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翻訳:東 照
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プロジェクト杉田玄白 正式参加テキスト

シルヴィーとブルーノ完結編

ルイス・キャロル


第十六章
天上の声

「聞き取れませんでした!」というのが続いて耳に飛び込んできた言葉だったが、シルヴィーの声でもブルーノの声でもない。ちらっと見えたかぎりでは二人はピアノを囲んでフランス伯の歌を聴いている人だかりに紛れていた。しゃべっているのはミステルだった。「聞き取れませんでしたが、私の申し上げたいことはご理解いただけたものと思っとります。ご静聴ありがとうございました。歌も残すは一番だけとなりました!」終わりの方はミステルの穏やかな声ではなく、フランス伯の深い低音に変わっていた。そして静まりかえる部屋のなか、「トトルズ」の最終聯が響き渡った。


ようやく二人も落ち着いた、
町外れの静かな住まいに。
涙ぐんで妻も受け入れた、
質素で簡素な生活を。
ところがひざまずいて頼み込むことにゃ、
「あなた、怒らないで!
ママがしばらく一緒かも――」
「あり得ん!」怒鳴るトトルズ(本気で言うことにゃ)。

トトルズ?

 歌が終わると部屋中から感謝と称賛の合唱が沸き起こり、声楽家は満足そうに四方に向って深々としたお辞儀で答えた。「大変な賜物でした」フランス伯はミュリエル嬢に話しかけた。「このとても素晴らしい歌と出会えるとは。彼にある伴奏はとても不思議で、とても謎めいてますね。まるで新しい音楽が発明されたみたいでした。もう一度彼を弾いてみれば、私の言いたいことがわかっていただけると思います」と言ってピアノに戻ったが、譜面は消えていた。

 声楽家は面食らって、隣のテーブルに積み上げられた楽譜の山を探しまわったが、そこにも見つからない。ミュリエル嬢が探すのを手伝い、すぐにほかにも数人が加わった。騒ぎが大きくなった。「何が起こったのかしら?」ミュリエル嬢が声をあげた。誰にもわからない。たった一つだけ確かなのは、フランス伯が歌い終えてからピアノに近づいた者はいないということだった。

「でーじょびゅです!」フランス伯は気さくに言った。「記憶だけで披露できますから!」椅子に座って、鍵盤に指をさまよわせ始めた。だが聞こえてきたのは似ても似つかぬ調べだった。ようやくフランス伯も騒ぎ始めた。「だけどおかしいすぎます! へんてこすぎる! 忘れたのは歌詞だけじゃない、曲も――不思議じゃありませんか?」

 誰もが心からそう思った。

「あの坊やです、楽譜を探してくれた子ですよ」フランス伯が当てずっぽうを言った。「まず間違いなくあの子が盗ったのではありませんか?」

「その通りですね!」ミュリエル嬢が声をあげた。「ブルーノ! どこにいるの?」

 だがブルーノは答えない。二人の子どもは突然に、そして不可解にも、曲と同じく消えてしまった。

「いたずらしてるんじゃないかしら?」ミュリエル嬢はつとめて陽気に大きな声を出した。「即席でかくれんぼをしてるだけよ! ブルーノときたらいたずらの固まりなんだから!」

 この思いつきは多くの来客に歓迎された。なかには不安を見せ始めていた人たちもいたからだ。必死になってまんべんなく探し始めた。カーテンがサッと引かれて揺らされ、戸棚が開かれ、長椅子がひっくり返された。だが隠れられる場所の数にはかぎりがある。探し始めるのも素早かったが、終わるのも早かった。

「きっと私たちが歌に聞き惚れているあいだに、外に出たんだと思います」ミュリエル嬢がフランス伯に話しかけた。誰よりも動揺しているように見えたからだ。「そしてたぶん家政婦の部屋に戻ったんですよ」

このドアは通ってませんよ!」二、三人の紳士が、はっきりと異議を唱えた。ここ三十分のあいだ、ドアの付近にたむろしていて(一人などは今もドアに寄りかかっていた)と言うのだ。「歌が始まってから、このドアは開いてません!」

 この報せを聞いて落ち着かない沈黙が訪れた。ミュリエル嬢はそれ以上は推測しようとはせ…ずに、慌てることなく両開きの窓の留め金を確認した。どれも内側から施錠されていることがわかった。

 それでもまだ手はある。ミュリエル嬢はベルを鳴らした。「家政婦をここに呼んでちょうだい。子どもたちの外出着を持ってくるように」

「お持ちいたしました」またしばしの静寂ののち、家政婦がおずおずと入ってきた。「あのお嬢ちゃんは部屋にブーツを履きにくるだろうと思ってましたもので。さああなたのブーツですよ!」と元気よく言って、子どもたちを探してきょろきょろと見回した。答えがないので戸惑った笑みを浮かべながらミュリエル嬢を振り返った。「あの子たちは隠れているんですか?」

「今はちょっとね」ミュリエル嬢は曖昧に答えた。「それは置いていって、ウィルソン。帰るときには私が履かせてあげるから」

 二つの帽子とシルヴィーの上着が、ご婦人たちのあいだに回されると、感嘆の叫びがあがった。確かにうっとりするような美しさだ。小さなブーツさえ讃辞の対象から洩れることはなかった。「おしゃれでかわいいわねえ!」音楽家の女性は撫で回さんばかりだった。「ものすごくちっちゃな足をしているんでしょうね!」

 結局、衣服は足乗せ台に積み上げられ、子どもたちを再び見る見込みはないと考えた来客たちは、おやすみの挨拶をして家をあとにし始めた。

 残っていたほんの十人弱――の人々に向かって、フランス伯が何度も説明していた。歌の最終聯のあいだ子どもたちから目を離さなかったこと、それから「素晴らしい低音の」反応を確かめようとして部屋をちらっと見まわしたこと、振り返ったときには二人が消えていたこと――狼狽の声があちこちから聞こえたので、フランス伯は慌てて話を打ち切って騒ぎに加わった。

 衣服はすっかり消えていた!

 子どもたちを探すことに失敗したあととあって、衣服を探すことにもそれほど熱は入らなかった。残っていた来客たちもさばさばとして途次につき、あと残っているのはフランス伯とぼくら四人だけだった。

 フランス伯は肘掛椅子に身を沈め、息も上がり気味だった。

「ではあの子たちは何なんでしょうね? なぜ現われ、なぜ消えたのですか、このように少し風変わりな方法で? 楽譜もひとりでに消え――帽子やブーツもひとりでに消えてしまいました――どうなってるんでしょう?」

「どこに行ったのか見当もつきません!」ぼくに説明できることと言えば、どう考えてもそれがすべてだった。

 フランス伯にはまだまだ聞きたいことがありそうだったが、それを口には出さなかった。

「時間も遅くなるにきました。おやすみなさい、お嬢さん。私はベッドに退がって――たっぷり夢を見ることにします――もっとも、今の出来事が夢でないとは思えないのですが!」と言ってそそくさと部屋をあとにした。

「しばしお待ちを!」と伯爵に声をかけられたのは、ぼくがフランス伯に倣おうとしたときだった。「あなたは客ではありませんよ! アーサーのご友人はここで同然にくつろいでください!」

「ありがとうございます!」真の英国気質ならそうするであろうように、ぼくらは暖炉の前に椅子を引き寄せた。火は燃えていなかったが――ミュリエル嬢は楽譜の山を膝に乗せて、不思議にも消えてしまった曲を改めて探そうとしていた。

「ときどき激しい発作に駆られませんか?」ミュリエル嬢がぼくに話しかけた。「話をしているときに、手で何かせ…ずにはいられないような? 煙草をいじって、灰を落としたりするよりもっと――待って、言いたいことはわかってる!」(これは口を挟もうとしたアーサーに言ったのだ。)「思考の尊厳が指の動きに先立つのだ。男が真面目なことを考えながらさらに煙草の灰を落とすことは、女がつまらない空想に耽りながらさらに手の込んだ刺繍をすることと結局は同じことである。それがあなたの考えでしょ、これ以上はうまく言えないんじゃない?」

 アーサーは真面目で優しい笑みを浮かべて、茶目っ気に輝いた顔をのぞき込むと、白旗を揚げた。「うん、その通りだよ」

「肉体は休息し、精神は活動する。それが人間の幸せの極致だと、どこかの作家が言っていたよ」とぼくは口を挟んだ。

「何はなくとも肉体の休息はたっぷりと取らなくちゃ!」ミュリエル嬢がうなずいて、ごろごろしている三人を見回した。「でも精神の活動と呼ばれるものは――」

「――若い医者だけの特権だな」伯爵が言った。「こんな年寄りになっては活動的でいようとは思わぬからね。死ぬほりほかに何ができるというのだ?

「まだまだたくさんのことができますとも」アーサーが励ました。

「ああ、たぶんな。それでも君には勝てんのだよ! 私の陽は沈むだけだというのに、君の陽は今も昇っているんだ。それだけじゃない、人生の意義だってそうだ――そのことがどんなにうらやましいことか。それが君の手を離れるのはまだまだ先の話なんだぞ」

「ですが人は死んでもその意義は残るのではありませんか?」とぼくは言った。

「そういうことはあるだろうね。一部の科学にはそういう種類のものもある。だが一部だけだよ。例えば数学からは、永遠に意義が失われることはあるまい。数学的な真理が意味を失ったところには、いかなる形の人生であれいかなる種類の知的存在であれ、存在できるとは思えない。だが残念ながら医学の基盤は異なるのではないだろうか。それまでは不治だと考えられていた疾病の治療法を発見した場合のことを考えてみたまえ。差し当たり素晴らしいことなのは間違いないし――並々ならぬ意義のあることだ――おそらくは富と名声をもたらすことだろう。だがそれからどうなる? 数年後、病気が存在しなくなったときの人生に目を向けてみたまえ。そうなったときには、発見に何の価値があるだろうか? ミルトンがあれほどまでにゼウスに誓わせているだろう、『天に満盈みちたる名聲がなれの報いと悟るべし』とね。意味を持つことをやめてしまうような事柄と不可分な『名声』など、みじめな慰めに過ぎないのではないか!」[*1]

「いずれにしたところで、医学上の発見に心を砕く人なんていませんよ」アーサーが言った。「そんなもの期待できないのはわかってますからね――没頭している研究を見放すのは悲しむべきことなんでしょうけれど。それでも薬、病、痛み、悲しみ、罪――もしかするとすべてが互いに関わり合ってるのかもしれません。罪など一掃してしまえばいい、こんなものすべて一掃してしまえばいいんです!」

軍事科学がもっといい例だな」伯爵が言った。「罪がなければ、戦争などあり得んだろう。それでも、この人生のなかで何らかの意義を持ちながらそれ自体には罪のないような心があれば、いつかはそれに相応しい行動を何か見つけるに違いない。ウェリントン公もわずにすむかもしれんな――だがそれでも――


「疑いは生じず、真実なればなり、
ワーテルローで戦いしみぎりより
さらに気高きおこないのあることと
かの者の永遠に勝者なることの、確かなるを!」[*2]


 伯爵は見事な言葉を慈しむように引き延ばした。だがその声は遠ざかる音楽のように、だんだんと小さくなった。

 やがてふたたび口を開いた。「迷惑でなければ、来世について考えていることを聞いてもらいたいのだが。何年もそれに取り憑かれていて、起きているあいだも悪夢を見ているようなのだが――どうしても振り払うことができないのだ」

「お願いします」アーサーとぼくは、ほとんど息を合わせて答えていた。ミュリエル嬢は楽譜の山をひとまず措いて両手を組んだ。

「それを考えると、いつも影が落ちているように思えて心休まるときがないのだ。永遠のことを考え出すと――どの分野にしても人間の興味は必ずや底をつく、そんなふうに思えてくるんだ。例えば純粋数学のことを考えてみよう――科学は環境に依存しない。私も多少かじっていた。円と楕円のことを――『二次曲線』と呼ばれているものを例に取ろう。来世においてその属性をすべて解き明かそうとすれば、問題となるのは何十年(あるいは何百年)という時間だけだろうね。それが終われば三次曲線に取りかかることもできるそれには何十倍もの時間がかかったとしよう(かぎりない時間を使えるのだからね)。そのことを考慮したとしても、その問題にこだわる意義がうまく想像できないのだ。何次曲線まで研究することになるのか、かぎりはないにもかかわらず、その問題についての新鮮味と興味がすべて底をつくまでに必要な時間には、やはりどうしたってかぎりがあるのではないだろうか? ほかの科学のどの分野も同じだよ。そこで考えてみるんだ、何千何万もの年月にわたって専心し、推論で働かせられるかぎりの科学を備えていると仮定してみたときに、心のなかで問いかけてみるのだよ。『それからどうなる? もはや学ぶこともなくなってしまったというのに、それから永遠に生き続けるあいだ、知識に満足するだけで留まれるのだろうか?』と。それはひどくつらい発想だった。私はときにこう思ったものだ。そんなとき、人は『生きるのをやめた方がましだ』とつぶやき、そして個の消滅――仏教徒の言う涅槃のために祈るのではないだろうかと」

「でもそれは半面に過ぎませんよ」ぼくは言った。「自分のために努力するほかに、他人を助けることがあってもいいじゃありませんか?」

「そうね、その通りよ!」ミュリエル嬢がほっとしたように叫びをあげ、目を輝かせて父親を見た。

「そうだね」伯爵が言った。「他人が助けを必要としてくれるかぎりはな。だが年を重ねるにつれ、推論もついには飽和という臨界点にたどり着くことは明らかだよ。そうなったとき、その先に何が見えるというのかね?」

「そういう倦怠感は理解できます」アーサーが答えた。「ぼくも何度も経験しましたから。そのいきさつをお話ししましょう。こんなことを思い浮かべたんです。部屋でおもちゃ遊びをしている子どもが、三十年も前から将来を推測し、見通せることができると思ってみてください。その子が『そのころになったら、積み木とボーリングにはうんざりしているんじゃないだろうか。なんて退屈な人生なんだろう!』とつぶやいているとしたらどうでしょう。ところがぼくらが三十年先を覗いてみたところ、その子は偉大な政治家になっているんです。赤ちゃん時代なんかよりはるかに大きな興味と喜びを――概して赤ちゃん心には想像もつかないような喜びを――赤ちゃん言葉ではわずかしか言い表せないほどの喜びを感じながら。だとすれば、百万年後のぼくらの人生だって今のぼくらの人生と無関係ではないのではありませんか? その男の人生が子ども時代の人生と無関係ではなかったように。誰かがその子に向かって、積み木とボーリングの言語でもって『政治』の意味を説明しようとして無駄骨を折ったところを想像してみてください。同じように、天上がどうなっているか、音楽やご馳走や黄金の小径といった説明のどれもこれも、そんなものを説明できる言葉を実際にはまったく持たないというのにぼくらの言葉で説明しようとしているだけなのではありませんか。別の人生を思い描いたときに、その子が成長することを何ら考慮せ…ずに、政治的な人生を押しつけているとは思いませんか?」

「言いたいことはわかったつもりだよ」伯爵が言った。「天上の音楽とは我々の考えの及ばぬものなのかもしれん。だがそれでも地上の音楽は素晴らしいものだ! ミュリエル、寝室に退がる前に何か歌ってくれないか!」

「さあどうぞ」アーサーが立ち上がって小型ピアノの上にある明かりをつけた。この小型ピアノは『セミ・グランド』を置くために、最近になって居間から追い出されていたのである。「この歌はどうだい、まだ聞いたことがなかったな。


ようこそ、陽気な魂よ!
汝は天やその近くから、
舞い降りた鳥などではない、
心を満たしている汝は![*3]


 アーサーは開いたページを読み上げた。

「そしてこうしたささやかな我々の人生は」と伯爵が締めくくった。「そんな偉大な時間にとって子どもの夏休みのようなものなのだ!」そして悲しげな声を出した。「夜が更けるにつれ人は疲れを覚え、ベッドを恋しがるものなのだね! だからこそ『さあ子どもたち、寝る時間だ!』というのが嬉しい言葉なのだ」


Lewis Carroll "Sylvie and Bluno Concluded" -- Chapter XVI 'Beyond These Voices' の全訳です。

Ver.1 03/09/15
Ver.2 03/12/17
Ver.3 11/05/14


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[註釈]
*註1 [天に満盈たる……]。ミルトン「リシダス」より。名声とは現世利益ではない、天において報われるものである、というのが大意です。

 「リシダス」全文は→「こちら」に拙訳があります。 [
 

*註2 [疑いは生じず……]。テニスン「ウェリントン公の死によせるオード」より。ウェリントン公(1769-1852)は、ワーテルローの戦いでナポレオンを破った。

 詩の全訳文は→ 「こちら」です。 [
 

*註3 [ようこそ、陽気な魂よ!]。パーシー・ビッシュ・シェリー「ひばりに寄せて」より。以下最初の三聯を星谷剛一訳より引用(白鳳社『英米詩集』より「雲雀」)。新潮文庫『シェリー詩集』(上田和夫訳)にも「ひばりに寄せて」の邦題で収録されています。

ああ 快活な精霊よ!/おまえは鳥ではないのだろう、/天のかたより/みなぎる想いを/即興のうるわしい歌と惜しみなく注ぎ出すものよ。

高くさらに高く/大地からおまえは翔けり立つ/炎の雲のように、/紺青の空を羽ばたき/歌いつつなおも翔けり翔けりつつたえず歌う。

夕映えの雲のかなたへ/沈む太陽《ひ》の/金色の光の中に/おまえは浮かび走る、/肉体を捨ていま走りでた喜びのように。……[
 

[更新履歴]

・11/10/25 「ウェリントン公の死によせるオード」の引用を変更。
 「そが真理のゆえに我らは疑わぬ、/ワーテルローの戦いをしのぐ、/気高きつとめをさらに為すに違いないと、/そして勝者は今度も彼であるに違いないと!」
 → 「疑いは生じず、真実なればなり、/ワーテルローで戦いしみぎりより/さらに気高きおこないのあることと/かの者の永遠に勝者なることの、確かなるを!」

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