいどんな?」
「……愛国心です」
ジルベールが頭を垂れた。
「その通りでした。祖国を愛する気持は強く、そのためなら如何なる犠牲も厭いません」
「情けないことです」王妃の声には不思議な暗い魅力が感じられた。「誠実なフランス人であれば今あなたの口にしたような単語でそんなことを表現したりはしない時代がかつてはありましたのに」
「どういうことでしょうか?」ジルベールが恭しくたずねた。
「つまり今言ったような時代には、祖国を愛すると言えば必ずや、同時に王妃と国王を愛するものだったということです」
ジルベールは顔に朱を注ぎ、頭を垂れた。親しみに満ちた王妃の口から飛び出した電撃に打たれたように震えた。
「答えないのですね」
「僭越ながら誰よりも君主制を愛していると自負しております」
「今は口だけで充分な時代だと? 行動など必要ないと?」
「仰いますが――」ジルベールは驚いたように言った。「信じて下さい。国王や王妃に命じられたことはどんなことでも……」
「実行するのですか?」
「絶対に」
「そうしたとしても――」王妃はいつの間にか気高さを取り戻していた。「務めを果たしたに過ぎません」
「陛下……」
「王たる者は、全権を与え給うた神から、務めを果たす者たちに感謝する責務を免除されているのです」
「残念なことに陛下、務めを果たそうとするだけなら、陛下の感謝よりも大事なもののある時代が近づいているのです」
「どういうことですか?」
「こうして混乱と破壊の日々が続けば、これまで味方(serviteurs)がいた場所から友人の一人もいなくなってしまうでしょう。神に祈るのです、陛下、新しい味方、新しい支援者、新しい友人が授かるよう祈るのです」
「心当たりが?」
「はい」
「では仰いなさい」
「ほかならぬこの私、昨日までの敵でございます」
「敵? どうしてそのようなことを?」
「私を投獄させたではありませんか」
「では今日は?」
「今日の私は――」ジルベールはお辞儀をした。「陛下の味方でございます」
「目的は何です?」
「陛下……」
「味方になった目的は? 意見や信念や心情を変えるなんて、あなたらしくもない。いつまでも心に留めて、復讐を諦めない方だったはずです。心変わりの理由を仰いなさい」
「先ほど祖国を愛する強い気持を咎められたものですから」
「過ぎたるは及ばざるが如しというだけです。要は愛し方の問題です。わたしは祖国を愛しています」ジルベールが笑ったのを見て、「勘違いしないで下さい。祖国とはフランスのことです。わたしはフランスに輿入れいたしました。流れる血こそドイツのものですが、心はフランスのものです。わたしはフランスを愛しています。ただし国王のためと、祝福を与え給うた神への敬意のために、愛しているのです。次はあなたの番ですよ」
「私ですか?」
「ええ、あなた。わたしから言いましょうか? あなたの場合はまったく事情が異なるはずです。あなたがフランスを愛しているのはそれこそフランスのためでしかありません」
「私に誠実さが足りないというのでしたら、きっと陛下への敬意にも欠けているのでしょう」
「恐ろしい時代になったものです。自分こそ誠実だと信じている者たちが、一度も離れたことのない二つのものを、諸共に歩んで来た二つの要素を、引き離してしまうとは。フランスとフランス国王。確かお国の詩人の悲劇ではありませんでしたか? 誰からも見捨てられた王妃が『おまえの許に残るものは?』とたずねられて、『この私だけ』と答えるのは。わたしもメデイアのように、一人残って、見届けようではありませんか」[*1]
そう言って王妃は呆然としているジルベールを尻目に憤然として立ち去った。
王妃の怒りがあまりにも大きいせいでヴェールの一端がめくれていた。そのヴェールの陰では反革命の活動が着々と進められていたのだ。
「これでわかった」ジルベールは国王の部屋に足を踏み入れながら呟いた。「王妃は何か考えているようだ」
「これでわかった」王妃は自室に戻りながら呟いた。「やっぱりあの男からは何も期待できない。野心(force)ばかりで忠誠心がない」
哀れな君主たちよ! 君主たちにとって、忠誠という言葉は隷属と同義であった!
Alexandre Dumas『Ange Pitou』「Chapitre XLV Médée」の全訳です。
Ver.1 16/11/05
[訳者あとがき]
初出『La Presse』紙、1851年4月16日。
[更新履歴]
[註釈]
▼*1. [お国の詩人の悲劇]。
コルネイユ『メデ(Médée)』のこと。ギリシア神話の王女メデイアの伝説に材を採った悲劇。[↑]
▼*2. []。
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▼*3. []。
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